|
−裏表紙より− アメリカの町で母と二人ひっそりと暮らしていたセドリックは、 ある日突然、祖父のドリンコート伯爵に後継ぎとしてイギリスに迎えられる。 人を信じて疑うことを知らない無邪気な少年はすべての人から愛され、 冷酷で片意地な老伯爵の心も次第にとけていく。 そんな時、正統の後継ぎだと主張する別の母子が現れて……。 幾世代にもわたって世界中の少年少女に読み継がれている名作。 |
第一章 思いがけない話 |
セドリックの父親セドリック・エロルは、イギリスのドリンコート伯爵の三男だった。エロル大尉は美しい顔立ちをしており、賢く、勇気もあって、伯爵はこの息子を愛していた。ところが、法律では貴族の位や財産は、年上の兄弟から順に相続することになっており、伯爵の財産の相続権は、まずは長男、それから次男が持っていた。ところがこの二人の息子は、エロル大尉と比べると頭も悪く、金と時間を無駄に使い、将来ろくな男になる見込みがなかった。 伯爵はこれを悲しみ、時にはエロル大尉を憎らしく思うことさえあった。そこで伯爵は、エロルをアメリカにやることで、いっそエロルが兄たち同様、ろくでもない男になってはくれまいかと考えた。伯爵はアメリカをひどく嫌っていたのである。ところが、半年も経つと伯爵はすぐに寂しくなり、エロルに帰国するよう手紙を出した。しかし、その時エロルはアメリカの娘と結婚しようとしており、それを知った伯爵は激怒して、エロルを勘当してしまったのである。 エロルの愛した娘は、孤児で、ある金持ちの婦人の付き添いとして暮らしていたのだが、とても綺麗で、優しい心の持ち主だった。二人の間に生まれた子供セドリックは、やはり美しい容姿をしており、また体も丈夫だった。さらに人を疑うことを知らず、言動には愛嬌があって、誰からも好かれる子供だった。心優しい性格は親譲りで、父親のエロルが死んでしまった後、心を傷めたエロル夫人を、子供らしい無邪気な気持ちで慰めた。母親もこの息子を愛しており、誰よりも可愛がった。 セドリックにはたくさんの友達があったが、一番の友達は食料品屋の亭主だった。ホッブス氏は人付き合いが悪いと評判だったが、セドリックとはウマが合い、よく政治の話や独立戦争の話を議論した。ホッブス氏はイギリスをとても悪く思っており、また侯爵や伯爵といった類の人間を毛嫌いしていた。その日も、ちょうどセドリックはホッブス氏が侯爵や伯爵の悪口を言っているのを聞いていたのだが、そこへエロル夫人の女中であるメアリが興奮した様子で現れ、セドリックにすぐに家に帰るよう言った。 セドリックが家に帰ると、玄関に馬車が停まっており、客間でエロル夫人が誰かと話をしていた。中に入るとあおい顔をしたエロル夫人が、「おお、セドリックや! かわいいセドリックや!」と叫び、セドリックを両腕で抱きしめた。エロル夫人と話をしていたのは背の高い老紳士で、セドリックを見るとゆっくりとこう言った。「すると、この方がフォントルロイ卿というわけでございますな」セドリックが7歳の時だった。 |
第二章 セドリックの友だち |
老紳士はセドリックの祖父ドリンコート伯爵家の顧問弁護士で、名前をハヴィシャムと言った。ハヴィシャムの話では、ドリンコート伯爵の長男が馬から落ちて死に、次男もローマで熱病にかかって死んでしまったため、伯爵の後継ぎが幼いセドリックになったと言う。そして、当面はセドリックはフォントルロイ卿と呼ばれることになった。 セドリックはホッブスの話を聞いていたし、友達と離れ離れになるのが嫌だったので、伯爵になどなりたくないと思ったが、母親に、きっと父親もそれを望んでいるだろうと言われ、イギリスのドリンコート伯爵のもとへ行くことを決意する。そしてホッブスの店に行ってそのことを話すと、ホッブスは大層驚き、初めは信じようとしなかったが、終いには二人でこれからのことをじっくり話し合った。 さて、ハヴィシャムは初め、ドリンコート伯爵と同じで、アメリカ人に対してあまり好意を持っていなかった。高貴な家柄に対して誇りも持っていたので、下賎で貪欲と思われる婦人と話すのを嫌がっていたのだが、エロル夫人と対面した時、その考えは一瞬にして消え失せた。エロル夫人はとても綺麗であったし、また決して金銭目当てにエロル大尉に近付いたわけでもないとすぐにわかった。 エロル夫人は、ハヴィシャムの話を聞いても、決して取り乱すことはなかった。ドリンコート伯爵が夫人を嫌っていることは夫人も知っており、二人が離れ離れに暮らさなければならないということには大層悲しんだが、それでもエロル大尉の意思を尊重して、決然としてイギリス行きを決意する。また、夫人は自分のことではなく、ただ一心にセドリックのことだけを考え、そのひたむきさがハヴィシャムにさらなる好感を抱かせた。 ハヴィシャムはまた、セドリックにも大変な興味を抱いた。セドリックはおおよそハヴィシャムの知っているような子供らしくなく、容姿端麗で、物怖じせず、かと言って差し出がましいところもなかった。また、良い部分で子供っぽさも残っており、しかも他人に対する思い遣りがあることもわかった。ハヴィシャムはセドリックの行動を見たり、実際に話している内に、この少年のことを好きになっていた。 ハヴィシャムはセドリックに「伯爵」というものについて教えた。そして、セドリックが金持ちになるということを話すと、セドリックは「お金は、あればいいものですね」と無邪気に言った。ハヴィシャムが重ねて尋ねると、セドリックは金の使い道を語った。それは、骨の痛む林檎売りの老婆にストーブやショールを買ってやったり、12人も子供があって大変貧乏なメアリの妹のブリジェットを助けてやったり、友達の靴みがきのディックにすごい看板を作ってやりたいというものだった。 ハヴィシャムはドリンコート伯爵から、セドリックに欲しい物はなんでも買ってやり、自分がどれだけの力を持っているか見せ付けろと言われていた。それを実に柔らかい言葉に変換して、セドリックに、ドリンコート伯爵が、もしも孫が誰かを助けたがったら、お金をやってもいいと言っていたと言い、ブリジェットのために5ポンド用意した。セドリックは大いに喜んで、その5ポンドをブリジェットに差し出した。そして、ブリジェットの喜びようを見て、伯爵になるのも悪くないと思った。 ところで、ドリンコート伯爵は、長い間自分以外には誰も愛したことがなく、誰にも愛されていなかった。傲慢で気が短く、他人のことなどどうとも考えていなかった。そのドリンコート伯爵は、ハヴィシャムに、孫が最初にかなえてもらった望みを報告するよう言っていた。ハヴィシャムはそんな伯爵を思い浮かべながら、セドリックが貧乏な一家が高い薬や温かい服や、滋養のある食べ物を買えるよう金を与えたことを知ったらどう思うだろうかと考えた。 |
第三章 故国を後に |
しばらくすると、セドリックは、だんだん自分の望むことがみんなかなえられるということがわかってきた。そこで、セドリックは次々と自分の望みをかなえ始めたが、それがまた単純で、しかも大層喜ぶので、ハヴィシャムはとても面白く思った。 セドリックは宣言通り林檎売りの老婆にストーブやショールを買い、恐らく老婆には途方もないと思われる金額を渡した。また、靴みがきのディックにも、素晴らしい看板や新しいブラシを買ってやった。ディックはホッブスと同じように驚いたが、ようやくセドリックが本当の貴族なのだとわかると、深く感謝し、別れを悲しんだ。 出発までの時間は、なるべくホッブスの店に行き、ホッブスには金時計を買って渡した。箱には、『旧友、フォントルロイ卿より、ホッブス氏へ。これを見るとき、われを思い出したまえ』と書いてあった。二人は互いに決して忘れないことを誓い合い、ホッブスはもしもセドリックが伯爵になったとしても、きっと会いに行くと約束した。 いよいよ出発の日、ディックがセドリックのもとに駆けつけ、商売が上手くいっていることを伝えた。そして真っ赤な絹のハンカチをプレゼントする。セドリックは船の上から身を乗り出して、「さよなら、ディック! ありがとう! さようなら、ディック!」と、ハンカチを振りながら何度も叫んだ。 |
第四章 イギリスにて |
イギリスへの船上で、セドリックは初めてイギリスでは母親と一緒に暮らせないことを聞かされ、愕然となる。しかし、その屋敷は近く、セドリックからは自由に会いに行ってよいと言われて、少しだけ気分が回復した。何故一緒に暮らせないのか、エロル夫人は息子に話さなかったし、セドリックも、もっと大きくなれば話してくれるのだろうと思って、何も聞かなかった。ただ、母親と一緒にいられないのは辛いけれど、我慢しなければならないと、自分に言い聞かせるようにハヴィシャムに言い、その時にセドリックは、自分が祖父のことを好いていることと、祖父も自分のことを好きだろうと話した。 ハヴィシャムの案内でエロル夫人が住むことになるコート・ロッジにやってくると、先にやってきていたメアリと合流する。その晩はセドリックはコート・ロッジに泊まり、ドリンコート城へは翌日行くことになった。エロル夫人はハヴィシャムに、もう一度セドリックと別れることの辛さを語ってから、伯爵が夫人のために用意した年金を受け取らないことを伝えた。ハヴィシャムは驚いたが、エロル夫人はセドリックを金で売るようなことはしたくなかったし、自分のことを憎んでいる者から金をもらって贅沢はできないと言った。 その晩、ハヴィシャムはドリンコート伯爵と会い、夫人とセドリックが到着したことを伝えた。ハヴィシャムはセドリックがどのような子供かを尋ねたが、アメリカの子供はすべて礼儀を知らぬ乞食だと決め付けていた。ハヴィシャムがそれを否定し、大人びたところもあることを伝えると、今度は、それはアメリカ人の無作法で、アメリカ人はそれを早熟とか自由と言うのだと言った。 また、夫人が年金を受け取らないことを伝えると、伯爵は怒って、それは自分に面会させようという手管だの、アメリカ人の独立心だの怒鳴り立てる。それを受けてハヴィシャムは、夫人はただ子供のことを願っているのであり、夫人は自分が伯爵に嫌われていることを話していないし、セドリックは伯爵を寛大な人格者であると思っていることを伝え、セドリックの前ではエロル夫人のことは悪く言わない方が上手くいくだろうと言った。 |
第五章 ドリンコート城にて |
翌日の夕方、セドリックはハヴィシャムの馬車でドリンコート城にやってきた。ドリンコート城はとても大きく、美しく、セドリックは見るものすべてに心を奪われて、「王さまの宮殿を思いだしますね」と嬉しそうに言った。セドリックは家事取締のメロン夫人と対面し、すぐにこの夫人を好きになった。セドリックも城の者たちに良い印象を与えた。 伯爵は、部屋にはセドリック一人で来るよう言っていた。失望するのがわかっていたので、そんな失望する自分を誰にも見せたくなかったのである。セドリックは部屋に入ると、ライオンほどもあるドゥガルという名前の犬と仲良くなった。伯爵は、まったく恐れることなく犬に近付いていった孫の勇ましさに好感を持った。 セドリックは、伯爵もまた物怖じせずに見上げ、屈託のない様子で挨拶しながら手を差し出した。伯爵はセドリックの美しい容姿や、目も逸らさずに自分を見上げる様子に度肝を抜かれて、不思議そうな顔をして手を握った。セドリックは祖父のことが好きで、親族ならそれが当たり前だと言って驚かせた。伯爵は親族と親しくしたことなどなかったし、親族もまた伯爵を憎んでいたのだ。また、セドリックは祖父を親切だと言い、伯爵はそれは何故かと尋ねた。セドリックは祖父がブリジェットやディックのために金をくれたと思い込んでおり、嬉々としてその話をした。 食事の時間になると、セドリックは足の悪い祖父のために肩を貸した。それは子供にはとても辛い仕事だったが、セドリックは弱音を吐かずにやり遂げたばかりか、その最中も祖父のことを気遣うような話をしていた。伯爵はセドリックの我慢強さやその心根に感銘を受けた。食事中、祖父はなるべくセドリックに話をさせ、セドリックの話に周りにいた従者は笑いを堪えるのに必死だった。 部屋で、また二人になると、セドリックは母親の話をした。一度話が途切れると、セドリックはそのまま眠ってしまい、やってきたハヴィシャムに、伯爵はセドリックを起こさないよう、「静かに」というように手を上げた。 |
第六章 伯爵と孫 |
朝、セドリックは見知らぬ部屋で目を覚ました。部屋にはメロン夫人と、セドリックの世話をするドウソンという婦人がおり、セドリックはすぐにこのドウソンも好きになった。食事の後、セドリックはドウソンに案内されて、玩具のたくさん置いてある部屋にやってきた。それらはすべて伯爵が孫のために用意したものだったが、伯爵はハヴィシャムにこう言っていた。「なんでも好き勝手にやらせて、部屋は玩具でいっぱいにしてやれ。喜びそうなものをあてがっておけば、母親のことなんか、すぐ忘れてしまうだろう」 ところが、セドリックは、それをすべて伯爵の親切だと解釈し、礼を言いに祖父のところへ駆けていった。さらに、中に野球のゲームがあったことを言い、それやろうと提案する。伯爵は、まさか自分が子供の遊び相手になるなど考えたこともなかったが、いざ始めてみると熱中している自分に気が付いた。 その時、モードント牧師が尋ねてきた。牧師はドリンコート城を訪れるほど嫌な仕事はなかった。と言うのは、伯爵は教会や慈善というものをひどく嫌っており、いつもさんざん文句を言い、怒鳴り散らした後、わずかな金を出すのだった。ところがこの日、伯爵は子供とゲームをしており、牧師は目を疑った。機嫌も悪くなく、嬉しそうに自分の孫を紹介し、セドリックも牧師に挨拶をした。牧師はすぐにこの子供を好きになった。 牧師の話は、小作人のヒンギスの件だった。ヒンギスは貧しく、小作料も払えずにいた。そこで、伯爵の小作管理人のニュウイックに、小作料を払えないならば立ち退けと言われているらしい。伯爵はあまり乗り気ではなかったが、話を聞いたセドリックが、「マイケルもそれと同じでしたよ」と言い、ヒンギスを助けたがる。マイケルとはブリジェットの亭主で、セドリックは祖父がマイケルのために金を出してくれたことを思い出していた。 伯爵はセドリックの話を聞いて、セドリックに、お前ならどうするかと尋ねた。セドリックは、ヒンギスをそのまま置いてやって、子供たちに色々なものをやると答えた。そこで伯爵は、セドリックに、『当面の間、ヒンギスはそのままにしておくべし フォントルロイ』という手紙を書かせ、セドリックは四苦八苦しながらそれを書き上げた。その手紙は牧師の手から、後日ニュウイックに渡された。 牧師が帰ると、セドリックは母親に会いに行くと言い出した。祖父はなんとかそれをやめさせようと考え、子馬をやると言った。セドリックは子馬が大好きだったのでとても喜んだが、それでも母親のところへ行くと言い、伯爵は仕方なくセドリックを送ってやった。到着すると、セドリックは祖父も一緒に来るかと思っていたが、伯爵はそのまま帰ってしまい、セドリックは不思議そうに首を傾げた。 |
第七章 教会にて |
次の日曜日の朝、モードント氏の教会はかつてない会衆が集まった。皆、新しくやってきたフォントルロイ卿を一目見ようと思っているのだ。誰もがセドリックが初めて来た日、伯爵と親しげに話したことを知っていたし、ヒンギスの話も知らない者はなかった。 セドリックの前に、先にエロル夫人が教会へ入ったが、その時夫人は、セドリックのことしか考えていなかった。だが、どうやら人々の関心が自分にあるのだとわかると、自分に頭を下げる人々に笑顔を向けた。セドリックが通った時、セドリックは、人々の関心は、自分ではなく祖父にあると思っていたが、祖父に「みんな、お前にお辞儀をしているんだぞ」と言われて、慌てて帽子を取ってお辞儀をした。 教会では、セドリックは大きな声で歌を歌った。伯爵はカーテンの間から、昨夜セドリックの話で聞いたエロル夫人の言葉を思い出しながら、夫人の方を見つめていた。夫人はセドリックに、「セドリックが生まれたために、この大きな世界が、よくなるかもしれない。そして、ある人が生きていたために、この世の中がちょっぴりでもよくなるということこそ、いちばんいいことなんだよ」と語った。セドリックはそれを祖父に話し、自分も祖父のようになりたいと言った。セドリックは、祖父がたくさんの人を助けていると信じていた。 教会から出ると、ヒンギスがセドリックに挨拶をしにやってきた。セドリックはヒンギスを助けたのは祖父であり、祖父は病気の子供たちのことをとても心配していたと言った。驚くヒンギスに、伯爵は笑いを浮かべながらこう言った。「お前たちは、わしのことを見そこなっていたのだ。フォントルロイには、よくわかっている。わしの性格について、ほんとうのことが知りたかったら、フォントルロイにきくがいい」 |
第八章 馬の稽古 |
ドリンコート伯爵は、セドリックが来る以前は、城の中に閉じこもり、毎日陰鬱な生活を送っていた。自分が人々に嫌われていることもわかっていたし、自分も誰のことも好きにならなかった。長い夜も長い日々も退屈で仕方なく、性格はすさみ、癇癪はますますひどくなるばかり。そんな時、孫のセドリックが現れて、伯爵の生活は一変した。セドリックは容姿も美しく、またドリンコート家を継ぐにふさわしい性質を持っており、伯爵を満足させた。孫が人々に良く思われるのは気分の良かったし、人々が自分たちのことで騒ぐのを見て満足していた。セドリックは伯爵の自慢だった。 セドリックは伯爵にもらった子馬で、乗馬の練習を行っていた。馬丁のウィルキンスが教えていたのだが、ウィルキンスは今まで色々な子供を教えてきたが、セドリックほど恐れ知らずの子供はいないと語った。実際セドリックは高い馬の背に乗っても、速足で揺れてもひるまなかったし、どんどん上達していった。伯爵はそんなセドリックを見て微笑むのだった。 ある時、セドリックは乗馬の最中に足の悪い子供を見つけて、その子供を馬で送ってやった。しかも良い松葉杖をあげると言い、事実数日後にはドリンコート家の馬車がその子供の家にやってきた。セドリックは祖父からだと言って松葉杖を渡した。セドリックは、自分の望みがなんでもかなえられると言うことに戸惑っていたが、決して悪い子供には育たなかった。それは、コート・ロッジを訪れるたびに母親から教訓を得るからだった。 ある時、伯爵はエロル夫人が歩いて出かけたという話を耳にし、セドリックからだと言って四輪の箱馬車を贈った。夫人はセドリックが喜んでいたので、それを断ることができなかった。セドリックは祖父を本当に高徳で素晴らしい人間だと考えており、ホッブスへの手紙にも自分がいかに祖父を好きであるかと、祖父がいかに素晴らしい人間であるかを書き並べた。そして、伯爵嫌いのホッブスも、祖父と話せばきっと祖父を好きになるだろうと書いた。 |
第九章 貧しい小作人 |
伯爵の性格の中で最も強いのは自尊心だったが、セドリックはこの自尊心をあらゆる点で満たしてくれた。それだけでなく、伯爵は純粋にセドリックを好きになり、時々、セドリックの心の中がエロル夫人のことでいっぱいなのを妬ましく思うことさえあった。 伯爵はセドリックに頼まれ、一緒に馬に乗るようになった。人々は驚いたが、やがて二頭の馬が並んで歩く光景は珍しくないものになった。伯爵は外に出るようになってから、エロル夫人がただぼんやりと日々を過ごしているわけではないことを知った。夫人は病気や貧乏に苦しんでいる人々を訪ねては、それを助けているという。自分の後継ぎの母親が、人々に慕われているのを知って、伯爵も悪い気がしなかった。 セドリックは、祖父が自分の持つ広大な土地のことを、ニュウイックによって知らされていることを知っていた。ところが、セドリックは母親から『伯爵小路』のことを知らされ、祖父に、きっとニュウイックが話し忘れたのだと言った。そこは、ひどく貧乏な人々が住んでいる場所で、今にも倒れそうな家が立ち並び、子供たちは病気になって死ぬと言う。伯爵はそれをニュウイックにも聞いていたし、牧師からも聞いていたのだが、今まで何もしようとはしなかった。けれど、セドリックが熱心にそれを改善するよう言ったので、伯爵は笑いながら二人で相談することにした。 |
第十章 伯爵の驚き |
『伯爵小路』を改善したいというのは、エロル夫人の願いだった。そして夫人は、もしもこの話を息子にすれば、セドリックは小路の人々を不憫に思い、祖父に話をするだろうと考えた。実際、それはその通りになり、悪名高い『伯爵小路』はついに取り壊されて、人々は希望を持ってフォントルロイ卿の話をするのだった。 伯爵はセドリックの願いはなんでもかなえたが、エロル夫人と一緒に暮らしたいという願いだけはかなえてやらなかった。ところが、そんな夫人への憎しみすら忘れてしまうような大事件が起こる。 伯爵は『伯爵小路』が完成する前の晩に、大晩餐会を催した。その数日前に、伯爵の妹であるロリデール夫人を、ハリー・ロリデール卿とともに招き、孫を紹介した。ロリデール夫人は35年前に結婚して以来、一度としてドリンコート城を訪れたことはなく、この招待には驚かずにはいられなかった。夫人はセドリックを気に入ったし、この子供のおかげで兄がいかに変わったかも知った。また、夫人はセドリックの母親とも会い、エロル夫人のこともとても気に入った。 晩餐会では、人々はセドリックを取り囲み、その話や話し振りを楽しんだ。セドリックは紳士に囲まれていたヴィヴィアン・ハーバートという若い婦人を美しいと思い、ハーバート嬢もセドリックのことが気に入ったようで、二人のいる周囲は常に賑やかだった。セドリックは晩餐会に出席したのは初めてだったが、実に楽しい夜を過ごした。ハーバート嬢にも、「親切にしてくだすって、ありがとう。僕、いままで宴会って、出たことがないんです。たいへん楽しかったです!」と言った。 その宴会で、ハヴィシャムが遅刻をしてきた。それだけでも一大事だったが、ハヴィシャムは始終落ち着かない様子で、頻繁にセドリックを見ては浮かない顔をした。やがて宴会が終わると、伯爵はハヴィシャムに何が起きたのかと尋ねた。そして、ハヴィシャムの話が伯爵を絶望の淵に落とし込む。 ハヴィシャムの話によると、伯爵の長男の妻だと名乗る女が子供を連れて現れ、この子供こそフォントルロイ卿であると主張していると言う。女は無学で卑しいアメリカ人だと言い、伯爵は憤慨した。けれど、女は結婚証明書も持っており、事態が最悪のところまで来ると、伯爵は怒りと狼狽のあまり言葉もなかった。そして、静かに自分がいかにセドリックを愛しているかを言うのだった。 |
第十一章 アメリカでの心配 |
ホッブス氏は、セドリックがいなくなってしまってから、張り合いがなくなり、溜め息をつく日が多くなった。ホッブス氏は変化というものを望まなかったが、どんどん悪くなっていく生活に、ついにディックを訪れることにする。ディックのことはセドリックから聞いて、よく知っていたのだ。 ホッブスとディックはすぐに仲良くなり、親密になった。ディックは今でこそなんとか屋根の下で寝られるようになったが、しばらく前までは浮浪児のような生活をしていたので、馬や馬車まで持ったホッブス氏の店を訪れるのは素晴らしいことに思えたし、ディックの訪問はすっかり落ち込んでいたホッブスをとても喜ばせた。二人はセドリックの話をしたり、伯爵や侯爵について書いてあるものを読んでは、間違った知識をつけて一喜一憂するのだった。 ディックはまた、自分の身の上のことも話した。両親はとうになくなっており、ベンという名の兄と二人で暮らしていたが、ベンは嫁をもらって家を出て行ってしまった。その嫁が、見た目にはいいのだがひどい女で、年がら年中癇癪を起こし、赤子が泣けば手当たり次第ものを投げつける。一度は投げた皿が赤子の顎に当たって、医者に死ぬまで残ると言われるほどの傷を負わせた。ベンはこの女のために必死に働いたが、女はいつの間にか家を出て行って、外国へ行き、それっきりだと言う。話を聞いてホッブスは、「女か──おれなんか、女なんて何の役に立つのか、てんでわからんね」と重々しく言った。 セドリックから手紙が来ると、二人はそれを何度も読み返して返事を書いた。ところがある時、二人のもとに衝撃的な手紙が届く。それによると、セドリックが伯爵になるというのは間違いで、本来ドリンコート家を継ぐべき人間が現れたと言う。二人はそれを読んで、イギリスの貴族の陰謀だとか、政府が総がかりでセドリックから財産を奪い取ろうとしているのだ、などと言って憤った。 |
第十二章 争いの相手 |
ドリンコート城で起きたこの事件は、イギリスの新聞で大々的に取り上げられて、誰もが事の顛末を噂し合った。ドリンコート伯爵の持つ土地に住む人々は特に興味を持ち、また城の中でもその噂で持ちきりだった。一人だけ、この騒動の中で落ち着いていたのは、セドリックだった。セドリックは、ドリンコート伯爵の孫であり続けられれば別に伯爵にならなくてもよいと話し、また自分の母親が家や馬車を取り上げられることはないと聞いてすっかり安心していた。 しかし、伯爵はセドリックを深く愛していたので、死ぬまでこの女と戦い続ける覚悟だったし、実際に女にもそう宣言した。女は学もないようで、伯爵と会っても、ただひたすら自分の権利をがなり立てるだけだった。 伯爵はある時、ふとエロル夫人のもとを訪れた。エロル夫人は伯爵の突然の来訪にもまるで動じず、優しい瞳で応対した。そして、セドリックのことになると、「正義にかけて、あの子のものでないものでございましたら、何もおあたえくださいませぬようにお願いいたします」と言った。伯爵はあの下賎な女と比べて、エロル夫人がいかに話していて心地よいかわかり、今までのことを詫びた上で、またこの問題について話をしに来てもよいかと尋ねて帰っていった。 |
第十三章 ディックの救援 |
イギリスでの事件は、とうとうアメリカの新聞まで賑わすようになった。ところが、アメリカの新聞では、どれも間違った情報ばかりが載っており、ホッブス氏とディックはそれらをはらはらして読みながら、遅くまでどうするべきか相談した。そして、セドリックに、悪い奴らとは注意して戦うことと、もし敗北しても自分たちはずっと友達で、靴磨きでも食料品屋にでもすると手紙を書いた。 ある日、ディックは常連の若い弁護士から写真付きの新聞をもらう。そしてそれを見て、すぐにホッブス氏のもとへ駆け込んだのだった。その新聞には、子供を連れて現れた女の写真が載っていたのだが、それは紛れもなく、ディックの兄ベンのもとから逃げた女だったのだ。ディックはすぐにベンに手紙を書き、ホッブスもセドリックと伯爵に手紙を書いた。さらに新聞を持ってきた若い弁護士にも協力をあおぎ、彼もまたベンとハヴィシャムに手紙を出した。 |
第十四章 露顕 |
ホッブスとニューヨークの弁護士からの手紙が届いた時、イギリスではちょうど、ハヴィシャムがその女の子供がロンドンのどこで生まれたという話が作り話であることを調べ上げ、大騒動になっているところだった。伯爵とハヴィシャムは手紙を読んで、ディックとその兄をここに呼び寄せ、いきなり女と会わせるのがいいだろうと考えた。そうすれば、女は驚いて度を失い、その場でしっぽを出すと考えたのだ。 実際、その通りになった。伯爵がベンとディックとともに現れると、女は自制心を失って、二人に悪口やら脅迫めいたことをわめき散らした。ベンはハヴィシャムに、自分はいつでも証人になると言ってから、子供を連れて出て行った。子供もこの母親を好きではなかったので、喜んでベンについていった。女はその夜のうちにロンドン行きの汽車に乗り、その後二度と姿を見せなかった。 伯爵はこの騒ぎが済むとすぐにコート・ロッジへ向かった。そしてエロル夫人とその息子に事の次第を話した後、夫人を城に住まわせることを宣言した。フォントルロイ卿は母親に抱きついて、「僕たちといっしょに暮らすんですね。いつもいつも僕たちといっしょに!」と大喜びだった。 |
第十五章 八回目の誕生日 |
ベンは息子のトムを連れてカリフォルニアの牧場へ帰ったが、ドリンコート伯爵は、一度はフォントルロイ卿になりかけたこの少年のことを思い、ベンの生活を保障した。牧場を買い取り、ベンをその主人にしたのである。 ディックと、事の成り行きを見守るためにわざわざやってきたホッブス氏はしばらくイギリスに滞在することにした。伯爵は元々ディックの世話をするつもりだったので、ディックに教育を受けさせた。ホッブス氏はセドリックに城を案内されては、その豪華さに感動するのだった。そしてついには、「わしなども、伯爵なったって、そうわるくなかったな!」と言ったのだ。 セドリックの誕生日には大勢の客が訪れ、中にはロリデール卿夫妻もいたし、ヴィヴィアン・ハーバート嬢の周りには相変わらずたくさんの紳士がいた。けれどハーバート嬢はセドリックといる方が楽しいらしく、「まあ、フォントルロイさま! 大好きな坊ちゃま! あたし、うれしいわ、うれしいわ!」と、まるで大好きな弟にでもするように優しく接吻した。ディックとホッブスも旧友からハーバート嬢を紹介されたが、ディックは後から、「あんなべっぴんは見たことがねえぜ」と真面目な調子で語った。 セドリックはとても幸せだったが、伯爵もまた幸せだった。今では人に親切にすることにある種の楽しさを覚えていたし、エロル夫人のことは好きになる一方だった。そして、人々がセドリックのために乾杯をし、拍手が沸き起こると、伯爵は孫に挨拶をさせた。セドリックは緊張しながらもしっかりとした様子で、皆に感謝の気持ちを述べ、そして祖父と同じように立派な伯爵になると誓った。 物語は、余談としてホッブス氏についての言及で終わる。ホッブス氏は貴族の生活がすっかり気に入ってしまい、とうとうニューヨークの店を売って、この村に住み着くようになった。そして伯爵よりも貴族的になり、毎朝宮廷新聞を読んだ。やがてディックがアメリカに帰るとき、「アメリカには住みたくないよ。伯爵もないからなあ!」と頭を振った。 |