■ Novels


いつも通り
「もう絶対に帰んないんだからっ!」
 そう言って里美が部屋を飛び出していったのは午後1時半。
 一緒に暮らし始めてからもう何度目になるだろう。そろそろマンネリ化した展開だ。
 俺はやれやれと息をつきながら、一人では大きすぎるベッドの縁に腰掛ける。
 ふと右手を見ると、大きな窓の向こうに電力会社の鉄塔が見えた。
 その上には灰色の分厚い雲が覆っていて、昨夜の予報で聞いた「青空」とは縁遠い空模様になっている。
 この分だと夕方くらいから降り始めるかもしれない。今日の寒さだと、間違いなく降るなら雪だ。
 俺はふと、10分ほど前の里美の格好を思い出した。
 だいぶ年季の入ってきたジーンズに、味気ない黄色のセーター。お世辞にも良い取り合わせとは言えないものだった。
 まあそれはいい。問題は寒さだ。
 確か家を出る時にコートを羽織っていったが、マフラーも手袋も帽子も持って行かなかった。
 寒さにはあきれるほど耐性のない里美が、あの格好で大丈夫だろうか。
 俺は心配のあまり渋面になったが、すぐに考えるのをやめて首を振った。
 すぐ帰ってくるに決まっている。
 過去、このマンネリ化された展開の最終シーンは、8割方、夕食間近に帰ってくるというものだった。
 食事は朝と休日の昼は里美、夜は俺が作るという分担制を布いている。
 里美とて、どうせ帰るなら無駄な夕食代を使いたくない。なので、腹が減ってくると自然と足が帰路に着くらしい。
 俺はあくびをしながら、干してある里美のパンツを手にとって、意味もなく左右に引っ張った。
 こういう休日は、里美と何をするでもなく過ごす。テレビを見たりインターネットをしたりマンガを読んだり、あるいは掃除をしたり。
 別に一人でもできることだし、実際に里美としているかと言われるとそうでもないのだが、なんとなく一緒にいるので一緒にしているような気持ちになっている。
 だから、一人だと少し落ち着かない。確実に帰ってくることがわかっているので、寂しいという感覚はないが、ただ落ち着かない。
 一緒に暮らし始めた頃は二人でいると落ち着かなかったものなのに、まったく妙な話だ。
 俺はもう読み古したシリーズものの恋愛マンガを枕元に積み上げて、ベッドの上に寝転がった。
 これで夕飯までの時間は潰せるだろう。里美のことは何も気にする必要はない。もう子供じゃないんだから。
 俺はしばしマンガを読み耽ることにした。

 午後4時。
 第5巻を読み終えて窓を見ると、いつの間に降り始めたのか、大粒の雪がふわふわと風に舞っていた。
 近付いて見てみると、積もってはいないがアスファルトがその色を濃くしている。
 鼻息で窓ガラスが曇って、俺は一歩下がって空を見上げた。
 里美は大丈夫だろうか。
 ふとそう思ってから、今まで完全に忘れていた自分に苦笑した。なんだかんだ言いながら、一人暮らしをしていたときの感覚に戻っていたらしい。
 窓を開けてみると、何かを思う前に体が勝手に閉めていた。
 とても寒い。
 こんな寒い中、誰が好き好んで外になどいるものか。
 今ごろ里美は、デパートでふらふら買い物でもしているのだろう。出て行ったときの4割方は何か買って帰ってくる。
 まあ、ヤケ食いされるよりはましだし、お金は気にならなくもないが、そんなに高いものは買ってこないから俺も目をつむっている。
 そういえばこのあいだ、茶色い紐の飾りのついた白い帽子を欲しがっていたから、今日はあれを買ってくるかも知れない。
 あの帽子と、高校時代から着ているという赤いコートが、童顔で小柄の里美に良く似合う。
 試しにかぶった時、まるで小さな天使がサンタの格好で現れたみたいで、思わずにへらとしてしまうのを堪えるのに必死だった。
 結局買わなかったのは手持ちが足りなかったからで、あの帽子ならば買ってきても俺的に善しとしよう。
 俺は、あの日「どう?」と見上げた大きな黒い瞳を思い出しながら、食事の仕度をすることにした。
 どうせ手も顔も寒さで真っ赤にして帰ってくるに決まっている。
 今夜は身も心も温まるクリームシチューにしよう。
 具は有り触れているがジャガイモ、ニンジン、ブロッコリー。
 と思ってから、ニンジンがなかったことに気が付いて、海鮮シチューに変更した。
 確かホタテがあったはずだ。ホタテしかなかった気もするが、そういうことは考えてはいけない。ホタテだけでも十分海鮮だ。
 しかし、ホタテ、ジャガイモ、ブロッコリーではいまいち斬新さが足りない。
 俺は腕を組んで唸り声を上げた。料理は自ら開拓してこそ楽しいものだ。
 しばらく考えてから、ポンと手を打って一人でニヤリと笑った。
 若い女性に人気のごぼうをみじん切りにして入れる、ヘルシー海鮮シチューにしよう。
 美味しいかどうかはわからないが、美味しかったらまた一つ名物料理が増える。
 もっとも、それで何度か失敗して、過去に三回ほど里美に吐かせたが、それは気にしないことにした。
 ふと振り向くと、視界を遮るほどの雪が、80度の角度で降っていた。
 俺は、少し苛立ち始めた。

 7時半。
 食卓に並んだ食事の湯気の向こう側には、すでに夜の帳の下りた景色があった。
 里美の趣味で買った水色のチェックのカーテンは、隅の方で束ねられたままになっている。
 鉄塔の赤いランプは雪でかすんで見えにくい。ここからでは見えないが、先程確認したら向かいの家の屋根は雪で真っ白になっていた。
 里美はまだ戻らない。
 いい加減あいつも頑固だ。
 過去このマンネリ化された展開の1割は、里美が夕飯を食べて帰ってくるというシナリオである。
 飛び出していった時の声の大きさに比例してその可能性は高くなるのだが、今回はどうだったろうか。
 俺はテーブルに肘をつき、指先で顎をいじりながら考えた。
 確かそんなに大きな声ではなかった気がする。
 あまりにもいつも通りの行動に、俺は「やれやれ、またか」という思いが強すぎて、今回はあまりよく里美の様子を覚えてなかった。
 こうなると、帰ってくるのは9時近くだ。大体デパートや地下街の閉まる8時ギリギリまで町にいて、それから帰ってくるパターン。
 俺はせっかく作った夕食が無駄になりそうなことに苛立ちを覚えた。
 何をそこまで里美は頑固になる必要があるのだろう。そもそも、今回はなんで喧嘩をしたのだったろうか。
 俺は思い出そうとしたが、思い出せなかった。
 どうせそれくらいのくだらないことに決まっている。いつも通り些細なことから始まって、全然関係ないことを含みながら大きく発展、言い返せなくなった里美が癇癪を起こして飛び出していく。
 やはりいつものパターンだ。
 それなのに、俺の胸はざわついていた。
 きっと雪のせいだ。これが夏で、外がまだ明るければ不安にもならないだろう。
 俺は里美の身を案じているだけだ。そう思い込もうとしているのではなく、事実この時俺は、俺たちの関係についての不安はまるで抱いていなかった。
 里美は必ず帰ってくる。
「まったく」
 俺は肩を落としてスプーンを取った。
 二人とも冷めたシチューを食べるくらいなら、一人でも温かい内に食べた方がいい。
 ヘルシー海鮮シチューをすくい、口に運ぶ。本当は里美の毒見をさせる予定だったが仕方ない。
 味は、まずまずだった。どこか物足りなく感じたのは、きっと里美がいないせいだ。
 俺はスプーンを置いて携帯を取った。一度里美にメールをしてみよう。
 こっちから折れたみたいで悔しくはあるが、状況が状況だ。
『お前、今どこにいるんだ?』
 そんな、無愛想な短いメール。まあ、こんな状況で愛想良くしろという方が無理というもの。
 メールを送信すると、耳慣れた里美の携帯の着信音がすぐ側で鳴り響いた。
 俺は憮然として、持っていた携帯電話を放り投げた。

 飯を食い終わってから、皿を洗ったり里美のご飯にラップをかけたりしていたら、時計の長針が短針を追い越していた。
 8時45分。
 俺の中で、非常事態を訴える警報が鳴り始めた。
 8割は夕飯前、1割は夕飯後。残る1割は、帰ってこないというパターンだ。
 もちろん、彼女の身を案じる心配はない。残りの1割の内訳は、100%彼女の高校時代からの親友である若菜ちゃんのところにいるからだ。
 ただ、里美が部屋に戻らずに若菜ちゃんのところへ行く時は、ものすごく怒っているときに限られる。
(おいおい勘弁してくれよ。俺、そんなひどいこと言ったか?)
 俺は深く溜め息をついて肩を落とした。
 こっちは喧嘩した原因すら覚えていないのである。なので、里美が何をそんなに怒っているのか、全然わからない。
 まあそれでも、一晩経てば里美も気が済んで帰ってくる。里美の家は俺の部屋であり、それ以外には有り得ない。
 俺は1時間ほど前に放り投げた携帯を取り、若菜ちゃんに電話をかけた。
 いくら親友と言っても、里美が突然訪ねることにお礼とお詫びを言っておくのが、彼氏としての最低限の礼儀だろう。
 そう思ったのだが、携帯越しの若菜ちゃんの話に、俺は愕然となった。
「え? 里美? 今日来るって?」
「いや、わかんないけど、また喧嘩しちまって、たぶん行くと思うからさぁ」
「えー……っと。その、私今、サークルの子ん家にいるから、部屋にはいないのよ」
 その言葉に、俺の中で何かが弾けた。
「い、いつ、帰るの?」
「ごめん、今日は泊まりー。まあ里美も、私がいなきゃそっちに帰ると思うよ?」
 携帯を切ると、俺は無意識の内に立ち上がっていた。
 胸を埋め尽くすのは不安と恐怖。
「あのバカ、何やってんだよ」
 わざわざ声に出して言ったのは、そんな不安を覆い隠すためだったろう。
 俺は一度外を見た。雪は依然として降り続けており、地面にまでうっすらと雪が積もっている。寒さも昼の比ではないだろう。
 どこか屋内にいるに決まっている。里美だって自分が寒さに弱いことくらいわかっているし、わざわざ外にいるはずがない。
 今ごろ電車に乗って、俺の部屋に向かっているかも知れない。
 そうに決まっている。
 それでも不安になったのは、マンネリ化されたはずのこの光景が、過去にない展開になったからだ。
 家に戻らない決意をした上で、宿泊先を失ったパターン。
 里美はどうするのだろう。俺には読めなかった。
 里美のすべてを知り尽くしているつもりになっていたが、それはすべて経験による分析であって、何故里美がその行動をとるかは考えてなかった。
(里美、お前今、どこで何を考えてるんだ?)
 俺はコートを羽織り、カイロやマフラーを鞄に無造作に詰め込んで外に飛び出した。

  *  *  *

「もう絶対に帰んないんだからっ!」
 自分でも語彙が足りないって思うくらい、もう何度言ったかわからない言葉。
 今回もそんな台詞を部屋全体に投げ付けるように言い放って、私はドアを開けた。
 途端に吹き付ける風。それがあんまり冷たかったから、私の意思はこんにゃくみたいにふにゃっとくねった。
 でも、後ろ手にドアを閉められたのは、やっぱり喧嘩したばかりだったからだと思う。
 どうせ2時間も3時間も経てば帰りたくなるに決まってる。
 それを昭も知っているのが悔しくて、だから私は今度こそ帰らないんだって覚悟を決めた。
 安いアパートの階段をカンカン音を立てながら駆け下りる。そして自転車置き場まで来て、初めて鍵を持ってこなかったことに気が付いた。
「しょうがないか。歩いていこう」
 最寄りの駅までは徒歩で20分くらいかかる。バスだと数分なんだけど、このバスの本数がまた少ないから私は歩くことにした。
 ふと足を止めて見上げた空は、悲しいほどに曇っていて、分厚い雲がまるで落ちてきそうなほど低く垂れ込めていた。
(傘、持ってきた方が良かったかな?)
 この様子だともうじき降り始めるに決まってる。
 でも、もちろん傘を取りに戻れるはずがなかったし、私は溜め息をついて再び地面を踏みしめた。
 アスファルトから靴底を貫通して冷たさが伝わってくる。こんなとき、厚底ブーツなんてのを穿いていたらもうちょっとましだったろうけど、私はそんなものは持ってなかったし、今は色気のないスニーカーを穿いていた。
 本当は、せめてブーツを穿いてきたかったけど、これが一番穿きやすかったからしょうがない。あの場所でもたもたしていたら、それこそ情けなくて涙が出てくる。
 私はコートの襟を立ててから、ポケットに手を突っ込んだ。マフラーも手袋も忘れてきてしまった。
 なんとか駅まで辿り着く、耐え切れないように鼻水が流れ落ちてきた。
 慌ててバッグを開けてティッシュを取り出そうとして、私は初めて携帯電話を置いてきたことに気が付いた。
 途端に、背筋がゾクッと寒くなった。
 これで、私と昭をつなぐものは何もない。私は昭の携帯の番号を覚えてなかったし、自宅には携帯の他に電話は置いていない。
 もちろん、私が携帯を持ってないのだから、昭も私に連絡をつけられない。
 つまり、私が自分の意思で帰らない限り、私は昭から声をかけてもらうことはないんだ。
(どうすればいいの……?)
 ティッシュで鼻をかみながら、私は眉をひそめて考えた。
 昭から帰ってきて欲しいって言ってきたら帰ろうと思っていた。けれどその可能性は絶たれてしまった。
 これでは何のために飛び出してきたのかわからない。
 これでは、またいつも通りの展開になってしまう。
「昭……」
 周りに聞こえないくらいの声で呟きながら、私は財布から500円玉を取り出した。
 とりあえず今は、何も考えずに「いつも通り」を歩こう。
 自動発券機から出てきた切符を握りしめて、私はそう決意した。

 ショッピングは好きな方だけど、一人で歩く地下街はどこか物悲しくて、空虚な印象を受けた。
 こんな時、誰か気楽に誘える友達でもいればいいんだけど、生憎大学に入ってからまだそんな友達はできてない。
 一人だけ高校からの友達がいたけど、彼女は昭との共通の友人なので、今は会いたくなかった。
 まだ春物が出てくる前だ。しかも冬物はもう見飽きていたので、やっぱりこのショッピングはつまらないとしか言いようがなかった。
 通り過ぎる店を眺めながらぼんやり歩いていると、ふと前に昭と盛り上がった雑貨屋さんを思い出した。そこにあった帽子が可愛くて、珍しく昭が嬉しそうにしていたのだ。
 昭は照れ屋さんなので、あまり喜びの感情を外に出さない。
 それが男なんだと言い訳してたけど、別に素直な男の子もいることくらい知っている。
 まあ、そこが昭の好きなところでもあるんだけど、その昭が相当気に入っていたみたいなので、あの帽子は彼の感性にマッチしたんだろう。
(帽子、買っていったら喜ぶかな?)
 別に昭のものではなかったけど、そこは恋人同士なんだから大目に見て欲しい。彼女の喜びは彼の喜びなんだって、それはちょっと都合いいかな。
 その雑貨屋さんは、全体的に緑色をしている。なんでもかんでもごちゃごちゃ置いてある雑貨屋さんよりは統一感があっていいと思うけど、恐らく緑色に興味のない子は入らないだろう。
 入り口から真っ直ぐ奥の方の服や帽子が置いてあるところまで歩いて、私は驚きに目を丸くして立ち止まった。
 帽子がなかった。
(売れちゃったんだ……)
 仕方のないことなんだろうけど、私はなんだかすごく悲しくなった。
 やっぱりあの時に買うべきだった。
 自分一人なら躊躇せずにすぐに買うくせに、彼氏といるとどうしても彼に買ってもらいたくなってしまう。
 それは悪いことなんだと思うけれど、やっぱり彼の前で自分のものを買うのは好きじゃなかった。
 私はトボトボと雑貨屋さんを出て、またふらふらと歩き始めた。
 まるで早く時間が過ぎて欲しいように、時々店の中で時計を見るけれど、時間は全然進んでくれない。昭といるとすぐに過ぎる時間が、一人でいるとどうしてこうも長く感じられるんだろう。
 それでも時間は確実に過ぎていって、私はお腹が空いて無意識の内に右手をお腹に当てていた。
(そろそろ帰ろうかな)
 何事もなかったようにそう思った瞬間、私ははっと気が付いて顔をしかめた。
 ここで帰ったら、まったくいつも通りだ。
 もちろん、今家に帰っても昭は怒らないし、喧嘩のことでとやかく言ってくることもない。それは確信している。
 私が「ただいま」って言えば、昭は「おかえり」って言ってくれる。そして、彼の得意料理がテーブルに並んでいて、私は手を洗ってそれを食べるんだ。
 今回の喧嘩も、発端はくだんないことだった。昭が自分の読んだ雑誌を出しっ放しにしていたから注意して、そこから喧嘩になった。
 素直に謝ればいいものを、自分の家の習慣だの言ってきて、最後には「ここは俺の部屋だから、俺のやることに文句を言うな」って言い放ってきた。
 だから、飛び出してきてしまった。
 謝って欲しいけど、昭は自分からは謝らない。って言っても、私からもほとんど謝らないから、お互い様だとは思うけど。
 喧嘩は必ず自然消滅して終わる。こうして家を飛び出してきても、昭は私が家に帰ることを確信しているから何もしない。
 私もそれをわかっていながら、だんだんどうでも良くなって家に帰ってしまう。二人とも根に持ったりしないから、絶対に後を引きずることはないんだけど、やっぱり昭から声をかけてくれないのが寂しいこともある。
 今日は携帯を忘れてきてしまったから、昭から声をかけられないのはわかってる。
 でも、携帯を忘れていなかったら、今ごろ声をかけてくれてただろうか。
 私は大きく首を左右に振った。
(やっぱり帰らない)
 まだ、「いつも通り」から逸れてなかった。
 そう思ってた。

 外はすっかり暗くなっていた。
 それだけじゃない。そこかしこに雪が積もっていて、私が地下にもぐっている間に、地上では半ば修羅場と言っていいほどの雪が降っていたことが、掛け算より簡単に想像できた。
「寒いっ!」
 私は身を縮こめて、襟元をギュッとすぼめた。けれど今度はその手が痛いほど冷たくなって、すぐにポケットに戻す。
(とりあえず若菜のとこに行こう)
 若菜っていうのは、近くに住んでいる唯一の高校時代の友達だ。部屋に戻らないと決めた時は、必ず彼女の家に泊めてもらっていた。
 いつもなら電話を一本かけてから行くんだけど、今日は携帯がないからそのまま行くことにした。
 電車で十数分、若菜の家の最寄り駅に着くと、8時を少し過ぎたところだった。
 今ごろ昭はどうしているだろう。きっといつも通り夕ご飯を作って待っていて、それが無駄になったって怒ってるに違いない。
 けれど、安心してるはずだ。連絡しようと思えばいつでもできるんだから。
 そう思ってから、そういえば今日は携帯を忘れてきたんだと気が付いて、私ははっと顔を上げた。
(私が携帯を忘れたってことは、昭から連絡がつけられない?)
 私はそのことを、単に「向こうから謝ってこれないじゃん」程度にしか考えてなかった。
 でも、違う。私が家に戻らない日は、決まって昭からメールか電話がある。私はぶっきらぼうにだけど、確実にそれに返事をする。
 今日はそれがない。
(昭……)
 私が携帯を忘れた時点で、すでにいつも通りを逸れていたんだ。
 昭は心配してるかも知れない。心配してるけど、連絡する手段もなくて、ひどく慌ててるかも知れない。もどかしい思いをしているかも知れない。
 私は若菜の家に急いだ。駅から若菜の家までは徒歩で10分くらい。その距離を雪まみれになりながら走った。
 若菜に会えば、昭を安心させることができる。そうすればこの展開は、最後の最後で「いつも通り」に乗ることができるんだ。
 だんだん手足の指先の感覚がなくなってきて、私は凍死するんじゃないかって、半ば本気でそう思った。
 ようやくアパートに辿り着くと、階段を昇って彼女の部屋のドアを叩く。
「若菜。私、里美!」
 叫ぶようにそう言ってから、部屋の中が暗く静まり返っていることに気が付いた。
(若菜……)
 私は絶望感に打ちのめされた。
 手すり越しに見える光景は一面の雪景色で、もはやこの中を帰る気力はなかった。
 本当はすべての意地を捨ててでも部屋に帰って昭を安心させないといけない。それはわかっていたけれど、今この雪の中を戻るのは自殺行為にさえ思えた。
 手足はじんじんと痛みを訴え続け、頬も血の気がないように冷たくて、髪の毛は文字通り雪に凍り付いていた。
「寒い……。若菜、早く帰ってきてよ……」
 ドアの前にうずくまるように座り込んで、私は堪え切れずに涙を零した。

 どうせ待つならコンビニで待てば良かった。
 ただ若菜に早く会いたい一心で、そんな発想すらできなかった自分を情けなく思いながら、私はうずくまっていた。
 携帯がないから、時間はわからない。
 まだ9時半くらいだろうか。それとももう10時を回ってるだろうか。
 11時を過ぎると終電がなくなってしまう。もちろん最終的にはタクシーっていう手があるけれど、学生の身にはそれは本当に高価な最終手段だった。
 その内、私はそっと顔を上げて、無意識に呟いていた。
「若菜……本当に、帰ってくるの……?」
 呟いてから、自分の言った言葉の意味に気が付いた。
 もしも帰ってこないのだとしたら、自分がここにいる意味はかけらもない。いや、むしろ待ち続けるのは自殺行為だ。
(こうなったら、店員さんに変に思われてもいいからコンビニで朝を待とう)
 私はそう思って、立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとして、できなかった。手足にまったく力が入らない。
「じょ、冗談でしょ?」
 口に出した声がひどく震えていた。半分は寒さのため、もう半分は恐怖のために。
「あ、昭……」
 冷や汗で背中にシャツがべったりとくっついた。
 死……。
 そんな文字を突然目の前に突きつけられて、私はひどく動転した。
(そうだ。大きな声を出せば誰か来てくれるよね。誰でもいいけど、誰か来てくれるよね!)
 ここはアパートだ。たとえ若菜がいなくても、例えばその隣の人はいるかも知れないし、もう一つ向こうの部屋の人はいるかも知れない。
 私は恥も外聞も捨てて叫ぼうと思った。
 その時、誰かが階段を昇ってくる音が、カチカチに凍った耳に聞こえてきた。
(若菜!?)
 私は顔を上げた。たとえ違ったとしても、その人に助けを求めればいい。そうすれば大きな声を出さずに済む。
 やがて階段の陰から現れたのは、若菜よりもずっと大きな身体をした男の人だった。
「昭……?」
「お前、バカか?」
 心底呆れたようにそう言った昭の声に、怒りは感じられなかった。
「ど、どうして?」
 どうしてここがって意味だったけど、昭はそういう意味には解釈してくれなかった。
「お前を迎えに来たに決まってるだろ」
 そう言って、昭は私の手を取った。昭の手は、まるで凍った私の手を溶かすくらい熱かった。
「お前なぁ、こんな日にこんなとこで、死ぬ気だったのか?」
「死ぬ気はなかったんだけど、死ぬかと思った」
「アホ」
 悪態をつきながらも、私の手を握った瞬間から、昭の顔に真剣さが帯びていた。そして、私の靴を脱がして、底にカイロを敷いて足を戻す。
「あ、熱い!」
「我慢しろ」
「我慢しろったって……きゃっ!」
 突然担ぎ上げられて、最後まで言葉を言えなかった。
「早く戻らんと、終電がなくなっちまう。恥ずかしいのは俺も一緒だから、我慢しろよな」
「こ、この格好のまま駅まで?」
 私はぞっとなったけど、昭は平然と頷いた。
「この足じゃ歩けんだろう」
「昭……」
 私はぎゅっと昭の服にしがみついた。
 昭は何も言わずに歩いている。やっぱり喧嘩のことは何も言わなくて、謝りもしなくて、それでも私をすごく心配してくれて、こうして探して迎えに来てくれて。
「昭、ありがとう」
「何が?」
 わかりきったことを聞き返されて、私は首を振った。
「なんでもない。それより、私が家に帰らないつもりで、しかも若菜がいないときは、昭が迎えにきてくれるってわかった」
「新しいパターンだな」
 昭はそう呟いてから、嘲笑うように意地悪なことを言った。
「家に戻る気もなく、泊まる宛てもなくなったら、里美は自暴自棄になって自殺を図ることがわかった」
「もう!」
「家に帰ったら、冷めたシチューとぬるくなった風呂が待ってるからな」
 私は、そっと昭の胸に顔を埋めて小さく呟いた。
「じゃあ昭にあっためてもらう。昭はあったかいよね?」
 昭は何も答えなかった。
 単に照れているだけだってわかってる。私は小さく笑った。
 雪はいつの間にかやんでいた。
「もうするなよ」
 昭の声。
「気が向いたらね」
 つっけんどんにそう言い返すと、昭は長くて深い溜め息をついた。
 ふと見上げた空に、小さな星が瞬いていた。
「晴れてきたね」
 そう言おうとしたけれど、口を開くのも面倒に思えたから黙っていた。
 代わりに昭が何か喋っていたみたいだけど、それも疲れた私にはまるで子守唄みたいで、何を言ってるかはわからなかった。
 全身を包み込むような昭の温もりと、周期的に響く小さな振動。
 私はぎゅっと昭の服をつかんだまま、いつの間にか眠ってしまっていた。
 昭の声がとても心地良かった。
Fin