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邪念の石
 王都メイゼリスの第三王子はエーディスといって、15歳になる若者である。
 茶色に近い金髪を短く刈り込み、顔は童顔であどけなさが残っている。性格は温厚だが横着で、王子にふさわしい気品というものが欠落していた。
 意図的に王家の教育を跳ね除けてきたのである。
 エーディスは上の二人の兄ほど優秀ではなく、争いごとも嫌いだった。そのため、野心を抱いたことがなく、権力にも興味を示さなかった。
 父王もエーディスを愛してはいたが何かを期待することはなく、おかげでエーディスは教育の鎖を早々に断ち切ることに成功した。
 もちろん、王子としての最小限の責務は果たしたし、立場を逸脱した行動は決してしなかった。しかし、それさえ守れば、エーディスは多くの自由を与えられたのである。
「城の空気は嫌いじゃないけど、やっぱりこの下町の喧騒が、わたしには一番合うようだ」
 視察という名目で城を抜け出し、エーディスは瞳を輝かせて笑った。
 清潔だが質素な紺の貫頭衣を分厚い革のベルトで締め、飾りのない小剣を一本、そのベルトからぶら提げている。
 その格好だけ見れば、まさか誰もその若者が王家の人間だとは気付かないだろう。しかし、その隣を歩く者は、王国の紋章の入った鎧を着け、それを隠すどころかむしろ誇るようにしていた。
「ディエルは、いつか他国の謀略に使われるわ」
 背の高い、気の強そうな瞳をした女性である。エーディスより2つ上で、名はレミーナという。女性でありながら王国一の剣の使い手であり、国王の親衛隊の隊長でもあった。
 本来はエーディスの護衛ではないのだが、エーディスが彼女を気に入っていたので、「視察」の時は護衛をしてもらっている。
「そのために君がいるんじゃないか。何かあったら期待してるよ」
 エーディスが屈託なく笑うと、レミーナは呆れたようにため息をついた。
 エーディス自身は、ほとんど剣を使えない。彼は他の兄弟と違い、生まれながらにして魔力を持っていた。それは本当に微々たるものだったが、エーディスはせっかくあるのだからと言って、剣よりも魔法に励んでいた。
 それもほとんど独学に近かったので、長く続けているが、未だに大した魔法は使えない。そもそも護るべき人間に期待するのが間違いなのだが、いざ戦いになったらエーディスは戦力外と言わざるを得なかった。
「5人までなら大丈夫だけど、10人いたら保障できないわ」
 レミーナが弱々しくそう言うと、エーディスは周囲の者が振り返るほど大きな声で笑ってから、あっけらかんと言い放った。
「君なら、20人に囲まれても平気だよ」
 幸いにも、二人は何者かに襲われるような経験は一度もなかった。
 それはエーディスの変装のおかげではなく、レミーナの知名度のためである。レミーナがいるがゆえに、隣の若者が王子だと気付く者もあったろうが、そもそも謀略を企てるような人間はそうそういないし、単に喧嘩を売るだけなら、相手を選びたいところである。
「君はわたしと同じで、ずっと城で暮らしてるから、たまにはこうして外に出たいだろ? せっかくわたしが外に出してやったんだから、もっと嬉しそうにして、礼の一つでも言ったらどうだい?」
 エーディスが偉そうにふんぞり返ると、レミーナはやれやれと首を振って、困ったような眼差しを王子に向けた。
 昼の下町は多くの市民であふれている。肉屋の生臭いにおいには人だかりができ、鍛冶屋の窓からはこもった熱気がこぼれ出る。配達人は人々を押し退けて走り、大工が頭上で喧嘩のように声を嗄らしている。
 エーディスがそんな人々を楽しそうに眺めていると、不意にレミーナが動き、次の瞬間には、近くにいた少年が腕をひねり上げられて悲鳴を上げていた。10歳くらいの子供である。
「どうしたんだ?」
 エーディスが珍しく語調を強めて問うと、レミーナは少年の薄汚れた服の中に手を突っ込み、巾着袋を取り出した。
「スリですよ」
 途端に、少年の顔が青ざめる。汗に汚れ、髪も伸び放題でぼさぼさだったが、顔立ちは悪くない。
「ゆ、許して! 仕方なかったんだ!」
 少年は泣きそうな声で懇願した。
 レミーナはそれを意に介することなく、少年の手を引っ張ったまま、掏られた男を呼び止め、巾着が彼のものであることを確認した。
 そして人々の視線が集まっていることを察知して、エーディスに構わず、少年を路地裏に連れ込み、強く肩を押した。少年は壁にぶち当たり、呻き声を上げて地面に転がった。
「乱暴だぞ、レミーナ。まだ子供じゃないか」
 やってきたエーディスが咎めるように言ったが、レミーナは少年を睨み付けたまま淡々と答えた。
「子供でも罪は罪です。この国では、スリは利き腕を落とされるの、あなたも知ってるでしょう?」
 最後の言葉は少年に向けて言ったものだった。少年は素早く立ち上がって駆け出したが、王国一の剣士から逃れられるはずがない。呆気なく足を払われ、再び地面に倒れ込んだ。
 レミーナが剣を抜くと、少年は固く目を閉じて、額を守るように右手を上げた。
「利き腕は右のようね。すぐに済ませてあげるから、腕はそのままにしておきなさい」
 レミーナのよく磨かれた剣身が陽光にぎらりと光る。少年は腕を下ろし、両手を地面についた姿勢で震えながらレミーナを見上げた。大きく見開かれた瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ち、口を開いているが出てくるのは呻き声だけだった。
 いよいよレミーナが手に力を込めたとき、エーディスが静かに言った。
「やめないか、レミーナ」
「ディエル」
 レミーナが鋭い瞳で振り返る。エーディスはその目を真っ向から見据えて、低い声で続けた。
「それだけ脅せば十分だ。それ以上する必要はない」
「いけません。それでは示しがつきません」
 レミーナは断固として譲らない意思を示したが、エーディスは構わず少年の前に片膝をついた。
「もう、反省したか?」
 少年は首が千切れそうなほど、大きく何度も頷いた。
「また繰り返すに決まっています。私が今与えた恐怖なんて、3日も経てば忘れてしまいます」
「かもしれない」
 エーディスは立ち上がり、レミーナを振り返った。それから穏やかな口調で言った。
「だから、今回だけだ。次は、わたしも助けない。君もわかったね?」
 もう一度少年を見下ろし、今度は厳しい眼差しで言った。少年はかすれる声で「はい」と答えた。
 エーディスが手を差し出したが、どうやら少年は腰を抜かしているらしく、座ったまま首を振った。仕方なく、二人は少年をそのままにして通りに戻った。
「ディエルは甘すぎるわ。働く気がある子供なら、始めから働いている。あの子はまた繰り返すわ」
 通りに戻るや否や、レミーナが露骨に不機嫌な顔をした。とにかく正義感が強いのだ。
 エーディスはため息混じりに言った。
「働く環境がないのかもしれない」
「だったらなおさら繰り返すわ」
「じゃあ君は、働く環境のない人は、全員殺すと言うのかい?」
「そ、そうは言わないけど……」
 レミーナは口を噤んで、きまりの悪そうな顔をした。内心では、そういう人間は必要ないと思っていたが、それを王子の前で言うのは憚られる。
 そんなレミーナの気持ちを察して、エーディスは教師のように優しく諭した。
「もちろん、そういう人間が治安を悪くしているのはわかっている。だけど、あからさまに弾圧したら、彼らは団結して抵抗するだろう。やがては排除できるかもしれないけど、被害は計り知れない。それに、今度は今下から2番目にいる層の人々が最下層になるだけで、結局は繰り返すだけだ。続ければ恐怖政治にもなりかねない」
「ディエルは話を大きくしすぎよ。私だって、何も弾圧するとか、そんなことは言ってないわ」
「いずれにせよ、多少のことには目をつむるくらいの融通があってもいいんじゃないのか? 君にそうしろとは言わない。国には君みたいな人も必要だ。だから、君を否定はしないが、わたしはわたしの考えを貫く」
「それは、私にディエルを否定するなって言ってるの?」
 レミーナが唇を尖らせると、エーディスは肩をすくめて見せた。
「そう聞こえたかい?」
 レミーナはもうこの話はやめることにした。主従関係以前に、口では勝てると思えない。
「そういえば……」
 話を変えようと口を開きかけたとき、突然火消しの半鐘が鳴り響いた。
「火事だ! 火事だーっ!」
 怒鳴り声と同時に、行く手で真っ赤な炎が上がる。市民の間に悲鳴が轟いた。
 エーディスが隣を見ると、レミーナはすでに走り出していた。ちらりと首だけで振り返り、目でついて来るよう促す。
「早いなぁ」
 エーディスは一度口元に微笑みを浮かべると、すぐにレミーナの背中を追って走り始めた。

 二人が現場に駆けつけたとき、すでに炎は二軒の隣家も飲み込んでおり、けたたましく鳴り響く鐘の下で、人々が列になって水を運んでいた。
 しかし、明らかに水がかけられる量より火の回りの方が強く、すでにこれ以上被害が広まらないように、まだ燃え移っていない隣家を壊すという話が聞こえてくる。
「ディエル、あなたの魔法でなんとかならないの?」
 レミーナが険しい表情で聞くと、エーディスは苦笑して答えた。
「君は、わたしがまともに使える魔法が一つしかないことをよく知ってるだろ?」
「そうだったわね」
 レミーナは一度申し訳なさそうな顔をすると、悔しそうに親指の爪をかんだ。イライラしているときの彼女の癖だ。
 何もできずに立ち尽くしていると、二人に気が付いた兵士の一人がやってきて敬礼した。
「これは、エー……ディエルさん、レミーナ様!」
 エーディスはゆっくり頷いてから、冷静に尋ねた。
「被害状況と出火原因を」
「被害軒数は見ての通りです。幸いにも死者は出ていません。出火原因は調査中ですが、中に誰もいなかったことから、放火の疑いが持たれています」
「放火!?」
 レミーナが驚いたように声を上げた。放火はスリとは比較にならないほどの重罪である。
「怨恨か何かか? 家主の職業は?」
「調査中です。すいません」
 兵士が頭を下げると、レミーナが早口で指示を出した。
「よし、わかった。あなたはすぐに消火活動に戻って。調査は後よ。原因は逃げない」
「はっ!」
 兵士は再び敬礼し、炎をまとった民家の方へ駆けていった。
「このメイゼリスで白昼堂々放火とはな。いい度胸をしている」
 エーディスが炎を睨み付けると、レミーナが低い声で誓いを立てるように言った。
「犯人は必ず捕まえます。私も、任務に戻っていいですか?」
 レミーナが神妙な顔をすると、エーディスが小さく笑いながら答えた。
「おいおい。怒りはわかるが、今の君の任務は、わたしの護衛だ。君がいなくなったら、誰がわたしを護る?」
「そうでした。申し訳ありません」
 幸いと言うべきか、3軒の民家を取り壊したことで、全焼は5軒で済んだ。死者はなく、消火活動をしていた5人の市民が火傷を負った。
 出火から4時間が過ぎ、今なお炎は上がっていたが、これ以上被害が広がる心配はなくなっていた。周囲は乾燥しているが、この日のメイゼリスは完全な無風状態だったのだ。
 あれから消火を手伝っていた二人だったが、今は幾人かの兵士を従え、調査結果をまとめていた。そして、市民らの目撃証言を統合した結果、どうやら放火したのは一人の魔法使いで、歳は30ほど、赤い髪で片目に眼帯をしていたという。念のため家主に確認したが、面識はないらしい。
 二人はさらに調査するよう兵士たちに言いつけて、城への帰路に着いた。
 現場から数分歩くと、不意に二人を呼び止める声がした。振り返ると、昼に捕まえたスリの少年が立っていた。
「まだいたのか?」
 エーディスが驚いて声を上げた。あれからずっとつけていたのだろうか。消火に必死だったので、まったく気付かなかった。
 レミーナを見ると、彼女も気付いてなかったらしい。もっとも、もしも少年が殺気を放てばすぐにでも気付いただろうから、責めるようなことでもない。
 少年はおどおどしながら頷き、ちらりと上目遣いでエーディスを見上げた。
「あの、助けてくれたお礼を言いたくて……。それから、名前を聞きたくて……」
「礼など要らない。ただの気まぐれだ。わたしは、君の行動を容認したわけではない」
 エーディスが厳しく言い放つと、少年はすくみ上がり、泣きそうな顔になった。
「す、すいません」
「いや……。名前はディエルだ」
 再び柔らかい語調で言うと、少年は大きく首を振った。
「城の兵士たちがぺこぺこしてるのを見たよ。そんな格好してるけど、本当は偉い人なんだろ?」
 エーディスは少し笑った。
「本当は偉いが、名前はディエルだ。君が聞いたことがないなら、それは君が無知だからだ」
 後ろで、レミーナがかすかに表情を綻ばせた。エーディスの名は、こんなみすぼらしい少年でも知っていただろうが、ディエルという仮の名を知っているのは、城の人間くらいである。それで無知扱いされたのだから、さすがに少年が可哀想というものだ。
 少年は恥ずかしそうに顔を赤らめ、俯いたまま続けた。
「あの、それじゃあ、ディエル様。その、僕は、ディエル様に恩返しがしたくて……」
「恩返し?」
 エーディスは不思議そうな顔をした。こんな、スリをしなければ金も稼げない少年が、「偉い人」である自分に、一体何をしてくれるのか。
 レミーナも興味津々の眼差しで少年を見つめた。
 しかし、少年は二人の期待より遥かに大きなお返しを提示してきた。
「兵士の人たちの話が聞こえたんだ。赤い髪で、片目の魔法使いだろ? 僕、その人知ってるよ」
「本当か?」
 エーディスが思わず声を上げると、少年は満足そうに頷いた。自分の情報が役に立つとわかって嬉しくなったのだろう。
「名前は知らないけど、僕の家のある区域に住んでるよ。ひと月くらい前に引っ越してきたんだ」
「ディエル……」
 レミーナが厳粛な面持ちで話しかけ、エーディスは一度腕を組んでから頷いた。
「人数を集めたいが、急がなければ逃げられるかもしれないな。自信は?」
「相手が一人なら」
 レミーナが答えると、少年が不安げな顔をした。
「一人じゃないかもしれない」
「どういうこと?」
「最近、柄の悪い連中が集まってたから。町の酒場にたむろしてるようなヤツらだよ」
「大丈夫。魔法使いが一人ならそれでいい」
 レミーナが力強くそう言うと、エーディスは楽しそうに笑い、少年を促した。
「案内してくれ。詳しい話は道中で聞こう」
「わかりました!」
 元気に少年が返事した。

 少年の話によると、その魔法使いはひと月ほど前、どこからともなくやってきて、貧民窟の空き家に住み始めたという。仕事は不明だが、悪事を働いている様子はなかった。
 素行も悪くなく、貧民窟の人々にも気さくに話しかけてきたらしい。少年も面識があり、何度か話したことがあった。
「ひと月前のあの人なら、放火なんて考えられない。もしやったとしても、僕たちはきっとあの人をかばったと思う」
「何かがあって、態度が変わったのか?」
 エーディスの質問に、少年は難しい顔で頷いた。
 2週間ほど前、少年はたまたま彼の家を銀髪の青年が尋ねるのを見た。後から聞くと、片目の魔法使いはその青年と面識がなく、初対面だったという。青年は魔法使いに石を持ってきた。
「凝力石か? それはこんな色の石じゃなかったか?」
 凝力石とは、魔法を使うのに必要なもので、緑色の美しい石である。エーディスは服の袖をまくって腕を見せた。小さな凝力石の嵌め込まれたブレスレットをしている。
 少年はそれをまじまじと見つめてから、首をひねった。
「緑色は緑色だったけど、こんな綺麗じゃなかったよ。もっと黒ずんでた」
「凝力石にも純度があるのでは?」
 レミーナの質問に、エーディスは首を振った。
「いや、天然の凝力石は必ずこの色をしている。凝力石ではないのかもしれない」
 少年は相槌を打ってから話を続けた。
 魔法使いは石を手にしても、数日はいつも通りだった。ところが、次第に目つきが険しくなり、近寄りがたい雰囲気になっていった。柄の悪い連中が出入りするようになり、やがて人々は彼の家に近付かなくなったという。
「その銀髪の男が黒幕かしら」
 レミーナの呟きに、少年が言った。
「でも、旅人風だったよ。もうこの街にはいないんじゃないかな?」
「とにかく、放火したのはそいつじゃない。今は片目のことだけを考えよう」
 エーディスの言葉に、レミーナは深く頷いた。
 貧民窟に入ると、腐敗臭が漂い、薄汚れた格好の痩せた人々が、遠巻きに二人を窺った。レミーナが睨み付けると、そそくさとどこかへ消えていく。
 改めてここの人間の存在は必要ないと感じたが、少年もいたので黙っていた。
 しばらくすると、一人の少女が血相を変えて走ってきた。少年より背が高く、多少綺麗な服を着ている。だが、顔は少年とはまるで似ておらず、あまり整った顔立ちではなかった。
「あ、あの、その子が何かしたのですか?」
 少女はあからさまに怯えながら甲高い声でそう言って、すがるような眼差しを二人に向けた。
「姉か?」
 レミーナの問いかけに、少年は小さく頷いた。
「歳は上だけど、妹みたいなものだよ。僕が拾ったんだ」
 レミーナは首を傾げたが、先に少女を安心させてやることにした。
「心配するな。別に、この子は何もしていない」
 もちろん、本当はスリをしたのだが、それはエーディスが許したのだから、もう何も言うまい。
 少女はまだ安心しきれないようで、「それじゃあ、一体……」と真相を知りたがった。
 エーディスがやんわりと下がらせた。
「悪いが、先を急ぐ。詳しいことは後からこの子に聞いてくれ」
 少年も「大丈夫だよ」と笑いかけ、少女は何度も振り返りながら去っていった。
 その背中を見つめながら、レミーナが尋ねた。
「拾ったって?」
「そうだよ。3年前にここに捨てられたんだ」
「自分の生活すらままならないのに、よく人助けなんかするわね」
 少し皮肉めいた口調で言うと、少年は自虐的に笑った。
「僕も捨てられたんだ。どうせ捨てられたもの同士、生きていかなくちゃいけないなら、一人より二人の方がいい」
「なるほど」
 感心したようにエーディスが呟くと、それが気に障ったのか、レミーナが皮肉を重ねた。
「それで、あの子もスリをやってるの? 犯罪者姉弟ってわけね」
 突然、少年は足を止めた。そして拳を握り、唇をかみしめて肩を震わせる。
 もちろん、それで罪悪感を抱くほど、レミーナは罪人に寛容ではなく、エーディスも何も言わなかった。
 少年が口を開き、涙声で訴えた。
「僕たちは、いつもスリをしてるわけじゃない。本当にお金がなくなったときだけだ。ここにいる人たちは、犯罪者の集団じゃない!」
「それでも、本当にお金がなくなったらするのでしょ? しかも、ほとんどいつもお金がないのでしょ?」
「死にたくないんだよ! 生きる努力をして何が悪いんだよ!」
「盗人が偉そうな口利かないで。個人を守るために秩序を乱したら、結果として多くのものが失われるわ」
「僕たちが物事をそんなふうに見られると思うの? 文字も読めない僕たちが!」
「思ってないから、法があって、取り締まる私たちがいるんでしょ? 自分の悪事を正当化しないで」
 レミーナはまだ何か言いたそうだったが、エーディスが手で制した。そして項垂れて鼻をすすっている少年の頭を撫でてやりながら、優しい口調で諭す。
「わたしは、君の生きる努力は認めるよ。でも、レミーナの立場も考えてくれ。彼女が君を嫌うのは仕方のないことなんだ」
 少年は少し間を置いてから頷き、かすれる声で言った。
「嫌われるのは慣れてる。ディエル様が優しくしてくれるから、僕は、それだけでいい……」
 少年は真っ赤な目をこすってから、レミーナの方を見ないようにして歩き始めた。
 エーディスはレミーナの隣に立ち、少年に聞こえないように言った。
「もちろんわたしは、君の言い分も認めるよ。でも、あの子の境遇も考えてやれないか?」
「ディエルは、私みたいな人も必要だって言ったでしょ?」
「正しい主張だけして敵を増やす生き方もあるけど、もっと上手に生きることもできるって話さ。もちろん、選ぶのは君だけど、わたしは君にもっと丸くなってほしいんだ。強制じゃない。これは、わたしの希望だよ」
 レミーナは憮然としてから、拗ねたように俯いた。そして、ぽつりと一言だけ言った。
「考えてみます」
 家々の隙間を縫うように歩き、時折崩れた塀をくぐったりして、とうとう少年が足を止めた。辺りはすっかり暗くなっており、少年の指差した家には明かりが灯っていた。
 窓からは多くの笑い声が聞こえる。少年の言ったとおり、魔法使い一人ではないようだ。
 エーディスは近寄って様子を見ることを提案したが、レミーナはそれに反対し、きっぱりと言った。
「踏み込めばいいわ」
「君が強いのは認めるが、相手もわからずに突撃するのはどうかと思うぞ? 勇気と無謀の違いは、隊長の君もよくわかってるだろう」
「この騒ぎだから、どうせ相手は酔っ払いでしょ? 大丈夫よ」
 レミーナはエーディスの制止を無視して、ドアを強く蹴り開けた。どうやら昼からのむしゃくしゃした気持ちを、すべて中にいる人間にぶつけるつもりのようである。
 開いたドアが勢いよく壁にぶち当たり、大きな音がした。中は一室だけで、広い部屋の中には20人ほどの男がいたが、いきなりの来客に驚いて全員が立ち上がった。
 一番奥に眼帯をつけた魔法使いの姿を見つけ、レミーナが鋭い瞳で詰問した。
「昼間の火事はあなたの仕業ね。目撃証言がたくさんあるわ。観念しなさい」
 本当はたくさんもなかったが、自白を促すために敢えてそう言った。魔法使いは隠すことなく、むしろ楽しそうに言った。
「いかにも、俺の仕業だが、観念する気はないな」
 言うが早いか、魔法使いは片手を前に突き出した。手には濃い緑色の石が握られている。恐らく少年の話していたものだろう。
 手が怪しく光り始めるのを見て、いきなりエーディスが両手を開き、手を打った。
 パンッと、まるで思い切り頬を平手打ちした音を百ほど重ねたような鋭く大きな音が鳴り響き、男たちが驚いて身を仰け反らせた。
 その一瞬で十分だった。レミーナは魔法使いとの距離を縮めると同時に剣を抜き放ち、次に瞬きをして目を開けたときにはもう、魔法使いは首から血を迸らせていた。
 エーディスは驚いて立ちすくんでいる少年の手を引くと、表に出て扉を閉めた。
「ディ、ディエル様、さっきのは……?」
 未だに呆然としている少年に、エーディスが笑って答えた。
「わたしの使える、唯一の魔法だよ」
 エーディスは魔力を持っていたが、決して魔法が上手いわけではなかった。そこで、たくさんの魔法を習得するのをあきらめ、大きな音を立てるという、たった一つの魔法を練習し続けた。おかげで、その一つだけはとっさに使えるようになった。5年もかかったが、なかなか役に立つ魔法である。
 扉越しに、男たちの絶叫が響いてきた。どうやらレミーナの言ったとおり、何も心配する必要はないようである。
 エーディスは薄く笑ってから、巾着にいくらかの金を入れて少年に手渡した。
「これは君のだ。持って行け」
 少年はしばらくエーディスの手を見つめていたが、やがて表情を険しくして首を振った。
「気持ちは嬉しいけど、僕は施しは受けたくない」
 エーディスは楽しげに笑った。
「これは施しじゃない。この国では、犯人の情報提供者には恩賞が出るんだよ。国の連中は頭が固いから、それが君みたいな子供だと知ったら、恩賞を出し渋るかもしれない。だから、わたしが渡すんだ」
 その言葉に、少年は顔を綻ばせた。そして嬉しそうに巾着を受け取ると、思わずこぼれ落ちた涙を拭って深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます!」
「いや、礼を言うのはわたしの方だ。君のおかげで助かった。君がいなければ、さらに多くの事件が起きていたかもしれない」
 少年は顔を上げて、恥ずかしそうに笑った。エーディスは満足そうに頷いてから、優しい瞳で言った。
「君は金の使い方を知らないだろう。だから、その通りにするかは君の判断に任せるが、一つ助言をさせてくれ」
「助言、ですか?」
「そうだ。君たちはまずその金で、体の汚れを落として、服を買うんだ。できれば数着がいい。髪はばっさり切れ。さっきの子には櫛を買ってやれ。それから、家ももう少しまともなところに引っ越すんだ。それくらいの金はある。そして、服が汚れる前に、長く続けられる仕事を探せ」
「う、うん……」
 エーディスの言葉に、少年は不安そうに頷いた。金を計画的に使ったことなどないのである。そもそも、エーディスの言う通り、そんな大金を手にしたことがなかった。
 同じ口調でエーディスは続けた。
「金はいつかなくなる。無計画に使えば、あっと言う間になくなる。また同じことを繰り返してレミーナに腕を切られたくなければ、さっさと行動に移すんだな。銀貨は一日ずつ、確実に減っていく」
「わ、わかった。すぐに帰って、あいつと相談する!」
 エーディスはにっこり頷いた。
「レミーナとはウマが合わないんだろ? もういいから行け。元気でな」
 少年は何度も涙を拭い、同じくらい何度も頭を下げてから、闇の中に走って行った。
 エーディスは壁にもたれて空を見上げた。いつの間にか満天の星空が広がっている。
 気が付くと悲鳴も剣戟も聞こえなくなっていた。エーディスは小さく笑った。

「だから言ったろ? 20人に囲まれても平気だって」
 臭いのひどい貧民窟を抜けたところで、エーディスが明るい声で言った。
 20人もの人間と斬り結んだはずのレミーナだったが、傷一つ負っていないどころか、返り血すら浴びていない。
「ディエルを護りながら戦うのと、一人で戦うのとでは違うわ」
 レミーナは唇を尖らせて反論した。隊長とはいえ、まだ17の少女だ。時々子供っぽい顔をする。
「はははっ。まあ、君がとてつもなく強いことに変わりはないよ」
 エーディスが楽しそうにそう言うと、レミーナは満足げに頷いた。努力して身に付けたものを褒められて、嬉しくないはずがない。
 明るい顔のままポケットから石を取り出し、エーディスに手渡した。
「これ、魔法使いが持っていたものよ」
「どれどれ」
 エーディスは石を受け取ると、月の光に透かして見た。
 黒色は均一に混ざっているのではなく、斑だった。黒くない部分は、凝力石と同じ緑色をしている。
「一度溶かして、何かを混ぜてまた固めたのか?」
 エーディスは石を握って目を閉じた。そして魔力を集め始める。
 途端に、今まで感じたこともない強い魔力が石を通じて身体の中に流れ込んでくるのがわかった。風をイメージすると、周囲の空気が音を立て始めた。
 目を開けると、レミーナの髪がなびいていた。魔力を解放し、空に風を放つ。ゴウゥゥンと大きな音がして、魔法の余波に近くの木が大きく揺れた。
「すごい石だ!」
 エーディスは思わず感嘆の声を上げた。音を立てる魔法以外はろくに使えないのだが、今の威力は尋常ではない。
 今度は地面を揺らす魔法を使ってみる。かなりの魔力を要する魔法だが、簡単に発動し、まるで地震のような揺れが生じた。
 レミーナは立っていられなくなり、その場に片膝をついた。近隣の家々の窓が明るくなり、慌てたような声が聞こえてくる。
 エーディスは目を輝かせて石を見た。そして、熱にうなされるように言った。
「これはすごい石だよ、レミーナ。この石があれば、わたしも兄さんたちに負けない、立派な……」
 言い終わらない内に、レミーナがスッと石を取り上げ、それを近くの大きな石の上に置いた。そして剣を抜くと、声を上げるエーディスの目の前で、その石を粉砕した。
「ああ、レミーナ! 何を!」
 批難の声を上げたエーディスを冷ややかな目で見つめ、レミーナが淡々と言った。
「私に、あなたを斬らせないで」
 レミーナは踵を返して、城に向かって歩き出した。
 エーディスはしばらく呆然とその背中を見つめていたが、やがて我に返って慌ててレミーナを追いかけた。
「ま、待ってくれ、レミーナ。さっきのは本心じゃないんだ」
「いいえ。見損なったわ、ディエル。あなたがまさか嫉妬していたなんて」
「違うんだ! 嫉妬なんてしてないよ。わたしは兄さんたちを尊敬している!」
「どうだか」
 レミーナはぷいっとそっぽを向き、澄ました顔で大股に歩いた。かなりの速さだ。
「本当なんだ! レミーナ、待ってくれよ!」
 泣きそうな声を上げながら、エーディスが追いかける。
 レミーナは後ろで喚いている王子の声を聞きながら、少しだけ頬を緩めた。
 先ほどの地震のせいか、夜だというのに外に人が集まっていた。
 エーディスはそんな人々の慌てる声を聞きながら、必死で駆け続けた。
Fin