目覚まし時計の音に、栞は朝の到来を知った。 無意識に時計を止めてから、掛け布団と一緒に半身を起こす。そして、 (ああ、今日もまたこうして、無事に朝を迎えることができたんだ……) ほっと胸を撫で下ろし、安堵の息を洩らしてから頭を振った。 もう自分に朝の到来は約束されたのだ。寝てしまったら、このまま二度と目を覚まさないのではないかと、夜を恐れていた日々は終わったのだと。 「ふぁ〜あぁ……」 両腕を思い切り上に突き上げるように伸ばして、大きく一度あくびをした。 自分でもびっくりするくらい大きな声が出てしまったが、気にすることはないだろう。 両手を下ろし、開いているのか閉じているのかわからないような半開きの目で部屋の中を見回すと、必死に外の光の進入を食い止めようと頑張っているカーテンが目についた。 相当苦戦しているらしく、寝るときには真っ暗だった部屋が、すでに物の色まで識別できるほど明るくなっている。外は今日もいい天気のようだ。 早く楽にしてあげよう。 そう思い、栞はベッドから起きあがると、両手でカーテンを引き開けた。 シャーーー! 小気味よい音とともに、視界が一瞬真っ白になって、思わず固く目を閉じた。それでもなお、まぶたを貫通して光が瞳を捉える。 「んん……」 薄く目を開くと、窓ガラスの向こう側、幾分やわらいだ光の中に春の景色が広がっていた。 家々の庭、点在する公園、至る所に桜の花が咲き乱れ、街を白く染め上げている。 5月。雪の季節は終わって、この街にもようやく遅い春がやってきた。 「きれい……」 呟きながら窓を開けると、まだほのかに冷たさを帯びた風が部屋の中に入り込んできた。 それがすぐにパジャマ姿の栞の身体を包み込んだが、寒いと言うよりもむしろ心地よい感じがして、栞は顔を綻ばせた。 美しい朝だった。ため息の出るほど美しい朝に、栞は思わず目を細め、込み上げてきた涙をぐっと堪えた。 (生きてるんだな、私……) あの日から幾度そう考えただろう。 そんな話をする度に姉に笑われたけど、どうしても思わずにはいられない。 生きて再び春を迎えられた喜びが大きくて、雪のないこの街の姿が眩しくて、そして、大好きな姉と一緒に毎日学校に行けるのが嬉しくて、ただ嬉しくて。 きっと絶望していた時間が長かったから、夢でしか見られなかった光景をなかなか受け止められないのだろう。 でも、このままじゃいけない。 いつまでも生きられた現実を喜ぶのは、まだ過去に囚われている証拠だ。 早くこれを当たり前のこととして受け止めて、前を向いて歩き始めよう。 やりたいことがたくさんある。 それをするだけの時間も与えられたけれど、失った時間があまりにも多すぎるから。 (いいお天気だし、今日は何をしようかな……) キラキラと瞳を輝かせながら、栞はグッとこぶしを握った。 また新しい一日が始まった。 ご飯とみそ汁とサラダという、いたってシンプルな朝食をとった後、栞はパジャマ姿のまま部屋に戻った。 そろそろ9時になる。今日は学校が休みの土曜日なので、のんびりしたものだ。 着替えようと思ってクローゼットを振り返ると、その取っ手にかかっている制服が目についた。 胸のところに、大きな青色のリボンがついている。 このリボンの色は学年ごとに違うのだが、3月まではここに緑色のリボンがついていた。 去年、授業の大半を欠席した栞は進級できなかったのである。 昔から、「お姉ちゃんと同じ制服を着て学校に行きたい」と言っていたことを受けて、姉の香里が元気になった妹に、 「もう一年留年すれば、あたしと同じ色のリボンをつけられるわね」 と笑った。さらに、 「でも、そうなるとあたしはもう学校にいないけど」 そう付け加えた。 「それじゃあ、お姉ちゃんがいなくなっちゃうから意味がないよ」 唇を尖らせて反論しようと思った矢先のことだったから、栞は言葉もなく不機嫌に顔をゆがめるしかなかった。 「お姉ちゃんの意地悪」 まだ寒さの残る4月始めのことだった。 栞はその時の姉とのやりとりを思い出して、くすっと笑った。 去年のクリスマスの夜、栞に病気のことを告げてから、香里は妹と一切口をきかなかった。 あたかも初めから妹など存在しなかったように振る舞い、栞のことを無視し続けていた。 そんな姉と、再び昔のようにくだらない言い合いができるのである。栞には、それが何よりも嬉しかった。 制服の袖の部分を触りながらしばらく顔をほころばせていたが、はたと気が付いて手を止めた。 (いけない。私、まだ過去に囚われてる) ブンブンと頭を振った。 それほど深刻な悩みではなかったけれど、できることならそろそろ新しい一歩を踏み出したい。 医師までもが「奇跡」と呼んだ、病根のすっかりなくなったあの日から早3ヶ月。 いつまでもその日の自分のままでいてはいけないと、今朝思ったばかりではないか。 (お姉ちゃんとお話ができるのは、もう特別なことじゃないんだから、からかわれた私は怒らなくちゃ……) 腰に手を当てて、無理に怒ってみる。 しかし、鏡に映った自分は、ぷっくりと頬を膨らませているだけで、怒っていると言うよりもむしろ、拗ねていると言った感じだった。 こんな顔を見せても、笑い飛ばされるだけだろう。 「よし。いつも私が困らされてるから、今日は私がお姉ちゃんを困らせてやろう!」 再び決意するように胸の前で両手を握って、栞はにっこり微笑んだ。 悪ふざけを思い付いた子供のように、胸がドキドキと高鳴っていた。 「今日という今日は、絶対にお姉ちゃんにぎゃふんと言わせてやるんだから!」 思い立ったが吉日と、栞は適当に服を引っぱり出して着替えを済ますと、ドアを開け放したまま勢い良く部屋を飛び出した。 コンコン。 2回ノックしてから、そっとドアを開けるや否や、 「ぎゃふん」 鏡台に向かったまま振り向きもせず、開口一番姉にそう言われて、栞は部屋の前に立ち尽くした。 「ぎゃふん」 さらに追い打ちをかけるように香里が繰り返す。 その声にはまるで感情がこもっていなかった。明らかに妹をからかっている。 「お、お姉ちゃん?」 困り果てて呟くと、香里はいたずらっぽい微笑みを浮かべて妹の顔を見た。 「おっきな声で、あたしにぎゃふんって言わせるんだって聞こえたから、優しい姉としては、妹のささやかな願いを叶えてあげたつもりだけど、いらなかったかしら?」 「うっ……」 思わず絶句し、全身で落胆ぶりを伝えてから、栞は悲しそうに言った。 「そんなこと言う人、大っ嫌いです」 「ふぅ……それは困ったわね」 香里はやれやれといったふうにため息を吐くと、持っていたブラシを置いて立ち上がった。 そして栞のところまで来て、そっと髪の毛をなでる。 「それで? 一体どうしたの?」 「あ、うん……」 なんとなく、このまま頭をなでててもらおうか、などと考えていた自分を慌てて部屋の中から追い出して、栞は当初の予定を遂行すべく顔をあげた。 「えっと、今日はその……」 いざ頼んでみる段になって、思わず口ごもる。 たぶんそれは、姉に無視され続けてきた日々の後遺症だろう。 我が儘を言ってもいいのだろうか。話ができるだけで満足するべきじゃないのか。 そんな姉に対する畏れと、せっかく仲良くなれたのに、また嫌われてしまったらどうしようという不安。 「その……」 悲しそうに俯いてから、ちらっと上目遣いに見上げると、姉は優しい眼差しで栞の顔を見つめていた。 少しだけ気持ちが楽になった。 「その、お姉ちゃん、今日……暇?」 やっとの思いでそれだけ言うことができた。 妹の言葉を聞いて、香里は目を丸くした。それからすぐに小さく笑い声をあげる。 「もう! えらく言うのに戸惑ってるようだから、一体どんなこと言われるんだろうって心配しちゃったじゃない」 「だ、だって……」 栞が非難の声をあげる。 そんな栞の頭に手を乗せて、香里は少しだけ寂しそうな顔をしてから、すぐに明るく笑って見せた。 「暇よ。どこか行きたいところがあれば付き合ってあげるし、何か教えて欲しいことがあれば、できる限り力になるわ」 「ほんと!?」 思わず目を輝かせて姉を見上げる栞。 そんな妹の満面の笑みを見て、香里はやはり悲しそうな表情をしたが、栞がそれに気付くことはなかった。 大きく一度深呼吸してから、ドキドキする胸の鼓動を抑えて、いたずらっぽく栞が言った。 「じゃあお姉ちゃん。今日は私と一緒にパフェ食べに行こっ!」 「パ、パフェ?」 妹の言葉に、姉の顔が硬直した。 商店街は人でごった返していて、かつて栞が見た中で一番の人出だった。 ゴールデンウィークに入ったばかりだし、天気の良いことも人出に影響しているのだろう。 ここが雪に埋もれていた頃は、今よりずっと少ない人に感激したものだが、今思い返すと、あれでもまだ閑散としていた気がする。 「わぁ、すごいね、お姉ちゃん!」 商店街の入り口にある大きなアーチの前に立ち、栞が感嘆の声を洩らした。 香里はというと、特別商店街の人出に感動したりはせず、むしろ混雑している今の状況を疎ましくさえ思っていたが、妹が喜んでいたから、「そうねぇ」と曖昧に微笑み返した。 栞はしばらく嬉しそうに入り口から商店街を見つめていたが、不意に姉の方を振り返って顔を曇らせた。 「お姉ちゃん……?」 姉はため息を吐きながら、憂鬱そうに立っていた。 家を出てからずっとである。 理由は商店街が混んでいるからではなく、栞の誘ったパフェにあった。 香里は甘い物が苦手だった。決して嫌いというわけではなかったが、好きこのんで食べたりはしなかった。 実際、栞は姉がパフェを食べているところを見たことがなく、聞いてみたら栞の前に限らず食べたことがないらしい。 正直、姉にパフェは似合わないと思う。だけど、だからこそ姉にパフェを食べさせてみたい。 それが栞の思い付いた、「お姉ちゃんを困らせてやろう」の内容だった。 だから、初めの内は姉の憂鬱そうな顔を見て「してやったり」と思ったものの、ここまでずっとそのままでいられると、だんだん罪悪感の方が大きくなってきたのである。 「お姉ちゃん、ひょっとして、すごく嫌だった? 私のために無理してくれてる?」 声を落として栞が聞くと、香里は驚いたように顔を上げて首を振った。 「あっ、ううん。別にそういうわけじゃないわよ」 「…………」 泣きそうな瞳で香里を見つめた。 朝の決意はどこへやら、栞の胸にはただ、姉に嫌われたくないという思いがぐるぐると渦巻いていた。 香里は妹の心境を敏感に察知してため息を吐いた。 「わかったわ、栞」 「お姉ちゃん?」 「ごめんね、いつまでも暗い顔してて。せっかく栞がおごってくれるって言ってるんだから、もっと喜ばなくちゃね」 そして姉は穏やかに微笑んだ。 おごるなどとは一言も言っていない栞だったが、姉の笑顔に嬉しくなって、それを突っ込むことはせずに大きく頷いた。 「うん。美味しいから、きっとお姉ちゃんも病み付きになるよ」 「はいはい。それじゃ、行きましょ」 「うん!」 すっかり元気になって駆け出した妹の背中を見ながら、香里は小さく首を振った。 どうやら腹をすえて行くしかないらしい。 大切な妹が明るく笑ってくれるなら、パフェくらいで陰鬱になることもないだろう。 それに、ただ何となく食べるタイミングを逸して、結局食べず終いで今日までずるずると来てしまったが、パフェは元々食べてみたいものの一つである。 「お姉ちゃん、どうしたのー?」 遠くから栞の怪訝そうな声が聞こえてきて、香里は顔を上げた。 見ると栞が人混みの中で手を振っている。 「何でもないわよ。大きな声で呼ばないで。恥ずかしいじゃない」 「今の台詞を大きな声で言ってるお姉ちゃんの方が、私より少し恥ずかしいよ」 「なっ!」 ふと気が付いて周りを見ると、道行く人々が足を止めて、愉快なやり取りをしている姉妹を見物していた。忍び笑いまで聞こえてくる。 「あ、あの子はまったく!」 香里は怒りと恥ずかしさに顔を真っ赤にすると、慌ててその場を後にした。 それから二人は、しばらく商店街をぶらぶらと見て回った。 すぐにパフェを食べに行ってもよかったのだが、朝ご飯を食べたばかりだったし、もう少しお腹を空かせてからにしようと思ったのだ。 服を見たり小物を見たり、宝石を見たりバッグを見たり、靴を見たり傘を見たりと、栞は姉の手を引きながら、商店街をくまなく散策した。 途中で少しはしゃぎすぎたかなと不安になったりもしたが、姉の方もまんざらではなかったようで、先程入った店では、目を輝かせて小さなワニのぬいぐるみに見入っていたのを目撃した。 その様子がなんとも可愛らしかったから、栞は怒られると思いながらも、あえて声をかけずにじっと見つめていた。 すると、案の定その視線に気が付いた香里が、顔を真っ赤にしながら、 「も、もういいなら行くわよ!」 と、どもりながら慌てていた。 当初の目的も忘れて商店街を回っていると、不意に空腹を訴えて栞は時計を見た。 そして驚きに声を洩らす。 「ああっ!」 びっくりして香里が栞を振り返った。 「どうしたの? 急に大きな声出して」 「お姉ちゃん! もう3時だよ」 「そうだけど、それがどうかしたの?」 平然と答える姉。さも当たり前のように言われて、栞はむすっとなった。 「お姉ちゃん、ひょっとして、私がパフェのこと忘れてるの知ってた?」 「さぁ、何のことかしら?」 「なんだか白々しい」 「気のせいよ」 「むぅ」 非常に納得いかなかったが、とにかく思い出したのだからよしとした。 腹の減り具合といい、考えようによってはこの時間になったのは喜ぶべきことかも知れない。 栞はそう前向きに捉えることにして、微笑みながら姉の手を取った。 「じゃあ、そろそろパフェ食べに行こ」 「わ、わかったわよ」 ため息混じりに呟く姉の顔を、栞はにこにこしながら見つめていた。 百花屋というのは、栞が付き合っている男の子に教えてもらった喫茶店である。 パフェが美味しいことでも有名で、3時という時間もあってか、店内はいつにない賑わいを見せていた。 「たくさんいるわね。今日は諦めて帰りましょう」 「わっ。お姉ちゃん、ひどい!」 何事もなかったかのように入り口でUターンした姉の服をギュッとつまんで、栞が非難の声をあげた。 「冗談よ」 平然と笑って、香里は喫茶店のドアを押し開けた。 カランカラン……。 澄んだドアベルの音が店内に響いて、ウェイトレスがやってくる。 「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」 「そうです」 「それでは、こちらへどうぞ」 一見満席に見えたが、二人分のスペースくらいはあったらしい。 奥の小さなテーブルに案内されて、二人は向かい合わせに腰かけた。 「それで、栞はあたしに何を食べて欲しいの?」 メニューを開きながら香里が言うと、栞がそのメニューをそっと手で押さえて微笑んだ。 「メニューはもう決まってるの」 妹のあまりにも澄んだ笑顔に、香里は裏を感じずにはいられなかった。 (絶対に何かとんでもないものを食べさせようとしてるわね) 内心ドキドキしたが、香里はいつも通り平静を装って言った。 「そう。それは楽しみね」 やがて、ウェイトレスが注文を取りにやってきた。 「ご注文はお決まりでしょうか」 定番文句に栞が元気良く頷いて答える。 「はい。ジャンボミックスパフェデラックスをお願いします」 「あたしはミックスジュースで」 間髪入れずに香里がそう言って、栞は目を丸くした。 「お、お姉ちゃん、ひどい!」 「冗談よ」 極めて冷静に返す。 転んでもただでは起きないタイプだ。 「あたしも同じもので」 「はい、かしこまりました」 姉妹のやりとりが面白かったのか、ウェイトレスの少女がくすっと笑った。 「それでは、ジャンボミックスパフェデラックスをお2つでよろしかったですか?」 「はい、そうです」 「絶対に違います」 二人の声がハモった。 再びウェイトレスの少女が微笑んで、 「かしこまりました」 込み上げてくる笑いを堪えるようにして、厨房の方へと戻っていった。 香里は一体どっちの発言に対しての「かしこまりました」なのか非常に気になったが、常識的に考えて2つは持ってこないだろうとの判断で、確認するのはやめておいた。 なぜなら、栞の頼んだジャンボミックスパフェデラックスとは……。 「私、お姉ちゃんと一緒のが良かったのにな……」 しゅんとなって栞。 さしもの香里も、どう反応して良いのか困って、表情を崩した。 「食べるじゃない」 「そうだけど……」 「あんたねぇ、あんなもの2つも頼む人、絶対にいないわよ。ひょっとしたら、百花屋開店以来、初めての客になるかもね」 「わっ、すごい! 美坂姉妹の名が、延々と語り継がれるね」 「あんまり名誉じゃないわよ。っていうか、全然」 「そっかなぁ。私は嬉しいけど」 「あたしは細々と暮らしていきたいの。将来、もしも新聞に載るようなことがあったら、栞、あなた一人で載りなさいね」 「そんなこと言うなら、二人で功績立てても、さも私一人でしたみたいに言ってやるもん」 「あんたの場合、悪いことで載りそうだけどね」 「わっ、ひどいこと言ってる」 びっくりしたように言ってから、栞は急に可笑しそうに笑い声を立てた。 そんな栞を、香里が訝しげに見つめる。 「どうしたの? とうとう本格的にやばい?」 再び「ひどいこと」を言われたけれど、栞は嬉しそうに笑うだけで、嫌がりはしなかった。 ひとしきり笑ってから、栞はわずかに涙で潤んだ瞳で姉の顔を見た。 「嬉しかったの」 「何が?」 無表情で問い返す。 「こうしてまた、お姉ちゃんとバカなことを言い合えるのが」 「栞……」 周りの喧噪がひどく遠くから聞こえてくるような気がした。 一瞬この場にいるのが姉妹二人きりのような気がして、思わず涙を零しそうになって、香里はそれをぐっと堪えた。 それに気付かれないように顔を横に向けて、ウィンドウガラスから外を見てみたが、香里の意識はただ妹の言葉に集中していた。 ほんの少し言葉を区切ってから、栞が再び口を開いた。 「夢の一つだったんだよ……。お姉ちゃんとまたこうして、一緒におしゃべりするの……」 妹の瞳から涙がこぼれ落ちるのを見た。 「ねぇ、栞……」 どこか決意に満ちた表情でじっと外を見つめたまま、香里が呼びかけた。 栞も同じようにウィンドウガラスに目を遣って、そこに映った姉を見つめた。 「なに?」 「この場所、覚えてるわよね?」 この場所というのは、百花屋のことである。 ずっと栞のことを無視し続けていた香里が、初めて栞を妹として認めた場所。 忘れるわけがなかった。 「きっと、一生忘れないと思う。あの日のこと……嬉しかったから……」 「じゃあ、あの夜のことも覚えてるわよね?」 言ってから、栞の顔を見た。 栞もまた姉の顔を見つめて、深く頷く。 「うん。すごく久しぶりに、いっぱいお話ししたから」 「そうね……。それであたしたちは仲直りした」 香里が栞に真実を告げたクリスマスから、ずっと二人の間にあったわだかまりは溶けた。 「でも……」 一度ゆっくりと瞬きして、香里は大きく息を吸った。 「あたし、まだあなたに謝ってないのよね、あの日々のこと……」 「お姉ちゃん?」 確かにそうだった。 この店で仲直りをし、その夜たくさん話をして、二人の関係は昔のように元通りになった。 しかし、香里が栞を無視し続けていたことに対する謝罪はなかった。 けれども、それを栞は一度として不愉快に思ったことはなかったし、そんなことを気にしたこともなかった。 姉と再び話ができた。それだけで満足だったから。 けれど、姉はそうではなかった。 「ずっと言いたかったけど、こういうのって、なかなか言い出せないものね」 自嘲気味に呟く。 それから深く目を閉じて、栞に向かって頭を下げた。 「ごめんなさい。あなたが一番あたしを必要としていたときに、あたしは現実から逃げてしまった。本当に、ごめんなさい」 「お姉ちゃん……」 栞はため息をついてから、首を左右に振った。 「いいのよ、お姉ちゃん。そんなことは……」 「でも、けじめはつけないと。いくら姉妹でも、仲が良くても」 「そう、だね……」 自分が意識していなかったことを、ずっと姉は気にしていた。 責任感の強い、真面目な姉のことだ。 きっと、仮面のように無表情なその裏で、妹のことを真剣に思い悩んだのだろう。 「じゃあ、許してあげる」 栞は笑って言った。 「本当はすっごく寂しくて、一人で泣いちゃった夜もあったけど、今がすごく幸せだから……。だから私は、お姉ちゃんを許してあげます」 「栞……」 泣き笑いのような顔で香里は頷き、テーブルの上に組んだ手にその顔を埋めた。 「ありがとう」 「お姉ちゃん……」 そっと、姉の頭をなでた。 なんだか偉そうな気がしたけれど、それでも目の前で泣いている姉を見て、恐らく生まれて初めて見たであろう姉の涙に、どうしてもそうしたくなったのだ。 「ありがとう、栞……」 消え入りそうな声でもう一度呟いて、しばらくそのまま肩を震わせていた。 その間、栞はずっと姉の髪の毛をなで続けていた。 周囲から、事情を知らない者たちの笑い声が聞こえてきたりもしたけれど、やがて注文の品が運ばれるまで、二人はずっとそうしていた。 テーブルにででんと置かれたパフェは、バレーボールを半分に切って、少し底を浅くしたような巨大な皿の上に、クリームやらアイスやら果物やらがうずたかく積み上げられたものだった。 ジャンボミックスパフェデラックス。 3500円もするこの店の名物パフェである。 「ごちそうさま」 ウェイトレスが去り、栞がスプーンを取るや否やいきなり香里がそう言って、栞は唇を尖らせた。 「わっ、お姉ちゃん、ひどい」 「あたし、もう見てるだけでお腹いっぱい」 「今ならきっと食べれるよ」 「無理。あたしの胃は小さいことで有名なの」 「甘いものは別腹だって。二人の胃と別腹を使えば大丈夫」 「はぁ……」 見ているだけで胸焼けがしてきたが、香里は渋々スプーンをとった。 そして、チョコレートクリームを少しだけすくい取って口に運ぶ。 栞はそんな姉の一挙一動をしっかりと見届けてから、興味津々に尋ねた。 「どう? 初めて食べたパフェの感想は?」 「ん……。甘い」 「も、もっとこう、何かないの? コクがあるとか、コシがあるとか」 「何の話をしてるのよ」 ため息まじりにそう言いながら、再びスプーンを口に運ぶ。 栞も同じようにして、アイスクリームをすくい取った。 「美味しいね、お姉ちゃん」 「そうね。でも、美味しいのは初めのうちだけね、きっと」 うんざりしたようにパフェを見つめながら答えた。 「……お姉ちゃん、冷たい」 しばらく黙々とスプーンを往復させていたが、やがて栞が手を休めて姉の方を見た。 結構食べたつもりだったが、パフェは一向に減った様子がない。 「どうしたの? 栞」 香里も妹の視線に気が付いて手を止めた。 「うん……。パフェ食べてるお姉ちゃん、可愛いなって思って」 「…………」 突拍子もない妹の発言に、しばらく姉は目をぱちくりさせていたが、不意に思い出したようにむすっとして、パフェに刺さっていたスナックを取った。 「くだんないこと言わないの」 「あっ、照れてる」 「もう!」 からかうのには慣れていた香里だったが、からかわれるのには慣れておらず、なんとなく身体にむず痒さを覚えて言った。 「お姉ちゃんをからかわないの!」 栞はくすっと笑っただけで、何も言い返さなかった。 別腹の方が先に満杯になったので、香里はスプーンをおいて外を見た。 いつの間にか4時を回っている。少し人数も減ったようだ。 「夢……」 「えっ?」 不意に耳に入ってきた姉の呟きに、栞が顔を上げた。 視線の先にある香里の顔はいつも通りの無表情で、じっとウィンドウガラスから外を見つめていた。 薄い唇を開いて言葉を続けた。 「さっき、夢って言ってたけど、栞はこれからどんなことがしたいの?」 「…………」 スプーンを置いて、同じように外を見つめて考える。 夢なんて考えたことがなかった。 いや、それは叶わないから夢だと思っていた。 夢でしか見られなかった光景。その中に立つ自分。 失われていた夢のかけらが少しずつ元の色を取り戻し始めた。 「海とか……行ってみたい」 「海ね……。見たいの? それとも、泳ぎたいの?」 「う〜んと……泳いでみたいかな?」 「栞は、海に行ったことなかったっけ?」 「あるけど……」 言葉を止める。 香里も自分で言ってから気が付いたのか、自嘲気味に笑った。 「そうね。行ったことはあっても、泳いだことはないわね」 ここは日本でもかなり北方に位置する。海水浴など到底無理だった。 ましてや身体の弱い栞のことである。 どこか遠くの海に行って海水浴を楽しむ。 まさに夢物語だった。 けれど、今は違う。 「あと……富士山に登りたい!」 「それは無理ね。諦めなさい」 きっぱりと言われて、栞は悲しそうな顔をした。 「お姉ちゃん、ひどい」 「可愛い妹を心配して言ってるのよ」 「ゆっくり登ればきっと平気だよ」 「いいえ、無理ね。いい? 5合目からでもまだ2千米あるのよ?」 「にせんこめ?」 「メートルのこと」 香里ギャグらしい。 栞はそれはさらっと流して、富士山への想いを語る。 「ずっと憧れてたの。2キロくらい歩けるよ」 「横に歩くのと縦に歩くのじゃ、だいぶ違うわよ」 「むぅ。そんなに言うなら、一回二人で行こっ!」 「望むところね。7合目くらいで、『もう帰ろうよ』とか泣きべそかいてる妹の顔が目に浮かぶわ」 「うっ……ひどい」 栞はぐすっと泣き真似をして見せてから、にっこりと笑った。 そして次から次へと溢れ出てくる夢の欠片をテーブルの上に並べて見せる。 大きなものから小さなものまで順々に。 姉はそれを嬉しそうに聞いていた。 その内のいくつかは、姉の持っている夢と同じ色のものがあって、栞を喜ばせた。 そうして、姉妹二人きりの時間が、絶え間ない微笑みの中で、ゆっくりと流れていった。 外の景色が色を失い始めた頃、とうとう栞が音をあげた。 「うぅ。私、もうダメ……」 ゆっくり食べていたこともあり、なんとかパフェを残り3分の1程度にまで減らすことができた。 けれど、まだ3分の1残っている。 「あたしはもうとっくの昔に限界を越えてるわ」 うんざりした顔で香里。 テーブルに置かれたスプーンの先はすっかり渇いている。 「美味しくも何ともなくなってきたよ」 「別腹の方は?」 「そっちももういっぱい」 「そう……」 溜め息を吐く姉の目に、それでも必死にパフェを腹に収めようと頑張る妹の姿が映った。 「あんた、何してるの?」 初めのうちは美味しい美味しいと目を輝かせていた栞だったが、今ではすっかり何かの耐久レースに挑んでいるかのように、やつれた表情をしていた。額には脂汗まで浮かんでいる。 「何って……食べてるんだけど」 疲れ切った顔で香里を見て言った。 「もうやめときなさいよ」 「でも……」 涙目になりながら、栞がパフェに視線を落とす。 アイスクリームのすっかり溶けたパフェは、もはやただのやや粘性のある甘ったるいだけの食べ物と化していた。 それをスプーンの先でぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、栞が言った。 「せっかくお姉ちゃんと一緒にパフェが食べられたんだもん。どうしても……やり遂げたくて……」 少しだけクリームとアイスの混ざり合った物体をスプーンですくって、すぐにそれを器に戻した。 もう見るだけで胃が受け付けなかった。 「栞……」 優しい声音で香里が諭した。 「気持ちはわかるわ。あの日からこうして二人で何かしたの、初めてだもんね」 「うん……」 ぐすっと鼻をすすって姉を見上げる。 香里はそっと栞の手を取った。 柔らかくて温かい姉の手に包み込まれて、栞は少しだけドキドキする自分を感じた。 「でもね、栞。もうパフェは逃げないのよ」 「…………」 もう、と言った姉の意図が、栞にはよくわかった。 冬の寒い中、友人を巻き込んでアイスクリームを食べていた自分。 好物だったけれど、アイスクリームは夏に食べたかった。 けれどもそれは夢だった。栞は、夏までは生きられないと医師に宣告されていたから。 だけど、今はもう違う。 「もう、あなたには時間がある。焦らなくても、パフェくらいいつでも付き合ってあげるから」 もう死の影に怯えることはないのだ。 普通の女の子として、たくさんのささやかな望みを、当たり前のように叶えることができるのだから。 「わかった……」 栞は大きく頷いて、泣き笑いのような表情を浮かべた。 きっと嬉しかったから。 「さっ、じゃあもう出ましょう。店員の視線もいい加減冷たくなってきたし」 言われてふとレジの方を見ると、そこに立っていた従業員の一人が、白々しく視線を外すような素振りを見せた。 ただでさえ目立つ注文に、泣いたり笑ったり感動したりしている姉妹。 今まで気にしていなかったが、さぞや注目の的だったろう。 「じゃあ、出よっ」 そう言って、小さなバックを手に取った栞に、姉が伝票を渡した。 「じゃ、これ。会計よろしくね」 「…………」 押し付けられて、無言で受け取る栞。 それからすぐに非難の声をあげた。 「ほんとに私がおごるの?」 「当然よ」 「お姉ちゃんだって、喜んで食べてたじゃない!」 「それはそれ、これはこれ」 「ぐすっ……」 栞は拗ねたような顔で姉を睨んで、それから大きな声で言った。 「お姉ちゃんの意地悪っ!」 これから夢を叶えていこう。 二人で一緒に歩いていこう。 今までに失ってきた時間を取り戻そう。 子供のように無邪気に笑おう。 私たちを閉ざしてきた悲しみの扉は、奇跡によって開かれたから。 二人が店を出ると、そこはすっかり夕陽の赤に包まれていた。 風も冷たさを帯び、道行く人の中には無意識に身体を震わせる者もいる。 栞もまた、いくら病気がなくなったとはいえ、元々身体は強くない。 自分の身体を両腕でしっかりと抱きしめると、ぶるっと一度身震いした。 「寒いね、お姉ちゃん」 「そうね……」 同意しながらも、姉は少しも寒そうではなかった。 表情からも本心は読み取れなかったが、こんなところでも、自分の思ったことははっきり言う姉のことだ。恐らく本当に寒いのだろう。 「じゃ、帰ろっか」 「うん!」 頷きながら、栞はそっと姉の手を握った。 香里は少し困ったような素振りを見せたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべると、栞の小さな手をきゅっと握り返した。 「今日は夕ご飯食べられないね」 栞から先に一歩足を踏み出した。 自分の影を踏むように、香里も妹と並んで歩き出す。 「夕ご飯も別腹に入れればいいのよ」 「ええっ! 私、そんなにたくさんお腹ないよ」 「あたしもないわね」 たわいもない会話を交わしながら。 二人並んで。 幸せな未来へと。 すっかり冷たくなった風が、二人の笑い声を乗せて丘の方へと吹き抜けていった。 背中の方から赤々と燃える太陽が、その最後の光を投げかけている。 「今日の夕ご飯は何かなぁ」 妹が言った。寒さのために、わずかに唇が震えている。 「確か、栞の大好きなカレーライスだって」 姉が笑いながら答えた。 「わっ! それ、全然好きじゃないよ」 「ふふ。冗談よ」 開かれた扉の向こうに、夢のかけらに彩られた道が、どこまでも長く伸びていた。 二人は手を繋いだまま、その道をゆっくりと歩いていった。 |