『 小さな世界 』



 ミーナを中心に、小さなミーナがとぼとぼ歩いて三歩くらいの半径の、小さな円を描く。その円の前半分。それが今のミーナが認識できるすべて、ミーナの小さな小さな世界だった。
 景色はひどくぼやけている。頭の傷のせいではない。心の傷のせいだ。朝陽に伸びる自分の影の先端にすら届かない視界。見えるのは自分の靴と土の色だけ。時々他人の靴が踏み付けては、留まることなく消えて行く。
 ざわざわと周囲から声がするが、ミーナの耳には届かない。名前を呼ぶ声もまるで風の音のように、右から左へと通り過ぎていく。誰もいない、何もない、ミーナの小さな世界。
 ただ一人だけ、その小さな半円の中にいて、いつもミーナの手を握ってくれる人がいる。しっかりと声の届く距離で名前を呼んでくれる、かけがえのない温もり。
 ミーナはその声に従った。食べろと言われれば口を開き、寝ろと言われれば目を閉じた。手を引かれればついていき、見ろと言われれば顔を上げた。理屈でも打算でもない、本能的な信頼。この手と声は、必ず自分を正しく導いてくれる。
 それ以外のときは、ミーナはいつも俯いて座っていた。ぼんやりとして何も考えることができないまま、ただじっと待っていた。
 時間はたゆまず流れていた。時間はミーナに二つの薬を用意した。一つの瓶には「乗り越える」と書いてあり、もう一つには「忘れる」と書いてあった。ミーナはそれに気付かずに、片方の瓶を取って飲んだ。「忘れる」と書かれた瓶が空になった。
 思い出の川がミーナを源泉にして過去へと流れていく。あれだけ好きだった父の声も母の顔も、くっきりとは思い出せなくなっていた。以前の生活は昨夜見た夢のようで、昔からこの小さな世界にいる気さえした。
 川は少しずつ細くなっていった。新しい思い出が作られない源泉は、やがては涸れて、枯渇した温泉のようにぽっかり空いた穴になる。しかし、今のミーナには自分で思い出を生み出す力がなかった。
 そんなミーナの手を強く握る、一回り大きな手。
「ミーナ、今日も村の方に行ってみよう」
 外側から注ぎ込まれる新しい思い出。顔を上げると、見慣れない景色の中に見慣れた兄の笑顔があった。ミーナの新しい世界。視界が少しだけ広くなった。
 一歩ごとに近づいてくる懐かしい光景。地震の傷が深くても、はっきりと昔の景色が思い出せる。優しかったおばさん、厳しかったおじさん、仲の良かった友達、からかってばかりの男の子。確かに自分はここにいた。
 思い出が逆流して、ミーナの小さな身体を満たして溢れた。涙が零れた。
「お兄ちゃん」
 呼びかけた刹那、大地が揺れた。もう何度目かわからない余震。ミーナは咄嗟に兄の肩にしがみついた。
 そんなミーナを突き飛ばす兄。ミーナの身体は大きく弾んで、土の上をごろごろと三回転くらいして止まった。続く、何かの崩れるものすごい音。
 顔を上げると、今いた道をごつごつした大きな石の混ざった土砂が覆い尽くして、山になっていた。しんと静まり返る空気。ミーナは小さく首を傾げる素振りをしてから、ぼんやりと呟いた。
「お兄ちゃん……?」
 小さなミーナがとぼとぼ歩いて三歩くらいの、小さな円の中には何もなかった。
 長い長い時間が過ぎた。誰かがミーナの手を引いて、ミーナは救護テントに連れ戻された。薄い布のような布団の中に入れられ、目を覚ますとパンを口の中に放り込まれた。時々誰かに抱きしめられた。兄の名を呼んで泣く声がした。自分を呼ぶ声もした。
 しかし、誰もミーナの小さな円の中に留まる者はなかった。円は少しずつ小さくなっていき、やがて自分の靴さえ見えなくなった。思い出は涸れて、もう兄がいたことすら忘れてしまった。
 小さな小さなミーナの世界は面積を失い、やがて点になって消えてしまった。