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■雑文4 『 読切を読みたい 』 −2011/01/03−
 しばらく前にTwitterでうだうだ呟いた文章を元に、だらだら書いてみようかなと思った次第。
 これはこのページを作った時から一貫して言っていることだが、自分はことLaLaDXに関しては読切が好きである。基本的に「俺的物語お気に入り度」も、連載物より読切の方が多めに星を付けている。読切であるというだけで、連載物より0.5ポイントくらいプラスしている。
 何故かというと、一つにはLaLaDXは隔月誌で、連載物だと前の内容を忘れてしまうから。『赤髪の白雪姫』のような登場人物が多い作品はもちろん、登場人物がそれほど多くない『帝の至宝』や、単行本を購入している『恋だの愛だの』のレベルですら、2ヶ月後に読むと前の内容や登場人物がうろ覚えになり、ましてや前々回の内容など完全に飛んでしまう。
 自分の記憶力の問題もあると思うので、「隔月誌は連載に不向きである」というのをさも当たり前のようには言わないが、少なくとも自分は、隔月誌にはそれ単体で物語が完結している読切を期待している。
 もう一つは、もう6年半も前にアップした「連載物はかくあるべき?」に書いた通り、LaLaDXの連載は「読切で人気が出たので連載化した」という物が多いため、どうも引っかかりを覚えるという点。最近はLaLaDXがどういう雑誌かわかってきたため、当時よりは随分柔軟に考えられるようにはなったが、基本的なスタンスは6年半前と変わっていない。
 LaLaDXに読切を求めているのは以上2つの理由からだが、別の観点で、「連載を持つとその人の読切が読めなくなるから」という、変化球的な理由もある。
 先日のLaLaに掲載されたあきづき空太さんの『ヴァーリアの花婿』がものすごく良い出来だったのだが、元々あきづきさんは『雫の先に』や『冬ほどき』で★5を付けており、特に『冬ほどき』は思わずファンレターを書いたレベルで気に入っている。詰まるところ、『赤髪の白雪姫』の人気が出て、この連載が長期化している現状が、実は自分としては残念なのである。私はあきづきさんの読切が読みたい。
 もちろん、辻田りり子さんの『恋だの愛だの』は長く続いて欲しいし、すべての連載を否定しているわけではない。ただ、今連載中の『桃山キョーダイ』みたいにもどかしすぎる作品や、以前連載していた『野ばらの花嫁』のように同じような話ばかりでちっとも進行しない作品など、人気が出たから連載化した弊害というか、作者が連載に慣れていないというか、方向性がよくわからない作品は、正直早く終わってまた読切に戻ってほしいという気持ちが強い。
 語弊があるといけないが、読切を連載以下とはまったく見ていないし、今のは「連載を6本描くより、読切を6本描いて欲しい」という意味であって、悪く言うつもりはない。あきづき空太さんはかなり好きなマンガ家さんであるが、それでも『赤髪の白雪姫』はそろそろ終わってほしいと思っている。少し前、白雪が全然出て来なくて、脇役の番外編みたいな話ばかりが掲載されていた辺りからは惰性に感じる。『緋色の椅子』と同じくらいの巻数で綺麗に終われなかったのかと思う。
 ただ、恐らく、当然であるが、マンガ家としては連載を持ちたいだろうし、単行本を出したいだろう。厳密には、単行本を出したくて、単行本を出すには連載を持つしかないと言うべきか、いずれにせよ短編集など人気が出てからしか発売できないので、職業としてマンガ家を続けるには連載を持ちたいはずだ。
 自分は三上チトさんがものすごく好きで、三上さんの描く読切をいつも楽しみにしていたが、『金色王子』が第2回が掲載された他に続編は無く、結局『ラスト・レター』を最後にもう4年以上作品が掲載されていない。他にも素敵な読切を継続的に描いていたが、いつの間にかいなくなってしまった人は多い。
 中には天乃忍さんのように、7年も読切を描き続け、ようやく『片恋トライアングル』で単行本化に至ったり、仲野えみこさんのように、消えてしまったかのように2年間掲載がなかったが、劇的な復活を遂げていきなり単行本化に至るようなケースもあるが、やはり基本的には、一般的には、なかなか連載を持てずに読切だけで続けていくのは難しいのだと思う。
 自分は読切が読みたい。しかし、連載を持たなければ多くの人はいなくなってしまう。
 これはジレンマだ。
 例えば今、最新のLaLaDXに、現在激しく応援中の石原ケイコさんの『お嬢様の運転手』の第3話が掲載され、単行本が出るまで行きそうな勢いであるが、自分としてはこれが嬉しくて、寂しい。寂しい理由の一つが、やはり「これが連載されている間は、他の読切が読めない」という点である。(※)
 自己矛盾しているが、では『子羊シンドローム』の第2話が没になったと知って嬉しかったかと言えばそんなことはなく、会えるならもう一度知真に会いたかったし、今のさやか様はこれまで石原さんの描かれたお嬢様の中で最も好きである。『お嬢様の運転手』の続きが読めるのは嬉しい。
 要は程度の問題だと思う。Twitterでの呟きの締めに出した作品は、雪村ゆにさんの『いばらの掟』であるが、単行本1冊から2冊くらいの連載がちょうどいいかなと思う。林みかせさんの『地球行進曲』も好きだったが、あれも程良い長さで終わった。『絶対平和大作戦』は3冊まで行ったが、実際に途中で読むのを止めてしまうレベルでグダグダした。『パジャマでごろん』や『笑うかのこ様』みたいな、1話完結型で続いていく連載ならいいが、普通に続いていく連載なら1冊から2冊くらいの長さがちょうどいいかなと思う。
 あくまでLaLaDXに限定した話だが、程良い長さの連載と、読切の掲載。それはきっと難しいのだろうが、それが作者の理想と読者(少なくとも私──あるいは私だけかもしれないが)の理想のバランスが取れた状態かなと思う。

(※)寂しい理由のもう一つは、これは割と良く聞く話なので自分だけではないと思うが、無名アーティストのファンで、そのアーティストが有名になると冷めるというパターン。アーティスト側としては、自分が精力的に活動して、有名になればファンは喜んでくれるだろうと思うが、ファンは実はそんなことは望んでいなくて、大人数の中の一人になってしまうより、少人数の中の一人でいたいというギャップ。
 あれだ。自分はKOTOKOのファンなのだが、『ONE』や『Kanon』の時代からI'veを追いかけている身としては、『シャナ』辺りでKOTOKOを知って、KOTOKOの大ファンを自称している人を見るとイラッとしたり、疎外感を覚えてしまう。器が小さいのだろうが、マイナーな何かを好きであるというのは一つのステータスであり、マイナーでなくなるのはそれが消失するということ。それが怖いのだ。
 昔々の話だが、ある少年誌に掲載されたデビュー作にファンレターを描いたら、手書きのお返事をいただいたことがある。しかし、その後爆発的に有名になり、返事は特に個別のコメントもない年賀状1枚になってしまった。その時のような寂寥感。
 もっともこれも上に書いたような、「有名(メジャー)にならなければ消えてしまうリスクも高い」というジレンマがあり、バランスが難しい。
 結局のところ、別に自分が応援しようがしまいが、実力のある人は連載を持つし、実力のない人は消えていく。自分が応援することが、多少でもその作者の力になりそうな──要するにまだ無名で必死な若手の読切を高く評価し、ファンも多い連載物は低めに評価をする。このページのこのスタンスには、こういう理由(結局は自分のちっぽけな独占欲ということ)もある。
 石原ケイコさんの描くお嬢様は、『Box Lunch Lover』の小鳩の時代から大好きで、このページ内で石原さん作品特別ページを作ってお嬢様レビューでもしようと本気で考えていた自分としては、もはやそんなことをするまでもなく、多くの人が石原さんの描くお嬢様の素晴らしさに気が付いてしまった現状がどうしようもなく寂しいわけである。


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