『 最後の星 』 〜From "フランダースの犬"



 翌日の陽が昇るのが、アロアにとってどれだけ楽しみだったか、想像に難くない。
 アロアはネロを深く愛していた。例え他の男との縁談が持ち上がっても、父親に反対されても、貧富の差を感じても、決してその愛情が薄れることはなかった。
 ネロを迎えに行った父親が帰ってくるのを、アロアは外に出て待っていた。キラキラと宝石のように輝く雪に小さな足跡をいくつも作りながら、時々夢に瞳を輝かせ、美しい歌を口ずさんだ。
 これからは、ただネロが会いに来るだけではないのだ。一緒に暮らせるのだ! ずっと遊べるのだ!
 今ほど世界が美しいと思えたことはなかった。実際、一面の白と、輝く蒼天は光に満ちて、クリスマスを彩るのにふさわしい景観を作り出していた。
 父親はなかなか帰ってこなかった。けれど、アロアの胸に不安がよぎることはなかった。彼女は満たされた生活を送り、願望は叶えられ、挫折というものを味わったことがなかったのだ。
 やがて、白い息を吐くアロアの耳に、馬車の走る音が聞こえてきた。アロアは雪に足を取られながら駆け出した。一刻も早くネロに会いたい! 会って、笑い合いたい!
 けれど、父親は一人だった。しかもその顔はひどく蒼ざめ、表情は欠落し、馬車から降りてくるときも、今にも崩れ落ちそうなほど力弱かった。
「ネロはどうしたの?」
 思わず父親の服をつかんで、アロアは顔を上げた。死というものを意識したことがない少女が、ネロの身に起きた不幸を想像できるはずもなく、ただ漠然とした不安にアロアは身を震わせた。
 父親は言葉もなく娘の小さな身体を抱きしめると、「神よ……」とくぐもった呻き声を上げた。空を仰ぐ瞳からはボロボロと涙が零れ落ち、それがアロアの髪を濡らした。
「お父さん、ネロは?」
 アロアは父親の腕の中から顔を上げ、もらい泣きをして鼻をすすり、消え入りそうな声でそう聞いた。漠然とした不安は限界まで膨らみ、少女の小さな胸を押し潰した。
「ネロは……嗚呼、ネロはもう、この世にはいないのだよ、アロア!」
 彼はとうとう声を張り上げて、娘を放して膝を折った。そしてまるで自らの手で殺してしまったかのように、何度も何度も懺悔の言葉を吐きながら、気が違ったように頭を抱えて首を振った。
 死ぬということが、突然の竜巻のようにアロアの心を吹き荒れ、昨日からの喜びのすべてを吹き飛ばした。
「もう、会えないの?」
「ああそうだ」
「お話もできないの?」
「そうだ」
「何も、伝えられないの?」
「そうだ! あの子は死んだのだ! あの犬と一緒に、昨日の夜、飢えと寒さに死んだのだ!」
 アロアは眩暈がして思わず馬車に寄りかかった。ちょうど、怪我をした直後は感覚が麻痺してあまり痛みを感じないように、アロアの心はすっかり麻痺して、涙すら出てこなかった。ただうわ言のように「ネロが……」と呟き、呆然と立ち尽くした。
「ネロは、どこに?」
「大伽藍だ。あの子の魂はすでに天上にある。やがてその亡骸も地に葬られるだろう」
 父親の言葉を聞いて、いきなり胸の奥から突き上げた衝動を抑えられずに、アロアは駆け出した。父親が何か制止する声を上げたが、娘の耳には届かなかった。


 アロアの小さな身体に、町までの道のりはあまりにも長かった。しかも路面は雪で覆われ、アロアは何度も足を取られて転倒した。全身泥だらけになり、髪は乱れ、手足はかじかみ、息は切れ、それでもアロアは駆けた。
 何度もネロの名前を叫んだ。涙で前が見えなくなった。
 そうしてとうとう町に着いたとき、短い昼はすでに西に去り、東から夜が押し寄せようとしていた。アロアは伽藍に駆け込んだ。そしてそこで、今朝ここで死んだ小さな少年がすでに墓地に運ばれたことを聞き、再び駆け出した。
 嗚呼、神様! もしもたった一つだけ、この聖なる日に願いを叶えてくださるのなら、どうかネロに会わせてください。これからあなたの許へ行くネロの顔を、一目だけでも見せてください!
 神は、小さな少女を哀れんだ。恐らく、だからこそアロアは、ネロが今まさに葬られようとしていたその瞬間に間に合ったのだ。
 身寄りのないネロの葬儀は、あまりにもみじめなものだった。ただ墓守が墓地に穴を掘り、誰一人として見守る者のない中で、彼の棺を地に納めようとしていた。
 それでも、アロアの父が金を出さなければそれすら行われなかったのだ。せめて墓地に入れてやる、ただそれだけが、アロアの父親が彼にできたせめてもの償いだった。
「ネロを、ネロを見せてください!」
 棺にすがりついたアロアを引き剥がそうなどと考える者はなかった。彼らとしてはいち早く仕事を終え、家で待つ家族の許へ帰りたかったが、そのためにこの泥だらけで泣きじゃくる少女の願いをあしらうことがどうしてできよう。
 彼らは棺を開けてやった。
 アロアは見た。
 寒い冬だったのがよかったのだろう。ネロは昨夜のままの姿で横たわっていた。しっかりとパトラッシュを抱きしめ、まるで眠っているように安らかな顔をしていた。
 そう。ネロは幸せそうだった。生まれてきてからこれまでずっと、一度として満たされたこともなく、働き続け、人々に罵られ、傷付き、屋根を失い、そしてとうとう飢えと寒さに死んだというのに、ネロはまるでこの世のすべての幸せを手にしたような、そんな顔をしていたのだ。
 アロアは笑った。もう前が見えなくなるほど涙を流し、それでも笑って言った。
「ネロ、あなたは幸せだったのね? わたしは、あなたの生を悲しまなくてもいいのよね?」
 アロアはすっかり冷たくなったネロの胸に顔を埋め、大きな声を上げて泣いた。彼の傷んだ服を握り、悲しみと、怒りと、怯えと、戸惑いと、絶望と、いたわりと、愛を──小さな胸に沸き起こったすべての感情を吐き出すように言った。
「ありがとう、ネロ。出会ってくれてありがとう。それから、ごめんなさい。それから……それから、少しだけ、怒ってもいいよね? わたしはどうすればいいの? これからどうして生きていけばいいの? ねえ、ネロ。答えて……」
 冬の冷たい風に乗って、遠くの教会から夕刻の鐘の音が流れてきた。それはネロの弔いの鐘に聞こえた。
 白く染まった、どこまでも美しい町並み。これからここで過ごすはずだった輝ける未来は、今日これから、この冷たい墓の中に埋められる。
 限りない絶望。それでも、それが二人分の悲しみにならずに済んだのは、ネロが笑って逝ったから。
 アロアは顔を上げた。
 もう泣くまい。少なくとも、今は泣くまい。笑ってネロを見送ってやらなければならない。
 アロアが棺から離れると、墓守たちは何も言わずに蓋を閉め、ネロの棺を穴の中に安置した。
 アロアは唇を引き結び、棺が土に消えていく様をじっと見つめていた。
「ありがとう、ネロ。わたしたち、出会えて良かったのよね……?」
 西の空から、その日最後の光が町を貫いた。アロアはその眩しさに思わず目を閉じた。
 次に目を開けると、もう太陽は地平線に没し、空には美しい星が瞬いていた。一面の星空。数多の星座の隙間に、一つの星が流れ落ちるのを見た。
 アロアは歩き出した。
 真っ白な道が彼女の前に伸びている。どこまでも、どこまでも長く続いている。
 アロアはゆっくりとその道を歩いていった。
完  


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