■ Novels


明日へ
 土を踏む感じが、いつもより少しだけ軽い気がする。湿度のせいかもしれない。それとも単に、体調がいいだけかも。
 ただ、よくわからないけど、これはイケるかもしれない!
 私はキッと前を見据えた。
 秋の風舞うグラウンドの、幅1.25メートルで等間隔に並ぶ白線の先、そこに私の後輩、香川美佳がストップウォッチを持って立っている。
(もう少し!)
 髪と服の裾をなびかせて、私は、美佳の横を擦り抜けた。
「美佳! タイムは!?」
 振り向き様、間髪入れずに私が問う。肩で息をしながら、私は自分の身体が感じ取ったベストタイムが、美佳の口から告げられるその瞬間に瞳を輝かせた。
 けれどもそんな私の期待も虚しく、美佳は残念そうに首を左右に振ると、無言で私にストップウォッチを差し出した。
「…………」
 タイムは12.96秒。
「そ、そんなぁ。イケると思ったのに……」
 私は、ベストと思えたタイムが、さっき測ったときより0.1秒も落ちているのに愕然とした。そんな私を見て美佳が、
「先輩。今日はもう、やめにしましょう」
 と、半ば呆れたように言った。
「ほら、もう西の空は真っ赤です。タイムも落ちる一方。今日はもうこれくらいにして、また明日にしましょう」
 そう言われて、私は初めて空を見上げた。
 高いところはまだ青空が広がっていたが、視線を西の彼方に移すと、確かに美佳の言うとおり、空はすでに紅に染まっていた。
 どうやら私は、時間も忘れて走っていたらしい。
「ほらぁ。今気付きましたって顔してる」
「あ、あはは。ごめんね、美佳」
 私はぺろりと舌を出した。
 美佳はいかにもという風に両手を腰に当てて、
「ふぅ」
 と、溜め息を吐いた。
「もう。先輩らしくないですよ。昔の先輩は、もっとしっかりした人でした。同性の私たちが憧れるような。それなのに、桐生先輩がいなくなってしまってから、先輩、なんだかおかしいです」
 私はドキリとした。それが態度に出たのか、美佳が私の顔を覗き込んで、
「どうかしましたか?」
 と、不思議そうに聞いてきた。
「ん? な、何でもない」
 私はドモりながらも、何とか笑ってみせた。
「ごめんね、美佳。こんな時間まで付き合わせちゃって。さっ、じゃあ今日はこれくらいにして、着替えて一緒にラーメンでも食べに行きましょ」
「はいっ!」
 美佳が嬉しそうに、そう元気に返事をした。まさか、自分の何気ない一言が、私を辛くしていようなどとは気付きもせずに……。
 私はストップウォッチを首にかけると、意味なく可愛い後輩の頭を撫でてあげた。

 桐生先輩。桐生武義。武義君……。
 陸上部の元キャプテンで、100メートルを10.65秒で走る、県内屈指のスプリンター。明るい性格で、いつもクラスの中心で清々しく笑っている横顔が妙に印象的だった。
 そして、私の好きだった人。
 陸上部の元キャプテン……。今は、いない。
 あの日の劫火が、私の想いを置き去りにして、彼の命を焼き去った。
 丁度三ヶ月前の二日前、桐生家から火の手が上がった。古い木造の家屋はたちどころに燃え上がり、辺りは一瞬にして火の海となった。
 もちろん、いくら不幸にも火事になったとはいえ、若い陸上部のエースが逃げられないわけがない。彼は誰よりも早く逃げ、そして、再び火の中に戻っていった。父と母と、妹を助けるために。
 そして彼は、戻らなかった……。
 彼がまだ生きて私に笑顔を見せてくれていた頃、私は自分の中で一つの決意をした。よくある話だけれど、私のタイムが彼のタイム+2秒、つまり12.65秒を切ったら告白しようと。
 ちょっとだけ、ロマンチックな気分に浸っていた。
 けれど、その想いも、今では叶わぬものとなった。
 それを生き甲斐と呼ぶのかどうかわからないけど、その日私は、確実に何か大きな目的を失った。彼が死んで初めて、私は彼のために走っていたことに気が付いた。彼への告白という目的が、決して達成されなくなってしまってから、私は走る気力を失った。
 でも、私には走るしかなかった。彼が生きていたときも、そして今も、私には走る他には何もなかった。だからせめて目標タイムを出そうと、私は躍起になった。
 何のためにかは、もうまったくわからない。彼の墓前で「好きだ」と告白するためか、それとも未だに彼の背中を追い続けたいからか。
 それでもやはり、もし仮に目標を達成したとしても、その先に私を待っているものは何もない気がした。
 千切れそうな雲の切れ端をつかもうとしているみたいだった。

 翌日。空は青く澄み渡り、随分涼しくなった風が素肌に心地よかった。この辺りは決して都会とは言えない場所で、空気も淀みなく、ただの呼吸一つが、この濁った日本の中では、何か高級な果物でも食べている気分になった。
 そんなお得意のロマンチックな心が半分。もう半分は、やっぱりもやもやした気持ちを抱いて、私はアスファルトで舗装された歩道の上を、学校目指して駆けていた。
「はあ……はあ……」
 日曜日の朝で人は少ない。元々車通りの少ない車道には、欠伸をしながら横切る猫の姿が見える。のどかなこの町独特の朝。遥か先の山々は、その天辺を薄い雲で覆い隠している。
 私は目の前の信号が赤なのを見て、少しだけ走る速度を落として角を曲がった。
 家から学校まではおよそ3.5キロ。走るのに丁度いい距離で、土日の朝はこうして走って部活に行くのが恒例。私は再び速度を上げた。
 もう少しだけ走って、私はちょっとしたミスに気が付いた。
(しまった。この道は……)
 さっき信号に引っかかったので、つい道を折れてしまった。
 後悔してももう遅い。この道は、そう。
 武義君の家の前を通る。
「…………」
 私の眼前、正確に言うと右斜め前になるのだが、そこに小さな空き地が見えてきた。空き地には不動産屋の看板らしきものが立っていて、立入禁止の札とともに、ロープが張り巡らされていた。
 ここが武義君の家の跡。数ヶ月前までは、確かにここには趣深い、古い木造の立派な家が建っていたのだが、あの火事の後、焼け焦げた家は呆気なく取り壊され、今では初めから何もなかったかのように、ぼうぼうと生えた草が風に揺れている。
 隣家はわずかな被害が出たものの、基本的には無事にすんでそこにある。ただ、あの日以来、武義君の家だけが忽然と姿を消して、同時に町や人々の会話、記憶から、桐生家の存在が消え失せた。
 でも、ただそれだけで、町は何も変わっていない。人々の生活も、学校も、何も変化していない。町の中のこの空き地のように、心と記憶に一部、ぽっかりと小さな穴が空いた以外、何も……。
 今ここにあるものだけが確かなものなのだと、私はその時実感した。
 私はそんな感慨を抱きながら、なるべくそちらを見ないようにして、空き地の前を走り抜けた。
 それからさらに速度を上げて、その場所から遠ざかる。
 そうしなければ、何かとても恐ろしいものが後ろから追ってきそうな気がした。背後から、見えない手が私の影をつかんで、そのまま私をあの日の炎の中に投げ込みそうな錯覚に陥った。
 陸上部員にあるまじき、がむしゃらな走りをした。
 顔は前を向いていたけど、気持ちはちらちらと後ろを振り返っていた。
 だから、不意に聞こえてきたクラクションと、人々のざわめき声に、はっと我に返ったときは、もう遅かった。
「あっ!」
 横断歩道の先の赤信号がまず目に入ってきて、それから無数の車が、あの世からの使者のように私の心を横切るのが見えた。
 私は慌ててブレーキをかけた。その時、右足に何か引っかかるものを感じて、次いで私は、自分の身体がふわりと軽く浮き上がるのを感じた。
 ふと、足下を見てみると、右足の靴紐が切れていた。あの日からの無茶苦茶な練習が祟ったようだ。
(ダメだ……)
ゆっくりと時間が流れて、私は身体に強い衝撃を受けた。
「うっ!」
 思ったよりも痛くない。
 はっと顔を上げると、私は誰かの腕に支えられていて、目の前を若いサラリーマンの乗った乗用車が風のように走る抜けるのが見えた。
 プァァァァァァァァァァァァァァァァン……。
 クラクションが行き過ぎる。
 ざわめき声も次第に消えて、やがて信号が青になる。
 町はいつもと変わらぬ顔に戻り、今起きたことなど、まるで気にもとめずに歩き出す。
「無茶苦茶な走りだ。とても陸上部員だとは思えない」
 低い男の人の声で言われて、私ははっと顔を上げた。
 中年の男の人が、少し怒ったように私の顔を覗き込んでいた。
 私を助けてくれた人だ。
「あ、ありがとうございました。わ、私……」
 落ち着いてくると、その後に恐怖がやってきた。自分は今、死ぬところだったのだ。
「礼はいい。それより、嫌な走り方だった」
「えっ?」
「ちょっと来なさい」
 その人はよくわからないことを言って、強引に私を人通りの少ない路地に連れていった。
 私も何故か素直に従った。何か、その人に懐かしい感じを覚えたから。昔、どこかで会ったような……。

「ちょっと走って見ろ」
 初対面の命令口調に嫌な気も覚えず、私は走る体勢を取った。この際靴はどうでもいい。走り方がみたいのだそうだ。
 道は直線で、しばらく交差点がない。人通りも少なく、走るのに向いている。
 私は呼吸を整えた。
 何かまるでレースの前のような緊張感。
「よーい……スタート!」
 その人の声で、私は地面を蹴った。
 基本に忠実に私は走った。けれども、やはりいつものように、何か心に引っかかりを覚えた。
 何だろう。
 わからない。わからないけど、それのせいで私はタイムがのびていないことに気が付いていた。
「よしっ」
 その人の声で私は走るのをやめ、元の位置に戻って尋ねてみた。
「どうでしたか?」
 その人は大きく頷いてこう言った。
「ああ。スタイルはいい。いいコーチがついてるみたいだな」
 その言葉に私は苦笑した。うちの部には、いいコーチなどいない。
「これはコーチじゃなくて、武義君……私の同級生なんですが、その人が教えてくれたものです。彼は県内屈指のスプリンターで、お父さんも大学の陸上部でコーチをしているそうです」
「そうか……」
 その人は、何故か自虐的な笑みを見せた。深い、歳を重ねた者にしかできない笑い方だと、私は思った。
「ところで君は今、どこを見て走っていた?」
 突然そんな質問をされて、私は首を傾げた。
「前……ですけど」
 答えるのも馬鹿馬鹿しい。するとその人は少し考えてから、
「ちょっと質問が抽象的すぎたかな?」
 と、困ったように笑った。
「君は今、何を考えて走っていた? まったくの無心だった訳じゃ、ないだろう」
 ああ、そういうことか。
 私は真面目にバカなことを答えてしまったことを恥ずかしく思いながら、何だか目の前の人に心を見透かされているような気がして焦りを感じた。
「何を考えてたんだろ……」
 私はそっと呟いた。
 前までは、武義君のことを考えて走っていた。
 今でもそんな気がする。
 だから、昔と何も変わっていない。
 変わっていない。
 私が心の中で頷くと、頭上からその人の声がした。
「君は、心のどこかで速く走ることを恐れてないか?」
「えっ?」
 私は驚いて顔を上げた。
 するとその人は、穏やかな目で私を見下ろしながら、静かにこう続けた。
「君は速く走ることによって行き着く先に不安を抱いている。だから、速く走れないんじゃないのか?」
「……そ、そんなことは……」
 あるかもしれない。
 私は言葉を切った。
 速く走って、もし目標タイムを出したとき、私は走る意味を見失う気がした。まるでそこが人生の到達点であるかのような錯覚を覚えて、私はそこに行き着くことをひどく恐れた。
 そう思いたくなかったから気付かない振りをしていたけれど、私はずっと恐れていた。
「やっぱりそうなんだね?」
 こくりと、私は頷いた。
「心の迷いや不安はタイムを遅くする。過去を見て走っていては、決して速くは走れないよ」
 怖いほど穏やかにそう言われて、私は目の前の人が、私のことを、私のすべてを知っているような気持ちに駆られた。
「詳しいことは知らないけれど、過去を……武義のことを考えて走っている間は、君は今より速く走れないし、武義もそんなことは望んでいないだろう」
「えっ!?」
 私は愕然となって顔を上げた。
「ど、どうしてそのことを……」
 その人は優しく笑っただけで、それには答えてくれなかった。代わりにふと、武義君の家の方角に目をやって、
「クサい台詞に聞こえるかもしれないけれど、明日を見て走るんだ」
 と、確かに歯がゆくなるような台詞を吐いた。
「もっとずっと先を見て、過去の呪縛に捕らわれず、今の目的を達成したさらに先を見て……」
「あっ……」
 ようやく私は気が付いた。
(そっか……そうなんだ……)
 目の前の人……武義君のお父さん。
「最初で最後になるだろうけど、君に私の走りを見てもらおう」
 そう言って、その人は走る体勢をとった。
「元陸上部員だの、現大学のコーチだの、そんなことはどうでもいい。ただ、妻と息子と娘を一瞬にして失って、なお生き続けている私の走りを。過去を引きずらずに、必ず先に明るい未来があると信じて今も走り続けている私の走りを、君に見て欲しい」
 そして彼は、涙を零した。
「合図を」
「はいっ!」
 私は今日、生まれ変わった。
「よーい……スタート!」
 彼の走りは、私と同じスタイルだったが、根本的な何かが違った。
 それは昔の私の走りによく似ていた。武義君の背中が、まだ明るい未来だった頃の私の走りに……。
 やがて、彼の背中が見えなくなっても、私はしばらくそこを動かなかった。

 太陽が眩しい。スポーツの秋。秋とはいえど、少し動くだけで汗が滴り落ちるほどの暑さ。
 空は高く、絶好の秋晴れ。明け方見えた雲もなく、一面真っ青な空。
 グラウンドには、陸上部の他に、サッカー部が入っている。他の部は、もっとちゃんとした施設で練習している。
 弱いんだからしょうがない。陸上部だって、正直な話、武義君と、12.65秒が可能圏である私の他には、公式の大会で勝てる者はない。
 こんなことなら、武義君のお父さんにコーチになってもらえばよかった。
 悔やんでもしょうがない。私は前を見た。
 100メートル先に後輩、香川美佳が立っている。はっきり言って足の遅い彼女が陸上部に入ったのは、私の走りを見て感動したからだとか何とか。
 怪しいものだ。
「先輩、いいですか?」
 目の前の後輩が私に尋ねる。
 私は頷いて位置についた。
 それから呼吸を整えて、キッと前を見据える。
 後輩がゆっくりとピストルを上げて……。
 短く響い音とともに私は走り出した。
 過去に捕らわれない、新しい私が。
 未来に向かって。
 美佳の横を私は駆け抜けた。
「美佳! タイムは!?」
 振り向き様私が問うと、美佳は大はしゃぎで私にストップウォッチを見せた。
「すごいです、先輩! 新記録です!」
 タイムは12.74秒。
 目標のタイムには遠く及ばなかったけど、そのタイムを見て、私はいつか必ず彼への想いを振り切って、走っていけると確信した。
 私は空を見上げた。
 溶け込むような一面の青。
「先輩。私、感動しました。私もいつか、先輩みたいにかっこよく走りたいです!」
「無理だと思うよ」
 冗談半分、その言葉は心にしまっておいて、私は私に憧れる可愛い後輩の頭を撫でてあげた。
 弱くて、武義君のいない、それでも立派な陸上部が、今日、誕生した気がした。
Fin