『 3月11日 〜卒業して〜 』



 すっかり春めいた穏やかな風が、川面を撫でて吹き抜けていった。
 空の青さをその身に溶かして、透き通るような川の水が、小さな光の粒を撒き散らす。
 ただそれだけのことが、あまりにも綺麗だったから、オレが思わず感嘆の声を上げると、隣であかりのヤツが、そんなオレを見て小さく笑った。
 あのいつもの、「まったく、浩之ちゃんたら、子供なんだから〜。しょうがないなぁ、やれやれ。ホントに世話が焼けるんだから。浩之ちゃんは、いつもはムスッとしててちょっと大人ぶった感じでいるけど、本当はすごく心優しくて、こんな些細なことでも感動できる温かい心の持ち主なんだね。大丈夫だよ、浩之ちゃん。みんなが浩之ちゃんのこと誤解してても、私はちゃんとわかってるから」という顔だ。
 そんなことを考えながら、オレが一人で頷いていると、キラキラ輝き続ける川面をじっと見つめたまま、あかりが恥ずかしそうに口を開いた。
「あの、浩之ちゃん……」
「なんだ?」
「私、そこまで考えてないよ」
「…………」
 どうやら声に出して言っていたらしい。
 オレは堤防の芝の上にごろんと転がって空を見上げた。
 一面の蒼穹に、美味しそうな白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。
「ねっ、浩之ちゃん」
 妙に弾んだあかりの声。ちらりと目だけで見てやると、あかりはオレと同じように雲を見上げて、微笑んでいた。
 どうせまたくだらないことを考えているに違いない。
 オレのそんな確信めいた予想は、2秒後に現実となった。
「あの雲、シュークリームみたい」
 ふぅ。あかりだ。まさにあかりだ。
「違うぞあかり」
「えっ? 違うの?」
 違うに決まっているのに、それをいきなり言葉にされて、あかりが驚いた顔でオレを見下ろした。
 オレはふっと笑って、真顔で答えた。
「あれはオートマチック・トランスミッションだ」
「……ひ、浩之ちゃん……」
 静かな早春の風景に、4人の男女がいた。どちらもカップルだ。
 一組がオレとあかり、もう一組は、もちろん知らない奴らだが、オレたちとほとんど同じくらいの歳の二人。
 ちょっと頼りなさそうな男の手を、長い黒髪の可愛い女の子が握っている。
 ラブラブだ。
「ひょっとして浩之ちゃん、見とれてる?」
 わずかに拗ねたようなあかりの声がして、オレは大いに頷いた。
「ああ」
「浩之ちゃん、やっぱり長い髪の女の子が好きなんだね?」
「いや、別に。可愛ければOKかな?」
「そっか……」
「だから決して、髪が長いから来栖川先輩が好きだとか、そんなことはないぞ。決して!」
「はいはい」
 何事もない時間が、ゆっくりと川に流されていく。
 ここに来たときにあかりが流した草舟は、もう海に辿り着いただろうか。
「なああかり……」
 どこを見るでもなく、まあ強いて言うならあかりの太股を眺めながらオレが声をかけると、あかりがそれに気付いているのかいないのか、真っ直ぐ対岸の広場を見つめたまま答えた。
「なぁに?」
「とりあえず、終わったな……」
「……そうだね……」
 呟き声が風に溶けて、またしばらく沈黙があった。
 ふと先程のカップルに目を遣ると、何やら深刻そうに女の子が話をしていた。
 別れ話をしているようではなかったが、その瞳はどこか物悲しく、けれども何かに輝いた瞳だった。
 そういえば、高校時代は、葵ちゃんがあんな目をしていた。
 何か目標があって、それに向かって頑張っている瞳。
 もちろん、葵ちゃんは悲しそうにはしていなかったけれど、あの女の子の目も、真っ直ぐ夢を見据えている目だった。
 オレは視線を逸らせて溜め息を吐いた。
 そんなオレを見て、あかりがまたお姉さんぶって目を細めた。
「大丈夫だよ、浩之ちゃん」
「そうか……?」
 オレは半信半疑で答えた。
 あかりの「大丈夫」は、すべて理解して言っているのは助かるが、根拠がないからあまりにも信じられない。
 そんな俺の心を知っているのかいないのか、あかりが真剣な瞳で頷いた。
「きっと、大学に入れば、やりたいことの一つくらい見つかるよ。私も、浩之ちゃんも……」
 それだけ言って、あかりは言葉を切った。
 だから、オレも何も言わずに考えた。
 やりたいこと。
 これからのこと。
 しばらく考えたけれど、やっぱり何も浮かばなかった。
 3月11日。
 オレとあかりは、先日、高校を卒業した。


  *  *  *


 堤防の上を車が走っていって、エンジン音が低く消えていった。
 俺が「ドップラー効果」と口走ると、由綺の言葉がそれとハモって、二人で笑った。
 少し汗ばむような陽気に包まれた堤防には、気の早い薄紫色の花が蕾を付けて、風にゆらゆらと揺れていた。
「あっ、青いスミレ」
 由綺がそう言いながら、嬉しそうにその花に駆け寄っていった。
 俺にはどう見ても青には見えなかったのだが、とりあえず何も言わずに、そんな由綺の背中を眺めていた。アオイスミレが花の名前であることは、後日美咲さんに教わった。
 堤防にはこの陽気にしては珍しく人影が少なく、俺たちの他には、なんだかやる気のなさそうなカップルが一組、ぐったりと草の上に寝転んで空を見上げているだけだった。
 俺は由綺が行ってしまったので、所在なく、小石を一つ手に取ると、それを川の中に放り投げた。
 ポチャン。
 小さな音を立てて、石は川底へと沈んでいった。その様子がわかるほど澄んだ水が、その拍子に小さく撥ねて、由綺が驚いたように顔を上げた。
「どうしたの? 由綺」
 俺が尋ねると、由綺が嬉しそうに俺の方に駆け寄ってきて、にっこりと微笑んだ。
「今、川の水が撥ねたよ。メダカかなぁ」
 ……天然だ。
 まあこの際、小石を魚と勘違いしたのは百歩譲って、由綺はメダカという生き物がどんな形状をしているのか知っているのか疑問に思った。けれど、せっかく由綺が楽しそうにはしゃいでいるのにそう言うのも悪いと思って、俺は適当に相槌を打つことにした。
「そうだね。こんなに澄んだ水なんだし、いてもおかしくないか」
 なかなか優しい解答だ。
 俺が自分の答え方に自己満足していると、由綺は一瞬思案げな顔をしてから、困ったようにこう言った。
「もう、冬弥君。メダカが跳ねるわけないじゃない」
「…………」
 3月11日。今日、高校を卒業してから初めて由綺と会った。
 二人で同じ大学に合格し、これからもずっと一緒にいられると喜んだものの、由綺は歌手養成学校のために、高校時代よりも忙しくなって、なかなか会えない毎日が続いていた。
 今日だって、こうして二人で会っているのは、デートなんかじゃなくて、由綺が話があるからと言ってきたから来ただけだ。
 そんなところに、受動的な自分を感じる。
「ねえ由綺。話って何?」
 折を見て俺が静かにそう尋ねると、由綺は視線を斜めに傾け、「うん」と小さく呟いた。
 なんだろう。
 何やら言い出しにくそうな様子の由綺に、俺は一瞬背筋に寒気を覚えた。
 ひょっとして、別れ話だろうか。
 俺はそんな最悪の事態を想像したが、ひとまずそれは杞憂に終わった。
「あのね、冬弥君。私、歌手を目指すの、やめようかなって思って……」
「な、なんで!?」
 別れ話ではなかったと、ほっとしたのも束の間、俺は驚きに思わず声を上げた。
 由綺は俺の突然の豹変ぶりにも動じることなく、俯いたまま静かに言葉を続けた。
「ほら……。せっかく卒業して休みになったのに、私が学校に行ってるばっかに、全然会えないし。私も……寂しいし……」
「由綺……」
「変えるなら今だと思うの。もしそうするなら、高校を卒業して、大学生になって、新しい第一歩を踏み出そうとしている今しかないと思うから」
 あまりにも唐突な由綺のその発言に、俺は一瞬言葉に詰まった。
 由綺がどれほど必死になって努力してきたかを知っているから。だから、俺のために歌手を目指すのをやめるなどとは言って欲しくなかった。
 それは俺の胸の中にある、確かな思いだった。けれど……。
 俺はふと、向こうで寝転がっているカップルに目を遣った。
 やる気のなさそうな顔でぼーっと空を見上げている男の横顔を、女の子が楽しそうに覗き込んでいる。
 そんな二人に自分たちの姿を重ねて、そして、そんな自分たちを求めている自分がいるのもまた事実だった。
 何もなくてもいい。ただああして二人でいれればそれでいい。
 その二つの思いが胸の中で葛藤して、俺はしばらく言葉に貧していた。
 すると、そんな俺の様子を見るに見かねて、由綺が口を開いた。
「いいよね、あの二人。だって、あの男の子を見る女の子の目、すごく輝いてるもん」
 そう言われて、俺は女の子の方を見た。
 きっと愛する男の側にいられるというそれだけで幸せな、確かに輝いた瞳。
 けれど、由綺だっていつも輝いた瞳をしていると、そう言おうとして気が付いた。
「歌手、やめちゃだめだよ」
 その言葉は、無意識に口をついて出た。
「えっ?」
「歌手、ずっと夢見てきたんだろ? こんな中途半端なところでやめちゃだめだ」
 そうだ……。
 由綺の瞳がいつも輝いていたのは、夢があるから。
 夢に向かってひたむきに頑張っているから。
 そんな由綺だから、俺は由綺を好きになったんだ。
「でも、全然会えないよ? もし……もしも歌手になれたら、きっともっともっと会えなくなっちゃうよ?」
 それは二人の想い。由綺だけじゃなくて、俺も不安なこと。
 でも、それが俺だけの不安じゃなくて、由綺も不安がっていてくれてる間は大丈夫だ。
 そう。二人が同じ気持ちなら。
「大丈夫だよ、由綺」
「冬弥君……」
「俺は由綺が好きだし、由綺も俺のことを好きでいてくれるなら、少しくらい会えなくたって、何の心配もいらないよ」
 俺が笑うと、由綺も明るく微笑んだ。
 それから嬉しそうに2、3歩歩いて、笑顔のまま俺の方を振り返った。
「あのね冬弥君。私、歌、だいぶ上手くなったんだよ」
 それから由綺は、もう一度陽光を輝きながら跳ね返している川の方に目を遣って、綺麗な声で口ずさんだ。


『夕暮れが夜風をひやしていくよ
 あなたといるから寒くないよ
 街のいろがきれいにともりだして
 わたしも変わり始めているよ』


  *  *  *


『雲が晴れてても この上に映る 星は少なくて
 いつか一緒に満天の空 見上げたい』


「あれ? この歌……」
 不意に聞こえてきた歌声に、あかりが顔を上げた。それから嬉しそうにオレの方を見て、意味もなく服の袖を引っ張る。
「ねえ、浩之ちゃん。この歌、最近テレビとかで良く聴く曲だよね」
「ああ」
 オレはぶっきらぼうに答えてから、ゆっくりと身体を起こして、歌っている女の子の方に目を遣った。
 さっきの女の子が嬉しそうに微笑んでいる。
 その瞳には、もはや先程の物悲しさはなく、あとに残ったのは輝きだけだった。
「上手だね……」
「ああ」
 透き通るような歌声とか、そんな抽象的なものではなくて、純粋に素人の歌声ではなかった。
「ああいう生き方もあるんだよな……」
 思わず呟いた言葉。
 嬉しそうにあかりが言った。
「そうだよ、浩之ちゃん。ああいう生き方もあって、でも生き方はそれだけじゃないんだよ」
「そっか……」
 オレは「よっ」と気合いを入れて立ち上がった。
 風は依然として暖かかったが、ここに来たときよりも幾分強くなって、オレたちの足下から伸びる影もだいぶ長くなっている。
「そろそろ帰るか、あかり」
「うん」


『奇跡が起こるようなそんな
 星空の下であなたと同じ未来を歩いて』


  *  *  *


『二人が信じ合うことが 愛し合うことね
 Forever You're My Only Feeling Heart』


 由綺の声の余韻が消えた後、俺はそっと後ろから由綺の身体を抱き締めた。
 はにかむように由綺が笑って、背中越しに聞いてくる。
「ねっ、上手くなったでしょ?」
「うん。上手だったよ」
 素直にそう思った。
「でも、さっき向こうにいた二人は、由綺が歌い始めたら帰っちゃったよ」
「えっ!?」
 驚いたように由綺が顔を上げて、先程までカップルのいた方に目を遣った。
 もちろん、彼らは帰ってしまったからそこにはいない。
「わ、私が歌なんて歌ったから?」
 不安げに由綺が俺を見上げた。そんな由綺が可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。
「冗談だよ、由綺」
「ホントに?」
「冗談冗談」
 そっと頭を撫でてやると、ようやく納得したのか、由綺が安堵の息を洩らした。
 だいぶ風が強くなってきて、由綺が風になびく長い髪を手で押さえた。
「俺たちもそろそろ帰ろうか」
「うん。そうだね」
 俺たちは手を繋いで、ゆっくりと来た道を引き返し始めた。
 堤防の上から少しだけ光を弱めた太陽を見上げると、どこまでも青く澄み渡る空を、一羽のヒバリが高くさえずりながら飛んでいった。