『 日溜まりの中で 』



 1

 麗らかな春の日の昼下がり、琴音は一人、中学校の校庭のベンチに腰掛けて、穏やかな春の日溜まりの中でひなたぼっこをしていた。
 退屈な6時間はすでに終了した後で、校舎の方からは帰宅する生徒達の賑やかしい笑い声が、グラウンドからは運動部の生徒達の勇ましい歓声が聞こえてくる。
 校庭も、誰かと帰る待ち合わせをしている生徒や、掃除当番の生徒らで溢れ返っていたが、無表情で空を見上げる琴音は独りだった。少なくとも、琴音の座っているベンチと、その両サイドのベンチには、琴音の他には誰も座っていない。
「…………」
 琴音は無言で空を見上げていた。
 遥か頭上に青い空が広がっていた。雲一つない蒼穹に、白く輝く太陽が一つぽっかりと浮かび、燦々と大地に陽光を投げかけている。
 琴音は目を細めてそんな太陽を見上げながら、少しだけその表情を悲しげに歪めた。細められた瞳は空虚で、空を見上げながらもっと他のものを写していた。
 やがて、少しずつ声が遠ざかっていって、気が付くと校庭にいるのは琴音一人になっていた。生暖かい春風が、静かに琴音の髪を揺らして吹き抜けていく。
 ゆっくりと琴音は立ち上がった。
 それから重たい足を引きずるように、トボトボと桜の木が青々と萌える校門をくぐり抜けて、学校を出た。その時、幾人かの生徒が琴音の姿を認めて、足を止めたり、或いは露骨に話すのをやめてヒソヒソと陰口を叩いたりしたが、琴音はすさんだ瞳を地面に向けたまま、それらのものに対してまったく無関心を装って、学校を後にした。


 桃色の花びらの敷き積もる公園の桜並木を、琴音は相変わらずの無表情で歩いていた。時々憂いに満ちた瞳をして立ち止まり、自嘲気味に口元を歪めては再び歩き出す。横を行き過ぎる、琴音とは無縁の人々が、そんな琴音を不思議そうな目で見ていったが、琴音はなるべくその人たちを見ないようにして彼らとすれ違った。
 それが、見えてしまうと嫌だから……。
 知らず知らずの内に歩く速度が速まっていた。それはまるで人々から逃げるように。この社会から逃げるように……。
 琴音は心を固く塞いで公園を抜けた。


 琴音の家は、中学校から歩いて帰られる距離にあった。
 公園を抜けて、神社の境内を抜け、少し歩いたところ、大体学校から徒歩25分程度のところに琴音は住んでいた。
 公園を出た琴音は、神社の境内への石段をゆっくりと登りながら、家が近付くにつれて、どんどん足取りが重たくなっていくのに気が付いた。
(…………)
 琴音は無言で視線を落とした。
 琴音は学校が好きでなかった。学校は琴音にとって、ヒソヒソと噂話をされたり、異端な目で見られるだけの場であって、決して楽しい場所ではなかった。
 かといって、自分の家に帰りたいわけでもなかった。むしろ家は、出来ることなら帰りたくない場所だった。
 自分の家に、自分の居場所は存在しない。
 少なくとも琴音はそう考えていた。
 無視され、遠ざけられるだけの学校と、部屋に閉じこもり、自分の存在を一切感じない家との往復。その中に琴音は、自分が自分だと考えている自分の、すなわち『姫川琴音』の生を感じていない。ふわふわと心を持たない、外見だけ『姫川琴音』に似た人間が、まるで自分が『姫川琴音』であるかのように錯覚して歩いている。
(わたしは……どこに行ってしまったの?)
 琴音はふと空を見上げた。
 青い空が広がっていた。それは先程とまったく変わらない色をしていた。
(昔のわたしは、もっと明るかった気がする……。いつも、笑っていた気がする……。気がする……だけ?)
 広大な青空の下で、琴音は再び歩き始めた。
 神社の境内に入ると、そこには無数の鳩が集まっていて、琴音は思わず微笑みを零した。どうやら鳩たちは与えられた餌をついばんでいるようで、よく見ると鳩たちの真ん中に、すでに老齢の域に達したおじいさんが一人、しゃがんでそんな鳩たちを優しげに眺めていた。
「こんにちは」
 無意識の内に琴音はおじいさんにそう言っていて、そんな自分に驚いた。
「ああ、こんにちは」
 おじいさんは穏やかな瞳を琴音に向け、静かに立ち上がって軽く頭を下げた。
 琴音くらいの歳の娘が、見知らぬ老人に声をかけることなど、滅多にないのだろう。おじいさんは少しだけ嬉しそうに微笑んでいた。
 琴音が近付くと、鳩たちが警戒心を露わにして、一斉に飛び立った。
「きゃっ!」
 大きな羽音にびっくりして、思わず琴音は両腕で頭を押さえた。それからゆっくりと腕を下ろして、空を見上げる。
 青い空を背景にして、先程の鳩たちが群をなして飛んでいた。
「ははは。びっくりしたかね? 娘さん」
 おじいさんが顔をゆがめて、琴音も自然に顔を綻ばせた。
「はい」
 琴音が元気にそう返事をすると、おじいさんは嬉しそうに数回頷いて、
「若い子は笑顔でいるのが一番じゃな」
 と、まるで琴音の心境を見透かすようにそう言って、ゆっくりと階段の方に歩き始めた。
「はい。さようなら」
 琴音はもう一度元気にそう言った後、おじいさんに背を向けた。
 その時だった。
 琴音は背筋にぞっとするような悪寒を感じたと同時に、脳裏に一瞬、不吉な光景がよぎった。
 その光景は、先程のおじいさんが足を滑らせて階段から転落するという、不幸極まりなりものだった。そして琴音は、それがただの想像でないことを知っていた。
「いやっ!」
 琴音が叫びながら振り向いたのと、背後の空の下からいくつかの悲鳴が上がったのは、ほとんど同時だった。
「だ、大丈夫ですか!? おじいさん」
「おい。救急車だ! 急げ」
 ここからでは見えない階段の下から、そんな声が聞こえてきて、琴音は吐き気を覚えた。そしてもう一度振り返って、逃げるように神社の境内を走り抜けた。
 涙が数滴、滴になって地面に落ちた。
 もうすでに遥か遠くなった神社の方から、救急車の嫌なサイレンの音が聞こえてきた。


 2

「ただいま……」
 小さな声で呟くようにそう言いながら、琴音は靴を脱いだ。
 家の中はしーんと静まり返っていて、琴音に返事を返す声も、琴音を出迎える者もなかった。
 いつものことだ。
 琴音は両親に愛されていない。だからたとえ彼らが家にいようがいまいが、この状況に何ら変化はない。
 琴音ももはや慣れたもので、大して寂しそうにもせず、無言で階段を上って部屋に入った。


 せいぜい大きなイルカのぬいぐるみが置いてあるくらいの質素な部屋に入るや否や、琴音は小さなベッドの上に突っ伏した。神社を出た辺りから、やけに眠たい。
 それも、いつものことだった。
 予知能力……しかも決まって他人の不幸ばかり見えるこの不思議な忌まわしい能力が発動し、現実となった後、琴音はいつも眠たくなる。
 琴音は制服のまま目を閉じて、苦しげに一つ重たい息を吐いた。
(どうしてこんな能力があるんだろ……)
 ごろんと一つ寝返りをうって、仰向けになる。開けっ放しの窓から春風が吹き込んで、レースのカーテンを揺らした。
(どうして私だけ、産まれたんだろ……)
 自分の生をひどく恨めしく感じたとき、眦から涙が零れ落ちた。
 半数の染色体だけを持って、片親から産まれた、世界で初の人間の少女。
 それが、琴音だった。
 母親からだけ産まれた可能性により、両親の仲は険悪になり、挙げ句は不気味がられ、生物学的に人間と判断されながらも、通常では考えられない予知能力を持つが故に、周囲の人間からも気味悪がられて、琴音はいつも孤独だった。
 しかも琴音の予知能力は、決まって周りの人間の不幸ばかりを予知するもので、琴音はそれを自分のせいだと負い目を感じて、自ら他人と接することを断ち、心さえも閉ざしていた。
(どうして……いつも……)
 琴音はもう一度うつ伏せになると、大きな枕に顔を埋めて嗚咽した。
「う……うう……」
 そしてそのまま、枕に涙のシミを作って眠りについた。
 それもまた、いつものことだった。


 薄暗い部屋の中で、自分の作った夕食を摂った後、琴音は風呂に入った。
 すでに父も母も帰ってきていたが、まだ顔すら合わせていない。
 シャワーを浴びながら、琴音は暗い顔で今日一日を振り返った。
 誰とも口をきかず、先生からも無視されて過ごした学校。そして、また人を傷つけてしまった帰り道。
 そんないつもの光景の中で、いつものように深くため息を吐いて、いつものように琴音はシャワーを切った。
(あのおじいさん、大丈夫かな……)
 自分でやっておいて、心配するのもどうかと思ったが、琴音はあの優しい瞳の老人を気遣わずにはいられなかった。
(やっぱり、声なんてかけなければ良かった。そうすればあのおじいさんも、あんな目に遭わずにすんだのに……)
 部屋に戻ると、琴音はドライヤーで髪を乾かした。窓から入ってくる春の夜風が心地よい。
(明日もまた学校。みんな、嫌いな人ばかりならいいのに……)
 琴音はそんな暗い発想をして、自虐的に笑った。
 みんな嫌いなら、傷つけても平気かも知れない。それに、遠ざかることにも遠ざけられることにも何の抵抗もなくなって、結果的にそれが、誰も傷つかずにすむことに繋がる気がする。
 みんな嫌いなら、自分さえも傷つかずにすむかも知れない。
(どうしてわたしは、みんなといたいと思うんだろ……)
 自分で自分のことを『普通でない人間』と認識している琴音が、その発想が『普通の人間』のものであるなどと、気付きようもなかった。
 そして琴音は、その問いかけに解答を得られないまま眠りについた。
 それはまったくいつものように……。


 3

 翌日も、春の日差しの暖かい、よく晴れた日になった。
 琴音は朝早くから家を出て、学校に向かった。まだみんなが朝食を摂っているような時間。このくらいに出れば、校門前でも人混みに揉まれずにすむ。それに、家に長くいなくてすむ。
 琴音らしい発想だった。
 神社に入ると、数人の老人が朝のお参りをしていた。当然といえば当然だが、昨日の老人はいなかった。
 琴音はなるべく昨日老人が座っていた方を見ないようにして、神社の境内を抜けた。
 その日は、いつも何気なく通る神社の石段が、ひどく危険なものに思えた。ちゃんと手摺りも付いているし、角度だってそんなに急ではない。けれど、それでも老人にはきついものだろう。
 琴音はそんなことを考えながら階段を下り、その途中で小さく首を左右に振った。
(違う……)
 琴音は立ち止まって、今下りてきた階段を見上げた。
 手摺りのついた緩やかな階段。踏み外すことなどなければ、滅多に怪我人など出やしない、いつもの安全極まりない階段。
 昨日老人が落ちたのは、階段のせいではない。あれは、琴音が落としたのだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
 琴音は残りの階段を駆け下りて、公園に入った。


 朝の早い生徒や会社員が、琴音の前を歩いている。そういう者たちは大抵一人で歩いていて、琴音は不思議な近親感を覚えた。
 公園を抜けて、学校に差し掛かる。
 案の定、ほとんど人がいなかった。まだ8時前。当然だ。
 校庭の方から元気な男子生徒の声が聞こえてきた。恐らく運動部の朝練か何かだろう。琴音はそちらを見ようともせず、校舎に入った。
 下駄箱で上履きに履き替えて、琴音は自分の教室に入った。そして窓から校門の方をぼんやりと眺める。
 時間が経つにつれて、少しずつ人の量が増し、たくさんの話し声が琴音に届いた。
 いつの間にか教室も生徒でいっぱいになっていて、みんな楽しそうにおしゃべりをしていた。みんな琴音の同級生だったが、琴音に話しかける者はなかった。そして琴音の方も誰にも話しかけず、ただ窓から校庭の方を見つめたまま、始業のチャイムが鳴るまでずっとそうしていた。


 昼休み。昼食を摂った琴音は、校庭の日溜まりの中で、相変わらずぼんやりと空を眺めていた。
 昨日と同じくらい、澄み渡った空がどこまでも続いている。
 グラウンドは野球やサッカーをしている男子生徒でいっぱいで、その周りにいくつかの女子生徒のグループがあった。
 他の学校より少し狭めのそのグラウンドの周りには、花壇が連なっていて、その向こう側にプールがあった。琴音は花壇の一角に腰掛けて、視線を校庭に移した。
 男女が入り交じって楽しげに遊ぶ姿が、琴音には何とも羨ましく思えた。少なくとも小学生だった時分は、自分もああだったと記憶している。
 いつから自分はこんな人間になってしまったのだろう。そして、もうずっとこのままなのだろうか……。
(誰か、助けて……)
 琴音は生まれて初めてそう願った。
 昼休みも残り10分を切り、琴音はすくりと立ち上がった。他の者たちはまだ当然グラウンドに残っている。彼らは、始業のチャイムが鳴って、初めて校舎に帰るのだ。
 つまり、この時間に教室に帰るのが、一番人混みに揉まれずにすむ。
 生徒たちの笑い声に追い出されるように、琴音はグラウンドを出ようとした。
 すると、琴音のすぐ後ろで男の子の大きな声がして、琴音ははっとなって振り返った。
 見ると、一人の男子生徒がボールを追って、勢いよく花壇の、先程琴音の座っていた辺りへ走ってきた。その瞬間、琴音は見た。
 その男子生徒が勢い余って、花壇の縁で転倒するのを。
「あ、危ない……」
 琴音は青ざめた。
「お、おい! 危ないぞ」
 彼の仲間が彼を呼ぶ。
 けれどその声は彼には届かず、その男子生徒は後ろ向きに花壇の縁に足を取られて、そのまま派手に後ろに吹っ飛んだ。
「うわっ!」
「おいっ!」
 ゴンッ!
 ……そんな痛々しい音がしたような気がした。
 花壇の横で倒れるその生徒はぴくりとも動かない。慌てて駆け寄る仲間たち。
「……また……」
 琴音はぽつりと呟いた。
 たちまちそこには人だかりが出来て、数人の生徒が先生を呼びに走り始めた。
 琴音の膝が震えた。
 その時だった。
「ありがとう、姫川さん」
 突然背後から礼を言われて、琴音はひどく驚いて振り向いた。実際、誰かに名前を呼ばれることすら、琴音には久しぶりのことだった。
「ありがとう」
 もう一度琴音に礼を言ったのは、琴音と同じクラスの女子生徒だった。
「吉岡さん?」
 確か吉岡啓子という名で、園芸部か何かに所属していたと琴音は記憶している。
 啓子は琴音の方ではなく、人だかりの方を憎々しげに見て、
「あれ、姫川さんがやってくれたんでしょ?」
 と、意外なことを口にした。
 琴音はこくりと頷いた。それにしてもこの娘は、何故他人の不幸を喜んでいるのだろう。琴音がそう訝しがると、啓子が琴音の疑問に解答を与えた。
「あの子たち、いつもああして走り回っては、平気で花壇を踏み荒らすの。まったくいい気味だわ」
「……そう、なんですか……」
 琴音は複雑な心境でそう相槌を打った。
「ええ。これで少しは懲りてくれるといいんだけど……」
 そう言って、啓子はもう一度琴音に礼を言うと、校舎の方へ帰っていった。
 背後では先生が到着したようで、わーわーとすごい騒ぎになっていた。
 琴音はまたやってしまったという悲しさと、どんなことであれ、人に感謝された嬉しさで、困ったように顔を歪めた。
 気が付くと、始業のチャイムが鳴っていた。


 4

 その日も春の日溜まりの中で、あらかた全校生徒が帰宅してから校門をくぐった。
 もはや目を瞑ってでも帰られそうないつもの帰宅路を歩きながら、珍しく琴音は物思いに耽っていた。
(幸せって、何だろ……)
 そんな途方もない問いかけをふとしてみて、琴音は思わず今日の昼休みの出来事を思い出していた。いや、実際には昼の出来事が琴音にそんな途方もない問いかけをさせたのだが、琴音はそれに気付かなかった。
(わたしはまたいつもの超能力で、あの男の子を不幸にしたけれど、吉岡さんは嬉しそうに笑ってた……。見方を変えると、わたしは超能力で人を幸せにしたのかもしれない……)
 琴音らしからぬ、自分を正当化する考えだった。けれど、それはあながち外れな考えでもなかった。
(でも、他人の不幸によって得られる幸せって、本当に幸せなのかなぁ……)
 琴音は車に気を付けながら公園に入った。さすがにこれだけ深く考え込むと、他人の忌まわしい視線もまったく気にならなかった。
 実際、琴音にとって重要なのは、そっちの方だったのかも知れない。
(もし、すべての人にとって幸せなことがないとしたら、わたしは誰かを不幸にすることによって、必ず誰かを幸せにしてるのかも知れない)
 誰かが掃除をしたのか、公園の道は昨日と違って、桃色の絨毯がなく、茶色っぽい土が剥き出しになっていた。ふと足を止め、桜の木々を見上げると、木々はすっかり花を落として、近く訪れ来る夏の気配を漂わせていた。
 琴音は再び視線を落として歩き始めた。
(幸せが、誰かの不幸の上にのみ築かれるものなら、じゃあわたしは自分が幸せになるために、誰を不幸にすればいいんだろ……)
 琴音はそう思って、クラスの生徒の顔を一人一人思い浮かべていった。
 そうこうしている内に、琴音は公園を抜け、神社の石段に差し掛かった。
 ペタペタと、小さな足音を立てながら階段を上っていく。階段の天辺のラインの向こう側に空が見えた。それが少しずつ近付くにつれて、今度は神社の屋根が見えてくる。丁度その辺りで、琴音はクラス全員の顔を思い浮かべ終わった。
 それから足を止めて小さく笑う。
(もう、やめよう……)
 琴音は思った。
 少なくとも自分は、誰かが不幸になることで幸せを感じたりはしないと。
(わたし、何をバカなこと考えてたんだろ……)
 人は人、自分は自分。人の数だけ幸せはあって、どれだけ他人の幸せの形を参考にしたところで、自分にとっての幸せは見出せない。
 昼休みに抱いた、『自分はずっとこのままなのだろうか』という不安もまったく取り除かれなかったけれど、琴音は晴れ晴れとした笑顔で階段を上った。
 一つずつ解決していけばいい。謎や疑問を一つ解決するごとに、たとえ新しい二つの謎が出てきたとしても、それでも一つずつ、確実に解決していけばいい。
 それで、たとえ自分が他人を不幸にしてしまうことに対して何の解答が得られなかったとしても、少なくとも今日啓子に言われた「ありがとう」の意味は見出すことが出来た。
 それは、いけないことではない。
 琴音は軽快に石段を登り切り、神社の境内に入った。
 そこには昨日と同じように鳩が集まっていて、その中央に昨日のおじいさんが座っていた。
「あっ!」
 琴音は思わず驚きに声を上げた。
 その声に気が付いたのか、おじいさんが琴音の方を見て、
「おお、昨日の娘さんじゃないか」
 と、優しげな瞳で微笑んだ。
「おじいさん、怪我は……?」
 恐る恐る琴音はおじいさんに近付いて、申し訳なさそうに尋ねた。するとおじいさんは、
「何、大したことはないよ」
 と、まるで琴音を安心させるかのように笑った。
 琴音は安堵のため息を洩らした。
「娘さんもどうかね? こっちに来て、鳩に餌をやってはくれんかね」
 おじいさんが手招きをして、琴音は少し迷ったけれど、お言葉に甘えておじいさんの隣にしゃがんだ。鳩は今日は逃げなかった。
 穏やかな春の日差しが、神社の境内にも降り注いでいた。
 振り仰ぐ木々の緑が瞳に眩しかった。
 琴音はポカポカと暖かい日溜まりの中で、しばらくおじいさんとの話に耽った。
 久しぶりに他人と会話が出来て、琴音は無意識の内に本来の自分を取り戻していたけれど、琴音はそれに気が付かないほどおじいさんとの話に夢中になっていた。
 そして後から振り返って、ようやくそれに気が付いた。
 あっ、幸せだったなと……。
 麗らかな春の昼下がりのことだった。