『 遥か道は 』



 遥か道は果てしなく遠く続いている。
 ゆらめく景色。ようやくの思いで登りきった丘の先に町が見えても、ポルフィの顔は晴れなかった。半歩後ろでミーナが小さく「町だ」と呟いた。その声に喜びはなかった。半歩前を歩き、顔を見られないようにしていても、ミーナはポルフィの心の中がわかっている。
 それに気が付いても、ポルフィは気が付かれていない振りをして、元気にミーナの手を引いた。
「あの町まで行けば、きっと何とかなる。もう少しの辛抱だぞ」
 行ったことのある町だが、知り合いはいない。身寄りはなく、宛てもない。食べ物もなければ水もなく、それらを買う金もない。何もない。あるのはただ、しっかり握ったミーナの手の温もり、それだけだった。
 ポルフィはゆっくりと丘を下り始めた。
 それでも行くしかなかった。救護テントに戻れば、ミーナは一人でアメリカに連れて行かれて、もう二度と会えなくなる。ミーナを引き取ると言ってくれた家族はいい人たちらしいが、たった一人の家族と離れ離れになって得られる満足など、かりそめの幸せに過ぎない。
 どれだけ苦しくても二人でいよう。家族が一緒にいることこそが幸せなのだ。
 ミーナの足取りが重たくなってきたので、ポルフィは立ち止まって振り返った。
「少し休むか?」
 ミーナは静かに首を横に振った。テントを出てからずっと、疲れてもいなければお腹も空いていないと言うが、そんなはずはない。まだ回復しきっていない心が、ミーナにそれを感じさせないのかとも考えたが、そうではなかった。ミーナは兄に気を遣っているのだ。
「少し休もう。僕が疲れた」
 道の傍らに腰を下ろすと、ひどく重たい息を吐いてから、ミーナがかすれる声で言った。
「ごめんなさい」
 ポルフィは何も答えずに、彼方へ続く青空を見上げながら、その言葉の意味を考えた。
 ミーナはポルフィに迷惑をかけていると思っている。ポルフィがミーナのためにテントを抜け出し、希望のない道を選んだのだと思っているなら、ミーナもそれを望んでいたという確信になる。それはポルフィにとって嬉しいことだった。
「そういう時は、ありがとうって言うんだよ」
 ポルフィが空を見つめたままそう言うと、しかしミーナは暗い瞳を地面に落として首を振った。
「私はなんにもできないから」
 ああ、ミーナはポルフィもまたミーナと二人でいるのを望んでいることを知っている。そのためにこの先二人で苦しい思いをしなくてはならないのに、ミーナには何一つできることがない。ただ兄の手を握り、せめて黙って後をついていくことが、ミーナが兄のためにできるたった一つの行動だった。
「僕だって何もできない」
 ポルフィはミーナを見て、努めて明るく笑って見せた。
「それでも、もしも僕がミーナより少しだけ何かできるとしたら、それはミーナがそばにいてくれるおかげなんだ」
 意地っ張りなポルフィにしては精一杯思いを伝えた言葉だったが、それでも回りくどかったらしい。ミーナは難しそうに首をひねっただけで何も言わなかった。
「もういいよ。とにかくお前は僕を信じてついてくればいいんだ」
 ポルフィは恥ずかしくなってそっぽを向いた。そんな兄を頼もしそうに見上げて、少しだけミーナは笑った。


 町は賑わっていた。地震の影響はほとんどなく、もはや記憶の片隅にもないかのように、町の人たちは日常を過ごしていた。その中にあって、ポルフィは強い孤独感を覚えた。思わずミーナの手をぎゅっと握ると、ミーナが不安げに顔を上げた。
 ああ、自分の感情はこの指先からすべてミーナに伝わっている。ポルフィは心を覆った孤独感を振り払い、いつもの前向きな気持ちを取り戻した。なんとかなる。ミーナがいる。一人じゃない。
 持っていたごくわずかの金はパンに消えた。金のなくなったポケットにはもう不安しか残っていなかったが、腹が満たされると元気が戻ってきた。
「とにかく仕事を探そう。僕にはこれがある」
 得意げに父親の工具を見せたが、ミーナはぎこちなく笑っただけだった。兄の技術を信じていないわけではない。ただ、両親が死んでからこれまで、何にも楽観できなくなっていたのだ。ポルフィもそれがわかっていたから、怒りも咎めもしなかった。
 しかし、結局はミーナの不安通りになった。ポルフィは町にあるガソリンスタンドからサービスステーション、その他車に関する小さな工場まで、働けそうなところを巡ったが、身寄りのない子供二人を置いてくれる場所はなかった。
 中にはポルフィだけならよいと言ってくれる人もいたが、それではそもそも救護テントを飛び出してきた意味がなくなってしまう。丁重に断り、二人は町をさまよい歩いた。
 夜になった。町の片隅、人気のない暗い陰の中に腰を下ろして、ポルフィは大きく肩を落とした。その隣に崩れこむように座った後、しばらくしてミーナが小声で「ごめんなさい」と謝った。
 もう何度目になるかわからない。ポルフィは何も答えずに聞き流した。何もできないのはミーナだけではない。ポルフィも同じだった。父親を手伝っていたときは自分も一人前だと自惚れていたが、現実は力のない子供に過ぎなかった。
「明日は、もっと色んなお店を回ろう。できれば車の仕事がしたかったけど、僕たちにできることはもっと多いはずだ」
 大きな町である。店の数は無数にある。自分から門戸を狭めなければ、きっとどこかに自分たちのために開いている扉があるはずだ。ポルフィが明るい声で言うと、ミーナも兄の手に自分の手を重ねて微笑んだ。
「私も、お皿洗いくらいならできるかな」
「そうだな。お前、どんくさいから、店の皿を割ったりするなよ」
「ひどい! お兄ちゃんだって、よくドジするよ?」
「お前と一緒にするな」
 二人はむすっと顔を見合わせて、それから一緒に笑った。
 ミーナは涙で潤んだ目を伏せて、ぐったりと兄にもたれかかった。
「疲れたね、お兄ちゃん。明日は、お仕事見つかるといいね……」
「そうだな」
 そっとミーナの肩を抱くと、ミーナはすぐに小さな寝息を立て始めた。ポルフィは眠気よりも空腹が辛かったが、目を閉じてじっとしていたらいつの間にか眠っていた。


 翌朝、立ち上がるとめまいがした。空腹はもはや飢えの域に達して、頭痛と吐き気が伴った。まだ眠っているミーナの呼吸が荒かったので、そっと額に手を当てると少しだけ熱があった。
 ミーナが目を覚ますと、ポルフィは今日は自分一人で仕事を探しに行くと告げた。ミーナの体調が悪いのは明白で、今日無理をしたら生命に関わるかもしれない。元々地震で怪我をして本調子ではないのだ。
 ミーナは気丈にもついていくと言ったが、どうにか説得して午前中だけでも近くの広場で休ませることにした。
 もっとも、薬どころか、食べ物すらない状況では、寝ていたところでミーナが回復するとは思えない。かくいうポルフィも、足が震えるほどの頭痛に苛まれていた。仕事よりも先に、当面今日の糧を得ることを考えなくてはならない。
 ポルフィは門という門を叩いた。けれど昨日以上に門は開かなかった。ポルフィの技術や年齢のためではなく、身なりと顔色のせいだった。午前中いっぱい歩き回って得たものは、見知らぬ人から恵まれたパンと果物が少し。滅多に弱音を吐かないポルフィだったが、あまりの惨めさに少しだけ涙を零した。
 それでもミーナの前では笑顔を作って、わずかの食べ物を半分渡した。
「ほら、少ししかないけど食べて元気を出せ」
 パンに手を伸ばしたミーナの指差しが微かに震えていた。ポルフィが考えるより調子が悪いらしい。
「お兄ちゃん、これ、どうしたの?」
 パンを一口かじってから、ミーナが不安げにそう聞いた。ポルフィは何も答えられず、「そんなのいいから」と誤魔化したが、恐らくミーナは誰かに恵んでもらったのだとわかったのだろう。声も立てずに涙を流し、それから両手で顔を覆った。
 ポルフィはそっとミーナの肩に手を置いた。そしてしばらく目を閉じてから、意を決して顔を上げた。
「ミーナ、僕はミーナの気持ちが聞きたい」
「お兄ちゃん……?」
 ミーナは涙を拭って兄の顔を見つめた。ポルフィは乾いた唇を湿らせてから、ゆっくりと言った。
「この町には、僕だけなら雇ってくれる人がいる。テントに帰れば、ミーナを引き取ってくれる人がいる。もうこんな辛い思いをしなくても済む。だけど、きっともう二度と僕たちは会えなくなる」
 ミーナは黙って頷いた。ポルフィは低い声で続けた。
「ミーナは、どっちがいい?」
「……お兄ちゃんは?」
 怯えるような瞳。そんな妹の目を真っ直ぐ見つめて、ポルフィは肩を握る手に力を込めた。
「僕は、ずっとミーナといたい。もうこれ以上家族を失うのは嫌だ」
 途端に、ミーナの顔がパッと晴れた。ずっと昔、まだ父も母もいて、ポルフィが立派なサービスステーションで働くことを夢見ていた平和な日々に、ミーナがいつも見せていた笑顔。
 ミーナは微笑んだまま、何も言わずに大きく頷いた。言葉は必要なかった。その安堵に満ちた瞳を見ただけで、ポルフィは胸がいっぱいになった。
 肩を引き寄せ、強くミーナを抱きしめた。地震の後ずっと病気だったからか、ミーナの身体はすっかり細くなっていたが、優しい温もりは昔のままだった。
「一緒でよかった」
 耳元でミーナが熱にうなされたように呟いて、弱々しくポルフィの背中に手を回した。
 やがて、どちらからともなく身体を離して、二人は見つめ合って微笑んだ。
「行こう、ミーナ。ここにはもう僕たちの居場所はないみたいだ」
 立ち上がると世界がゆらりと揺らめいた。ミーナもどうにか腰を上げたが、息は荒く足取りもおぼつかない。ポルフィはそんな妹を支えるように、しっかりと手を握った。
 足して一にもならない子供二人で、一体何ができるだろう。後何歩進めるだろう。
 ポルフィは思った。
 それでももう不安はない。この手の温もりがある限り、何も恐れることはない。
 二人は決然として顔を上げた。
 青空の下、遥か道は果てしなく遠く続いている。