『 明日も青い空の下 』



 ピピピピッ、ピピピピッ……。
 いつもの目覚まし時計の音がする。
「んん……」
 オレは掛け布団を頭の上まで引き上げて、再び固く目を閉じた。
 ピピピピッ、ピピピピッ……。
 ややくぐもった目覚ましの音。気にならないでもないが、寝られないほどでもない。これは根気の勝負だ。
 オレは必死に寝ようと試みた。
 ピピピピッ、ピピピピッ……。
 音はなかなか鳴りやまない。だんだんイライラしてくる。
 確かうちの目覚ましは、5分くらい鳴り続けたはずだ。結構しぶとい。
 いつもはさっさと起きて切ってしまうのだが、今は春休みの真っ最中。昨夜、ついいつもの癖で、何気なく目覚ましをセットして寝たのが悔やまれる。
 もっとも、目覚ましをかけたことさえ記憶にないほど、無意識にしたのだが。
 ピピピピッ、ピピ……。
 やがて、オレの根気に堪えかねて、目覚まし時計が沈黙した。よしっ、これで心地よく眠れる。
 オレは再び微睡みの中に身を投じた。その時……、
 ピンポーン。
 玄関のベルが鳴り、
「浩之ちゃん!」
 そう、窓の外からあかりの大きな声がした。
 なんだ?
「浩之ちゃ〜〜〜ん」
 それがもう一度。
 ええい、うるさい。
 それはまるでいつもの朝だったが、妙だ。今日はまだ春休みのはず。オレは目覚まし時計にもあかりにも起こされる必要はない。
 そうか! あかりの声が聞こえてくるのは、実は夢なんだ。
 よしっ、寝よう。
 ピンポーン、ピンポーン。
「浩之ちゃん。ねえ、浩之ちゃんってばぁ。浩之ちゃ〜〜〜〜ん!! 浩之ちゃん、起きてよぉ」
 …………。
「浩之ちゃん? 浩之ちゃ〜〜ん!」
 …………。
「浩之ちゃん!」
 ……何て言うか、その、あれだ。
 恥ずかしい。
 オレは布団を跳ね上げて、今日の日付を確認した。
 3月31日、月曜日。
 大丈夫だ。間違ってない。まだ春休みの最中だ。
 しかし、だったらどうしてあかりの奴が起こしに来るんだ?
 オレはベッドから起き上がって考えた。
 思い当たるのは、補習。確か学年末試験の出来が悪かった奴は、春休みに補習を受けなければならなかったが、幸いオレは無事にクリアした。あんなものにひっかかる奴は、よほどのバカしかいない。
 オレの周りには、生憎そんなバカはいない。……あっ、一人いたか。
 どちらにせよ、あかりは補習を受けたりはしないから、そうではなさそうだ。
 だとしたら……まさか、登校日!?
 実はオレは覚えてないが、体が記憶していて、昨日無意識に目覚ましをかけたとか!
 それならば納得がいく。いや、そうに違いない。
「浩之ちゃ〜〜〜ん!!」
「おうっ、あかり。ちょっと待て!」
 オレは大声でそう返事しながら、カーテンを引き開けた。
 途端に差し込んでくる眩しい朝の光。恐ろしいほど天気がいい。
 すぐに踵を返して時計を見る……もう時間がない。
 オレは朝食を食べるのを断念した。まあ、所詮登校日なんてのは、学校自体は早く終わるから、帰ってきてからのんびり食べるも良し、帰りにあかりを引き連れてどこかに入るも良し。
 ハンガーに掛かっている制服を着て、階下に駆け降りる。何だかんだと、もうすっかり目は覚めてしまっていた。
 適当に身だしなみを整えて、オレは玄関にダッシュした。そして勢い良くドアを開ける。
「おう、待たせたな、あかり」
 ところが……。
 そこに立っていたのは、なんと私服姿のあかりだった。
「なっ!」
 オレは驚きに思わず言葉を失った。しかし、当のあかりは、オレの数倍驚いた顔をして、怪訝そうに聞いてきた。
「浩之ちゃん、制服なんて着て、どこに行くの?」
 オレが聞きたい。
「登校日じゃねぇのか? 今日」
「登校日? そんなのあったっけ?」
 逆に自分が忘れていたのではないかと心配するあかり。オレは間抜け面のまま、あかりに聞いた。
「いや、だったらお前は、何しにこんなに早くオレを起こしに来たんだ?」
 すると、あかりはにっこり笑って、空を指差した。
「ほら、今日すごく天気が良かったから」
「……で?」
「うん。それで浩之ちゃんと一緒に、河原で日向ぼっこでもしようと思って」
 …………。
 マジか?
「……あかり」
 低くオレが呼びかける。
「な、なぁに?」
 そんなオレのただならぬ気配を察知してか、あかりが少しだけ肩をすぼめた。
 オレは溜め息半分、あかりの肩に手を置いて真顔で聞いた。
「まさか……まさかだと思うが、本当にそれだけのために、こんなに朝も早くからオレを叩き起こしたのか? 実はまだ何かあるよな? まさかそれだけってことはないよな?」
「えっ? ど、どうして? それだけだよ」
 どうしてオレが怒っているのかわからずに、あかりが困ったようにそう言った。
 はぁ……。
 オレはもはや怒る気力も消え失せて、ただやる気なく肩を落とした。
「どうしたの? 浩之ちゃん」
 不安げにオレの顔を覗き込むあかり。
 何て疲れる朝なんだ。
「何でもない。とりあえずオレはパス。誰か他の奴誘って行ってくれ」
「えっ? そ、そんな……」
 びっくりしてあかりが慌ててオレを引き止める。
「だって、ほら、お弁当ももう二人分作っちゃったし」
「だったら誰か他の奴一人誘えばいいだろ?」
「ダメだよ。浩之ちゃんの好物が選りすぐってあるし」
「オレの好物なら誰でも食べれるはずだぞ」
「私は浩之ちゃんに食べて欲しいの!」
「わがままな奴だなぁ」
 オレがわざと呆れたようにそう言うと、あかりはふてくされて、上目遣いにオレを睨んだ。
「浩之ちゃんのケチ」
「ケチって、お前なぁ……」
「いいじゃない。どうせ寝てるだけなんだし」
 あっ、ちょっとカチンときた。
「お前、朝からオレにケンカ売りに来たのか?」
「えっ?」
 さすがはあかり。オレの微妙な心境の変化をすぐに察したのだろう。慌てて両手を振って取り繕った。早いフォローだ。
「ち、違うよ、ホントに。嫌みじゃないよ。ただ、本当のことを言っただけで……」
 前言撤回。全然取り繕ってねえ。
「それを嫌みというんだ」
「ごめん……」
 申し訳なさそうにあかりが目を伏せる。
 何となく気まずい雰囲気だ。このまま追い返したら、どちらも今日一日気分良くは過ごせないだろう。
 ふとあかりの言う、「すごく天気の良い」外に目を遣った。少し風が強い。あかりの型を変えたばかりの髪がなびいた。それが日の光を受けて白く光る。
 確かに穏やかでいい天気だった。あかりの言う通り、残念ながらここであかりを追い返したところで、することはない。せいぜい寝っ転がって、ため込んだビデオを消化するくらい。
 だったら、久しぶりに外に出てみるのもいいかもしれない。オレは前向きに、そう考え直すことにした。
 あかりはまだ俯いている。
 オレはわざと「しょうがないなぁ」というふうに言った。
「わかったわかった。せっかくだしな」
「ホント?」
 素直に喜ばず、不安げな眼差しであかり。自分から誘っておいて、こいつは……。
 まったくあかりらしい反応だ。こいつはいつもこうしてオレに気を遣う。
「ああ、本当本当。実はオレも、たまには外に出たいと思ってたんだ」
 嘘付け、オレ。
 あかりも嘘を看破したようだが、それでも嬉しそうに、
「ありがとう」
 と、笑顔を見せた。その後に、「ごめんね」と付け加えなければ、100点だったのだが……。
「そんじゃあ、着替えてくっからちょっと待ってろよ」
「うん!」
 オレはあかりの笑顔を確認してから、慌てて部屋に引き返した。


 むしろ暑いくらいの日和だった。ついひと月前までは、まだ「寒い寒い」と身を縮こめていたものだが、もうすっかり春めいて、強めの風も心地よい暖かさだった。
 月曜日の朝。オレたちは春休みだが、もちろんサラリーマンには会社があり、いつもの公園や商店街にも、彼らの姿がちらほらと見られた。
 むしろオレたちがこの風景と調和していない。こんな朝早くから、若い男女が二人、私服姿で歩いている。デートだって普通はこんな時間にはしないだろう。
 周囲の興味津々の眼差し。あかりには悪いが、オレも当事者でなければあちら側に回って、あかりをそういう目で見ていただろう。いつもならこの時間、オレはまだ寝ているはずだから。
「ねえ、浩之ちゃん。昨日、何してた?」
 あかりは全然気にしてないように、オレを見上げて不意にそう聞いてきた。
 昨日?
 オレは腕を組んで考える。
「昨日か? 昨日は昼に起きて、バラエティー番組見て、ビデオ見て、飯食いに行って、それから風呂入って、マンガ読んで寝た」
「……じゃ、じゃあ一昨日は?」
「一昨日? 一昨日も確か昼に起きて、気が向いたから洗濯して、飯の買い出しに行って、ついでに緒方理奈のニューシングル買ってきて、家に帰ってきてからそれを聴いて……」
「ひ、浩之ちゃん」
「何だ?」
「その、面白いの? その春休み」
「別に……」
「…………」
 河原は、子供の頃通った小学校を通り越し、さらに1キロほど歩いたところにある。商店街を抜けると、少しずつ人の数が少なくなっていき、小学校の前を通る頃には、ついに周りに人がいなくなった。
 オレはあかりと二人でくだらない話をしながら、ちらりと横目に小学校を見た。
 そういえば、こうして小学校の前を通るなんて、何年ぶりだろう。
 ふとそう思ってオレが足を止めると、あかりも同じことを思ったのか、
「懐かしいね……」
 と、ぽつりと呟いた。
「ああ……」
 高校はこの小学校とは反対の方向にあり、中学も方向こそ同じだが、橋を一本違える。だから、こうして小学校を見るのは実に久しぶりだった。
 すべてのものが小さく目に映る中、思い出だけが心の中で大きく膨らんでいた。
「色んなことがあったね……」
 あかりが呟く。
「そうだな……。あかりは、どんなことが一番印象に残ってんだ?」
 オレがちょっと浸りながらそう聞くと、あかりは校門から校舎の方を見つめたまま、しばらく考えた後こう言った。
「う〜ん。色んなことがありすぎて、あんまりよく覚えてないや」
 ……やっぱり、こいつはあかりだ。
「お前って、何て言うか、あかりだな」
 なんだそりゃ。
 あかりは、オレを見上げてくすりと笑った。
「浩之ちゃんも、そういうとこ、すごく浩之ちゃんだね」
「バカ」
 河原に近付くにつれて、どんどん閑散としていく。道も細くなってきて、オレはまるで違う国に来たような気分になった。
 それはちょっと大袈裟か。
 風がいっそう強くなって吹いていた。ふとあかりの方を見ると……。
 ぶわっ、といきなりスカートがはためいて、
「きゃっ!」
 と、小さくあかりの悲鳴。
 あかりは慌ててスカートを押さえながら、赤くなってオレを睨んだ。
「見えた?」
「おう、バッチリ見えたぜ。水玉パンツだったな」
「良かった。見えてないんだね?」
 ほっと安心したようにあかりが言う。
 心外な!
「嘘付け。オレの目には確かに水玉に見えたぞ」
「そんなこと言ったって、今日は水玉じゃないから……」
「ほう。じゃあどんなん穿いてんだ?」
「普通の白……」
 そう言って、ますます赤くなって俯くあかり。なんて単純なんだ。
「なあ、あかり」
 堤防への階段をゆっくり上りながら、後ろをついてくるあかりにちょっと真面目に言った。
「なぁに?」
 あかりはいつもの笑顔でオレを見上げている。オレは再び前を向いて続けた。
「本当のところ、どうして今日河原に来たんだ?」
 実は結構、気になってたりする。あかりはあの時「それだけだ」と言ったが、それにしてもこんなに早く来る必要はなかっただろう。
 本当は、何か他に理由があるのではないだろうか。
 オレがそんなことを考えていると、あかりはやはり何かあるのか、深刻そうに頷いた。
「うん。実はね……」
「おう。実は?」
 オレは堤防を上り切り、振り返って尋ねた。
「実は……志保がね」
「志保?」
 不吉な名前だ。嫌な予感がした。
 あかりはそんなオレの様子に気付かず、足下を見つめながら続ける。
「昨日志保と電話してたんだけど、その、志保が、『ずっと家に籠もってると、その内、体にカビが生えるわよ』って……」
「……ほう」
 思い切りバカにした目でオレがそう言ったが、あかりはこっちを見てないから気付いていない。オレがどんな顔をしているかも知らず、しんみりとしたままあかりは続けた。
「人間も実は日の光を浴びて、体の中で何らかの反応を起こしてるんだって。だから長い間外に出ないと、体にカビが生えてくるって。志保は、『あたしは幸いなことに補習があるから、毎日外に出てるけど、ヒロ、そろそろやばいかもよ』って。だから私、心配になって……」
 そこであかりはちらりとオレの顔を見上げて、
「きゃっ!」
 と、驚いて声を上げた。
 オレはしら目、オレの造語で「しら〜」っとした目のことだが、そんな目であかりを見つめ続けたまま、同じく『しら口調』で聞いた。
「で、まさかあかり、それを信じたとか?」
「えっ? だって、何だか科学的だったし……」
「まさかお前、『志保って、浩之ちゃんのことすごく心配して、友達思いだなぁ』とか、そんなくだんないこと考えなかったか?」
「そ、それは……」
 狼狽するあかり。どうやら図星のようだ。
 オレはできるだけ大袈裟に溜め息を吐いて、ポンと軽くあかりの肩に手を置いた。
「じゃあ何だ? あかりは入院患者とか、寝たきりの老人は、みんなカビだらけだって言いたいんだな?」
「あっ、そう言われてみるとそうだね」
 えへへ、と照れながらあかりが笑った。どうしてこいつはこうも単純なんだ。
「もういい。とにかく行くぞ」
 オレは呆れながら堤防を渡った。
 それにしても志保の奴、自分一人が補習を受けさせられた腹いせに、こんな陰険な手を使ってオレの安眠を妨げるとは。
 ナガシホ許すまじ!


 堤防には、誰もいなかった。
 当たり前だ。まだ9時だぞ。
「誰もいないね」
 妙に嬉しそうにあかりが言う。
「私と浩之ちゃんだけの世界みたい」
「オレは嫌だぞ、そんな世界」
「どうして?」
 少し寂しそうにあかり。
「絶対に飽きる。自信がある」
「ええっ!? 私は飽きない自信があるよ」
 オレを見上げてあかりがそう力説する。もう少し恥ずかしがって言って欲しいものだ。聞いてるこっちが照れるではないか。
「うしっ。じゃあ今日は飽きるまで二人でいるとするか」
 オレがあかりの機嫌を取ろうと思ってそう言うと、
「うんっ!」
 よほど嬉しかったのか、あかりが満面の笑みで頷いた。
 ……やっぱり単純な奴。
 堤防から緩やかな土の道を下って、河原に出る。河原には小さな広場があって、ガキの頃はよく遊びに来たものだ。
 広場には、滑り台や平均台遊具ヴァージョンなどが並んでおり、ベンチも幾つかあったが、オレたちは草の上にあかり持参のシートを敷いて、そこに腰を下ろした。風はあるが、暑いくらいの気温と調和して、ポカポカしていて気持ちいい。
「昔はよくここで遊んだね」
 あかりがはしゃいでそう言った。
「ああ」
「春通ちゃん、典久ちゃん、豊樹ちゃん、久義ちゃん……。浩之ちゃんと雅史ちゃん以外、みんな高校バラバラになっちゃったけど、今頃みんなどうしてるかなぁ」
「さあな。典久とはこないだ連絡取ったけど、元気そうだったぞ。彼女が出来たって喜んでた」
「ええっ!? 典久ちゃんに彼女が!?」
「らしいぜ」
「そっか……」
 感慨深げに呟いて、あかりは両手を後ろについて空を見上げた。オレもつられて空を仰ぐ。
 真っ青な空の高いところに、うっすらとすじ雲がかかっている。風は強いが、空高くの雲はほとんど動かない。
「みんな、変わってくね……」
 ぽつりとあかりが呟いた。
 それからしばらく、二人でぼんやりと空を眺めていた。30分くらいはそうしていた気がする。その間に、今度は空の低いところに、小さな雲が浮かんでは風に流れて消えていった。
 やがてあかりが身を起こして、広場の方を見て言った。
「ねえ。今の子たちも、やっぱり私たちみたいにこの広場で遊んだりするのかなぁ」
「さあ、どうだろうな」
「やっぱり浩之ちゃんみたいないじめっ子がいて、私みたいないじめられっ子がいて……」
 こいつ!
 言われるだけでは癪なので、反撃することにした。
「ただ、うちの小学校じゃ、この広場で遊ぶの禁止だからな。案外もういないかも」
「…………」
 あかりがオレの言いたいことを察してか、露骨に警戒する。オレは構わず続けた。
「オレたちの頃は自由に遊べたんだよな。でも、誰かがここで川に落ちて怪我したせいで、それっきり禁止になっちまった」
 誰か……他でもない。今オレの横で複雑な顔をしているあかりのことだ。初めて自転車に乗れた日、オレがここにつれて来たらいきなり川に落ちやがった。
 その時運悪く川が増水していて、あかりは橋桁に叩き付けられて全治1週間。オレは親に怒られ、先生にも怒られ、挙げ句、ここで遊ぶのさえ禁止になった。
 もちろん、オレにも非はあるのだが。
 オレがその日のことを懐かしんでいると、
「浩之ちゃん」
 あかりが寂しそうに笑ってオレの名を呼んだ。
「何だ?」
 にやにやとオレ。ところがあかりは、オレの予想に反して、いけしゃあしゃあとこう言ってきた。
「浩之ちゃん。その子だってきっと悪気があったわけじゃないと思うの。たぶん、ここで遊ぶのが好きだったんだと思うよ。だからその子を恨まないで。可哀想だよ」
 白々しい!
 それだけなら黙殺して済ます予定だったが、あかりはさらに余計な一言を付け加えてきた。
「でもその子、ここで遊び慣れてたはずなのに、どうして落ちたりしたんだろ。たぶん、何か原因があったんだと思うよ。きっと悪いのはその原因の方で、その子は何も……痛っ!」
 とりあえず、軽く頭を叩いておいた。
 太陽が昇るにつれて暑さが増し、ちらほらと人影が見られるようになった。
 犬の散歩をするおじいさん、広場で遊ぶ子供たち、それの付き添いが目的か、井戸端会議が目的かよくわからない若い奥さん方、それから、ベタベタとくっついているカップル。
 オレたちもひょっとしたら、そんなカップルの一グループに見えるのかも知れない。
 グウゥゥ。
 いきなりオレの腹が鳴って、あかりの奴が小さく笑った。
 そいえば朝飯を食べてなかったような。
「ふふふ。少し早いけど、お昼にしよっ」
 そう言いながら、あかりが弁当を開く。中には、オレの好物というよりむしろ、非常にオーソドックスなものが並んでいた。
 あかり特製おにぎりに、ウインナー、唐揚げ、卵焼き、等々。ちなみにおにぎりだが、実に普通のおにぎりである。どこがどう「あかり特製おにぎり」なのかは、あかりが命名したからよくわからない。聞いても教えてくれないが、オレが「普通のおにぎりじゃん」と言うと、怒る。
「これは『あかり特製おにぎり』なの! 浩之ちゃんしか食べられないんだからね!」
 中学校の時、初めてその名を聞かされたときのオレの発言を受けて、そう力説したあかりの顔が、妙に懐かしく、また滑稽に思えてオレは思わず笑ってしまった。
 そんなオレを見て、あかりが不思議そうな顔をする。
「どうしたの? 浩之ちゃん」
「いや、何でもない。相変わらずあかりは芸が細かいなって思ってよ」
 そう誤魔化しながら、オレは小さな箸でウインナーをつかむ。
「ほれ。足が八本ある。こんなウインナー、あかりしか作らねぇぞ」
「ええっ!? そうかなぁ」
「そうだよ」
 そうして楽しい飯の一時も終わり、オレはごろりと横になって、一度大きな欠伸をした。
 あかりがまたお姉さんぶって、「ふふふ」と笑う。似合わん。
「眠たい?」
「ああ、誰かさんのおかげでな」
 ぶっきらぼうに言い放つ。しかしあかりは、そんなオレのあしらい方はよく心得ているらしい。
「おかげだなんて。私、そんなに感謝されることしてないよ」
「じゃあ言い直す。誰かさんのせいでな」
「……志保も悪気はなかったんだよ」
 お前だって!
 まったくこいつは。
「ねえ、浩之ちゃん」
「今度は何だ?」
「膝、貸してあげよっか」
 …………。
「二つあれば十分だ。心遣いだけでいい」
「そうじゃなくて、ほら」
 そう言ってあかりが指差したのは、無数のカップルの内の一つだった。男が彼女の膝の上で気持ちよさそうに眠っている。
「いいよ。恥ずかしい」
 オレは小さく手を振った。
「ええっ!? そうかなぁ」
 結構諦めの悪い奴だ。普通、膝枕とは、男の方からせがむもんじゃねぇのか?
「大体あかりの貧弱な太股じゃ、硬くて枕にならん。まだ自分の腕の方がましだ」
「そんなことないよ。いつの話してるの?」
「小学校」
「ほら。そんな4年も5年も前の私と一緒にしないで。私だってだいぶ肉付きが良くなってきたんだから」
「太ったのか?」
「お尻と胸はね」
 にっこりとあかり。
 でも、胸は嘘だろ。
「ってことで、はい」
 う〜む。どうしてもオレに頭を乗せて欲しいらしい。
 …………。
 …………。
 ……まあいいか。
「じゃあ遠慮なく」
 拒み続けることに大した意味を見出せなかったので、オレは素直に……その過程は素直ではなかったが、とりあえず今は素直に頭を乗せた。
 オレの想像していたよりは、確かに柔らかくて気持ちが良かった。髪の毛越しに、ほのかにあかりの温もりが伝わってくる。
「どう?」
「気持ちいいぜ」
「そう。良かった……」
 あかりの笑顔の向こうに、青い空が広がっていた。川の波立つ音が足の方から聞こえてくる。
 風は相変わらず心地よい。
「ねえ、浩之ちゃん」
 意識の遠くからあかりの声。子守歌のようだ。
「何だ?」
 どこか遠くでオレが言う。
「うん。寝ちゃってもいいから聞いて」
「おう」
「その……」
 そう切り出して、あかりの指がオレの髪に触れた。
「たまにはいいよね。こうして、昔の自分に会いに来るのって」
「現実逃避とも言うぞ」
「違うよ。思い出を大切にしてるだけ。現実はしっかり見据えてるよ」
「そうか……」
 あかりの手がオレの髪を撫でる。恥ずかしいが、気持ちいい。
「昔よく浩之ちゃんたちにいじめられたことも、かくれんぼのことも、自転車のことも、中学校に入ってから、一度浩之ちゃんに嫌われちゃったことがあって、でも仲直りして、運動会があって、文化祭があって、合唱大会、ボウリング大会、ソフトボール大会、キャンプで見た流星群、それに受験のこと。浩之ちゃんとの思い出、びっくりするくらい思い出せる」
「面白い中学校だったからな。隆史と幡野、それから悔しいが志保の奴と、学校生活を盛り上げる天才が三人もいたし」
「うん。でも、私が思い出せるのは浩之ちゃんとの思い出ばかり。志保も幡野さんも確かに面白い企画を立てるのはすごかったけど、私にとって重要なのは、それに浩之ちゃんと一緒に参加したってことなんだよ」
「そうか……」
 あかりの奴、完全に雰囲気に酔ってるようだ。でも、恥ずかしく思わなくなり始めてるオレも、少し感覚が麻痺してきたらしい。
「この河原もあの青空も、昔と何にも変わってないね。ちゃんと昔の私たちをとっておいてくれてる。いつもは思い出さないようなことも、ちゃんと思い出させてくれる」
「いや、この河原も思い出も、オレには全部変わったように見えるぞ」
「えっ?」
 あかりが驚いたようにオレの顔を覗き込んだ。
 オレは目を閉じて、小さく微笑み返す。
「河原は小さくなった。それから、思い出はどんどん綺麗になっていく」
「……そっか」
 何を思ったのか、少しだけ嬉しそうにあかり。
「そうだね。ごめん」
「別に謝ることじゃねぇだろ?」
「うん……」
 それからわずかな沈黙。そしてまた、静かにあかりが話し始めた。
「浩之ちゃん、いつも本当にありがとう」
「……何がだ?」
「浩之ちゃんがどう思ってるかわかんないけど、私、本当に浩之ちゃんのおかげで楽しく暮らしてると思う。毎日が、本当にピカピカ輝いて見える。浩之ちゃん……は?」
「オレは……」
 そう切り出して、腕を組む。
「オレはよくわかんねぇな。毎日は楽しい。あかりといるときは確かに楽しい。でも、雅史といるときだって楽しいし、志保といるときだって……たまには楽しい」
「そう……」
「でも、あかりには感謝してるぞ」
「ホント?」
 パッと顔を輝かせてあかり。
「おう。寝てると起こしに来てくれるだろ。たまに飯を作ってくれるだろ。いじめてて飽きねぇし……」
「…………」
「……冗談だ」
 そう言いながら、オレは体勢を仰向けからうつ伏せに変えて、顔をあかりの太股の谷間に埋めた。
「きゃっ!」
 あかりが小さく悲鳴を上げる。
 オレは気にせずに両手をあかりの背に回して……結果的には単にお尻に触るに終わったが、そうして顔を隠した。
 これなら、多少恥ずかしいことも言える。
「いつも細かいことに気を回してくれるし、オレのこといつも心配してくれる。それに、オレを好きでいてくれる。思い切り甘えても嫌な顔しない。両親がなかなか家にいないからな……。お前のおかげで、随分寂しい思いをせずにすんでる。今日だって、志保に騙されたとはいえ、オレを心配して来てくれたんだし。感謝はいつもしてるぜ。言葉にはならないけど……」
 あかりの太股……というか、もはやかなり下腹部の膨らみに近かったが、いい匂いがした。
 あかりがどんな顔をしてるのかはわからない。だから多分、あかりもオレがどんな顔をしているのかわからないだろう。どんな心境でいるのかも……。
 いや、あかりはわかってるか。
「良かった……」
 あかりの安堵の声。柔らかい五指が、ふわりとオレの髪を包み込んだ。
「ちゃんと、気付いててくれてたんだ……。私が、浩之ちゃんのこと、好きなこと……」
 オレは、何も聞こえない振りをした。
 このまま寝よう。起きているには、あまりにも気持ち良すぎる。
 そして、起きたらすべて忘れよう。少し恥ずかしいことを言い過ぎた。
 どうせあかりのことだ。照れながら「ありがとう」とか言うに違いない。そしたらオレは言ってやるんだ。
「何のことだ?」
 それからまたいつもの口喧嘩。拗ねたあかりの顔。
 オレは笑いながらあかりに感謝する。
 そうして今までやってきた。
 何も変わっていない。昔からあかりが好きだ。あかりも、昔からオレが好きだ。
 だから、明日もきっと面白い一日になる。
 その次の日も……。
 次の日も……。
 やがて始業式が来て、また学校が始まる……。
 ……そして、いつか……。
 …………。
 ……。


「っくしゅいっ!」
 自分の大きなくしゃみでオレは目を覚ました。
 まず冷静に自分の状態を確認する。
 相変わらず顔はあかりの上。もはや先程のような「下腹部」なんて誤魔化しはきかない。完全にあかりの股間に顔を埋めている。しかも、両手はしっかりとあかりの腰を抱きしめてだ!
 河原とはいえ、公衆の面前。
 変態だ!
 オレは慌てて飛び起きた。
「浩之ちゃん!?」
 勢い良く顔を上げたオレに驚いた様子のあかり。オレは気にせず空を見上げた。
 高みはまだ青いが、すでに日は随分西に傾いている。
「あかり! 一体オレ、何時間くらい寝てた?」
「えっ? 3時間くらいかなぁ。4時間くらいかも……」
「お前、その間、ずっとそうしてオレの枕になってたのか?」
「ううん。一回、お手洗いに行ったよ」
「いや、それにしてもだなぁ……」
 オレは溜め息を吐いた。
「さすがに飽きただろ?」
 オレが聞くと、あかりは困ったように首を振った。
「ううん、全然。どうしよう、浩之ちゃん。今日、帰れないよ」
「バカ」
 オレはもう一度溜め息を吐いた。
 それからあかりの方を見ると、あかりは妙に嬉しそうな顔でオレを見上げていた。
 来るっ!
 オレはそう身構えたが、あかりはオレの想像の一段上を行った。
「ありがとう……って言うと思った?」
「なっ!?」
 にっこりと笑ってあかりは続ける。
「ありがとうって言ったら、どうせ浩之ちゃん、『何のことだ?』って誤魔化すから、言わないよ」
「何のことだ?」
「ほら、やっぱり」
 楽しそうにあかり。いつからこいつは、こんなひねくれたガキになっちまったんだろう。
 ……オレか?
「まあいいや。今日はオレの負けだ。行くぞ、あかり」
 そう言ってオレが歩き出すと、すぐにあかりはそんなオレを引き止めて言った。
「待って、浩之ちゃん」
「何だ?」
 オレは足を止めて振り返る。あかりは真剣な眼差しでオレを見つめたまま動こうとしない。そして、ゆっくりと口を開いた。
「大切な話があるの」
「お、おう……」
「その、足が痺れて動けない……」
「…………」
「…………」
 …………。
「あかり……」
「うん」
「オレ、先に帰るな」
 そう言って、オレは踵を返した。
「ああっ。ちょっと待ってよ、浩之ちゃん! 助けてよ!」
「知るか!」
「そんなぁ。浩之ちゃんがいつまでも寝てるからいけないんだよ」
「バカ正直にオレに付き合うあかりが悪い!」
「ひどいよ。こんなところに一人にして、もし私が野良犬にでも食べられたら、どうするの?」
「そんときはオレがお前の分まで精一杯生きてやるから安心しろ。そしてここに来るたびに思い出してやるよ。そうすれば年が経つごとに、あかりも綺麗になれるぞ」
「まだ思い出にはなりたくないよ」
「わかった! 痺れる足がいけないんだ。あかり。自分の足に怒れ。オレは帰る」
「ああっ、浩之ちゃん!」
 背後でオレに悪態を付き続けているあかり。
 やっぱり口喧嘩になったか。
 オレはそう思いながら、あかりに感謝する。
 ありがとな、あかり。
 そうしてオレは帰路についた。
 たぶん夜、あかりから電話がかかってくる。そして、「ひどいよぉ」と怒るのだ。怒りながら、あかりはやっぱりお姉さんぶって、「もう、浩之ちゃんは子供なんだから」みたいな感じで話すんだろう。
 いや、それとも案外さっきみたいに、意外なことを言ってくるかもしれない。
 夜の電話が楽しみだ。
 その時、ふと気が付いた。
 あかりのことばかり考えている自分。あかりの反応を楽しんでいる自分。
 そうか。
「あかり……」
 オレは空を見上げて呟いた。
「オレも、どうやらあかりのおかげで、随分楽しく暮らしてるらしい……」
 もう西の空は薄暗い。いずれ天頂の青空も闇に変わって、星が瞬くことだろう。
 明日も晴れるといいな。
 オレは心からそう思った。
 もっとも、晴れたところで、どうせ一日中家でゴロゴロしてるだけだろうけど。
 気の早い一番星が、青い空に煌めいた。