( 注 ) 方言について... 作者は東北弁を知りません。 よって、本作品では、ユメたちに無理に方言を使わせようとはせず、敢えて標準語を喋らせています。 ユメが標準語を喋ることで生じる違和感は、私が書く東北弁を、東北弁を知っている人が読んだときに覚える違和感より遥かに小さいものと考えます。 * * * 遠野の冬は雪に埋もれている。 もはやどこが道の境なのかわからないような、真っ白に染まった村道を、悠太は二人の女の子と一緒に歩いていた。 同じ学校に通う、ユメと純子だ。二人とも小学校時代からの友達で、今でも昔のままの仲良しでいる。 もっとも、それが最近の悠太の一番の悩みだった。 悠太は昔からユメのことが好きだった。けれど、素直になれない性格が災いして、ずっとそれを言い出せずにいた。 それでも、自分はどの男よりもユメと仲がいいのだから問題ない。悠太は高校に入るまでそう考えていた。ある種の安心感と満足感に浸っていたのだ。 それを、高校に入ってすぐ、呆気なく打ち砕かれた。ユメをゴータというサッカー部の男に取られたのだ。 その時の悠太の落ち込み様と言ったら、見ている方がやつれるほどだった。 悠太は自分からユメと距離を置き、純子がそんな悠太を必死になって励ました。 ユメはと言えば、悠太の想いはもちろん、そんな悠太の様子にすら気付くことなく、ゴータとの仲を深めていた。 ところがそれも、高1の冬に終わりを告げる。 サッカーをするために日本を発ったゴータに涙するユメを、純子は懸命に慰めた。交互に落ち込む二人に、純子は「自分は損をしている」と溜め息をついたが、元々お節介が好きな性格だったので決して苦にはしなかった。 純子の取り計らいで再びユメに近付こうと試みた悠太だったが、今度はユメがそんな悠太を遠ざけた。ゴータに振られたショックで、すっかり男を避けるようになってしまったのだ。 ユメは少しずつ回復していったが、結局夏休みになってもユメは悠太と一歩距離を置いたままだった。 そのままユメは、東京へ魔法遣いの研修へ向かう。 夏休みの間に、悠太はユメをあきらめようと思っていた。悠太とて、完全にユメをゴータに取られたショックから立ち直っていたわけではなかったのだ。 ところが、夏休みの2日前、幸運にも東京から戻ったユメが先に悠太に声をかけた。ユメは東京で男性恐怖症を克服していたのだ。 ようやく悠太はユメとの関係を0に戻すことができた。 いや、完全に0というわけではない。ユメは恋愛に興味を示さなくなっていたし、逆に悠太は昔以上にユメのことを好きになっていた。 それからいくつかの事件があり、たくさんの学校のイベントと地域の行事をユメと過ごして、悠太はユメとの距離を縮めた。もう慢心しない。ユメを誰にも譲らないつもりだった。 悠太はユメの気持ちも確実に自分に向いていると確信していた。 今度こそ、ユメを自分の恋人にするのだと意気込んでいたのだが……。 青天の霹靂。 この澄み渡る青空と、日の光にキラキラ輝く銀世界に、まさかこんな悲しい罠が仕掛けられていようとは、悠太は考えていなかった。 「ユメ……?」 唐突に三人の前に現れた男が、少し驚いたような声でユメの名を呼んだ。 三人は足を止めて声の主を見た。歳は三人と同じくらいだが、制服は着ていない。 「ゴー……タ?」 信じられないものを見たような、ユメの呟き。悠太の背筋にゾクッと悪寒が走った。 「ゴータ!」 その時のユメの横顔を見て、悠太は今までの自分の努力がすべて無駄だったと悟った。 本当に嬉しそうに頬を綻ばせて、瞳は恋する少女然として輝いていた。悠太は、ユメにあんな笑顔を向けられたことがない。 もしユメが自分の愛する人間にはこういう顔をするのだとしたら、やはりユメの心は自分にはない。振られ傷付いても、やっぱりユメはこの男が好きなのだ。 「久しぶりだな、ユメ!」 手を伸ばしたゴータに、ユメはためらいもなく駆け出した。同時に、悠太は二人に背を向けていた。 今度こそもう、終わりにしよう。これ以上ユメの傍にいても、自分が惨めになるだけだ。 二人から遠ざかり、あぜ道を肩を落として歩いていると、追いついてきた純子が心配そうに声をかけてきた。 「悠太……」 「ああ、純子か」 純子は悠太の隣に並んで、悠太も彼女の歩幅に合わせて速度を落とした。ユメみたいな感情こそ抱いてないが、純子も悠太にとって最も大切な友達であることに間違いなかった。 「邪魔になると思って逃げてきたのか?」 悠太が溜め息混じりにそう尋ねると、純子は悲しそうに俯いて、大きく首を振った。 「違う。悠太が心配だったからここに来たの」 「そうか……。でも、俺はもうダメだ」 悠太は顔を上げて薄ら笑いを浮かべた。瞳にはうっすらと涙が浮かび、世の中をあきらめ切ったような顔をしていた。 純子はそんな悠太を見て何か怒鳴ろうとしたが、何も言葉がなく、代わりに悠太の腕をギュッと握ると肩に額を押し付けた。 「純子?」 「ごめん。なんか、言葉が出てこなくて……」 純子は三人でずっと仲良くいたいと願っている。そして、ユメと悠太に上手くいって欲しいと思っている。 そのための努力を惜しむつもりはなかったし、むしろ二人のために行動するのは楽しかった。 悠太やユメがどれだけ落ち込んでも、その傍らにいて励まし続けてきた純子が、今にも泣き出しそうな顔で悠太の肩に寄りかかっている。 純子もさっきのユメの表情を見て、決着が着いたと悟ったのだ。 「純子。たとえ俺がユメと離れても、ずっと友達でいような。それから、俺のことなんか気にせずに、ずっとユメの友達でいてやってくれ」 悠太が日頃からは考えられない優しい声音でそう言うと、とうとう純子は両手で顔を覆ってその場にうずくまった。 「そんな器用なこと、私もう、できないよ……。悠太から離れていくユメも、ユメから離れていく悠太も、もう見たくない!」 「純子……」 大声で泣き出した純子の肩をそっと抱きしめると、悠太の目にも涙があふれ、頬を伝った。 「悠太、ごめん……。ごめん……」 「謝るなよ。別に、お前のせいじゃないだろ……」 二人並んで屈みこんで泣いている姿はひどく滑稽だったが、もはやあのユメの笑顔を前に、二人には泣く以外に何一つできることはなかった。 そんな二人が、不安と驚きに満ちた声で呼ばれたのはその時だった。 「純子、悠太! どうしたの!?」 血相を変えて走ってきたのは、先程嬉々としてゴータの許に駆け寄っていったユメだった。 ユメは純子の傍に来ると、そっとその肩に手を置いて心配そうに顔を覗き込んだ。 「な、何かあったの? なんで泣いてるの?」 ユメは早くももらい泣きして鼻をすすり上げた。いつも自分を励ます側にいた純子が泣いている。何かよほどのことがあったに違いない。 ユメが純子の傍らにしゃがむと同時に、悠太は立ち上がって二人に背を向けた。 「悠太?」 「俺、もう帰るから」 「ま、待って悠太!」 ユメは泣きながら手を伸ばしたが、その手も声も悠太には届かなかった。 悠太の背中が見えなくなると、純子もユメの手を払い除けるようにして立ち、コートの袖で涙を拭った。 そしてユメの方を見ずに、低い声で言った。 「ごめん、ユメ。私も、一人にして欲しい……」 フラフラと歩き出した純子の腕を、ユメはがっしりとつかんだ。もしもこの手を放したら、もう二度と純子と会えなくなるような、そんな不安がユメの胸を覆ったのだ。 それでも振り向こうとしない純子に、ユメは涙声で、それでもはっきりと言った。 「ゴータのことだよね? だったら、純子も悠太も誤解してる。私の話を聞いて!」 「誤解……?」 ようやく振り返った純子に、ユメは力強く頷いた。 涙で前も見えないような状態で雪道を走るもんじゃないと、全身びしょびしょになってから悠太は思った。 がむしゃらに走っていたら地面に足を取られて、雪深い畑に落下したのだ。 「なんか俺、本当に惨めだな……」 髪の毛の雪を払い、へらへら笑いながら歩いていると、前方に若い男の姿が見えた。例のサッカー部だ。 ゴータは無表情で悠太の方を見つめていた。いや、ユメの走って行った方を眺めていたというのが正解かも知れない。 敗者は敗者らしく、俯きながら彼の横を通り抜けようかと思ったが、ふと気が変わって悠太は足を止めた。 「おい、お前」 びしっと指を差してゴータに呼びかける。あからさまに喧嘩腰だったが、ゴータは悠太よりも少し大人だったようで、特に怒る素振りを見せずに真っ向から悠太を見返した。 「なんだ?」 悠太は一度ユメの笑顔を思い出し、軽く唇を噛んでから、まるで自らの想いを吐き捨てるように大きな声で言った。 「ユメはお前にくれてやる! その代わり、もう絶対にユメの手を放すなよ! 今度ユメを泣かせたら、絶対に俺が許さねぇ!」 別に格好をつける気はなかった。むしろ自分の行動は惨めだとさえ思っていたが、それでもユメが好きだから。 もしもユメがこの男としか幸せになれないのなら、それを応援しないことこそユメへの裏切りだ。 今までのユメとの思い出と、秋から冬にかけての自分の努力が脳裏をよぎり、悠太は目頭が熱くなった。 そんな悠太を見て怪訝そうに首を傾げ、ゴータが困ったような声で言った。 「何か勘違いしているみたいだけど、俺は別にユメに会うために戻ってきたわけじゃないぞ?」 「え……? じゃ、じゃあ何しに戻ってきたんだ? なんでユメのところに来た!」 思わず怒鳴りつけると、ゴータは小さく笑った。皮肉めいたものではない。むしろ直球勝負の悠太の言動に好感を抱いているようだ。 「俺はユメも含めて、何もかも捨てて日本を出たんだ。今はただ、帰ってきただけだよ。もう1年も向こうにいたからな」 「じゃ、じゃあ、ユメには……?」 すっかり拍子抜けしてぽかんと口を開ける悠太に、ゴータは苦笑を漏らした。 「ヨリを戻す気はないよ。俺はまた向こうに戻るしな」 悠太は彼の態度が釈然としなかった。 さっきのユメの笑顔は、純子から見てもゴータを好いているものだった。にも関わらず、ゴータはユメの気持ちに応えるつもりはない。 「つまり、お前はまたユメに引きずらせるのか?」 悠太は思わず拳を握った。 一度振られ、それでもゴータへの想いを捨てきれないユメ。けれど、その気持ちにはまるで応える気のないゴータ。 悠太は怒りに我を忘れていた。もしもここでゴータが頷きでもしたら、悠太は目の前の男を殺していたかも知れない。 けれど、ゴータは頷いたりはせず、やや視線を落として呟いた。 「それを、確認に来たんだ」 「確認だって?」 「そう。俺から付き合ってくれって告白したのに、俺から振っちまった。ユメがまだ俺のことが好きで、ずっと辛い思いをしていたらって思ってな……」 ユメは、どうなんだろう。 ゴータの言葉を聞いて、悠太は夏休みを過ぎてからのユメのことを思い返した。 正直、引きずられているとは思えない。悠太は、ユメが自分に惹かれつつあると自負していたほどだ。 ユメはもう男を怖がらないし、東京から戻ってからは見違えるほど明るくなった。 悠太が複雑な顔でゴータを見ると、頑なな彼の心を溶かすように、ゴータはスポーツマン然とした爽やかな笑みで頷いた。 「もう大丈夫だってさ。最近、ちょっと気になってるヤツがいるって、恥ずかしそうに言ってたぞ?」 「……え?」 ゴータの言葉に、悠太は全身の力が一気に抜けていくのがわかった。 「まあ、それがお前かどうかは知らないけど、せいぜい頑張ってくれ。俺は言う立場にないけど、お前みたいな真っ直ぐなヤツなら、きっとユメも幸せになれると思う」 それだけ言うと、ゴータは軽く悠太の肩を叩いて背を向けた。 真っ白になりながら、ゆっくりと遠ざかっていくゴータの背中を眺めていた悠太だったが、急に身体の力が抜けてその場に座り込んだ。 ズボンが雪に濡れたが、元々びしょびしょだったのだ。今さらそんなことはどうでもいい。 「ユメの……気になってるヤツって……」 呆然と呟くと、後ろから元気な少女の声がした。 「あれ、悠太? どうしたの?」 振り向くと、さっきまで泣いていたのが嘘のような純子と、やはり明るい笑顔で立つユメがいた。 悠太はさっきのゴータの言葉を思い出して思わず赤くなった。 「悠太、びしょ濡れじゃん。ほんとにドジなんだから!」 笑いながら純子が悠太の傍らに座って、バンバンと背中を叩く。そして、ユメに聞こえないように小さな声で囁いた。 「さっきのユメのあれ、どうも私たちの誤解みたい」 悠太は小さく頷いて、やはり声をひそめて答えた。 「サッカー部に聞いた」 「そっか。誰が好きかまでは教えてくれなかったけど、これでまた私は、全力であんたたちを応援できるよ」 悠太はめんどくさそうに立ち上がると、膝についた雪を払った。 一歩前に出て、ユメが不安げな眼差しを向ける。 「悠太。もう、大丈夫なの?」 もちろん、全身びしょびしょの話をしているのではない。さっきまで泣いていたこと。ユメから逃げるように走っていったこと。 純子の誤解は直接解いたけれど、悠太には何も言っていないのだ。 悠太はゴータとのことは隠して、つまらなさそうにそっぽを向いた。 「純子が平気なら、別に俺も大丈夫だ。お前なんかに心配してもらうようなことはねぇよ」 下手にゴータに聞いた話をして、互いに意識したくない。急激な変化は、今まで築いてきたものをすべてダメにしてしまう可能性がある。 ちらりとユメを見ると、ユメは心から安堵するように、ほっと息を吐いた。 「よかったー」 悠太はその笑顔に思わずドキッとなって、視線を逸らせた。 「じゃあ、行こうか」 何事もなかったように、純子が歩き出す。少し小走りにユメがその隣に並んで、悠太は苦笑しながら空を見上げた。 晴天の霹靂の過ぎた後には、ただ澄み渡る青空だけが広がっている。こんな天気の日は、遠く北の彼方に雪をかぶった早池峰山が見える。 「悠太、どうしたの? 早く帰ろうよ!」 ふと気が付いて視線を戻すと、少し向こうでユメが大きく手を振っていた。 「ああ、悪ぃ。すぐ行く」 悠太はもう一度空を見上げてから、ユメの笑顔に駆け出した。 風に舞った雪の粉が、悠太の足元で星のように煌いた。 |