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再び巡るその日に向かって

 一面の青空から降り注ぐ陽射しは暑く、じっとしていても汗が滴り落ちるほどだった。ここ数日間雨が降っていないせいか、道の両側に広がる草原の草花も、どことなく萎れて見える。鳥の影がすっと右手をかすめた時、セリシスは一度立ち止まり、ひどく疲れたように肩を落として、恨めしそうに空を仰いだ。
「大丈夫? セリシス」
 心配そうに声をかけたのは、セリシスよりもだいぶ背の低い少女だった。まだ女の子と言ってよい。
 少女クリスは14歳だが、歳の割に大人びた顔つきをしている。元々リアスのスラム街に住んでいたのだが、その頃から子供たちのお姉さん役を買っていたせいだろう。旅に出てからはセリシスがその役目を担っているため、肩の荷が下りたように子供らしさを見せるようになってきたが、長年の間に染み付いた物腰は一朝一夕で抜けるものではなく、相変わらず歳に不釣合いな落ち着いた言動をしていた。
 不安げなクリスの眼差しに、セリシスは慌てて背筋を正すと、無理に笑って見せた。
「大丈夫よ、クリス。ありがとう」
 もちろん、大丈夫ではない。セリシスは徒歩による、この慣れない長旅に疲れていた。
 セリシスはリアスの正統なる貴族の娘だった。決して甘やかされて育ったということはないが、それでも野宿などはしたことがなかったし、固いパンと少しのチーズだけの食事もしたことがなかった。
 スラムの人々による内乱のために街を追われ、スラムの子供たちとともに意気揚々と旅に出たのだが、楽しかったのはせいぜい最初の2日だけだった。3日目の朝には足が筋肉痛でひどく痛んだし、寝不足と直射日光、そして疲れのせいで頭が芯から疼いた。
 村や宿場町に着くたびに早々とベッドに潜っているから辛うじて倒れずに済んでいる。けれど、ここ数日の日照りでセリシスの体調は限界に達しようとしていた。
 それでも無理に笑って見せるのは、ひとえに子供たちに心配をかけたくないからである。セリシスは子供たちが自分を慕っていることを自覚していたし、自分はお姉さんであると言う気負いもあった。そのため、何としても彼らにだけは心配かけまいと常に考えており、今セリシスの身体を突き動かしているのも、偏にその想いの強さだけと言って過言ではない。
 もちろん、それでセリシスの体調に気付かないほど鈍感な子供たちではない。黒い勝気な瞳をした少年イェラトは、憔悴したセリシスの顔を一瞥してから、不安げな顔で何か言いかけたもう一人の少年ヒューミスを軽く手で制した。そして辺りをぐるりと見回してから、ぱっと顔を明るく輝かせて草原の方を指差した。
「セリシス。あそこで少し休んで行こう」
 セリシスが見ると、道から数分の距離のところに、一本の大きな樹が立っていた。樹それ自体は草原に何本も林立していたが、下に4人が休めるほどの陰があるようなものはそれほど多くない。イェラトが指差したのは、黒々とした大きな陰を持った樹だった。
 セリシスの返事を待ち切れないように、イェラトは自分の脛から膝くらいまで伸びた草の中にズカズカと入っていった。その足取りといい、イェラトが自分が休みたがっているわけではないのは明白だったので、すぐにその意を理解したヒューミスが後を追って草原に足を踏み入れた。
 セリシスは慌てて声を上げた。
「イ、イェラト! 私なら大丈夫だから!」
 子供たちに気を遣わせているのが申し訳なくて、セリシスは二人の少年を止めようとしたけれど、彼女のそんな性格を熟知しているイェラトは振り向こうともせずに怒鳴った。
「俺が疲れたんだよ! セリシスが平気なら、クリスと一緒に先に行ってろよ!」
 見る見る内に向こうへ行ってしまったイェラトの背中を呆然と見つめていたが、ふと我に返ったように左手を見下ろすと、クリスがにっこり笑ってセリシスを見上げていた。
「私も休みたいです。行こう、セリシス」
 クリスはセリシスの手をギュッと握った。その手が自分の思っていたよりも熱を帯びていたのに驚き、クリスは一瞬その可愛らしい顔をゆがめたが、すぐに何事もなかったように手を引いて歩き出した。
 セリシスは割と我を通す娘だと自他ともに認めていたが、三人の様子を見ていたら、ここでその厚意に甘んじないのは、逆に申し訳ないことだとようやく気が付き、手を引かれるまま歩き出した。正直、もしも一緒にいるのが自分よりもずっと上の大人たちだったなら、とっくに自分から「休みたい」と言っているくらい頭が痛い。
「ありがとう、みんな……」
 セリシスの弱々しい呟きを、クリスは何事もなかったように聞き流した。決して自分たちに弱いところを見せないセリシスが、まるで心情を吐露するようにため息をつくのを見るのは、なんだかひどく悲しく感じられた。
 セリシスは今どんな気持ちなんだろう。
 ふとクリスはそんなことを考えて、悲しげにまつ毛を揺らした。ある冬の晩にヒューミスと出会ってからずっと、セリシスはスラムに出入りし、何年もの間スラムの子供たちの相手をしてきた。けれどそのせいで、彼女は大きな家も、豊かな暮らしも、家族も、すべてを失してこのような辛い旅を強いられている。
 愛するセリシスに、恩を仇で返すような真似をしてしまった。自分たちはセリシスからたくさんの幸せを与えられてきたが、彼女には何も与えることができないばかりか、むしろどんどん彼女を不幸にしている。
 クリスは思わず足を止め、後ろを付いてくる姉のような少女を振り仰いだ。その時自分がどんな目をしていたかはわからなかったが、セリシスはどうしたのだろうと言うように首を傾げて見せてから、柔らかな微笑みを浮かべてクリスを見つめた。
「クリス。そんな顔をしなくても平気よ? みんながいてくれれば、私は大丈夫だから」
 そう言ってから、セリシスは優しくクリスを抱きしめるようにして、そっと彼女の長い黒髪を指で梳くようにして頭を撫でた。
 セリシスが一体、自分の考えを理解した上で言ったのか、それとも単に体調のことを言ったのかはわからなかったけれど、クリスはほっと息を吐いてから、ギュッと少女の服を握った。
「はい。ありがとう、セリシス」
 セリシスは柔らかく頷くと、先に行った二人を追って歩き始めた。すでに樹の下に辿り着いた二人が、少女たちの方を向いて大きく手を振っている。元気でわんぱくそうな彼らの笑顔に、セリシスは自然と頬が緩んだ。
 実際、クリスの考えはまったくの杞憂だった。確かに旅はセリシスにとって辛いものではあったけれど、それ以上の喜びがあった。それに彼女は家族をあまり好いていなかったし、貴族という身分に執着するよりも、ずっとスラムの子供たちに近付きたいと思っていた。セリシスは自分にないものをたくさん持っている、このスラムの子供たちが大好きなのだ。
「遅いよ、セリシス!」
 ようやく木陰に入ったセリシスに、イェラトは腰に手を当てて呆れたような怒ったような声を上げた。もちろん本心ではない。セリシスもそれがわかっていたので、小さく謝りながらそっと腰を下ろして太い樹の幹にもたれかかった。周囲の空気は依然熱気に包まれていたが、樹皮はひんやりとして気持ち良かったし、風も疲れた身体に心地良い。
 思わず目を閉じると、そのまま胸とも頭とも知れぬ場所から、重苦しい闇が押し寄せてくるような感覚を覚えた。疲れている時に感じる眠気とはこんなものだ。不快だけれど決して抗えない。
 それでも必死に抵抗しようとすると、閉じた目蓋の向こうから眠たそうなイェラトの声がした。
「じゃあ、俺はちょっと休むから、ヒューミス、お前辺りを見張ってろよな。クリスもセリシスも、疲れてたら寝ろよ?」
 その言葉に、ヒューミスは文句の一つも言わなかった。確かにちょっと気の弱いところのある少年だが、反対しなかったのはその性格のせいではないだろう。イェラトとヒューミスはあらかじめ打ち合わせていたのだ。責任感の強いセリシスを如何に眠らせるかを。
 子供らしい陳腐な発想なのは否めなかったけれど、セリシスは彼らの気持ちが嬉しかった。だから睡魔に身を委ね、ほんの数分後には小さな寝息を立てていた。
 セリシスが寝たのを確認してから、イェラトは音を立てないように起き上がり、一度少女の顔を見た。少女がまだ貴族の娘で、スラムの子供たちにプレゼントを配っていた頃と比べると、随分痩せて、頬もこけて見える。リアスを出てから何日も経っていないのにだ。
 セリシスがそんなふうになってしまったのは、何も疲れのせいだけではなかった。彼らは金をほとんど持っていなかったのだ。逃げるようにリアスから飛び出してきたセリシスは、自らの蓄えを持ってくることができなかったし、スラムの子供たちに至っては初めから無一文である。だから、彼らは旅の最中も満足に食事を取ることができなかった。
 セリシスが気付いているかはともかく、そのことは一度としてセリシスを交えた場所で話題にしたことがなかった。余計な気を遣わせたくなかったからだ。
「このままじゃ、セリシスのために宿を取ってあげることも、薬を買ってあげることも、それどころか何か食べさせてあげることもできなくなる」
 視線を落として、ヒューミスが溜め息をついた。もちろんセリシスが食べられないということは、ヒューミス自身もそうなのだが、彼は何よりもまずセリシスを中心に考えるのだ。
「マグダレイナまではあと2日くらいって、セリシスが言ってたわ。それまではなんとか食べ物がもつけど……。マグダレイナで何か仕事を見つけないと」
 ひどく低いトーンで、クリスが呟いた。仕事と言っても、まだ年端も行かぬ彼らがまったく見知らぬ街でできることなどほとんどなかったし、もちろん宛てもなかった。クリスもそれをわかった上で言っているのだ。
 セリシスの隣に座り、遥かマグダレイナのある方角に目を遣って、イェラトが淡々とした声で言った。
「それ以前に、街に入れるかが先だな。この俺たちが……」
 イェラトの呟きに、ヒューミスもクリスも暗く視線を落とした。彼らはスラムに生まれ、ずっとリアスの高い街壁を見上げながら生きてきた。スラムの人間は、街に入ることを許されていなかったのだ。
 マグダレイナにはリアスのようなスラム街はなかったが、それでもまったく身分の証明ができない人間が自由に出入りできる街ではない。今まで通過してきた村や町とは違うのだ。
 そのことは、リアスを出てすぐ話題に上ったのだが、セリシスに「きっと大丈夫」と言われて、子供たちは閉口した。セリシスは確かに世間知らずだが、子供たちは他の街を見たことすらない。結局、自分たちに策がない以上、彼女を信じるしかなかったのだ。
 金にしても同じだった。なんとかしなければならないと三人は常に思ってはいたが、一体自分たちに何ができるというのか。決して口にはしないけれど、彼らは心のどこかでセリシスに期待していた。きっと彼女が何とかしてくれる。三人はいつもそう信じていたし、逆にそれが彼らを苦しめていた。
「僕たちのセリシスへの想いは、いつだって空回りしてるんだ……」
 ヒューミスの言葉に、二人は溜め息をつきながら空を見上げた。
 白い雲がずっと向こうへ流れていく。突き抜ける青空が皮肉なほど眩しくて、三人は思わず涙ぐんだ。
 セリシスは小さな寝息を立てながら眠り続けていた。

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