『 To Heart Fantasy 』 第5巻

 エピローグ

 長い長い時間、オレは昏睡していた。
 ずっと真っ黒な意識の中に、ふと、柔らかい光が射し込んだとき、オレはうっすらと目を開けた。
 真っ白な世界から、次第にものの形が鮮明になってくる一連の時の流れ。
 ああ、朝か……。
「気が付いた?」
 母親のような、優しい声。
 いや、オレの母親は、そんなに優しくないけれど……とりあえず、そんな声。
 オレはそっと首を傾ける。
 そこには、委員長が彼女の本来持つ、優しい笑みを浮かべて座っていた。
「ああ……」
 オレは、気だるそうに頷いた。「委員長……あれからどうなった……?」
「大丈夫や」
 穏やかな微笑み。「戦争はまだ終結しとらんし、先輩もまだ帰ってこうへんけど、とりあえずノルオの野望は打ち砕いた。藤田君は、自分の役目を無事に果たしたんや」
「そうか……」
 戦争のこと、先輩のこと。どちらも気にはなったが、とりあえずオレはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、勝てたのはオレの力じゃない。あかりの……」
 ふと、気が付いた。「そうだ。あかりは?」
「ああ、神岸さんか……」
 委員長が、急に暗い瞳をした。
「あ、あかりは……?」
「残念だけど、神岸さん……」
 そこで、委員長は一旦言葉を切った。
「あかりは……?」
 震えるオレの声。
 委員長は唇を噛んで、苦しそうに言った。
「神岸さん、まだ気が付いてないんや」
「はっ?」
 にんまりと笑って、委員長がくいくいとオレの反対側を指差した。
 オレは首だけで振り返る。
 もう一つのベッドの上に、あかりが眠っていた。
 幸せそうに枕を抱いて。
「浩之ちゃん……」
 なんて、寝言を言いながら。
「い、委員長……」
 オレは、こめかみを引きつらせて振り返る。
「あはは、冗談や」
 委員長は軽く笑った。「神岸さんも藤田君も大丈夫。今は松原さんや長岡さん、それに先輩を信じて、ゆっくりと休みぃ」
 そして委員長は、安堵の笑みを浮かべたまま部屋を出ていった。
 オレはもう一度あかりの方を見た。
 いつもの安らかな笑顔。あんなにも怒りと憎しみに歪んだあかりはいない。
 そして、二度と見たくない。
「浩之ちゃん……結婚……」
 一体、どんな夢を見てるんだ……?
 オレは少しだけ頬を紅潮させたまま、もう一度眠りに落ちた。

 療養に、二週間ほどの時を費やした。
 その間に、いろいろなことがあった。
 まずはハイス王の凱旋。戦いは勝利に終わり、ハルデスク王とウェレイク将軍は、ビンゼの将軍たちによって討たれた。
 オレとあかりは、ハイス王自らに労をねぎらわれた。
 リゼック将軍の娘ライフェについては、ハイス王自らが傷を治して、今はハイデルで休んでいるらしい。やはり命にかかわる重傷だったそうだ。
 オレも治して欲しいと頼んでみたが、呆気なく断られた。
 なんでも、ウィルシャ系古代魔法でもジェリス系魔術でもない魔法を使って治したらしく、いろいろと面倒くさいの一言で片付けられた。
 逆に言うとそれは、オレたちの怪我は、ライフェのものと比べてずっと軽いということでもあった。
 そしてこの二週間の間に起きた、もう一つの出来事。
 それは先輩たちもまた、無事に帰ってきたこと。
 もっとも、あまり「無事に」というような状態でもなかったが、オレやあかりの負った怪我に比べれば大したものではなかった。
 先輩に葵ちゃん、志保、レミィ、マルチ、それに先輩の妹の綾香もいた。
 オレたちは一同に集結し、今、ハイス王を交えて大きな円卓で食事をしていた。
「とりあえず、勝利に乾杯しよう」
 ハイス王が立ち上がって、杯を高々と掲げる。「君たちのおかげで、ノルオの野望も打ち砕き、ティーアハイムも取り戻すことができた。そして何より、かつての勇者ディクラックでさえ屠ることのできなかった“それ”……ヌイゼンジーアを、永久に闇の中に葬ることができた。もちろん、これからまだまだ忙しい日が続くが、とりあえず今宵は、勝利に酔いしれ、共に杯を交わそうではないか!」
「かんぱ〜〜〜いっ!」
 これは志保。
「かんぱ〜〜〜いっ!」
 オレは、注がれたエールを一気に飲み干した。

「お疲れさん、二人とも」
 宴たけなわ、志保が酔っぱらった顔でオレたち、オレとあかりの許にやってきて、絡んできた。
「お疲れさま、志保」
 二杯目からは果物の絞り汁なんぞを飲んでいるあかりがにっこりと笑う。
「いやいや。いろいろあったけど、楽しかったわね、あかり。どうだった?」
 後ろからあかりの首に腕を回して、とろんとした目であかりの横顔を見る志保。
 あかりは困ったように微笑んだ。
「うん。怖いことも悲しいこともあったけど、いろんな思い出ができたし、とっても楽しかったよ」
「うんうん。色々悲しいこともあったわね。ヒロが剣を盗られたりとか。色々大変だったわね。最終戦でヒロがいきなり倒れたりとか」
「おい、こら」
「なによぉ〜」
 あっ、ダメだこいつ。完全に酔っぱらってる。
「いや、何でもない」
 すまんあかり。相手してやってくれ。
 オレが目であかりにそう言うと、あかりはその意を汲み取って、
「浩之ちゃん、助けてよ〜」
 と、やはり目で訴えてきた。
 オレはそれを都合良く解釈して、大きく一度頷くと、席を立ってその場を離れた。
「あっ、浩之ちゃ〜ん」
「もう、あかりってばぁ。いいじゃない、ヒロなんて」
 オレは葵ちゃんの席に行った。
「お疲れさん、葵ちゃん」
「あっ、お疲れさまです、藤田先輩」
 葵ちゃんはちゃんとお酒を飲んでいる。
 ちゃんと?
 ……まあいいや。
 立場上、飲む機会も多かったのだろう。
「葵ちゃん、強くなった?」
「はいっ! すごく強くなりました」
 葵ちゃんは目に炎を滾らせた。「自分でもわかるんですよ。力もつきましたし、度胸も少しだけだけどつきました。もう……」
「もう綾香さんなんかには絶対に負けません?」
「あっ、綾香さん!」
 綾香がからかうように笑って、葵ちゃんの隣に腰掛けた。
 葵ちゃんはもじもじしている。完全に昔に戻っているようで微笑ましい。
「私も多少はこの世界で強くなったから、そう簡単には負けないわよ」
「は、はい!」
「うふふっ」
 オレはそんな二人をしばらく楽しげに眺めていたが、やがて邪魔をするのも悪いと思って席を立った。
 周りを見回すと、みんなとても楽しそうに飲んで食べて話をしていた。
 誰も、戦いのことには触れずに。
 すべてが虚しい戦いだった。
 少なくともオレの中にはしこりが残った。勝っても負けても悔いの残る戦いだった。
 みんなも多分そうなのだろう。だから、何も言わないのだ。
 ノルオが、ハルデスク王が、ウェレイク将軍が、ジェイバンが、ユーディカ、テーク、スティ、森の者たち、ヌイゼンジーアも、そしてリゼックとライフェ、ハイス王。すべての者が、己の信念を貫いて戦った。
 万人にとって正しいことなどありやしない。誰かが幸せになれば、その分誰かが不幸になる。だから虚しいのだけれど、誰も、みんなが幸せにならなければいいなんて思わない。
 誰かが誰かを不幸にして、自分が幸せになるために生きている。
 オレも、あかりも……。
 ここにいるみんなは、同じ目的をもった、同じ幸せを共有した者たち。幸せなはずなのに、何故か不幸な気がして、それを必死に誤魔化そうと騒ぎ立てている。
 だったら、オレもせいぜい騒いでみようか。
 自分が幸せなんだと忘れるくらい。
 幸せを忘れられたら、不幸も忘れられるかも知れない。
 それが、いいことだとは言わないけれど……。
 せめて今夜くらいは……。
 だから、みんな騒いでるのか……。

 不幸を想う状態を不幸と呼べるのかも知れない。
 そして、幸せは不幸の上に築かれる。
 この矛盾を、いかにして解決するか……。

 やめよう。
 そしてオレは、再び輪の中に入っていった。

  *  *  *

 訪れ来る別れの時。
 オレたちは先輩の描いた魔法陣の中に立ち、先輩とハイス王を見つめていた。
「ありがとう、諸君」
 ハイス王が、瞳に涙を浮かべて言う。
 妙に印象的だった。
「名残は尽きぬが、君たちには君たちの道があり、住むべき世界がある。本当は私ももっと君たちの力を借りたかったが、後は私たちの問題であり、私の個人的な感情で君たちを引き留めることもできない」
 こくり、と先輩が頷いた。
「これからこの世界と君たちの世界をつなぐ。一応ここにいない者でも、君たちの世界の者は君たちの世界に帰れるようにしておいた」
「ありがとうございます」
 委員長が頭を下げる。
「よしっ。では行こう。セリカ君」
 先輩は、再びこくりと頷いて、杖を掲げる。
 先っぽにはもちろん凝力石が、淡い緑色に光っている。
 実感がちっとも湧かなかったけれど、オレはこの世界を胸に焼きつけようと、ここでの出来事を思い返した。周りを見ても壁しかないから、頭の中で思い返した。
 初めに雪山で出会った口は悪いけどとても親切なおばさん。一言、「やったぜ」と言いたかった。
 セイラスで出会った親切なおじさん。もっと、色んなことを話してあげたかった。
 ゲレンクの町。呼春祭を見られなかったことに少しだけ悔いが残る。そして、ユーディカという女に、文句の一言も言えなかったことにも。
 “紅の森”では、結局悲しみしか残らなかった。せめて、あの時振り向いてあげればよかったと、今思う。そしたら、少なくとも一人は悲しまずに済んだのに。
 ビンゼでは立派な騎士と出会い、剣を教えてもらった。そして戦争を経験し、そこで一人の男に出会った。
 ウェレイク将軍。男として、オレは決して彼のことは忘れない。
 それからオレはあかりと一緒に戦った。
 ハルデスク王をそそのかし、半島に死をまき散らした少年ノルオ。
 彼が何故世界を無に帰そうとしたのか、結局わからず終いで終わったが、それで良かったと思う。例えどんな理由があったとしても、彼のしたことは圧倒的大多数の人間にとって正しくないことであり、彼は、自分一人にとって正当な理由のために、数多なる人々を不幸にしたのだから。
 彼に、同情は必要ない。
 そして最後に、何故かこの世界で一番気に入ってしまった人。
 ハイス王。
 オレはうっすらと目を開けた。
 ハイス王と目があって、彼は小さく笑った。
「さらばだ」
 忘れない。
 ここでのすべてを、決して。
 例えもう二度とここに来ることがなかろうと、このオレたちにとっての非現実が、現実社会の中に埋没してしまおうと、オレは確かにここで生き、この世界に貢献したこと、或いは誰かを不幸にしたことを、オレは決して忘れない。
 忘れるものか……。

「さようなら……」

 そして、光が散った。