『 未来 』 〜From "小公女セーラ"



 セーラは虚ろな瞳をしていた。
 ミンチン女学院の二階から一階へと降りていく美しい階段も、その先にあるやや日に焼けた白い壁も、セーラの碧の目には映ってないように思われた。
 何かを考え込んでいる、という様子ではない。どちらかというと、ちょうど高熱を出した患者が朦朧としながら突っ立っているという様子だ。
 実際、セーラは朦朧としていた。ただしそれは、高熱のためではない。
 セーラは飢えていた。昨日の昼から何も食べさせてもらっていない。あの卑しい料理番は、なんだかんだと理由を付けては、可哀想な下働きの少女の食事を取り上げてしまうのだ。
 この学校は、すべてが院長先生のように上っ面だけだ。働いている人間にはろくなのがいないし、慈愛の精神などかけらもなく、学院の利益にならない者は犬猫以下の待遇をされる。
 かつてはこの学院が提供できる最高の待遇を受けていたセーラだけに、そのことがよくわかった。
 いっそこの様子をロンドン中の人に見せてやりたい。自分のこの痩せ細った肢体と、ねずみの這い回る屋根裏部屋と、そして事あるごとに手を上げるあの料理番夫婦を!
 セーラはすぐに首を振った。もしもそれができたとして、一体自分に何の利益があるというのだ。自分を虐げる者たちが周囲から蔑まれることで、仮に一時の優越感に浸れたとしても、その後自分がここを追い出されてしまうのは確実だ。そうなれば自分は食べ物の他に寝床すら失うことになる。
 セーラには身寄りも金もなかった。以前狡猾な院長先生が、セーラに「お情けで置いてやっている」と言ったが、それはまったくその通りなのだ。血が滲むほど悔しかったが、それは紛れもない事実であった。
(それに……)
 俯き加減に頭を垂れて、セーラはそっと腹部に手を当てた。
(そんなことをしても、この空腹は決して満たされない……)
 誉められなくてもいいし、叩かれてもいい。それよりもセーラは、ただ一切れのパンが欲しくてたまらなかった。
 そのためには働かなくてはならない。セーラは一度服の袖で汗を拭うと、再び手にした箒を動かし始めた。
 その時、階下から少女たちの笑い声が聞こえてきた。授業が終わったのだろう。かつての仲間たちが上がってくる。
 一番惨めな瞬間だった。彼女たちはセーラを見ると声を潜めるし、罪悪感に駆られるのか申し訳なさそうに視線を逸らせて歩いていく。
 それは不要な気遣いだった。同じ下働きのベッキーの横を通り過ぎる時は、彼女たちはまるでそこには何も存在しないかのように表情一つ変えないし、瞳すら動かさない。なのにセーラの時は、彼女たちは憐れむような瞳を向けるのだった。
 それではベッキー以下のようではないか。ベッキーのことをセーラは深く愛していたし、かけがえのない仲間だと思っていたけれど、それでも彼女より下として見られるのは不愉快な思いがする。自分はベッキーより上ではないが、決して下ということもないのだから。
 同情されるくらいなら、いっそラビニアのように指を差して笑ってくれた方がましだ。その方がプライドが保たれる。
 どこまでも暗い心境で彼女たちが通り過ぎるのを待っていると、まずラビニアが、家来のようにくっ付いているいつもの二人と一緒に上がってきた。
 ラビニアはセーラの姿を見ると一度足を止め、恐らく悪口を言ったのだろう、三人でくすくすと忍び笑いを洩らした。そして階上まで来ると、突然セーラの箒を足で払ったのだ。
 これにはセーラも驚いた。恐らくラビニアにも意外なことに、セーラはその箒に穂先が曲がるほどの体重を預けていた。ふらふらする身体を箒で支えていたのだ。
 いつもならばバランスを崩すだけで済んだかも知れないし、ラビニアもそれを狙っていたのだろうが、この時のセーラには崩れた体勢を整えるだけの力がなく、小さな悲鳴とともに階下へ真っ逆さまに転落していった。
「セ、セーラ!」
 思わずラビニアは顔を蒼くして叫んだ。もちろん、今踊り場でうつ伏せになって倒れている少女を心配したのではない。彼女は自分の身を心配したのだ。もしもセーラが骨折でもしたら、もはや冗談では済まされない。
 一瞬駆け寄ろうとしたが、ラビニアはセーラの身体がわずかに動いているのを見てすぐに階段に背を向けた。それからやはり蒼くなって震えている二人を睨むように見て指を立てた。
「いい? あの子は自分から足を踏み外して落ちていったのよ? わかった?」
 こくこくと声もなく頷いた二人を見て、ラビニアは一度満足そうに微笑むと、何事もなかったかのように自分たちの部屋に戻っていった。
 セーラは幸いにと言うべきかはわからないが、打ち所が良かったらしくしっかりと意識を保っていた。左肩や右膝がひどく痛んだし、頭は先程よりいっそうぼんやりと霞んでいたが、それでもものを考えるのに支障を来たすほどではなかった。
 何故ラビニアが自分をいじめるのか、ということはどうでも良かった。自分をいじめるのは彼女一人ではないので、恐らくその理由は特別なものではないだろう。
 それよりもセーラが思うのは──そしてそれはもうずっと長いこと思い続けているのだが、「これはいつまで続くのか」ということだった。
 どうにも身体が起こせないので、そのままの体勢で思考の迷宮に入り込もうとすると、階下から聞き覚えのある声で自分の名前を呼ばれた。
「セーラ!」
 親友の一人であるアーメンガードだ。どうやら倒れているセーラを見て、駆けつけてくれたらしい。
「セーラ、大丈夫なの!? セーラ!」
 セーラがうっすらとまぶたを開けると、すぐ目の前にアーメンガードの顔があった。そしてその瞳には零れ落ちそうなほど涙が溜まり、実際に一滴セーラの頬に落ちた。
「大丈夫よ、アーメンガード。泣かないで」
 彼女を安心させるために、セーラは無理に笑って見せた。実のところ、一人で立てないのだからちっとも大丈夫ではなかったが、これ以上アーメンガードに泣かれても状況は何も変わらない。それならば早く誰かを呼んできてもらった方が遥かに建設的である。
「ごめんなさい、アーメンガード。院長先生を呼んできてもらえないかしら」
 セーラは額に汗を浮かべながらそうお願いした。本当はこんな姿をあの人には見られたくなかったし、助けを乞うような真似もしたくなかったが、立場的にも、こういう時に頼れるのは院長先生の他になかったのだ。
 辛酸を舐める思いだが、所詮セーラはまだ十一の子供であり、大人を頼る他に生きてはゆけなかった。
 アーメンガードは二度ほど大きく頷いてから、セーラを壁にもたれさせると、大急ぎでまた階下に戻っていった。
 セーラは壁に背を預けたまま、目を閉じて深く息を吐いた。そして、誰にともなく心の中で問いかける。
(ねえ……本当に、これはいつまで続くの……?)
 下の方からヒステリックな院長先生の声が聞こえてきた。セーラはようやく朦朧とした意識に飲み込まれた。


 額に置かれた冷たい感触に、セーラの意識は急速に引き戻された。
 長い夜の終わりに白く輝く太陽が地平線から顔を出すような、そんな爽快なものではなく、暗いトンネルを抜けたら白い霧の立ち込める街に出たというような、もやもやとした目覚めである。
 身体を包み込む感触からして、どうやら自分はベッドの上に寝かされているようだった。もちろん、以前のような高級なベッドではない。屋根裏部屋の、薄っぺらな布団が大きな板の上に置かれているだけのような、硬いベッドである。
 実際、この数ヶ月の下働き生活のために、セーラはふかふかのベッドの感触を忘れかけていたし、自分は生まれた時から惨めで貧しい人間であるように錯覚することさえあった。それは、この先どれだけ長く生きたところで、もはや昔のような生活に戻れる希望が微塵もないためだった。
「ねえ……私は、いつまで我慢すればいいの?」
 うわ言のように呟くと、すぐ側からびっくりしたような少女の声がした。
「お、お嬢様?」
 言うまでもなく、同じ下働きのベッキーである。今セーラの看病を積極的にしたがり、それでいてこの屋根裏部屋で誰の目も気にすることなくそうできるのは、ベッキーただ一人なのだ。
 ベッキーはセーラの発言を誤解したのだろう。心配するような眼差しを向けて、優しい声で言った。
「大丈夫です、お嬢様。大した怪我ではございません。ニ、三日休んでいれば、また元気になりますよ」
 セーラがうっすらと目を開けると、ベッキーは赤く腫れた目でセーラの顔を覗き込んでいた。その表情にはいたわりがあり、眼差しには愛情がこもっていた。
 けれど、それらは今のセーラの慰みにはならなかった。空腹がそうさせたのか、それとも希望のない生活がそうさせたのかはわからない。ただその時セーラは、ラビニアと同等な卑しい心をした少女のようになっていて、ベッキーの親しみある言葉も、むしろ何故自分の言っていることを理解してくれないのかと腹立たしく感じ、彼女の誤解を解くのさえ面倒に思われた。
 もう世界には自分ひとりしかいない。そう思った時、ふとセーラの脳裏に、そういう存在があったことしか知らない母親と、優しかった父親の姿がよぎった。そしてその二人は今並んで天国にいるのだと考えたら、セーラの中に一つの「希望」が生まれた。
「もう、死んでしまいたい。そうすれば、もうこんなに苦しまなくて済むし、お父様にもお母様にも会えるわ」
 ベッキーの手から、何かはわからないが──恐らく木製の小さな何かが床に転がり落ちる音がした。それから、聞き取りにくいほどにかすれて震えた声が、セーラの鼓膜を震わせた。
「い、今、何とおっしゃったのですか? お嬢様……」
「死にたいって言ったのよ、ベッキー」
 今度は幾分語調を強めて、セーラは答えた。ベッドの上に半身を起こすと、額に置かれていた小さなタオルが掛け布団の上に落ちた。セーラはそれを取ろうとしたが、ズキッと肩が疼いたのでそのままにしてベッキーを見上げた。
「だって、考えても見て! 私はいつまでこんな生活を続ければいいの? いつになったらまた元のように……いいえ、せめて人並みの暮らしができるようになるって言うの? ならないわ! もう私は、生きてることに何の希望も見出せないのよ!」
「お、お嬢様……」
 ベッキーは泣きそうな顔で、思わず半歩後ずさった。自分の敬愛するセーラが涙を浮かべながら金切り声を上げている。しかもその対象が自分であるという事実は、ミンチン院長や料理番に叱られるより遥かにベッキーの心を傷付けた。
 セーラはそんなベッキーの気持ちにまるで気付けなかった。しかし、だからといって誰がこの哀れな少女を責められようか。今のセーラには一切の余裕がなかった。彼女は他人を思い遣るどころか、自らを制御することさえできる状態ではなかったのだ。
「きっとそうよ! ラビニアたちが卒業して、また新しい子たちが入ってきても私はここで働いていて、またいじめられるのよ。おばさんになっても、お婆さんになっても、そう、死ぬまでこき使われるのよ。そんなの、死ぬために生きてるようなものじゃない! だったら、早く死んでしまった方がいいわ。あなたはそうは思わなくて?」
 セーラは声に出せば出すほど、それが素晴らしい考えであるような気がしてきた。周囲が見えていない時にはよくあることだ。一つ何か思い付くと、もはやそれしか選択肢がないような錯覚を覚える。今のセーラはまさにそれだった。
 セーラがあまりにも自信に満ち溢れた声で言うので、ベッキーは自分が何か言うのを憚られた。本当の話をすれば、ベッキーはセーラの言っていることをよく理解していなかった。そういう難しいことを考えるような人生は送ってきていないし、学問を受けたこともない。本は読んだことがないし、それどころか文字すら読めない。
 そんなベッキーでも、ただ「死ぬなんて言ってはいけない」ということだけはなんとなくわかった。誰かが死んでしまうのは悲しいことだ。ましてや尊敬するセーラが死んでしまったことを想像したら、ベッキーは自分がどうかなってしまうような気さえした。
 それでもセーラがそれを望んでいるなら、一体それを反対するのは彼女のためなのだろうか。セーラを愛しているなら、彼女の望むようにしてやるべきなのか、それとも愛しているからこそ自分の学のない発想を語るべきだろうか。
 ベッキーは頭がこんがらがってきた。だから真っ直ぐセーラを見ていることすらできなくなって、俯きながらテーブルに置いた食器を取った。
「セ、セーラお嬢様は、きっとお腹が空いていらっしゃるから……。何か食べれば、きっと元気になりますよ……」
 食器の上には一つのパンと、深皿に半分ほどのスープが入っていた。生徒たちが残したものを取っておいたのだ。
 セーラはそんなベッキーを見て、怒りが込み上げてきた。自分が真面目な話をしているのに、何故目の前の少女はそれをはぐらかすようなことを言うのか。
「そんな刹那的なことを言ってるんじゃないのよ!」
 ベッキーは思わず食器を落としそうになったので、慌ててそれをテーブルに戻した。「刹那的」などという難しい言葉を聞いたのは初めてだが、とにかく今自分のしていることごとくがセーラには気に入らないのは直感的に理解できた。
 それで怒る者は育ちがいい証だ。ベッキーのように貧しい家に生まれ、常に誰かに媚びながら生きてきた者は、他人に対して怒るということは有り得ない。
 ベッキーは立っているのも辛くなり、ボロボロと涙を零しながらセーラのベッドの側に跪いた。そして感極まってセーラの手を握りしめると、何度も頭を下げてむせび泣きながら声を上げた。
「どうか、どうかお許し下さいまし。ただ、ただ私はセーラお嬢様が好きなのでございます。だから、死ぬだなんて言って欲しくないのでございます。私は、たとえお嬢様がお一人になってしまわれても、私だけはずっとお側にいて差し上げたいと、そう思っているのでございます」
 セーラは、そんなベッキーの卑屈な態度が癪に障った。今セーラの無意識が求めていたものは現実的な幸せであり、それが叶わないならばせめて優しく包み込んでくれるような、そんな存在だったのだ。決してベッキーのように媚びへつらうだけの存在ではない。
「あなたにいてもらっても、私の生活は何も変わらないのよ!」
 思わずセーラは叫んだ。そしてベッキーの手を払い除けると、頭を抱えて激しく首を振った。
「あなたに泣いてもらっても、同情されても、私のこの空腹が満たされるわけじゃないのよ! 私は何か食べたいし、もう飢えるような生活をしたくないのよ!」
「そ、それなら、そこにパンを……」
 もはや声にならない声を上げたベッキーに、セーラはとうとう泣き出して怒鳴った。
「だから、そういう刹那的な話をしてるんじゃないの! もう出て行って! 一人にしてよ!」
 それだけ言うと、セーラは布団の中に潜り込んで大きな声を上げて泣いた。だから彼女は、その時のベッキーの顔を見ていなかった。
 ベッキーは静かに立ち上がると、しばらくぶるぶると震える布団を眺めてから、本当にかすれるような小さな声で──いや、それはもはや声にすらなっていなかったが、言った。
「本当に、申し訳ございませんでした……。それから……今日まで本当に、ありがとうございました……」
 パタリと閉められたドアの音を、セーラは聞いていなかった。何一つ支えのない十一の少女は、ただ泣き続ける他にどうすることもできなかった。


 どれくらい泣いていたのかわからない。少なくとも外は暗く、学院が静まり返っているのは確かだった。
 泣きすぎたためにガンガン鳴り響く頭を押さえながら、セーラは布団から這い出した。一度ぐるっと部屋の中を見てみたが、ベッキーの姿はどこにもなかった。
 きっと彼女は自分の傍らにいて、ようやく泣き止んだ自分に優しく微笑みかけてくれるのだと思っていたセーラは、なんだかとてもがっかりした。同時にそうしてくれなかったベッキーを冷たいと感じた。
 ベッドの縁に腰かけたままぼーっとしていると、少しずつ記憶が蘇ってきた。感情に任せるまま八つ当たりするように怒鳴りつけていた自分を思い出して、セーラは顔を赤らめた。
 今ベッキーがここにいることを望むのは、いくらなんでも我が儘というものだろう。きっと彼女は怒って出て行ってしまったのだ。
(でも、ベッキーだって悪いのよ? だって、私の言っていることに、ちゃんと答えてくれないんだもの)
 セーラには、自分が難しいことを言っていたという自覚がなかった。実際に彼女は日常会話レベル以上のことを言ったつもりはなかった。
 ふとテーブルを見ると、ベッキーの用意したパンとスープが置いてあった。セーラは空腹を通り越して胃の中が気持ち悪くなっていたが、何か食べなければと思ってそれを手に取った。
 パンの端を千切って口の中に放り込むと、残りもあっと言う間に平らげた。今の分量の五倍も十倍も欲しい気分だったけれど、それが叶わぬ夢なのはわかっている。
 ほんの少しだったが空腹が満たされて、セーラは色々なことを落ち着いて考えられるようになった。まず真っ先に、空腹が如何に人を悲観的にするかがわかった。何かを食べれば元気になると言ったベッキーの言葉は、あながち外れでもなかったのだ。
 それからセーラは、ベッキーのことを考えた。何故あれだけ自分を慕っていた少女が、あんなわけのわからないことばかり言っていたのか。自分をバカにしていたとは思えない。だとしたら、何か他に理由があったはず。
 セーラはふと、ベッキーと出会った時のことを思い出した。ミンチン女学院の前で彼女は、セーラにミンチン女学院の場所を聞いた。入り口のところにちゃんと書いてあるにも関わらずだ。その時セーラは、初めてベッキーが文字を読めないことを知ると同時に、世の中に文字が読めない人間がいることを知った。
 自分の常識は、決して万人の常識ではない。そう考えた時、ようやくセーラは、ベッキーが自分の言っていた内容の半分も理解していなかったことに気が付いた。
 セーラは心が沈んでいくのを感じた。大切な友達を軽率な言葉で傷付けてしまった。悪いことをしてしまったら、心を込めて謝らなくてはならない。取り返しがつくかはわからないけれど、誠意を込めて謝ることが、今の自分にできるたった一つの行動なのだ。
 セーラはパンを食べるために座っていた椅子から立ち上がると、躊躇なくドアに向かった。
 謝るのは恥ずかしいことではない。一番恥ずかしいのは、自分が悪いことをしたと気付かないことであり、次に恥ずかしいのは気付いたのに開き直ることだ。
 部屋を出てベッキーの部屋の前まで行くと、セーラは階下に響かないように小さくノックしてからドアを開けた。隙間から明かりが漏れていなかったから、ひょっとしたらもう寝てしまっているかも知れないと思ったが、今謝らなければ、もう二度と謝る機会がなくなるような、そんな気がしたのだ。
 そしてそれは、セーラの考えていたのとはまるで違う形で正解だった。
「ベ、ベッキー!」
 部屋の中を見た瞬間、思わずセーラは飛び出しそうなほど目を大きく見開き、口元を手で押さえた。
 薄暗い部屋の中で、ベッキーは天井の梁から吊り下げた紐の先端を、輪の形に縛っていたのだ。それで何をしようとしていたのかは言うまでもない。
「ベッキー、何をしているの!?」
 急いで駆け寄って、セーラはベッキーのエプロンをつかんだ。その手はぶるぶると震え、恐怖のあまり膝ががくがくして今にも崩れ落ちそうだった。
 ベッキーは大粒の涙を零しながら、またよくわからない言葉を漏らした。
「ああ、お嬢様、お許しくださいまし。私は死のうと思ったのです。お嬢様と同じように、死のうと思ったのでございます」
「ど、どうして!? だって、ベッキーには帰る家もあれば、家族だっているのでしょう?」
 もちろん、帰る家があってもそれでいつでも帰れるならば、初めからこんなところで働いていない。いつものセーラならばそれくらい気付いたろうが、今はすっかり気が動転していて、そういった細かいことには気が付かなかった。
 もっとも、少なくとも今の場合はそれはどうでもよい問題だった。ベッキーは大きく首を振ると、真っ直ぐセーラを見て言った。
「ですが、セーラお嬢様がいなくなってしまいます」
「ベッキー……」
 ベッキーはセーラの手をギュッと握ると、懇願するような眼差しでセーラを見つめた。
「私はお嬢様に死んで欲しくありませんし、死ぬだなんていう言葉も聞きたくありません。だから、私が死ねば、セーラお嬢様はきっと死のうなんて思われないはずだって、そう思ったのです」
 そう言うと、ベッキーは込み上げてくる感情を抑え切れずに、声を上げて泣き出した。
 ベッキーはどうしてもセーラに思いとどまって欲しかった。けれど、学のない彼女は死のうとしている少女をどう説得してよいかわからず、もはや自分が死ぬ以外の方法を思い付かなかったのだ。生命というものをあまりよくわかっていない彼女は、セーラのためならばたとえ自分が死んでも構わないと、心からそう思っていた。
「ああ……」
 セーラはようやく自分が彼女に言ったこと理解した。
 今自分は、死のうとしているベッキーを見て心が張り裂けそうなほどの衝撃を受けた。気が動転して、どうしていいのかわからなくなって、無我夢中でベッキーにすがりつき、自分でもよくわからないことを口走った。
 ベッキーのいない生活を想像して、セーラは大きく首を振った。そんな生活は一日として耐えられないだろう。そう思った時、初めてセーラはベッキーの大切さがわかった。セーラはベッキーが側にいることを当たり前に考えすぎていたのだ。
 ベッキーがいなくなってしまったら悲しい。そして、いなくなってしまったら悲しいような人間がすぐ近くにいるから生きていられる。
 セーラが死ぬと言った時、ベッキーも今のセーラと同じように思ったはずだ。いや、ベッキーが近くにいて当たり前だと感じていたセーラよりも、元々遠い存在だったセーラが側にいる喜びを常に噛みしめているベッキーの方が、より強くその悲しみや絶望を感じたはずだ。
「ごめんなさい、ベッキー。本当にごめんなさい」
 セーラはベッキーをしがみつくようにして抱きしめた。腕の中にベッキーの温もりを感じた時、胸の奥が熱くなって涙が溢れた。この温もりがなくなってしまうなんて、そんな恐ろしいことは考えることさえできない。
 ベッキーは同じようにセーラを抱きしめようとして、慌ててその手を引っ込めた。そしてしばらく自分の想いをどうしたら言葉にできるか考えて、どうしても上手い言葉が浮かばなかったから、しょうがなしに思い浮かぶまま喋った。
「あの……私も、お嬢様を……その、抱きしめてもいいのでしょうか」
 セーラはますます腕の中の少女が愛おしくなった。自分は一体、どうしてこんな心優しい少女にあんなひどいことを言ってしまったのか。すべて空腹のせいだとしたら、飢えるとはなんて恐ろしいことなのだろう。
「もちろんよ、ベッキー。私からお願いしたいくらいよ。あんなひどいことを言ってしまった私を、もしも許してくださるなら、思い切り抱きしめてちょうだい」
「はい、お嬢様!」
 ようやくベッキーは、胸の中のセーラを強く抱きしめた。
「私は、心優しいお嬢様が大好きです。ずっとお側にお仕えいたします。私なんかじゃ、お嬢様のご負担を何一つ軽くして差し上げられないかも知れませんが、それでも、もう死ぬなんておっしゃらないでください。どうか、お願いですから」
「そんな、ベッキー。ごめんなさい。あれは全部、本当の私が言った言葉ではないのよ。私はあなたが好きよ? ごめんなさい、ベッキー。私は本当にあなたを傷付けてしまったのね」
「お嬢様……」
 ベッキーは感極まって、思い切りセーラの細い身体を抱きしめるとむせび泣いた。本当は大きな声を上げて泣きたかったけれど、それはできなかったから、ただ肩を震わせて嗚咽を漏らした。
 セーラはそんなベッキーの肩や背中を優しく撫でてやりながら、自分も少しだけ泣いた。


 天窓からしばらく星を眺めてから、セーラは静かにベッキーに尋ねた。
「ねえ。ベッキーは、どうして生きていられるの?」
 その質問は、ベッキーには難しかった。また変な答え方をして怒られたくないと思ったので、ベッキーはおどおどしながらセーラを見上げて、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、お嬢様。お嬢様の言っていること、よくわからないです」
 セーラは窓から視線を部屋に戻して、下働きの仲間に優しく微笑みかけた。
「つまりね、ベッキー。楽しみもない、したいこともできない、満足に食事も与えられなければ、辛い仕事だけが私たちを歓迎してくれるような、この生活を……。しかも、それはまったく終わる様子がなくて、いつまでもいつまでも続きそうなのに、一体どうすれば耐えていけるのか、それを知りたいのよ」
 もう死のうとは思わない。けれど、死のうと思った理由それ自体が消えたわけではないのだ。
 心の拠り所を探さない限り、自分はまたダメになってしまう。挫けてしまう。セーラは、ずっと昔から今の自分と同じ立場にいる先輩の少女にそれを教えて欲しかった。
 ベッキーは自分が頼られているのがわかったから、唸り声を上げて考えた。正直、まだセーラの言っていることは難しかったけれど、それでも何としてもセーラの期待に応えたくて、恐らく生まれてきてからこれまで考えた分と同じくらいものを考えてから、ようやくそれらしい答えを見つけて顔を上げた。
「私には、これが当たり前ですから。ずっとこういう生活をしてきましたし、逆にこれ以上の生活は考えられません。でも、辛いことばかりですけど、こうしてセーラお嬢様のような方にも出会えましたし、私の知らないお話をいっぱい聞かせてもらえました。私は今、すごく幸せです」
 そう言ったベッキーの瞳には、一点の曇りもなかった。今の生活が幸せだなどと、セーラには考えられないことだったが、ベッキーの言ったことは十分納得できた。
「でも、それは私には妥協にしかならない……」
 再び窓から空を見上げてセーラは呟いた。
 ベッキーは「妥協」という言葉を正しく解釈できなかったので、黙ってセーラの横顔を見つめていた。
 自分が楽しいと感じていたことを何一つすることができない今の生活は、セーラには幸せではない。これを幸せだと思うには、もっとひどい生活をしている人たちのことを考えて、その人たちよりはましだと考える以外に方法がない。つまりそれは、妥協だ。
 ベッキーはやはり言いよどむ素振りをしながら、それでもはっきりと自分の考えを伝えた。
「お嬢様。私は決して豊かな生活をしておりません。ですが、そんな生活の中にも幸せなことと、そうではないことがあって……今はお嬢様のおかげで幸せでございます」
「ベッキー?」
 セーラは彼女が何を言おうとしているのか今ひとつ理解できずに、怪訝そうに彼女を見た。ベッキーは一生懸命考えながら、生きることに希望の持てないセーラを励ますために言葉を続けた。
「だから、その、お嬢様にもきっと、幸せなこととそうではないことがあって、今はそうではない時だと思うのです。私もここに来てしばらくは、自分が幸せではないって思ってましたが、お嬢様と出会って、すぐに幸せになりました。だから、その、お嬢様も……」
 顔を赤くしながら、持ち合わせる少ない言葉を必死に繋ぎ合わせて気持ちを伝えようとするベッキーに、セーラは優しく微笑み、それをやめさせた。セーラは彼女の言いたいことを、彼女自身以上に正しく理解したのだ。
「つまり、未来を信じましょうってことね?」
 そう言って笑ったセーラの顔を見て、ベッキーは満足して頷いた。「未来」と言われても、何か自分が死んでしまったそのさらに後のことのような気がする彼女には、やはりセーラの言ったことはよくわからなかったけれど、セーラの顔を見てもう大丈夫なのはわかった。大切なのはそのことなのだ。セーラが大丈夫になってくれれば、そのきっかけは何も自分である必要はない。
「はい、お嬢様。その、未来を信じましょうということでございます」
 自分の言いたかったことは「未来を信じる」ということなのだと、逆にセーラに教えられて、ベッキーは感謝の意も込めて深く頭を下げた。
 セーラは明るく笑って、腰かけていたベッドから立ち上がった。そして正面からベッキーを見下ろして、昔の公女然とした瞳と口調で言った。
「ベッキー。私はあなたに約束します。もしも未来が私に微笑みかけてくれたら、私は必ずあなたを、今より幸せにしてあげます」
 ベッキーは、やはりわからなかった。ただ目の前の気品溢れる少女は、自分をもっと幸せにしてくれるらしい。これ以上の幸せというのは、もはや実体験からではなく、想像でしか考えられないが、きっとそれは素晴らしいことなのだろう。
 ベッキーは同じように腰を上げて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お嬢様」
 セーラはそんなベッキーの手を取り、にっこりと笑った。
「それまで、二人で頑張りましょう。あなたには私が必要だし、同じくらい私にもあなたが必要だってわかったわ」
「そんな、もったいないお言葉です」
 もう一度、二人はしっかりと抱きしめ合った。
「本当にありがとう、ベッキー」
 小さく呟いたら無性に胸が熱くなり、セーラは顔を赤らめて涙を零した。
 きっともう大丈夫だ。挫けることもあるだろうけれど、今のベッキーがそうであるように、ベッキーにとっての自分と同じような存在がきっと自分にも現れて、幸せを与えてくださる。必ずその日は来る。でなければ、あまりにも運命は残酷すぎるではないか。
(私は未来を信じるわ、ベッキー。あなたが私を信じてくれるのと同じように……)
 セーラは真摯な瞳で前を見つめた。ベッキーの髪の毛の向こうに見えるのは薄汚れた壁だけだったけれど、セーラの目には綺麗なドレスを着た自分と、その傍らで微笑んでいるベッキーの姿が映っていた。
「ベッキー。また明日から頑張りましょうね」
 二人は身体を離し、にっこりと微笑んで頷き合った。
 できることを精一杯する他にはないのだ。今できることは、日々を強く生きることと、未来を信じること。
「それじゃあ、また明日ね、ベッキー」
 ドアのところで小さく微笑んで、セーラは明日を強く生きるために自分の部屋に戻っていった。
完  


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