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フレンズ

 強い陽射しの降り注ぐアスファルトの上。黒いランドセルを背負った男の子たちに囲まれて、小さなあたしが怯えた顔で立っていた。
 あたしは汗かきだったから、その陽射しの中でたくさん汗をかいていた。額にも汗がにじんでいたし、背中はシャツがぴったりと張り付いている。
 男の子の一人が、あたしを指差しながら下品な笑い声をあげた。
「おい、見ろよこいつ。体中からションベンしてるぜ!」
「本当だ! きったねーなぁ!」
 男の子たちに笑われても、あたしは唇を噛みしめて、じっとアスファルトを見つめていた。泣いてもやめてくれないし、言い返せば叩かれるかもしれない。あたしはそれが怖くて、何も言えずにただ立ち尽くしていた。
 あたしはなるべく人目につかない人生を送ってきた。目立つのは嫌いだったし、内気で、人と喋るのがあまり得意ではなかった。
 そんなあたしが、こんなふうに男の子たちにからかわれるようになったのは、もう1年くらい前のこと。
 その時あたしは、どうしても授業中にトイレに行きたくて仕方なかった。でも授業中にトイレに行けば目立つからと、ずっと我慢していたのだけれど、結局後10分くらいのところで、どうしても我慢できなくなってしまった。
「先生、なんだかフラフラするんです。保健室に行ってきてもいいですか?」
 先生は後10分だからと言ったけれど、もう一度頼んだら行ってもいいと言ってくれた。
 あたしはすぐに立ち上がって、教室を出て行こうとした。でもその時、ドアの近くの席の男の子がいきなり大きな声を出してあたしを驚かせ、びっくりしたあたしは、思わず座り込んでそのままおもらししてしまったのだ。
 つくづく小学生は残酷だと思う。その男の子は謝るどころか、むしろあたしを指差して笑い、教室中の子供たちがあたしのことを笑った。
 それから、あたしはこうしてからかわれるようになった。
 いじめというほど我慢できないものでもなかったけれど、それでもあたしは毎日傷付いていたし、もしその時、あの子がいなければ、それは確かにいじめになっていたかも知れない。
「あー、また実夏ちゃんをいじめてるな! いいかげんにしなさいよ!」
 笑われているあたしを見て駆けてきたのは、隣のクラスの優ちゃんだった。優ちゃんは男勝りなところがあって、勝気で、それに可愛かったから男の子からも女の子からも人気があった。
 男の子たちは優ちゃんが来るのを見て、露骨に気まずそうな顔をした。
「おい、帆崎だぜ」
「逃げようぜ!」
 誰かがそう言うと、男の子たちはダッと向こうへ駆けていった。優ちゃんが怖いというよりも、優ちゃんに嫌われたくなかったのだ。
「こら、待ちなさい!」
 優ちゃんは大きな声でそう言ったけど、男の子たちの後は追いかけなかった。あたしのところまで来ると、振り上げていた手を下ろして、女のあたしでもドキッとするような可愛らしい笑顔で言った。
「大丈夫だった?」
「うん、ありがとう、優ちゃん」
 その時あたしは、特別帆崎優希という女の子と仲が良いわけではなかった。優ちゃんは誰にでも優しかったし、あたしは優ちゃんが好きだったけれど、内気な性格も災いして、あまりお喋りはしたことがなかった。
「ダメだよ、実夏ちゃん。言い返してやんなかったら、いつまで経ってもいじめられるよ?」
「うん。でも、優ちゃんが助けてくれるから」
 あたしがそう言うと、優ちゃんは照れたように視線を逸らせてから、もう一度可愛らしい顔で笑った。
「うん。実夏ちゃんはわたしが守ってあげるから! じゃあね!」
「うん、じゃあね! ありがとう!」
 あたしは走っていく優ちゃんの背中を、滅多に見せない笑顔で見ながら、ぶんぶんと大きく手を振った。

 ……もう、5年も前の思い出。
 時々夢に見る光景。いっそ優ちゃんがあたしを嫌いだったら、あたしが優ちゃんのことなんて知らなかったら、どれだけ楽になるだろう。
 ベッドから半身を起こして、あたしは憂鬱な溜め息をついた。緑色のカーテンの向こうには、眩しい光が溢れている。
 あたしはのそのそと起き上がって、パジャマを脱いだ。
「いつまでも夜のままだったらいいのに……」
 あたしは制服のかかったハンガーを取りながら、小さな声で呟いた。
 そうしたらもう、憂鬱な一日は二度と始まらないのに……。

 あたしは家から自転車で10分くらい走ったところにある駅から、電車で15分の私立の女子高に通っている。
 中学からこの高校の付属の中学に通っていて、エスカレーターで高校に上がった。
 どうして地元の中学に行かなかったかなんて、それほどわかりやすい質問もない。中学でまであの一件でからかわれるのは嫌だったし、女子高を選んだのも、すっかり男の子が怖くなってしまったからだった。
 駅から学校までの通学路を歩いていると、後ろから明るい声で名前を呼ばれた。
「ミカー! ちょっと待ってよ!」
 振り返ると、髪の毛をだいぶ明るい色に染めた、今風の女の子が走ってくる。中学2年の時からの友達である江野涼貴だ。
「あ、おはよう、涼貴」
 中学の時は「江野っち」と呼んでいたけれど、今では名前で呼んでいる。年齢のせいではなくて、なんとなく、馴れ馴れしく呼ぶのが怖くなったからだ。
「ねえミカ、昨日の『常夏』見た? まさかよっさんがあんなこと言い出したのは驚きだよね!」
 元気に話しかけてくる涼貴に、あたしは努めて楽しそうに言葉を返しながら、内心では別のことを思っていた。
 出会った頃の涼貴は、髪の毛も黒かったし、スカートも長めで、どちらかというと地味なタイプの女の子だった。あたしも地味だったからか涼貴の方から声をかけてくれて、すぐに仲良くなった。
 けれど、中3の終わり頃、涼貴はちょっと怖い子たちと付き合うようになって、格好や言葉遣いもどんどん変わっていった。あたしにも髪を染めるといいと言ってきて、あたしは断るのが怖くて茶色に染めた。
 確かに、それであたしは多少は明るくなったと思うし、周りの子たちも、「実夏って暗いから気付かなかったけど、結構可愛いじゃん」って言ってくれた。
 それからあたしもルーズを履いたり、スカートを短くしたりするようになったけれど、それで内気で怖がりな性格が直るほど、からかわれ続けた小学時代は軽くなかった。
 しばらく二人で歩いていると、今度はメイクして耳に2つもピアスを付けた子が加わってきた。
「よお、涼貴、実夏」
「あ、おはよう、咲ちゃん」
 あたしは常に誰かを睨んでいるような目付きの咲ちゃんにひるみながらも、やはり平静を装って声をかけた。
 もちろん、怖くないわけがない。涼貴に紹介されたときは、思わず丁寧語で話しかけたのだけれど、咲ちゃんは「タメでいいよ。年おんなじなんだし」と言って、名前も「咲ちゃん」と呼ぶよう言った。
 あたしはこういう怖い子とは関わらない人生を送りたかったけれど、結局怖くて抜け出すこともできずに、今ではすっかりこの子たちのグループの一員になっていた。
 もちろん、それだけなら別に問題ではなかった。みんな確かに怖かったけれど、色んなことを知っていたし、一緒にいて楽しいことも少なくなかった。
 そう。ただ一つだけ、どうしても受け入れられないことがあって、そのせいであたしはこの子たちと付き合うのが嫌だったのだ。
 それが、夢にまで見る旧友、帆崎優希のことだった……。

 靴を履き替えると、あたしは咲ちゃんと、もう一人同じクラスの美好さんと一緒に廊下を歩いていた。美好さんは格好は咲ちゃんと同じ感じだけれど、無口で少しピリピリした感じがした。あたしのことは好きでも嫌いでもないようで、あたしはこの人には丁寧語で話しかけていた。
 その美好さんが、いきなり大きな声を出した。
「おーい、帆崎じゃん。おはよ」
 呼ばれて振り返ったのは、少し日焼けした肌に、綺麗な黒髪を短く刈り揃えた、まず美少女と言って間違いない女の子だった。
 優ちゃんは公立の中学を経て、この春、この学校に入ってきた。もちろん、あたしは一目見て優ちゃんのことに気が付いたけれど、優ちゃんは初めあたしのことに気付かなかった。
 再会の日、優ちゃんは少し困った顔をしてから、「実夏ちゃん、ちょっと変わったね」と言った。どう変わったのかまでは言わなかったけれど、声の響きから察するに、あまり優ちゃんにとって嬉しい変化ではなかったのだと思う。
 それでも優ちゃんは、最後にはにっこり笑って、「これからまたよろしくね」と言って手を出した。あたしはその手をぎゅっと握って、その再会を喜んだ。
 でも、そんな友情も一瞬だった。
 美好さんは不敵な笑みを浮かべながら優ちゃんのところまで歩くと、「今日は付き合えよ」と、脅すように低い小さな声で言った。
 優ちゃんはちらりとあたしを見たけれど、すぐに何事もなかったかのように美好さんを睨み付けて、毅然として言い返した。
「わたしは部活があるの。あんたたちみたいな暇人とは違うから、今日も明日も、ずっと無理ね!」
「ふ〜ん」
 美好さんはつまらなさそうにそう言うと、いきなり優ちゃんの手首を掴んだ。そしてグイッと持ち上げて強くひねる。
「い、痛い! 何すんのよ!」
 優ちゃんは必死にもがいたけれど、美好さんは小学生の時に柔道をやっていたらしく、普通の女の子より遥かに力があった。
 そのまま優ちゃんの手首をねじ上げると、優ちゃんは思わず鞄を落として膝をつき、もう片方の手で美好さんの腕を取って泣きそうな顔をした。
「痛い痛い! やめてよ! 痛いっ!」
 美好さんはそんな優ちゃんを面白そうに見ていたけれど、最後に強く手首をひねって手を離した。
 その時の激痛に堪える優ちゃんの顔は、その日一日中あたしの頭にこびり付いて離れなかった。
 優ちゃんは壁に背中をつけたまま手首を押さえ、声は出さなかったけど小さく肩を震わせていた。
「これでもう、今日は部活に行けないな」
 そう言って美好さんが笑い、教室に入っていく。咲ちゃんがわざと優ちゃんの足を踏みつけて歩いていって、あたしは一瞬ためらったけれど、すぐに二人の後を追いかけた。

 小学校時代のあたしに対する男の子たちのあれを、いじめではなく、ただからかっていただけだって思えるようになったのは、つい最近のことだ。当時は本当につらかったし、泣きながら帰ったことも何度もあった。
 でも、今ではあれはいじめではなかったと思う。本当のいじめを知ってしまったから……。
 どうして優ちゃんがいじめられるのか、あたしにはわからない。優ちゃんはボーイッシュなところもあって、クラスの女の子たちの人気も高かった。相変わらず誰にでも優しかったし、人の噂話は決してしなかった。
 逆にそれが気に入らなかったのかも知れない。美好さんも咲ちゃんも、それに涼貴までが優ちゃんを嫌い、いじめるようになった。それと同時に、あたしは優ちゃんに話しかけなくなったし、優ちゃんもあたしと目を合わせなくなった。
 あたしは優ちゃんの味方をしたかった。涼貴は中学からの友達だし、美好さんも咲ちゃんも中学からの知り合いだけど、優ちゃんはあたしにとって特別な存在だった。
 でも、髪を染めろと言われれば染め、話題に出たドラマは見、CDは買い、とにかくみんなに嫌われないようにへつらっているあたしが、優ちゃんの味方をできるはずがない。
 時には一緒になって優ちゃんをいじめることもあったけれど、優ちゃんは何も言わなかった。涼貴たちには声をあげてやり返すこともあったけれど、あたしには声はあげても絶対に手は上げなかった。
 授業中、あたしは机に突っ伏して窓から空を眺めながら、廊下で泣いていた優ちゃんを思い出していた。
(また、優ちゃんのことを蹴ったり叩いたりしなくちゃいけないのかな……)
 あたしは、込み上げてきた涙を止めるために深く目を閉じて、もう何も考えないように教科書を黙読し始めた。

 放課後、美好さんが突然あたしにこう言ってきた。
「ねえ、実夏。悪いんだけど、帆崎をクラブ棟の裏に連れてきてくんない?」
「あ、あたしが!?」
 思わず声をあげて、あたしは大きく首を振った。
「む、無理よ。だって、ゆ……帆崎は、あたしの言うことなんて聞かないから」
「なに、力付くで引っ張ってくればいいよ。どうしても来ないって言ったら、明日どんな目に遭うかしっかり聞かせてやりな」
「…………」
 それ以上、あたしは何も言えなかった。
 今のところ、美好さんはあたしと優ちゃんが昔仲良しだったことを知らない。これも、優ちゃんがあたしの言うことなら聞くだろうと思って言っているわけではなかった。
 だから、これ以上反対して、あたしが優ちゃんの友達だと知られるのは怖かったし、味方していると思われるのも嫌だった。
 私は渋々了解して、急いで優ちゃんのクラスに行った。
 優ちゃんは掃除当番らしく、箒を持って床を掃いていた。ただ、片方の腕には包帯が巻かれていて、あたしは思わず胸が痛んだ。
「ねえ、優ちゃん……」
 小さな声で呼びかけると、優ちゃんはあたしに気が付いて、なんとも言えない悲しそうな顔をした。それから、すぐにそれとわかる作り笑いを浮かべてあたしのところに来て、いたずらっぽく言った。
「優ちゃんなんて呼んで、小島に聞かれたらどうする気?」
 小島恵理は、美好さんのグループの一人で、優ちゃんと同じクラスの子だった。高校に入ってから咲ちゃんと仲良くなり、それからあたしたちの仲間になった。
 気が強くて、美好さんにもよく文句を言ったりしているけれど、やはり優ちゃんが嫌いで、美好さんたちと一緒にいじめている。
 あたしは優ちゃんの顔を直視できずに、俯いたまま美好さんに言われたことを淡々と繰り返した。
 言い終えてから、ちらりと顔を上げると、優ちゃんはあきらめたような顔で、「そう……」とだけ呟いた。それからあたしを見て、悲しそうに笑った。
「わかったわ。行くって言っておいて」
「ゆ、優ちゃん!」
 教室に戻っていく優ちゃんに、あたしは思わず声をかけた。どうして、いじめられるとわかっていて行くのか、気になったのだ。
 だけど、振り向いた優ちゃんの目を見て、あたしは言葉を続けられなかった。
「ううん、何でもない。ちゃんと来てね」
「うん……」
 あたしは唇を噛んで踵を返すと、そのままクラブ棟の裏へ駆けた。
 人気のないそこにはすでに美好さんと咲ちゃんが待っていて、あたしを見ると「どうだった?」と尋ねた。
 あたしは乾いた笑いを浮かべて、なるべく二人が喜ぶように答えた。
「来るって。怯えた顔をしてたから、きっと歯向かえば歯向かうほど、後で痛い思いをするってのがわかってきたんじゃない?」
 あたしは、間違ったことをしているのがわかっていた。
 でも、いじめられるつらさを知っているから、どうしてもこの人たちには逆らえなかった。

 生ぬるい風が舞っている。蝉の声量は一段と大きく、吹奏楽部のトランペットの音と一緒にやかましく響いていた。
「あんたたち、こういうことがそんなに楽しいの? どっかおかしいんじゃない?」
 もう話をするのもうんざりだと言うように、優ちゃんはそう吐き捨てた。
 優ちゃんは、かつてあたしに、言い返さなければいつまでもいじめられると言ったとおり、どれだけいじめられても決して美好さんたちに屈しようとはしなかった。
 でも、どれだけ言い返しても、気丈に振る舞ってもこのいじめはなくならなかった。
「楽しいよ。自分の嫌いなヤツの泣いてるとこを見るほど楽しいことはないと思わない?」
「高岡、あんた絶対に歪んでるよ」
 優ちゃんはまるで汚ない物でも見るような目をしたが、美好さんは一向に構わない素振りを見せた。
「趣味って、人それぞれだろ?」
 そう言って、美好さんはつかつかと優ちゃんに近付いた。
「他人を犠牲にする趣味はどうかと思うけど」
 優ちゃんは鞄を握って身構え、それを美好さんに叩きつける。
 でも、美好さんは片手でその鞄を受け止めると、もう片方の手で優ちゃんの髪の毛を掴んで引っ張った。
「い、痛い!」
 涼貴が優ちゃんの背中を蹴って、優ちゃんは無様に砂埃を上げて倒れた。
「あんたたちは、一体わたしにどうして欲しいっての? いつも陰でうじうじ泣いてれば気が済むわけ?」
 優ちゃんは半身を起こして、顔をしかめた。
 美好さんは嘲笑うように答えた。
「何やっても無駄じゃない? わたしは、お前が嫌いなの」
 美好さんの靴が、優ちゃんのお腹にめり込んで、優ちゃんは苦しそうに呻き声をあげた。
 額に汗を浮かべ、身をよじって苦しそうに息を吐く優ちゃんを、涼貴と咲ちゃんがこれでもかというほど蹴りつける。
 あたしは泣きそうになりながら突っ立っていたけれど、それに気が付いた美好さんが、大きな声で言った。
「実夏もしなよ。一人だけいい子ちゃんぶったって同じだよ」
 あたしに、拒否することなんてできっこなかった。もし拒否したら、明日には今倒れて蹴られているのがあたしになるかも知れないのだ。
 あたしは、優ちゃんより自分の方が大切だった。
(ごめんね、優ちゃん……)
 あたしは心の中で何度も謝りながら、優ちゃんの肩や腰を蹴りつけた。何度も何度も、心が麻痺して、何も考えられなくなるくらい……。

 いつの間にか、ふと気が付くとその場にはあたしと優ちゃんしかいなくなっていた。
 見下ろすと優ちゃんが地面にうつ伏せに倒れていて、苦しそうに息をしながら小さく肩を震わせていた。
 あたしは一度周囲を見回して、美好さんたちがいないことを確認すると、そっと優ちゃんの肩に手を置いた。
「優ちゃん、大丈夫? ごめんね……」
 優ちゃんは地面に手をついて、ようやく身体を起こした。目は涙で潤んでいたが、泣いてはなかった。腕や足には擦り傷があったけれど、顔は綺麗なままだ。もちろん、優ちゃんのためではなく、証拠を残さないためである。
 優ちゃんはあたしの手を軽く押しのけると、クラブ棟の壁にもたれて目を閉じた。そして、怖いほど低い、無感情な声でこう言った。
「実夏ちゃんも行った方がいいよ。ここにいたら、わたしと友達だって思われるよ」
 何か引っかかったけれど、その時は気付かなかった。
 ただ、優ちゃんがあたしのことを心配してくれてることがわかったし、いじめられるのが怖かったから、あたしは逃げるようにその場を離れた。
 足を引きずるように駅まで歩き、電車に揺られている時にようやく優ちゃんの言葉の、何が引っかかったのかに気が付いた。
 ──友達だって思われるよ
「ゆう……ちゃん……」
 あたしは思わず寒気がして、その場に崩れ落ちそうになった。
 優ちゃんは、あたしに言ったのだ。「友達だって思われるよ」と。「友達だって気付かれるよ」とは言わなかった。
「優ちゃん、あたしは……あたしは、優ちゃんのこと……」
 いきなり、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、あたしはその場で泣き出した。
 車内の人たちが心配そうにあたしを見たけれど、あたしは涙を堪えることができなかった。

 その次の日、優ちゃんは学校を休んだ。
 あたしはそのまま二度と優ちゃんは学校に来ないんじゃないかと心配になったけれど、次の日にはまた元気に登校してきた。
 もちろん、身体の怪我はまだ完全には治ってないだろう。でも、大きな怪我をしてないのも確かだった。
 本当に大きな事件にはならないように、美好さんたちは絶対に優ちゃんに大怪我は負わせない。もしも骨折や内臓破裂なんて起こさせたら、すぐにいじめが判明してしまう。
 その日は、美好さんたちは優ちゃんに声をかけなかった。元々、気が向いた時にいじめるだけで、執拗にやっているわけではなかったのだ。
 でも、それから一週間もしないある日、また事件が起きた。
「今日はこれで帆崎の撮影会するの? 楽しそうだろ?」
 そう言って、嬉々として咲ちゃんが見せたのは、デジカメだった。
「撮影会?」
 あたしが聞き返すと、咲ちゃんは「それは後からのお楽しみ」と笑っただけで、教えてはくれなかった。
 これは、ゲームなのだ。
 みんな、本当は優ちゃんが嫌いという理由だけでいじめてるんじゃない。いじめるのが楽しいんだ。
 優ちゃんが言った。
「あんたたちは、一体わたしにどうして欲しいっての?」
 あたしは、いじめられていたからわかる。一度いじめられ始めたら、もう何をやったってやめてはもらえない。だから、怖いんだ……。
 放課後のトイレの中。部活のウェアを着た優ちゃんが、嫌悪感を剥き出しにしながら、少しだけ足を震わせて立っていた。
「どうしたの? するんだろ?」
 咲ちゃんがデジカメを持って、楽しそうに言った。
「ほら、遠慮せずにしなさいよ」
 美好さんがそう言って後ろから優ちゃんを羽交い絞めにして、涼貴がスカートを捲り上げた。
「や、やめて! 嫌っ!」
「嫌じゃないのよ! ほら、実夏! こいつのパンツ下ろしてやりなよ」
 あたしは躊躇したけれど、美好さんに「早く!」と急かされて言われるとおりにした。
「やめて! お願いだからやめて! 写真なんて撮らないで!」
 いつもは強気に歯向かう優ちゃんが、今日は本当に悲しそうに叫んでいた。
「お前、うるさいんだよ」
 美好さんが雑巾で優ちゃんの口を押さえ、涼貴が無理矢理優ちゃんを便器の上に屈ませる。
「ほら、さっさとしなよ。我慢してたって同じだよ?」
 意地悪くそう言いながら、美好さんがぐいぐいと優ちゃんのお腹を押した。
 優ちゃんは涙を流しながら、必死に堪えていたけれど、やがて限界だったのか、とうとうおしっこを迸らせた。
 咲ちゃんが面白そうにカメラを向ける。あたしは、ついにそんな咲ちゃんに飛びついて、大きな声で言った。
「ダメーっ! 写真はダメ!」
「実夏!?」
 三人が驚いた声をあげた。あたしは肩で息をしながら、途切れ途切れの声で言った。
「写真は、ダメ。証拠、残したくないんでしょ? 帆崎の首も締まるけど、自分たちの首も締めることになるよ」
 しばらくしんとして、優ちゃんのおしっこの音しか聞こえなかった。でもそれもしなくなると、美好さんが低い声でこう言った。
「わたし、ちょっと前から思ってたんだけど、実夏、お前、こいつのことかばってないか?」
 驚いて美好さんを見ると、思わずすくみ上がりそうなほど怖い目であたしを睨み、返答次第では容赦しないと言うように拳を固めていた。
「そ、そんなわけないじゃない。なんで疑うの?」
「別に……。お前が元々こんなことできるヤツじゃないことはわかってるのよ。だから、しないことは気にしてないんだけどね。気になってるのは、こいつが絶対にお前に手を出さないことだな」
 あたしは、優ちゃんを見た。優ちゃんもあたしを見つめて、それから、呻くように言った。
「わたしは、あんたと違って、弱い者いじめはしないのよ」
「お前には聞いてないよ」
 そう言うと、美好さんは持っていた雑巾を、たった今優ちゃんがしたばかりの、黄色い水の溜まった便器の中に投げ入れた。雑巾はあっと言う間に水分を含んで、黒っぽく色を変える。
「その雑巾、拾って絞りなよ」
「そ、そんな……。こんな汚いもの……」
「手なんて後から洗えばいいじゃん。しなよ」
 一切の反論は許さないと言わんばかりに、美好さんは強い口調でそう言った。そして涼貴が右腕を、咲ちゃんが左腕を押さえ、美好さんは優ちゃんの頭をがっしりと押さえ込んで顔を上げさせた。
「い、嫌っ! やめてよ!」
 優ちゃんは必死にもがいたけれど、三人がかりで押さえつけられては手も足も出ない。優ちゃんは勝気だったけれど、別に力持ちではないのだ。
 美好さんが鼻をつまむと、優ちゃんは口を開けるしかなくなって、青ざめた顔で涙を零した。
 あたしは美好さんに睨まれて、震えながら雑巾を取った。
「やめて、実夏……」
 優ちゃんは、真っ直ぐあたしを見つめて、すがるようにそう言った。
 あたしは思わず目を背けると、ぽたぽたと滴り落ちる雑巾を優ちゃんの口の中に押し込んで、上の方をぎゅっと絞った。
「あたしは、あんたと友達だって思われたくないのよ!」
 そんな心にもないことを、泣きながら叫んで……。

 いつまでも泣き続ける優ちゃんを残して、あたしたちはトイレを出た。
 あたしも泣いていたからか、どことなく美好さんたちの雰囲気も暗かった。
 しばらく歩くと、不意に涼貴が足を止めて言った。
「ねえ、美好。さっきのだけど、あたし、どうかと思うよ?」
「さっきの? あいつにしたこと?」
 美好さんが驚いたように聞き返す。涼貴は首を横に振ってから、あたしのそばに来て手を取った。
「ミカのことよ。止めなかったあたしもいけなかったけど、あれじゃあ、ミカをいじめてたみたいじゃん」
「りょ、涼貴!」
 あたしは驚いて思わず声をあげた。
「い、いいのよ。あたしは別に、気にしてないから……」
 自分のことで何か揉め事が起きるのは嫌だったから、慌ててそう言ったけど、涼貴は絶対にダメだというようにあたしを睨んだ。
「ダメだって。ミカはあたしの友達なんだから。ねえ、美好。あんただって、ミカが人をいじめれないのはわかってるんだろ? ミカが写真のことを止めたのは意外だったけど、だからってミカを疑って、あんなきたねー雑巾絞らせたりするのはやめなよ」
「涼……」
 美好さんは意外そうな目で涼貴を見た。でも、涼貴は一歩も退かない構えで美好さんを睨みつけ、その気迫は美好さんすらたじろぐほどだった。
 急にあたしは、まだ「江野っち」と呼んでいた頃の涼貴を思い出した。
 あの頃あたしは、いつも涼貴と二人でいたし、みんなでどこかへ遊びに行く時もいつも一緒だった。
 でも、だんだん涼貴は変わってしまって、それであたしは涼貴を敬遠するようになった。
 だけど、涼貴はずっとあたしのことを、同じように友達だと思ってくれていた。今思えば、涼貴はいつだって自分から話しかけてくれるし、遊びにも誘ってくれる。
 あたしは心のどこかで涼貴に怯えていた自分が恥ずかしくなると同時に、なんだか胸がいっぱいになって、思わず泣きながら涼貴に抱きついていた。
「ご、ごめん……ごめんね、涼貴。ありがとう!」
「ミカ……」
 涼貴はあたしを抱きしめ、軽く背中を叩いてから、はっきりと美好さんに言った。
「あたしは帆崎は嫌いよ? だけど、ミカをいじめるなら、あたしはミカの味方だから」
 涼貴は踵を返して、あたしの手を引いて歩き出した。
 あたしはしっかりとその手を握り返して、涼貴と一緒に並んで歩いた。

 帰り道で、あたしと涼貴はマックに寄った。あたしが寄りたいと言い出したのだ。
 あたしは涼貴のことすら恐れていた。だから、友達だと思いながらも、言いたいことを何も言えずにいた。
 でも、今なら聞ける。そう思ったのだ。
「ねえ、涼貴。帆崎のどこが嫌いなの? あたしは……別に好きじゃないけど、それほど嫌いでもないから」
 本当は大好きだったけれど、なんとか言い繕ってそう聞いてみた。
 涼貴は一瞬細い目であたしを見てから、何事もなかったかのようにシェイクを飲んだ。
「んー、色々あるけどね。生意気なとことか、優等生なとことか。あたしは落ち零れに近いから、ああいうタイプ、好きになれないのよ」
「ふーん。なるほどね……」
 それっきり、あたしたちは優ちゃんの話はしなかった。下手にあれこれ聞いて疑われたくなかったから。
 でも駅で別れる時、涼貴はいきなりあたしにこう聞いてきた。
「ねえ、ミカ。あんた、もしあたしと帆崎、どっちか選ぶことになったら、どっちを選ぶ?」
「あ……」
 あたしは思わず息が詰まった。その質問は、明らかにあたしが優ちゃんのことを好きだと知った上でのものに思えたのだ。
「も、もちろん、涼貴よ? だって、中学からずっと友達だったじゃない」
 声が上擦っていたのを、涼貴はきっと気が付いた。だから、こんなことを言ったのだ。
「あたしは、サッキーや美好と天秤にかけても、ミカを選ぶよ。だから、帆崎をいじめるの。じゃね!」
 そう言って、涼貴は元気に手を振って駆けていった。
 あたしはただ立ち尽くしたまま、何も言えずにそんな涼貴の背中を見つめていた。

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