『 希望のために 』 〜From "南の虹のルーシー"



 − ケイトとベン −

 静かな夏の夜だった。食事を終えた後、ケイトは一人庭に出て、満点の星空をぼんやりと眺めていた。
 細い雲が緩やかに流れ、時折月の下を横切っては陰を落とす。再び月が姿を見せると、庭の木々にわずかな緑が戻り、穏やかな風にかすかに葉の擦れ合う音がした。
「こんなところにいたのか、ケイト。ルーシーが探していたぞ」
 ゆっくりと振り返ると、呆れた顔でベンが立っていた。ちょうど港から帰っているのである。もちろん、また明日には港に戻って行ってしまう。
「うん……」
 ケイトは気のない返事をしてから、そっと家の壁に背中をあずけて、再び空に視線を戻した。
「何か悩んでいるのか?」
 妹の様子がおかしいことに気が付いたベンが、優しい口調でそう尋ねながらケイトの隣に立った。そして同じように空を見上げて言葉を続ける。
「そう言えば、食事中も元気がなかったな。具合が悪いわけじゃ、ないんだろ?」
「そうね……」
 どこかの家から、犬の吠える声が聞こえてきた。それに驚いた鳥が空に羽ばたき、辺りは再び静寂に包まれる。
 ケイトはじっと空を見つめていたが、悩みを共有したいというベンの気持ちを汲み取って、落ち着いた口調で話し始めた。
「だんだん悪くなっていくわ、我が家は……」
「わかっている」
 ベンは驚かない。ベンはケイトがもう一人前に成長したことを理解していた。くだらないことでは悩まないし、家の状況も、ずっと港にいる自分よりもよく把握しているかも知れない。当然、ケイトの悩みが家のことであることくらい、察しがついていた。
「スノーフレイクを売ったお金も、もうないわ。ううん。まだ少しは残ってるけど、すぐになくなるわ。父さんは建築現場で働いてるけど、給料はそんなにも良くないし、それに最近はまたお酒を飲むの」
「仕方ないよ。それでも、働いてくれるようになったんだ。僕も頑張って働く」
「でも、クララお姉ちゃんが結婚してしまったら、うちはますます苦しくなるわ。もし、また父さんが怪我をしたり、お兄ちゃんが病気にでもなったら?」
 ケイトは早口にそう言って、兄を見上げた。そして心配そうに見つめる兄の目を見て、思わず身を乗り出していた自分に気が付き、一度深く息を吐いた。
「私も働こうと思うの」
「ケイトが?」
 ベンは今度は驚いて、思わず大きな声を出した。いくら一人前になったとは言え、まだ余所で働ける歳ではない。けれど、「無理だ」と言うより先に、ケイトが言葉を続けた。
「働こうと思えば働けるわ。きっとどこかで雇ってもらえる。たとえどれだけ安いお給料でも、それで少しでもうちのためになるなら……」
 意見を求めるように顔を上げると、ベンは静かに首を振った。
「ダメだ。お前は母さんの側にいて、母さんを助けるんだ。もちろん、もっと大きくなったら働いてもらう。でも、それまでは僕と父さんで何とかする」
「なんともならないわ。今、うちはお兄ちゃんが思っているよりずっと苦しいの。母さんの手伝いなら、もうルーシーにもできるわ」
 ベンは再び首を振った。
「あいつには無理だ。芋の皮向きはできても、母さんを精神的には支えられない。わかるよな?」
 言われて、ケイトは口を噤んで俯いた。確かに、ルーシー・メイはまだ家の状況を理解していないし、遊んでいたい年頃だ。頼まれたことはするが、それは頼まれたからするだけであって、自主的に家のために働こうという考えはない。
 もちろん、ケイトにそれを責めるつもりはなかった。自分だって、今のルーシー・メイと同じ歳のときは遊んでいたのだ。いくら家が苦しいからと言って、ルーシー・メイが自分で気が付かない限り、働くことを強制したくなかった。
 ケイトは溜め息をついて、庭の畑に目をやった。あの小さな畑は、どれだけ一家の食生活を支えられるだろう。畑の手入れはケイトの仕事だったが、わずかな収穫を見てはよくそう思った。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、昔お医者さんになりたがっていたわよね」
「ん? ああ、そうだったな……」
 ケイトの言葉に、ベンはふと懐かしむような顔をした。もうそんな夢を持っていたことなど、自分でも忘れてしまっていたのだ。ベンがその夢をとうの昔にあきらめたのは、ケイトも知っていた。
 ケイトは胸の前で腕を組んで、もう一度空を見上げて言葉をつなげた。
「一家の夢はあきらめた? それとも、まだ叶うって思ってる?」
「一家の夢……」
 ベンは呟いてから、ケイトの顔を見つめた。そんな兄の目を真摯な瞳で見つめ返して、ケイトはもう一度繰り返した。
「私たちは、いつか自分たちの農場を手に入れられると思う? それとも、もうその希望も捨ててしまった?」
 ベンはケイトから顔を逸らせ、深く目を閉じてつらそうに首を振った。
「僕は、お前にどう言うべきなんだ?」
「本当に思っていることを話してくれればいいわ。私には私の答えがあるの。だから、別にお兄ちゃんの本音を聞いても、ショックを受けたりしないわ」
 その言葉に、ベンは悲しそうに笑った。
「じゃあ言うよ、ケイト。僕はそれももうあきらめた。今はこの家を守っていくのですら必死だ」
 ケイトは小さく頷いてから、同じように悲しそうに微笑んだ。
「私も、あきらめたわ。父さんがスノーフレイクを売ってしまった時に、きっぱりとね。あきらめていないのはきっと、父さんだけよ。後は、ルーシーもかもね。あの子はよくわかっていないだけだと思うけど」
「だからつらいんだよ、父さん。どうしても夢を捨てられないから、飲まずにはいられないんだ。僕はもう割り切ってしまった。どっちがいいのかはわからないけどね……」
 二人は無言で空を見上げた。いつの間にか雲がなくなり、真っ白な月が煌々と輝いている。
 イギリスから見ていたのと同じ月だ。けれどもう、イギリスから見ることはできない。どんなに苦しくても、この大地で生きていくしかない。
「ごめんな、ケイト。お前だって本当はまだ遊んでいたいだろうに……。本当は、まだこんな話をする歳じゃないのに……」
「ううん、いいの。そんなことはいいのよ。みんなが本当の自分の気持ちを押し殺して頑張ってるんだもん。私だって……」
 ケイトの声が吹き抜けた風に溶けると、玄関の方からルーシー・メイの元気な声がした。
「あ、お姉ちゃん、こんなところにいたんだ。お兄ちゃんも一緒に」
 兄と姉の姿を見つけて、嬉しそうに駆けてきたルーシー・メイの顔には一点の曇りもなく、子供らしい笑顔で瞳を輝かせていた。
 二人は一度顔を見合わせると、小さく笑った。この元気な妹がいなかったら、この家はどうなっていただろう。きっと皆が暗い顔で、希望のない毎日に心を押し潰されていただろう。
「何を話していたの?」
 きっと面白い話をしていたに違いないと言わんばかりに、ルーシー・メイは好奇心を剥き出しにして、二人の顔を交互に見上げた。
 ケイトは一瞬寂しそうに笑うと、妹を見下ろして優しい瞳をした。
「世間話よ。大したことじゃないわ」
「お姉ちゃん?」
 ルーシー・メイは姉の様子がどこかおかしいことを敏感に察知したが、そのことに気が付いたベンがそれ以上の追求をさせなかった。
「さあ、そろそろ部屋に戻ろう。探させちゃって、悪かったな」
「ううん。クララお姉ちゃんも探していたわ。早く戻って来てね」
 姿が見えて安心したのか、ルーシー・メイはそれだけ言うと、さっさと家の方へ戻って行った。
 ベンはしばらくそんな妹の背中を見つめていたが、やがてケイトに背を向けたままぽつりと一言呟いた。
「ケイト。今は母さんの側にいてくれ」
 ケイトは返事をしなかった。ベンは背中越しにケイトが無言で頷いたと解釈したのか、それ以上何も言わずに家の方へ歩いて行った。
 ケイトはしばらくそんな兄を見つめていたが、これ以上ここにいてまたルーシー・メイに騒がれると面倒だと思い、大人しく部屋に戻ることにした。
 幸いにも、会話の内容はそれ以上ルーシー・メイに追求されることはなく、翌朝、ベンはまた港の方へ戻って行った。



 − 仕事を探すケイト −

 クララの結婚が秋に決まると、一家はその準備に追われた。知り合いに手紙を出したり、必要なものを買い揃えたりする内に、スノーフレイクを売ったときに得た金も完全になくなってしまった。
 秋の近付いてきたある日、ケイトは一人で町を歩いていた。今はルーシー・メイが夏休みのため、家の仕事はすべて押し付けてきた。
 ケイトは働き先を探そうと思っていた。もちろん、家族には相談していない。相談すれば反対されるのを心得ていたので、先に決定してしまって、強引に押し通してしまおうと思ったのだ。
「そうは言ったものの、一体どんな仕事があるのかしら」
 ケイトは頭の後ろで手を組んで、おどけたようにそう言ってから、もう一度手を戻して辺りをキョロキョロ見回した。
 店の建ち並ぶ区域では、たまに窓に従業員を募集している張り紙を見つけたが、それらはどれもケイトには働けそうにないものばかりだった。大抵が専門的な知識や経験を要したし、誰でも出来そうな仕事でも、ケイトくらいの子供を雇ってくれそうなところはなかった。
 物や金を扱う仕事は信頼に関わるので、大抵は親族だけで経営しているか、あるいはマック夫人がクララを雇っているように、信用できる知り合いを使っている。金を扱わない仕事と言えば、主に力仕事ばかりで、やはりケイトには出来そうになかった。
「ジャムリングさんやパーカーさんに雇ってもらえないかしら」
 呟いてから、ケイトは溜め息混じりに首を振った。ジャムリング氏は決して楽な生活をしていないし、パーカー氏の仕事はケイトに手伝えるようなものではない。それに、二人とも遠くに住んでおり、それこそベンのように家を出て行かなくてはならなくなる。
「後は、農作業かしら。それなら私にでも……」
 元々ポップル家は農業を営んでいたのだ。農業の知識ならケイトにもあったし、力がなくてもできることがたくさんある。ただし、農場は町外れにしかなかった。家からでは少々遠いが、それでも贅沢は言えない。家のためだ。
 1時間ほど歩くと、アデレードから一番近い農場が見えてきた。どうやらジャガイモ畑のようである。葉は枯れかけ、そろそろ収穫時期を迎えようとしていた。
 ケイトが近くまで行くと、ちょうど仕事に勤しんでいた農夫と目が合い、ケイトは緊張のあまり鼓動が早くなるのを感じた。思えば、まったく見ず知らずの人に話しかけたことなど、そうそうない。
「こんにちは、おじさん。ここはおじさんの農場ですか?」
 少し声が裏返っていたが、懸命にそう話しかけると、農夫は手を休めて怪訝そうにケイトを見た。
「いや、兄の農場だが……お嬢ちゃんは?」
「はい! あ、あの、私、ケイト・ポップルって言います。その、実は私、仕事を探しているんです」
「仕事?」
 農夫は少し眉間に皺を寄せ、警戒の色を強めた。ケイトが乞食に見えたわけではないが、と言って、いきなり仕事を探していると言うような娘を信用できるほど、アデレードは豊かな町ではなかった。
 ケイトはあまり好意的な目を向けられていないことに気が付いたが、ここで逃げてしまっては仕事など見つかるはずがないと思い、勇気を振り絞って言葉を続けた。
「はい。その、もうじき収穫だと思うんですが、おじさんのお兄さんの農場でも、近くの農場でも構いません。どこか、人手の足りない農家はありませんか?」
 アデレードには、ポップル家のように、広大な農場を持つことを夢見てやってきて、夢叶わずに落ちぶれていく者が未だに後を絶たなかった。農夫もそんな事情を知っており、わずかに同情する目をケイトに向けた。
 しかし、同情することと雇うことはまったく別問題である。
「残念だけど、うちは人手が足りているよ。他を当たってくれ」
 人の頼みを断るのは、あまり気分の良いものではない。農夫はそれ以上ケイトと話をしたくないと言うふうに背を向けると、再び畑に向かっていった。
「そうですか。お邪魔しました」
 予想していたこととは言え、あっさりと断られてケイトはショックを隠せなかった。それでも気を取り直して次の農場へ向かう。
 行く先にはすでに収穫を終えた小麦畑があり、少し向こうにやはりそろそろ収穫を迎えるインゲン畑が目に入った。
 ケイトは気を取り直してその畑へ行き、やはり働いていた人に同じように声をかけたが、結果は変わらなかった。
 それからさらに三軒ほど回り、ケイトは失意の内にアデレードに戻った。夕陽は赤く美しく輝いていたが、ケイトは俯いて歩いていたのでそれに気付かなかった。
「考えてみれば、私みたいな子供がいきなり一人で行って、雇ってもらえるはずないわよね……」
 自分を励ますようにそう呟くと、逆に悲しみが押し寄せてきて、ケイトは思わず零れそうになった涙を服の袖で拭った。
 期待していなかったと言えば嘘になる。確かに現実的な話ではなかったが、それでもケイトの意志は固かったし、もしも許可をもらえれば、今夜は両親を説得しなければならない。それくらいの覚悟をしていたのだ。
 けれど、ケイトは受け入れられなかった。生まれて初めて振り絞った勇気は、現実という壁に跳ね返されて、結局ベンの言った通り、もう少し大きくなるまでは母親の手伝いをしていなければならないと、否応なしに教えられて終わった。
「私は何もできない。みんな頑張ってるのに、働きたくても働けない。ただ、どんどん悪くなっていくのを見ていることしかできない……」
 とうとうケイトの瞳から涙が零れ落ちた。滅多に泣かないが、それは妹や弟がいるからであって、一人になればまだ13歳の女の子である。悲しいことがあれば涙の一つも出た。
 ケイトは大きな家の塀に背をもたれさせると、両手で顔を覆ってしばらく泣いていた。通行人が心配そうにケイトを見ては通り過ぎていったが、ケイトは気にしなかった。
 家に帰ったら泣くわけにはいかない。ルーシー・メイやトヴに泣き顔を見せるわけにはいかないし、年上の人間にも、このことで弱音を吐くわけにはいかない。仕事を探していたことは内緒なのだ。
 ところが、そんなケイトの決意も虚しく、ケイトは絶対に見せてはならない相手に声をかけられて、思わず泣くのも忘れて呆然と立ちつくした。
「お姉ちゃん?」
 手を除けて見ると、目の前にリトルをつれたルーシー・メイが、信じられないものを見るような顔で立っていた。恐らく、帰りの遅いケイトを探しに来たのだろう。
「ルーシー……」
「お姉ちゃん、泣いていたの? 何かあったの?」
 ルーシー・メイは今にも泣き出しそうな顔で尋ねた。姉の泣いている姿など、オーストラリアに来てから今日までほとんど見たことがなかったし、いつも元気で自信に満ちた姉の姿に、どれだけ勇気付けられてきたかわからない。その姉が、こんな誰も知り合いのいない街角で泣いていたのだ。ルーシー・メイが心配するのも無理はない。
「何にもないわ。平気。探しに来てくれたのね?」
 ケイトはすぐに話を変えようとしたが、それで追求しないほど、ルーシー・メイは薄情でもなければ、物わかりが良くもなかった。すがるような眼差しでケイトを見上げると、思わず手を組んで大きく首を横に振った。
「何でもないはずないわ。お姉ちゃん、もしわたしがここで一人で泣いているのを見つけたら、理由も聞かずに家に帰れるの? 心配しない?」
「ルーシー……」
「わたしたち、すごく心配していたのよ? お姉ちゃん、何も言わずに出て行っちゃって、こんな時間まで帰ってこないんだもの。それで探しに来たら、こんなところで泣いていたのよ? わたし、わたし……」
 ルーシー・メイは言葉がつなげられなくなって、もらい泣きするように涙を零した。ケイトは慌ててハンカチを取り出すと、自分の顔を拭いてから、そっと妹の涙を拭ってやった。
「泣かないでルーシー。ごめんね。泣いていたのは……うん、ちょっと悲しいことがあったからなの」
「どこに行っていたの?」
 ルーシー・メイは不安げな表情で姉を見上げ、唇を引き結んで尋ねた。どうしても聞き出す決意らしい。
 ケイトはしばらく逡巡したが、やがて小さく首を横に振ると、そっと妹の体を抱きしめた。
「ルーシー、ありがとう。でも、お願いだから心配しないで。もう大丈夫だから。私が悲しんでいたことは、3年前の私じゃ、よくわからなかったようなことなの。だから、あんたもいつかきっとわかるから、今は聞かないで。お姉ちゃんを信じて。本当にもう大丈夫なの」
 ルーシー・メイはケイトの肩に顔を埋めると、何度か鼻をすすった。姉が話してくれないのが悲しいのではない。ルーシー・メイは姉を信頼していたから、本気で信じてくれとお願いされればそのようにする。ただ、大好きな姉に泣くほど悲しいことがあったのが悲しかったのだ。
「本当に、もう大丈夫なのよね?」
「うん、もう大丈夫。ルーシー、笑って」
 妹の小さな体を離してそう言うと、ルーシー・メイは余計に悲しそうな顔つきになった。
「お願いルーシー。たとえ父さんが酔って帰ってきても、私がこうして泣いていても、あんたにはいつでも明るく笑っていて欲しいのよ」
 ケイトが情けない顔でそう言うと、今度こそルーシー・メイは泣き出して、「そんなの無理よ」と首を振った。
「お姉ちゃん、どうしちゃったの? 今日のお姉ちゃん、おかしいわ!」
「ごめんなさい、ルーシー。もう帰りましょう」
 ルーシー・メイの言うことはもっともだと思い、ケイトはそう言うとさっさと歩き始めた。
 一度弱気になった心を、すぐにいつもの状態に戻せるほど器用ではなかった。これ以上話していると、今の家の状況も、そして自分の決意も、それが受け入れられなかったことも、何もかもぶちまけてしまいそうだった。姉として、それだけはしたくない。
 ちらりと後ろを振り返ると、ルーシー・メイがまだ鼻をすすりながらトボトボとついてきていた。ケイトはかける言葉がなかったので、そのまま何も言わずに家に帰った。



 − ルーシー・メイの決意 −

 その日を境に、ケイトは自分に対してもすっかり希望を失い、決して能動的に行動しようとしなくなった。もちろん、笑顔を絶やすことはなかったし、家族に対してはいつも通りに振る舞っていたが、一人になると溜め息をつくことが多くなった。
 結婚式が終わると状況はますます悪くなり、クララが出て行ったことで、一家はまるで火の消えた灯台のようになってしまった。さらに悪いことに、アーサーの酒の量は増える一方で、泥酔して帰ってくることも少なくなかった。
 ある雨の晩、ルーシー・メイはベッドにもぐり込んだが、なかなか寝付かれずにいた。特別その日に何か起きたわけではなかったが、それまでに少しずつ蓄積されてきた不安が、とうとう小さな胸に入りきらなくなったのだ。
 ルーシー・メイはベンとケイトの言う通り、あまり家の状況を理解していなかった。しかし、難しいことはわからなくても、家族の雰囲気が暗いことはわかっていたし、母親の口数が減ったことにも気が付いていた。家がとても貧乏になってしまったことも、漠然とだが理解しており、どうやらそれがケイトを苦しめていることも知っていた。
 しばらく布団の中でもぞもぞと体を動かしていたが、その内寝るのをあきらめて隣のベッドに目をやった。ケイトは無表情で眠っている。ルーシー・メイはそんなケイトの横顔をじっと見つめながら、あの日のことを思い出していた。
 決して涙を見せない姉が、街角で一人で泣いていたその光景は、今でもルーシー・メイの脳裏に焼き付いていた。何があったのか、ルーシー・メイは気になっていたが、決して姉に聞くことはなかった。また悲しめるといけないと思ったからだ。
 けれど、姉に対する心配は消えるどころか増える一方で、ルーシー・メイはその日から姉の様子を今まで以上に気にかけるようになった。ケイトはあれ以来、黙ってどこかへ行ったりすることはなかったが、生活には覇気が感じられなくなったし、笑顔もどこかぎこちない印象を受けた。ケイトが無理をしているので、誰もその変化に気付いてないようだったが、いつも側にいるルーシー・メイだけは、姉が気落ちしていることを知っていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
 もう寝てしまったかもと思いながら声をかけると、ケイトはまだ起きていて返事をした。
「なに?」
 声は眠たそうではなかったが、あまり興味なさそうで、目も閉じたままだった。例えばそれ一つ取っても、姉は変わってしまった。何の心配も不自由もなく、一緒に明るい顔と大きな声ではしゃぎ回っていた姉はもういないのだと思うと、ルーシー・メイは思わず涙ぐんだ。
「ううん……。最近、みんな元気ないわよね」
「……そうね」
 ほんのわずかに間を置いてから、ケイトはつまらなさそうに言った。それから、あまりそういう話はしたくないと言うように、体を妹と反対に向ける。ルーシー・メイは構わず続けた。
「あの日、お姉ちゃん、わたしに言ったわよね。『笑っていて』って。わたしが笑っていれば、みんな明るくなるかしら」
 かすかに、ケイトの肩が震えた。ケイトはその日のことには触れて欲しくなかったのだ。ルーシー・メイはそれをわかっていたし、涙の理由を問いただすつもりはなかったけれど、ただもし今の状況を自分の力で何とかできるならと思うと、聞かずにはいられなかった。もしも自分が笑っていることで、一家が明るくなるのなら……。
 けれど、ケイトの返事はそっけなかった。
「さぁ……。もう寝なさい、ルーシー・メイ。考えても、どうにもならないこともあるわ……」
「お姉ちゃん……」
 ルーシー・メイは一度鼻をすすると、目をこすってから天井を仰いだ。いつも前向きだった姉のこういう姿を見るのはひどくつらかった。
「お姉ちゃん。わたしたち、いつか幸せになれるわよね?」
 最後にかすれる声でそう聞いてみたが、姉からの返事はなかった。
 そんな、すっかり変わってしまったケイトが、珍しくリトルを連れて歩いているのを見かけたのは、学校からの帰り道だった。この秋から一緒に学校に通っているトヴが、「お姉ちゃんだ」と指を差して、ルーシー・メイはすぐに大きな声で呼ぼうとしたトヴの口を手で塞いだ。
「トヴ、先に帰ってなさい。お姉ちゃん、何か考え事してるみたいだから、そっとしておいてあげましょう」
 実際、ケイトの様子はおかしかった。何やら思い詰めたような顔をしていたし、そもそもリトルを連れて歩いている時点で普通ではない。
 ルーシー・メイは、姉はひょっとしたら、あの日行っていた場所へ行くのではないかと思った。
 リトルに気付かれないよう気を付けながら後をつけると、ケイトは町外れの農場まで来て足を止めた。淡い青空が鮮やかな緑の上に広がり、雲が細くたなびいている。羊たちは柵の中をのんびりと歩き、一列に並んだ牛たちが乳を搾る順番を待っている。畑には農夫が立って収穫に汗を流し、夫人が牛車を引いて小屋の方へ歩いていった。
 ケイトはそんな農場をしばらく見つめていたが、やがてしゃがんでそっとリトルの首を抱きしめた。ルーシー・メイはそんなケイトのすぐ側まで行き、それに気が付いたリトルを「しっ」と指を立てて黙らせる。ケイトは妹に気付かなかった。
「ねえ、リトル。ここが私たちの農場よ。あそこで土を掘っているのが父さん。お兄ちゃんと私も働いてるし、お姉ちゃんとジョンもいるわ」
 一瞬、ルーシー・メイは本当にそうなのかと思って農場に目をやったが、もちろんその光景に両親の姿などなかった。ルーシー・メイが驚いている間にも、ケイトの声は続いていた。
「あんたは、そうねぇ。あの辺に座ってルーシーを見ているの。もちろん、ルーシーも働いているわ。学校には行かされるし家では働かされる。ぶつぶつ言ってるけど、本当はすごく幸せなの。みんなもそう。毎日忙しいけど、決してつらくはない。とっても充実しているの」
 それから数分間、ケイトは何も言わずにじっと農場を眺めていたが、やがてリトルをぐっと抱え込んで、小さく肩を震わせた。
「もうダメね、リトル。もう、土地を手に入れられる見込みはない。家族はバラバラになっていく。父さんはお酒を飲む。私は気丈に振る舞ってるつもりだけど、あの子は気付いてる。家の状況が悪いことも知っている……」
 リトルは困ったように一度悲しそうに吠えた。その声は、ルーシー・メイには、「そこにいるなら早く出てきて、ケイトを助けてやってくれ」と言っているように聞こえたが、ルーシー・メイは飛び出したい衝動をグッと堪えた。
「もうおしまいよ、リトル。私にはどうすることもできない。どうすることもできなかったの。私は、いても何の役にも立たないのよ!」
 ケイトはとうとう大きな声を上げて泣き出した。自分の無力さと、世間の非情さと、現実の厳しさを呪うように、いつまでも涙を流していた。
 ルーシー・メイはそんな姉を呆然と見つめ、時折鼻をすすりながら、後をつけて来たことを深く後悔していた。
 ケイトはこんな姿を誰にも見せたくなかったのだ。この前も、そして今日も、決して誰にも見られないところで泣いて、またいつもの何食わぬ顔で家に戻ってくるつもりだったのだ。見てはいけなかった。
 ルーシー・メイは足音を立てないようにその場を離れると、全速力で走った。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。ごめんなさい……」
 ルーシー・メイは家に着く頃には泣き止んでいたが、部屋に戻ると再び涙が込み上げてきた。しばらく泣いていると、階下から「ただいま」というケイトの元気な声が聞こえてきて、慌てて涙を拭いて顔を上げた。
 ベッドに座ってドキドキしながら待っていると、やはりケイトは、つい1時間ほど前まで泣いていたのが信じられないような笑顔で部屋に入ってきた。
「ただいま、ルーシー。あー、お腹空いたー」
「お帰りなさい……」
「ん? どうしたの? 元気ないわね」
 ケイトはルーシー・メイの顔を覗き込んで、目を丸くして怪訝な顔をした。ルーシー・メイはそんな姉をとても直視していられなかったが、今こそ笑わなくてはいけないと思い、必死に笑顔を作って見せた。
「学校でたくさん怒られて落ち込んでいたの。なんでもないわ」
「あー、なるほどね。あんた、ほんとにできないもんね」
 ケイトはあっけらかんと笑ってそう言うと、母親の手伝いをするために慌しく部屋を出て行った。ルーシー・メイはベッドに突っ伏すと、枕に顔を埋めてもう一度泣いた。
 その晩、アーサーは夕食の時間になっても戻らず、結局帰ってきたのは二人がそろそろ寝ようとしていた夜の遅い時分だった。
 ドアの音が聞こえたので階下に下りて見てみると、アーサーはひどく酔っ払っており、アーニーが呆れたような顔でそんな夫の姿を見つめていた。
「ねえ、お姉ちゃん。土地が手に入れば、みんな元通りになるかしら」
 部屋に戻ってから、ルーシー・メイは真剣な瞳でケイトに尋ねた。ケイトはちらりと妹を振り返ってから、さっさとベッドにもぐり込むと、布団を口の辺りまで引き上げて小さく一度だけ頷いた。
「そうね。でも、もう無理よ。土地なんて手に入らないわ」
 ケイトはじきに小さな寝息を立て始めた。ルーシー・メイはしばらくそんな姉の顔を見つめていたが、やがて窓際まで歩くとそこから夜空を見上げた。
「土地……」
 小さく呟くと、ルーシー・メイの脳裏を二つの言葉がよぎった。一つは、プリンストン氏が父親に、ルーシー・メイを養女にくれたら土地を渡すと言った言葉。そしてもう一つは、私には何もできないと叫んでいた姉の言葉。
「土地が手に入れば、みんな幸せになれる。わたしがプリンストンさんの家に行けば、土地が手に入る……」
 なんの手段も持たず、何もできない自分を悔しがって泣いていた姉とは違い、自分には手段がある。父や兄がどれだけ頑張って働いても実現できない夢が、自分のたったの一言で叶えられるのだと思ったら、ルーシー・メイは居ても立ってもいられなくなった。
「わたしがプリンストンさんの家に行けば、みんな幸せになれる。お姉ちゃんの言っていた光景が本当になる。わたしが、プリンストンさんの子供になれば……」
 その時ルーシー・メイは、土地さえ手に入れば家族は幸せになれるのだと頑なに信じていた。
 生まれてからずっと一緒に暮らしてきた愛する家族と別れるのはつらいけれど、誰かがなんとかしなければ、状況はどんどん悪くなっていくばかりなのだ。
「お姉ちゃん。もう、泣かなくても済むからね」
 泣きながら、優しい瞳で姉を見つめて、ルーシー・メイは小さな声で呟いた。そして、どうしようもなく悲しい気持ちを押し込めて、無理矢理笑顔を作って言った。
「今まで……ありがとう、お姉ちゃん……」

  *  *  *

 プリンストン氏がルーシー・メイを連れて現れ、土地を譲るという話をした日ほど、ポップル家が笑顔に包まれたことはなかった。アーサーは妻と抱き合い、ケイトとルーシー・メイも手を取り合って喜んだ。
 話を聞いたベンは数日後に税関の仕事を辞めて家に戻り、クララもマック夫人に土地を手に入れたことを報告に行った。
 一度アーサーがルーシー・メイを連れて土地を見に行き、夕食の席でその報告がなされると、一家は一斉に拍手をして、アーサーが恥ずかしそうに頭を掻いた。誰もが心から笑顔で話し、長い間ポップル家に立ち込めていた暗雲は、今ようやく晴れたのだった。
「本当に良かったわ。ねえ、お姉ちゃん」
 部屋への階段を上りながら、ルーシー・メイが明るい笑顔を見せた。今度の件の功労者は、もちろん自分の功績を自慢したりはしないが、嬉しい気持ちは人一倍だった。
 ケイトも、もちろん嬉しかった。オーストラリアに来てから4年半、この日のためにどれだけ家族が苦労したかをよく知っていたから、その日の夜は嬉しさのあまり、思わず妹の前で泣いてしまったほどだった。
 けれど、それから数日が経ち、ケイトの中にどうしても釈然としない思いが生まれていた。そして、それがどんどん強いものになっていたから、ケイトは思わずそっけなく答えてしまった。
「そうね……」
「お姉ちゃん?」
 部屋に戻ってからも、二人はしばらく口を利かなかった。ルーシー・メイは時々ちらちらと姉を見ては、居心地悪そうにせわしなく指を動かしていた。
 やがて、先に口を開いたのはケイトだった。ケイトは着替えを済ますと、どっかりとベッドに腰を降ろしてから、大きく溜め息をついて妹を見上げた。
「ねえ、ルーシー。本当は母さんか誰かに言って欲しかったんだけど、誰もあんたに言わないから、私が言うことにするわ」
「な、何を?」
 怒っているというほどでもないが、それでもケイトがあまり晴れやかな気分でいないのは確かだった。ルーシー・メイは何も悪いことをした覚えがなかったので、緊張しながら自分のベッドに座って、怯えたように姉を見た。
 ケイトはしばらく、無言でそんな妹の顔を見つめていたが、その顔がどんどん不安そうになっていくのを見て口を開いた。
「ねえ、ルーシー。あんた、もしプリンストンさんがあんたの本当の気持ちをわかってくれなかったら、どうするつもりだったの?」
 ケイトが胸に引っかかっていたのはそのことだった。
 ルーシー・メイは誰にも相談せずにプリンストン氏の家に行き、そこで養女にして欲しいと願った。結果としてプリンストン氏は少女の本心を汲み取り、その気持ちに打たれてポップル家に土地を売ってくれたわけだが、一つ間違えれば、ルーシー・メイは今ここにいなかったのである。
 ケイトは喜びの第一波が過ぎた後は、ずっとそのことばかりを考えていた。今ルーシー・メイに言った通り、それは本当は誰か他の人間に言って欲しいと思っていたが、両親はそれに気が付いてないのか、あるいはまだ喜びに浸っていてそうしない。
「どうって……きっと今ごろプリンストンさんの家にいて……。でも、大丈夫よ。土地が手に入ったことに変わりはないわ」
 ルーシー・メイは心からそう思っていた。だから自信を持ってそう言うと、ケイトはとうとう怒った顔になって、きつい口調でたしなめた。
「土地が入ったらどうだって言うの?」
「と、土地が入れば幸せになれるわ。みんな元通りになるって、そう言ったのはお姉ちゃんでしょ?」
「あんたそれ、本気で言ってるの!?」
 思わず声を荒げ、ルーシー・メイは怯えたように身をすくめた。それを見たケイトは、自分が熱くなっていたことに気が付いて、一度呼吸を整えた。
「ごめん。でも、あんたがいけないのよ」
「どうして? わたしは、みんなが幸せになれればって思って……」
「あんたを養女に出して手に入れた土地で、あんたを失った私たちが、本当に幸せになれると思うの?」
 そう言ったケイトの瞳には、ただ怒りがあるだけでなく、果てしなく深い悲しみがあった。そのことに気が付いたルーシー・メイは、ようやく姉の言いたいことを理解して悲しそうに瞳を潤ませた。
 ケイトは呆れたように溜め息をついてから、項垂れる妹を見て言葉を続けた。
「私たちは、確かに大変だったわ。もうダメだって何度も思った。土地が入れば、そりゃ幸せになれるけど、土地とあんたとどっちが大切かなんて、そんなこと一々言葉にしなくちゃわからない?」
 ルーシー・メイは勢いよく顔を上げると、大きく首を左右に振った。瞳から溢れた涙が頬に煌く。
「わたし、必死だったの。だから、そういうこと、考えてなかった……」
「だから怒ってるのよ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。でも、でもね……」
 ルーシー・メイはベッドから立ち上がり、ケイトの前で膝をついて姉の手をギュッと握った。そして姉の膝に顔を埋めて、くぐもった声で話を続けた。
「わたし、このままでは、本当にもうダメになってしまうってわかったの。お姉ちゃんを見ていて、そう思ったの……」
「私?」
 ケイトは一瞬、不機嫌に顔をしかめた。自分のせいにされたようでいい気分がしなかったが、そうではなかった。
「わたし、あまりよくわからないから、だからいつもお姉ちゃんを見ていたの。お姉ちゃんが大丈夫だって言ったら、大丈夫なんだって思うようにしていたの……」
「ルーシー、あんた……」
 妹の思わぬ告白に、ケイトは驚いた顔をした。ルーシー・メイは姉の服で涙を拭うと、顔を上げてすがるような眼差しを向けた。
「わたしあの日、お姉ちゃんを見てしまって、それで堪えられなくなったの。何もできないって泣いていたお姉ちゃんを見ていたら、わたしにはできることがあるんだって思って……」
「あの日って……」
 それ以上聞く必要はなかった。ルーシー・メイがプリンストン邸に行ったのは、ケイトがリトルを連れて農場を見ていた翌日である。
「そう、見てたの……」
「ごめんなさい」
 ケイトは申し訳なさそうに謝る妹をそっと抱き上げると、優しい瞳で真っ直ぐルーシー・メイの顔を見つめた。
「悪かったわ、ルーシー。私があんたを追い詰めてしまったのね」
「違うわ! お姉ちゃんが悪いんじゃない!」
 ルーシー・メイは思わず大きな声を出した。
「嘘をついたり、無理に笑ったりしてまで、安心させて欲しいなんて思ってないわ。ただ、泣いていたお姉ちゃんや、酔って帰ってきた父さんを見て、なんとかしたいって思ったの。ただそれだけなの! わたし、自分がみんなにどう思われてるかなんて、考えてなかった……」
 涙に声を詰まらせたルーシー・メイをそっと抱き寄せ、ケイトはその髪をなでてやった。一つ間違えれば自分の前から消えてしまっていた温もりを愛おしそうに抱きしめ、ケイトは目を閉じて囁くように言った。
「あんたは優しい子よ。でもね、ルーシー。これだけは覚えておいて。どんなに苦しくても、どんな悪い状況になってしまっても、やっぱり一番大切なのは家族なのよ。家族みんながバラバラになって、それぞれがお金持ちになるよりも、どんなに貧乏でも、その苦しみを家族のみんなで背負って働く方が幸せなのよ」
 ルーシー・メイはその言葉を聞きながら、自分も確かに家族の輪の中にいることを感じた。プリンストン氏の家に行ったとき、ひょっとしたら自分は輪の外側から家族を見ていたのかも知れない。だから、たとえ自分がいなくなったとしても、家族は幸せになれると思っていた。
「うん……。ごめんなさい、お姉ちゃん」
 ルーシー・メイが鼻をすすって小さく頷くと、ケイトはそっと体を離してにっこりと微笑んだ。
「もういいわ、ルーシー。ありがとう……ほんとに、ありがとう……」
 ふと笑顔を消して、真面目な瞳で礼を言うと、ルーシー・メイはきょとんとした顔になった。
「お姉ちゃん?」
「ううん、なんでもない。あんたのおかげでようやく土地を手に入れられたのよ。今のはそのお礼」
 そう言って、もう一度ギュッと妹を抱きしめながら、ケイトは心の中で違うことを思っていた。
 もちろん、土地のことは嬉しかったけれど、それはもう数日前に喜んだ。今嬉しかったのは、ルーシー・メイが思っていたよりずっと自分を信頼してくれていたこと。好かれているのはわかっていたが、頼られているとは思っていなかった。
「もう、一人でどこかへ行っちゃダメよ?」
 ケイトが力をこめてそう言うと、ルーシー・メイは嬉しそうに頷いて、姉の体を強く引き寄せた。
「うん」
 声の余韻が消えてしまうと、階下から笑い声が聞こえてきた。両親もジョンもクララもまだ起きているようである。きっと、引っ越しのことや新しい家のこと、希望に満ちた未来のことを話しているのだろう。
「もう寝ようか、ルーシー」
 ケイトが明るい声でそう言うと、ルーシー・メイは笑顔で頷いた。
 笑い声はいつまでも止まなかった。ケイトもルーシー・メイも、そんな家族の幸せそうな声を聞きながら、いつしか眠りに落ちていった。


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