■ Novels


ありふれた幸せ
「やべぇ。遅れちまったじゃねぇか!」
 自業自得とは思いながらも、昨夜遅くまで一緒に飲んでた友人連中を思い浮かべて、そう吐き捨てた。
 肘を曲げて右腕を前に突き出し、左手で袖を少しまくると、腕時計の文字盤が陽光を跳ね返してキラリと光った。
 左から頂点に上り詰めようとしている短針と、それから逃げるように右側に落ちていく長針の角度は85度。11時10分だ。
 ……今俺、ちょっと細かかったか?
 まあ、それはいい。それよりも、完全に遅刻だ。
 10分の遅刻かって?
 そんな生易しいもんじゃない。1時間10分の遅刻だ。
 こんなとき、明美が携帯電話を持ってないのが悔やまれる。
 ああ、明美ってのは俺の彼女。付き合い始めてからもう1年になるが、時間にはちょっとうるさい。時間にルーズだった俺も、彼女のせいで……いや、おかげで、随分時間に正確になった。
 だから、余計にまずい。それがいつものことなら、「もう、正昭君は! 何度言ったらわかるの!」くらいで済むだろうが、久しぶりの遅刻は、きっと……。
 いや、想像するのはやめよう。とにかく今は急ぐのみ。
 信号をきちんと守り、道路はちゃんと横断歩道か歩道橋を使って横切りながら、俺は急いだ。
 ……変なところで真面目だから遅れるのか? 俺は。
 再び時計に目を遣ったのは11時15分のこと。ようやく待ち合わせの西部公園が前方に開けた。中央の大きなタワーが、ますます大きくなって眼前にそびえ立つ。
 俺はそのまま公園に駆け込むと、タワー目指して突っ走った。
 冬休みの穏やかな平日。公園内は若いカップルで埋め尽くされていた。別にこの街に自然派カップルが多いのではなくて、ここには遊園地やプールもあるからだ。
 まあ、プールは存在するだけで、このくそ寒い中入る奴はいないが。
 つうか、そもそも開いてない。
 人をかき分けるようにして、ようやく俺はタワーの前に辿り着いた。足が疲れのために、少しだけ震える。
「ぜぇ……ぜぇ……」
 膝に手を置いて、少し呼吸を整える。そして、再び顔を上げると、露店の建ち並ぶ先に、明美の姿があった。まだこちらには気付いていないようだが、腕を組んで、じっと彼女の遥か前方に聳える山々の峰を見つめる姿は、まるで俺の母親のようだった。
 ……ああ、喩えが悪いか。俺は子供の頃、よく帰りが遅くなっては母親に怒鳴られて、その体験から、どうしても母親が怖くて仕方ないのだ。
 つまり、俺にとって母親とはとてつもなく怖い存在であるということで、前にその話を明美にしたら、大笑いされたことがある。
 ああ、だから今、そんなことはどうでもいいんだって!
 とにかく明美に謝ろう。ここは下手に言い訳するより、平謝りした方が無難だ。ご機嫌取りは臨機応変に。感情を逆撫でしないように。
 色々なことを考えながら、俺はそっと彼女に近付いた。
 彼女は一体何を考えているのか、割と大きな足音を立てて歩いている俺に、まったく気付く気配を見せない。思わず後ろから、「だ〜れだ?」とか言いながら、両目を隠してみたくなるが、きっと今それをしたら、俺は生きて再び家に帰ることが出来なくなるだろう。それは、いけない。まだ若いし、命は惜しいからな。
「あ、明美……」
 そっと呼びかけると、明美はまったくの無表情で俺を見た。すさまじい威圧感だ。これを静かな怒りと言うのだろうか。
 鬼だ。まさに今、俺は鬼と対峙しているのだ!
「あ、あの……だなぁ……」
 すぐに謝ればいいものを、何故か言い淀む。こんなときでも、彼女に素直に謝ることができないのが男というもの。
 あたふたしたしている俺の顔を、明美はただじっと見つめていた。そしてふと視線を落とすと、ため息混じりにこう言った。
「正昭君が時間にルーズなのはね、うん。もうよくわかってるんだけどさ……」
「あ、明美……」
 すでに彼女は、怒りを通り越して、あきらめの境地に入ってしまったらしい。これはまずい。
 真の意味での身の危険を察知した俺は、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんな、明美。その、寝過ごして……」
「正昭君……」
 明美はちらっと上目遣いに俺を見上げると、少し寂しそうな目をして、今にも途切れそうなか細い声で言った。
「お昼ご飯……おごってくれる?」
「……はい?」
 あまりにも唐突な発言に、思わず俺が素っ頓狂な声をあげて聞き返すと、彼女はほんのわずかに頬を膨らませて、それから子供っぽく繰り返した。
「お昼ご飯」
「あっと……」
 それはつまり、『昼飯をおごってくれたらチャラにします』という意味だろうか。
 ああ、それくらいなら安いものだ。俺は二つ返事でOKした。
「はいはい。もう、明美ちゃんの食べたいものを、何でもおごりますよ」
 パッと大きく目を見開いて、明美は嬉しそうに顔を綻ばせてから、再び俺から視線を逸らした。そして、ぽつりと呟くようにこう言った。
「U-siteでお買い物したいな……」
 どうやら、昼飯だけでは足りないらしい。
 ちなみにU-siteというのは、西部公園からでも見える位置にある大型ショッピングセンターのことで、大抵のものはここで手に入る。クリスマスも近い今、恐らく店内は客でごった返しているだろう。
 正直買い物はあまり好きではなかったが、今の俺に選択する余地はなかった。
「ああ、ちょうど俺も明美と買い物なんかしたい気分だったんだよな。外、寒いし」
「そう……。あのね、私、U-siteで感じのいい服を見つけたの。そんなに高くはないんだけど、私の給料じゃ、ちょっと手が出なくて……」
「…………」
 まだ、足りないのか……?
 内心でだくだくと汗をかきながら、俺は苦笑いを浮かべて頷いた。
「あ、ああ。今月は、給料がたくさん入ったから、ま、まあ……それくらいなら……」
 後で郵便局のATMで金を下ろさないと……。
 そんな俺の心の叫びを知ってか知らずか、明美はさらにたたみかけてきた。
「ありがとう、正昭君。そういえば今、U-siteの映画館で、面白いホラー映画がやってるんだって。私、正昭君と一緒に見たいな」
 ……それも、おごれと?
「まあ、俺もホラー、嫌いじゃないから、じゃあ、買い物が終わったら一緒に見ような」
「うん!」
 もう機嫌は直ったのか、明美が髪の毛が揺れるほど大きく頷いた。嬉しそうだ。
 だがしかし、その笑顔を手に入れるための代償は、あまりにも大きかった……。
 俺は深く目を閉じて、一度深呼吸するように大きく息を吸った。
 そんな俺に、明美が静かに言い放った。
「映画の後、チェムスでパフェおごって」
「……は?」
 思わず目を開けると、眼前の少女は、それがさも当然であるかのような、自信に満ち満ちた瞳で俺を見つめていた。
「パ、パフェ?」
「うん。チョコレートパフェ、580円なり」
「…………」
 さすがの俺も即答しかねて、腕を組んで再び目を閉じた。
 1時間15分の遅刻というのは、やはりそれくらいの重みがあるのだろうか。
 俺にはとてもそうは思えないのだが、明美には違うのだろうか。
 そんな、様々な思考を必死に消化していると、さらに明美が、その透き通るような声で悪魔の宣告をした。
「パフェを食べると、ちょうど日も沈むと思うから、このタワーから夜景を見ようね。あっ、もちろん入場料の200円は正昭君のおごり」
「…………」
 に、200円くらいなら……。
 いや、しかし、塵も積もれば山になるか?
「夜景を見たら、ぶらっと街を歩いて、メニフェルでパスタ食べよ。完璧なデートコースだね」
「……その、パスタ代は?」
 半眼になって俺が聞くと、彼女は驚いた顔をしてから、にこっと笑った。
「もちろん、遅刻した人が支払うの」
「…………」
「それから……ホテルはいつものホテルがいっかな」
 ちょっと頬を赤らめるのは可愛いけれど、今の俺はそれどころではない。
 しかし彼女は夢心地で続ける。
「お風呂は広いし、カラオケもあるし、ベッドも大きいし。ちょっと高めだけど……まあ、正昭君のおごりだし、いっかなって」
「…………」
「朝は早く起きて、その……ちょっとエッチしてから、朝ご飯を食べに行こう。その頃にはもうお昼になってるかもね。学校の通りにある喫茶店でランチ食べよ。正昭君も、それくらいなら出せるよね?」
「…………」
「そして明日は思い切り遊園地で遊ぶの。もちろんお金は……」
「明美」
 静かに、俺は言った。
「なに?」
 きょとんとした様子で俺を見上げた明美に、クルッと背を向け、俺は冷淡に別れを告げた。
「1年間ありがとう。さよなら」
「わー、わーーっ!」
 スタスタと歩き出した俺の後ろで、ひどく慌てた彼女の悲鳴。それからすぐに、タッタと二歩分の足音があって、ドンッと右肩に衝撃を受けた。
 少しよろめきながら、首だけで自分の右腕を見下ろすと、何やらすごく嬉しそうに、俺の腕にしがみついている明美がいた。そしてそのまま、頬を擦りつけるように俺の肩に頭を乗せて、小さく笑った。
「冗談だよ、正昭君」
「まったく」
 俺はため息を吐きながらも、そっと一度、左手で明美の髪をなでてやった。
 明美はうっとりしたように目を細め、恥ずかしそうに俯きながら、その薄い唇を開いて言った。
「じゃあ、服までは正昭君のおごり、映画からは二人で出す。それでいい?」
 彼女の提案に、少しだけ考えてから俺は笑顔で頷いた。
「わかった」
 まあそれくらいなら、1時間15分も待たせた罰としてちょうどいいだろう。
 そう思ってからふと、この寒い中、1時間15分もじっと俺を待ち続けていた明美が、なんだかとても愛おしく感じて、そして、同時に申し訳なく思った。
 謝罪の言葉を、今度は素直に言うことが出来た。
「ごめんな。また、遅れちまって」
 時間にルーズな人は嫌いだと、付き合い始めてから初めて遅刻した日に言われた。きっと、本当はすごく怒ってるんだろう。
 そう思ったが、明美は「ううん」と首を左右に振ってから、俺の腕を抱きしめていた腕の力を少し緩めて、澄んだ瞳で俺を見上げた。
「気にしないで。私もさっき来たところだから」
「…………」
「…………」
「……はい?」
 5秒くらい……だったか? まあ、それくらいの沈黙のあと、聞き返した俺に明美がいたずらっぽく笑った。
「だから、稲田君に電話もらって、正昭君、しこたま飲んだから、明日は絶対に遅刻するって聞いて、私もさっき来たところなの」
 ちなみに稲田というのは、昨日の晩、一緒に飲んでいた悪友の一人で、明美を俺に紹介してくれたのもヤツだった。
 俺はまだ混乱する頭で、とにかく一言。
「えっと、じゃあ、さっきまでのは……?」
 明美はまったく臆することなく、むしろ楽しげに答えた。
「からかってただけだよ。遅刻は遅刻」
「…………」
 俺は肺が悲鳴を上げるほど大きく息を吸って、それをできるだけ長く吐き出した。そして、ものすごく無感情に彼女を見下ろして言った。
「明美……」
「うん」
「1年間、ありがとう。じゃあな」
「わーっ!」
 いきなり腕を振りほどいて歩き始めた俺に、慌ててしがみつく明美。
「ちょっとぉ!」
 ちょっと、じゃない!
「大体お前なぁ……」
 反論しようと振り返った俺の唇に、柔らかいものが触れた。見開いた目に、明美のまつげがリアルに映る。
 少し荒い鼻息が俺の頬をかすめてから、明美がちろっと俺の唇を舐めて顔を離した。
「お詫び……」
 首を斜めに傾けてそう言った明美は、落ち着かない様子で自分の指をいじっていた。たぶん、ものすごく恥ずかしいのだろう。
 俺は、そんな明美をからかってみたくなったけれど、やめておくことにした。代わりにそっと明美の肩に両手を乗せ、驚いて顔を上げた明美の唇をそっとふさいだ。
「あっ……」
「……俺も、お詫び」
 唇を離してから、耳元でそう囁くと、彼女は、
「ばか……」
 と、恥ずかしそうに呟いて、俺の手をきゅっと握った。
 それから俺たちは、互いに顔を見合わせて、一度笑った。
「でも、服は正昭君が買ってくれるんだよ?」
「嘘っ!? 結局お前、待ってないからいいじゃんか」
「違うよ! 私は待つのが嫌いなんじゃなくて、時間にルーズな人が嫌いなの! 正昭君が遅刻したのは事実でしょ?」
「お前に迷惑かけてないんだから、この遅刻とお前におごるのは別問題だ」
「そんなぁ。じゃあ私、実は電話なんてもらってなくて、1時間16分37秒、きっかり待ったんだよ!」
「嘘だ。明美は泥棒だ」
「もう! わけのわかんないこと言ってないで、服くらい買ってよ!」
「またクリスマスにな」
「ええっ!? クリスマスはネックレスだって」
「俺、そうも金ねぇぞ?」
「働け」
「アホか、お前は!」
 ……そんな、何気ない会話をしながら、俺たちは手を繋いで歩いていた。目指すはまず……どこだっけ?
 U-siteだったか? 映画館だったか?
 まっ、どこでもいいや。
 こいつと一緒なら、どこに行っても楽しめるだろう。
「まずはお昼ご飯食べよっ。私、待ちくたびれて、お腹ペコペコ」
「嘘つけ!」
「お腹が空いてるのはほんとなの!」
 遥か頭上に、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
 ビュッと一陣、木の葉を捲いて、雪の匂いをはらんだ風が吹き抜けていく。
 握り合った手が、少しずつ熱を帯びてきたから、俺たちはちょっとドキドキしながら見つめ合った。
 恥ずかしそうに微笑んだ明美が可愛くて、ものすごく綺麗で幸せな、何でもない冬休みの一日が、今二人の中で始まりを告げた。
Fin