■ Novels


小さな魔法使い
魔法使いに憧れる少女ユウィルは13歳。湖の街ウィサンに、最近引っ越してきたばかり。湖には化け物が棲んでおり、ユウィルはひょんなことから、たった一人でこれと戦うことになる。

 スノートウィス湖は今日も清水を湛え、抜けるように澄んだ空を写して青く輝いていた。数日前から昨夜まで降り続いていた雨が嘘のように、今日は天気が良い。広大な湖の中央にぽっかりと浮かぶファラナ島の鮮やかな緑が、はっきりと見える。
 太陽が高くに輝いている。岸辺の漁船も今はすべて出払っていて、目の届く範囲に人影はない。砂辺の砂は昨夜の雨を吸って、まだほのかに湿っている。その砂の上を、点々と小さな足跡を付けて、ユウィルは歩いていた。
 いつか夜店で両親を泣き落として買ってもらった大きな白いマントの裾が、蒸し暑い夏の風にはためいている。垂れ下がったダブダブの袖から覗くほっそりとした白い手には、黒い皮の表紙の本が握られている。
『ジェリスの魔術書』
 タイトルにそう朱色で書かれたその本は、小さな女の子が持つには不釣り合いな代物だった。少なくとも、彼女の小遣いでは、一年かかったって買えるようなものではない。
 左手には杖。もっとも、杖と呼ぶにはあまりにも貧弱極まりないもので、どちらかというと「木切れ」という方がふさわしい感がある。豪奢な本との釣り合いも悪い。
「よし!」
 砂辺の湖にほど近いところまで来て、ユウィルはやおら足を止めた。それから首を左右に振って、キョロキョロと辺りを見回す。ザザッと澄んだ音を立ててうち寄せる小さな波、振り返る彼方の空の白い雲。その下に豆粒のように小さくウィサンの街の街壁が見えたが、その方角から来る人影も、自分を見つめる視線もない。
 ユウィルは小さく一つ溜め息を吐いて、本を開いた。本には細かい文字で複雑極まりない言葉がぎっしりと書かれ、不可解な模様が並んでいた。
 この時代、ウィサンの街の子供の識字率はそれほど高くはなかったが、ユウィルはその難しい語句の数々を、半分ほど理解することができた。日々の勉強の賜物である。
「えっとぉ……」
 本を片手に、杖の先を湿った砂辺に突き立てる。サクリと杖は砂に埋まった。
「まず、三角形を二つ描いて……」
 ぶつぶつ言いながら、身体ごとそれで線を引く。自分が立って10人は入れそうな大きな三角形を二つ描くと、たちどころにまず六芒星が完成した。
 次にその六芒星の外側と内側に一つずつ円を描き、最後に内側の円の中に、さらにもう一つ六芒星を描き上げる。
 不格好だが、一応魔法陣らしき模様が完成した。
「わぁ!」
 ユウィルが歓喜の声を上げる。まだ何もしてないが、何故かとても嬉しくなった。
「えっと、次は……」
 逸る気持ちを抑え切れずに、勢い良く本のページを一枚めくる。そして懐から太い蝋燭を6本取り出して、それを1本ずつ、外側の六芒星の角に並べていく。
 その時だった。
 ザッという砂を踏む音、そして砂を蹴る音と共に、自分の名を呼ぶ男の声がした。
「おい、ユウィル!」
 男の声と言っても、高い声だ。まだ変声期を迎えていない子供の声。しゃがんで蝋燭を立てようとしていたユウィルは、瞳を曇らせて、恐る恐る振り返った。
 そこには先程までいなかった13、4歳の子供が3人、皆一様に怖い顔をして立っていた。うちの一人が乱暴に、足でユウィルの描いた魔法陣を消している。
 いじめっ子、というわけではないが、よくユウィルをいじめる5人組のうちの3人だ。ユウィルはそうでもないのだけれど、内の一人、デイディという少年がユウィルを嫌っている。特にあの事件があってからは、いじめの度合いが増し、最近ではそろそろ子供の遊びでは済まないところまでエスカレートしていた。
 ユウィルは何も言えず、しゃがんだまま顔を背けた。
 デイディがそんなユウィルに近付いてきて、ユウィルの身体が彼の影に包まれた。
「凝力石を取り上げたと思ったら、今度は魔術か? ユウィル。全然懲りてないんだな」
 蔑みや呆れなど微塵もない、ただ怒りだけが込められた声。
 ユウィルは身を縮こめ、びくびくと震えている。うっすらと目を開けると、せっかく描いた魔法陣も、綺麗に並べた蝋燭も、すべて滅茶苦茶にされていた。
 再び固く目を閉じる。
「おい、聞いてるのか!? ユウィル!」
 苛立ったデイディの足がユウィルの肩に乗せられて、そのままユウィルの身体を砂の上に蹴り倒した。
「きゃっ!」
 手加減とか、そう言った類の言葉をまったく知らないような攻撃である。砂の上に倒れたユウィルの手から、杖と本が落ちた。
「ん? 何だ? これは」
 肩を押さえて呻いているユウィルを横目に、デイディは本を拾い上げ、目の高さまで持ち上げた。
「ジェリスの魔術書?」
 タイトルを読み上げるや否や、彼の顔が険しくなり、声が荒立った。ユウィルは、大切な本を汚されてたまるものかと、痛みも忘れて立ち上がり、彼に飛びついた。
「ダメ、デイディ! 大切な本なの。お願い。返して!」
 そんなユウィルの様子が可笑しかったのだろう。二人が立ち上がったユウィルを両脇から押さえつけ、なおも暴れる彼女の動きを完全に制した。
 楽しそうな二人とは裏腹に、本を手にしたデイディの顔は真面目だった。真剣な表情でユウィルを睨み付けると、低く震える声で言った。
「まだ、こんなもの、持ってたのか……」
「い、いやっ! ダメだよ! その本は絶対にダメだよ!」
 血を吐くようなユウィルの叫びも、デイディには届かない。恨みがましい目でユウィルの顔を睨み付けていた彼が、不意に本を真ん中から両手で持ち、
「魔法は、やめろと言ったはずだ」
 呟くようにそう言ったかと思うと、いきなりその本を真ん中から真っ二つに引き裂いた。
 ビリイィッ!
「あっ!」
 一瞬目を見開き、呆然とするユウィル。しかし、それだけではなかった。彼はそれからつかつかとユウィルの方に歩み寄り、真っ二つにしたその片割れで、いきなりユウィルの頬を殴りつけた。
 バンッ!
 痛々しい音がして、さしもの二人も顔を青くして、思わずユウィルの身体を放した。軽い脳しんとうを起こしたのだろう。ユウィルは力なく砂の上に倒れ、身を震わせてすすり泣いた。
「こんなもの! こんなもの!」
 彼は、気でも違ったかのように、本を1ページ1ページ引き破り、破ってはそれをユウィルに投げつけた。
「う……うう……っ……」
 ユウィルはもはや泣くしかなかった。魔法を使おうにも、肝心な凝力石は前に彼に取り上げられて手持ちがない。無力だった。
「こんなもの! お前さえ魔法を使わなければ……お前さえここに来なければ、ミリムもあんなことにはならなかったんだ! お前さえ……」
 何度も何度もそう繰り返して、最後に本の表紙をユウィルの頭に叩き付けると、デイディは肩で息をしながら街の方に駆け出した。
「あっ、デイディ、待って」
 慌てて二人が後を追う。
 やがて、砂辺に静寂が戻った。打ち寄せる波の音に混じって、ユウィルのすすり泣く声がする。
「……っ……うう……」
 ボロボロになった本。“ジェリスの魔術書”の複写としてはかなり高価なものだ。マグダレイナに住んでいた頃、両親が北のティーアハイムを旅したときに、土産で買ってきてくれたものだ。魔法の発達した北の世界ならまだしも、この辺りでは絶対に手に入らない代物である。
 ユウィルはビリビリに破られたそれを、1枚1枚愛おしむように手で取りながら、ただひたすら泣き続けた。
(あたしがいけないの……。あたしがミリムをあんな目に遭わせたから……)
 いたずらな風が一陣、街の方から湖へと吹き下ろし、ユウィルの小さな手の平から、彼女の大切な本のかけらを奪い取った。
「あっ!」
 慌ててユウィルは湖の方を仰ぎ見たが、彼女の手を放れた紙切れは、すでに青空を背景にして、湖の上へ舞い上がっていた。
「ひど……い……」
 ユウィルは暗い顔をして、項垂れたまま泣き続けた。

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