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湖底の冒険

 シティアは焦り始めていた。
 ここ数ヶ月、随分素行も良くなり、職務も放棄しなくなったものの、本来の自由奔放な性格を抑えられず、時々城を抜け出しては、西方に広がる森に弓を担いでやってくる。
 例年より寒い冬が過ぎ去って、ようやく暖かくなり始めた早春のある日、シティアは若い兵士二人を供に連れて、久しぶりに森を散策していた。
 この森はシティアにとって庭のようなものだったが、それでもすべてを知り尽くしているわけではない。猪に似た珍しい動物がひょっこり顔を出し、供の一人が向きになって追いかけた結果、獲物と引き換え失ったものは帰り道だった。
 これが半日前のこと。辺りはすっかり暗くなり、これ以上歩けばますます迷うどころか、危険さえ伴ってくるという状況になって、シティアはとうとう声を荒げた。
「あー、もう! クレイド! どうしてくれるのよ!」
 シティアが睨み付けたのは、背の高い短髪の若者だった。シティアよりも3つ年上で、今年で20になるが、童顔で歳よりも若く見える。
 クレイドは主人に怒鳴られてもまるで気にした様子もなく、両手を頭の後ろで組んで軽く口笛を吹いた。
「俺を止めなかった王女も同罪です。八つ当たりはよくないですよ」
「いいえ、上の失敗は下の責任よ」
 平然と言い放つと、クレイドが目を丸くして高い声を上げた。
「普通、逆でしょ!?」
 シティアは無視した。
 春とは言え夜はまだまだ冷え込んだ。シティアは一度身震いすると、マントでしっかりと身体を包み込んで空を見上げた。
 木々の隙間から見えるのはかすかに青さを残した黒い空で、明るい星がいくつか瞬いている。
「今日はここらで野宿しますか? ここは平らですし、地面も乾いてますし、いたせりつくせりってヤツですよ。食糧もあります」
 クレイドがそう言いながら、苦心の末に獲った獲物を見せると、シティアはそれを半眼で睨み付けた。
「それ、食べれるの?」
「まず王女が食べて、10分経ってから俺も食べます」
 飄々とそう言ったクレイドに、シティアが先ほどの言葉を返した。
「普通、逆でしょ?」
 辺りがしんと静まり返ると、夜の森の不気味さが三人にのしかかってきた。もちろん、シティアがそれで臆すことはなかったが、クレイドはなんとも不安げな眼差しで木々の緑を見つめている。べらべら喋っていたのも、そんな不安を覆い隠すためだろう。
「で、どうしますか?」
 先ほどまで黙っていたもう一人が、低い声で聞いた。レドリという名で、20人ほどの小隊の隊長である。まだ22という若年だが、剣の腕が立ち、忠誠心も厚く、真面目だが融通も利く。シティアも気に入っている一人だった。
「半日歩いて見つからなかったんだから、後少し歩いて道が見つかる可能性は低いわね。しょうがない。今ごろお城で、私がクレイドに誘拐されたんじゃないかって大事になってるかも知れないけど、今日はここで野宿しましょう」
「それを言うなら駆け落ちでしょ? 俺ごときに誘拐される王女でもないでしょうに」
 クレイドが楽しそうにそう言いながら、手早く準備に取りかかった。
 準備といっても、薪になる木を集めるくらいで、しかもそれはそれほど手間のかかる作業ではなかった。
「なんだか楽しそうね」
 明るく燃え始めた真っ赤な火を見つめながらシティアが言うと、クレイドは火よりも明るい瞳で笑った。
「それはもう! 美人の王女と野宿ですから。天にも舞い上がりそうな気持ちです!」
 レドリが呆れたようにため息をつき、シティアも小さく首を横に振った。
「そのまま天に送り出してあげるわ」
 不気味な森での野宿とは言え、やはり明るい火を前に暖を取ると、人は心が落ち着くものである。クレイドが楽しそうなのも半分はそのせいで、シティアは先ほどまで彼が内心で怯えていたのを知っていたから、品のない冗談も笑い飛ばすだけで済ませてやった。
 獲物の調理はレドリが申し出たが、シティアが手際よくさばいた。その代わり、毒見はクレイドとのジャンケンの結果、レドリが担当することになった。
「どう?」
 切った肉片の口に運んだレドリを、シティアが露骨に不安げな眼差しで見上げた。
 レドリは肉を飲み込んでから、困ったように言った。
「その、こちらが不安になるほど怯えた顔をされるのは、わざとですか?」
 シティアは慌てて手を振ってにっこり笑ったが、その仕草がぎこちなかったので、どうやらわざとではなかったことが見て取れた。レドリは表情を改めて答えた。
「人間、腹が減ると何でも美味いって言いますが、これはそれに当てはまりませんね。死ぬことはなさそうですが」
 シティアにとって重要だったのは、付け足すように言った最後の言葉だったので、安心して肉を取った。
「香辛料もないし、それに肉食動物の肉は美味しくないって言うわ。味は元々期待してない」
「じゃあ、きっと人間も不味いですね」
 クレイドが顔をしかめながら、臭みのある肉を頬張る。
 シティアもその肉をかけらも美味いとは思わなかったが、表情には出さずに飲み込んだ。
 食事が終わると、急速に眠気が襲ってきた。シティアは靴を脱いで鎧を外すと、マントにくるまって横になった。そして頭上に広がる枝葉の一点を指差して、眠そうな声で言った。
「クレイド。あそこの隙間から空が見えるでしょ?」
「ええ、見えますね」
「月があの隙間に入ったら起こして。火の番を交代するわ」
 そう言って、シティアは目をつむった。レドリは静かに苦笑していたが、もちろんクレイドは声に出した。
「王女。月があの隙間に入らなかったらどうするんですか?」
「その時は、レドリと二人で火の番ね」
 目を閉じたまま、元々火の番などする気のなかったシティアが答えた。
 クレイドはレドリと目を合わせて、肩をすくめておどけて見せた。

 その夜は、生憎平穏な夜にはならなかった。
 木々の隙間に月は見えなかったが、どうやらシティアを起こさなければならない気配を感じて、レドリは傍らの剣を手元に寄せた。クレイドがシティアを起こそうと手を伸ばしたが、剣の達人はそれより先に目を覚ましていた。
「なんだか、不吉な感じね」
「さすがです、王女」
 珍しくクレイドが真面目な声を出した。冗談を言っていられる状況ではない。狼か何か、正体はわからないが、かなり多くの動物が三人を取り囲んで敵意を剥き出しにしている。
 シティアはそっと立ち上がると、素早く鎧を装着した。木々の合間から無数の目が光って、唸り声とともに飛び出してきた。
「逃げるわよ!」
 シティアは真っ向から向かっていき、大声を上げながらレイピアを獣の顔に突き立てた。クレイドは身を翻して攻撃を躱し、レドリが大剣で斬り付ける。
 三人は闇の中を疾走した。獣は仲間を殺されてもひるむことなく、執拗に三人を追いかけてきたが、やがて彼らの縄張りを出たのか、ぴたりと攻撃してこなくなった。
 クレイドがぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら、額の汗を拭った。
「逃げ切ったのか?」
 抜き身の剣を手にしていたが、血は付着していない。逃げ回っていただけで、攻撃はしていないのだ。
 逆に、襲いかかってくる獣を律儀に相手していたレドリは、もはや喋る元気もないようだが、シティアの手前、気丈に立って無理に微笑んでいる。
 一人だけ何事もなかったように立っていたシティアが、首を傾げながらスッと手を上げて、森の中の一点を指差した。
「お疲れのところ悪いんだけど、あれ、何かしら」
「どれ?」
 もはや友達と話すようなノリで、クレイドがシティアの隣に立って指差す方向に目を向ける。そして、息を飲んで厳しい表情をした。
 レドリは立っているのが精一杯で、話の展開について来ていなかったが、二人が黙り込んだので、ようやく二人の見つめるそれを見た。
「何か、洞窟みたいですが……」
 シティアの指差す先にあったのは、こんもりと盛り上がった土に、斜め下に向かってぽっかりと口を空けた穴だった。
 ただの洞穴ではない。その周囲は石で補強されていたし、近くには無数の板が転がっていた。恐らく、蓋か屋根だったものだ。
 近付いて見ると、洞窟の床は階段だった形跡があり、入り口は狭いが、中に行くにつれて広くなっている。
「降りてみませんか?」
 クレイドが好奇心を剥き出しにして言った。森の中を歩くのですら怖がっていた彼らしくない発言だったが、こんな神秘的なものが出てきたら、誰でも心が疼くものだ。振り返ると、レドリもわくわくした顔つきをしている。
 シティアは手近の石を穴の中に放り込んだ。石は小さな音を立てて転がっていったが、数メートル先で音を消した。
 今度は松明に火をつけて穴の中にかざす。しかし、随分先まで続いているのが確認できただけで、それ以上のことはわからなかった。
 シティアはしばらく考えた後で、小さく首を振った。
「今は、やめましょう。探検するには準備が足りないわ」
 クレイドは露骨にがっかりしたが、何も言わずに従った。こういう時は熟練者の判断に従うのがよい。実際、食糧も水も不足しているし、ロープもなければ、松明も少ない。それでも、この状況で好奇心を抑えて冷静に判断できるのは大切なことである。もしもクレイド一人だったら、少しだけでも降りていただろう。
 いや、クレイド一人なら、恐怖が好奇心を上回ったかもしれない。怖がりな彼が、こんな不気味な穴を前に平気でいられるのも、すべてシティアのような心強い味方がいるからだった。
 レドリも残念そうにしていたが、半分はほっとした様子だった。中に入ってしまえば一緒とは言え、せめて今が昼だったらもう少し違った反応をしたかも知れない。夜の森は、人を不安たらしめる要素に満ちていた。
「目印を付けておいて、戻って来られるようにしましょう。今日はここで朝を待ちましょう」
 シティアの言葉に、レドリが穴を見つめたまま言った。
「半日歩いて道さえ見つけられなかったわたしたちが、ここに戻って来られるでしょうか」
「わからない」
 シティアもじっと穴を見つめて答えた。
「でも、戻ってきたいわね。ウィサンの周りに、こんな魅力的なものがあるなんて知らなかった。もし見つからなかったら、きっと探し続けちゃうだろうから、すんなり見つかってほしい」
 その言葉に、クレイドが苦笑した。
 三人は輪になって座り、少しだけ仮眠を取った。
 やがて空が白み始め、森にうっすらと靄がかかる。一番早く目を覚ましたシティアが見ると、洞窟は昨夜と変わらずそこにあり、不気味に口を空けて、まるでシティアを待っているかのようだった。
 シティアは口の端で小さく笑ってから、供の二人を叩き起こした。
 木々の隙間から眩しい光が射し込んできた。

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