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夕陽
 僕は毎日夕方になると、決まってこの川原にやってくる。
 澄み切った小川の微かなせせらぎを、心地よく耳で聞きながら、西の空を真っ赤に染める大きな夕陽を眺めていると、僕は胸に心を感じる。
 少しずつ空が朱に染まり出し、やがて山の稜線に、夕陽の落ちるその瞬間までが、僕が僕である時間。
 それを過ぎると、僕は闇の中から闇に還る。
 そうして僕は一日を終える。いや、そのまま僕を終えるのかもしれない。

 今からおよそ1年半前、僕はまだ高校3年生で、ただ偏差値が高いからという理由で、家から少し離れたところにある大学を受験した。
 残念ながら僕は実力を発揮して、敢えなくその大学に落ちてしまった。
 それから春、僕は地元の有名進学塾に入塾した。
 浪人生を半年ほどやったある早秋の夕方、僕は何となく、することなしにこの川原を歩いていた。
 そよ風に揺れる草の上に腰を降ろして、僕は自分を振り返った。
 塾に入ってからの僕は、日々勉強に明け暮れていた。
 特別な趣味も友人も持たず、理由もなしに、また去年と同じ大学のボーダーラインに僕の数値を合わせるために、ノートと参考書を自分の部屋に高く積み上げた。
 その大学に何があるのかも、どういうところなのかも知らず、考えもせず、大学に入った後のことを悩まず、まるでそれが人生の到達点であるかのように、身をすり減らして勉強した。
 ふと、僕は体に柔らかな光を感じて顔を上げた。
 川の向こうに広がる機械仕掛けの大きなおもちゃ箱の、遙か向こうに連なる山の稜線から、空を真っ赤に染め上げる大きな夕陽が僕に光を注いでいた。
 つい先程まで、青く澄み渡っていた空は紅く、高みはすでに薄暗い。
 僕が心を取り戻してその夕陽に見入っていると、刻一刻と夕陽は沈み、もはや完全に闇と化した空には小さな星が瞬いていた。
 陽が完全に沈んでも、僕はしばらくそこを動かなかった。

 それから1年の月日が過ぎ去った。
 二度目の大学受験も失敗し、僕は生きるためにアルバイトを始めた。
 朝も昼もロボットのように走り回って、夕方になると僕は疲れ切った体を引きずってこの川原にやってくる。
 そして夕陽を見て、力を授かる。
 夕陽は一日として同じ姿をとることはない。
 時には雄々しく、時には弱く、時には雲に姿を隠し、空を紅く、あるときはオレンジ色に、あるときは紫に染め、僕に光を投げかける。
 僕は太陽の機嫌の悪い日を除いて、毎日ここへやってきた。

 その日は一日中雲の多い日だった。
 アルバイトを終え、いつものように川原にやってくると、その日は珍しく先客が来ていた。
 長い黒髪の、まだ高校生くらいの女性だった。
 僕はゆっくりと近付いていき、その人に話しかけた。
「何をしてるんですか?」
 その人はゆっくりと僕を振り返って、思っていたより低い大人びた声でこう言った。
「夕陽を眺めに来たのです」
「それじゃあ、僕と同じだ」
 僕は挨拶も忘れて、その人の隣に腰を降ろした。
 その人は何も言わずに、再び遙か山の上にかかる真っ赤な雲に目を遣った。
 そして夕陽の沈むまで、僕とその人はそうして座っていた。
 やがて、完全に景色が闇に包まれると、その人が僕の方を向いてこう言った。
「今日の夕陽はどうでしたか?」
「昨日よりは、なんだか力強かったよ」
 僕は思ったままのことを口にした。
「そうですか……」
 その人は無感情にそう呟くと、ゆっくりと腰を上げた。
 そして僕の方を向いて、
「また、明日も来ます。晴れていたら……」
 そう言って帰っていった。
 しばらくしてから僕も帰路についた。

 その翌日、約束通り彼女はやってきた。
 この日はアルバイトが午前中しかなかったので、僕の方が先に来ていた。
「こんにちは」
 と、僕が言うと、
「こんにちは」
 彼女はそう返事して、僕の隣に腰を降ろした。
 この日は雲一つない快晴で、久しぶりに大きくて綺麗な夕陽が見られた。
 僕はそんな夕陽を眺めながら、気分が高揚している自分に気が付いた。
 やがて陽が落ちた後、彼女が僕の方を見てこう言った。
「今日の夕陽はいつもと比べてどうでしたか?」
「うん。なんだか、すごくドキドキした。こんな夕陽は初めてだったよ」
「そうですか……」
 そう呟いてから、彼女は立ち上がり、
「私には夕陽はいつも同じに見えます。明日もまた来ます。晴れていれば」
 と、僕を見下ろして言った後、堤防を駆けていった。
 その後で、僕は夕闇に包まれた川の流れに目を遣りながら、ふとあることに気が付いた。
「彼女は、僕がいつもここで夕陽を見ていることを知っていた」
 彼女は僕と同じように、毎日ここから夕陽を見ていたのだ。
 僕は妙な胸の高鳴りを覚えた。

 次の日から、彼女は僕に色々なことを話すようになった。
 自分が短大生であるということ。大学であったこと。アルバイトのこと。家族のこと。
 昨日見たテレビのこと、街であったこと、今日の夕食のメニュー、彼女はそんなとりとめもない話を、おもしろそうにでもなく、かと言ってつまらなさそうにでもなく、ただ淡々と僕に語った。
 僕はそれらを何も言わずに聞いていた。
 つまらなくはなかったが、おもしろいとも思わなかった。聞きたくないわけではなかったが、自分から尋ねるほど聞きたいとも思わなかった。
 彼女と会うことで僕は何も変わりはしなかったが、夕陽は前よりも綺麗に輝くようになった。
 けれども僕がそう言うと、彼女は決まってこう言った。
「私には、夕陽はいつも同じに見えます」
 そして彼女は帰っていった。

 そんな日が数ヶ月続いて、次第に僕も彼女に色々なことを話すようになった。
 大学受験に失敗したこと、アルバイトのこと、そして、毎日違う顔を持つ夕陽のこと。
 僕もやはりそれらのことを無感情に淡々と語ったが、彼女は次第に表情を崩し、ある日彼女は初めて僕の前で笑顔を零した。
 そしてその日、彼女は夕陽が沈んだ後、柔らかい声でこう言った。
「今日の夕陽はいつもと違いました。とても嬉しそうでした」
 彼女は僕に何も聞かなかったが、この日は僕も夕陽を今までで一番綺麗だと感じた。
 山脈と空の際がまだ少しだけ明るかった。
 もう少しだけ、僕と彼女は一緒に川原に座っていた。

 冬が過ぎて、もうじき春が訪れようとしていた。
 僕はいつものように川原にやってきた。
 今日は少しだけ早く来たので、彼女はまだ来ていなかった。
 あの日から僕と彼女は毎日ここで、二人で一緒に夕陽を眺めた。僕と彼女の関係は決してそれ以上にはならなかったが、僕はそれでも満足だった。
 彼女と一緒に夕陽を見ていると、胸がドキドキした。夕陽も、最近はとても綺麗になった。
 僕はドキドキしながら彼女を待っていた。
 やがて、小さな草を踏む音とともに彼女はやってきて、僕の隣に腰を降ろした。
 彼女は僕の方を見ようとはせず、強ばった表情で彼方の空を眺めていた。
 空が少しずつ暗くなってきて、西日が僕と彼女の影を長く地面に伸ばした頃、小さな声で彼女がこう言った。
「私、今度遠くへ就職することになりました」
「えっ?」
 僕は突然のことに、目を大きく見開いて彼女を見た。
 彼女はわずかに湿った瞳に夕陽を映して、言葉を続けた。
「なかなか言い出せなくてごめんなさい。ここにこうして来られるのも、今日で最後です」
「そう……」
 僕はしんみりと呟いた。
 ふと顔を上げると、夕陽がぼやけて見えた。とても悲しそうだった。
「遠くの地で、君は人でいられるかい?」
 おもむろに僕は問うた。
「わかりません」
 彼女は小さく首を振った。
「けれど、夕陽はここでなくても見ることができます。もしかしたら、人でいられるかもしれません」
「でも、ここの夕陽が一番綺麗だ。そして、一番色んな顔を持っている」
 それから彼女は何も言わずに静かに立ち上がった。
 夕陽はまだ赤々と、山の頭上で眩しいほどに輝いていた。
 ゆっくりとした口調で、彼女が僕にこう聞いた。
「今日の夕陽はいつもと比べてどうですか?」
 僕はその質問を受けて、もう一度夕陽を見つめた。
 大きな赤い夕陽の前を、細い雲が幾筋かたゆたっていた。
 山は黒く夕陽に焦がされ、ちっぼけな生き物たちの住処は赤く赤く燃えていた。
 夕陽は目に見えるほど速く山の彼方に沈んでいって、もうその身体を半分ほど山の陰に隠していた。
 沈んで欲しくない。
 僕は心の底からそう思った。
 途端に涙が溢れて、世界がぼやけた。
「今日の夕陽はとても悲しそうで、そして寂しそうだ」
 僕は涙を拭うことなく、彼女に向かってそう言った。
 彼女はそんな僕を見て、にっこりと優しく微笑んだ。
「ありがとう」
 そして彼女はもう一度夕陽に目を遣って、無感情な声でこう言った。
「やっぱり私には夕陽はいつも同じに見えます。そして、夕陽はどこで見ても同じだと思います」
 彼女は僕の方を振り向いて、ゆっくりと歩き出した。そして僕の横を通り過ぎたとき、小さな声でこう言った。
「いつかまたここに来ます。遠くの土地で、寂しそうな夕陽を見たとき……」
 彼女は二度と振り返らなかった。
 僕はすっかり暗くなった川原に、一人でたたずんでいた。
 そしてもう一度涙を零した。
 それから僕は、ようやくそれに気が付いた。
 そう。「夕陽はいつも同じなのだ」と……。
Fin