『 To Heart Fantasy 』 第4巻

 エピローグ

 柔らかな陽の光を顔に感じて、オレは微睡みながら目を覚ました。
 視界には、明らかにオレの部屋にはない、異質な壁と天井がある。
 そうだ……。ここはフルースベルク。
 オレは少しずつはっきりとしてくる頭で、“それ”との激闘を思い出していた。
 時々窓から涼しい風が入ってくる。
 目を遣ると、小さな窓枠から広大な青空の一部が見えた。
 あの後、どうなったんだ……?
 ふと、ベッドの端から小さな寝息が聞こえてきて、オレは再び視線を部屋に戻した。
 椅子に腰掛けて、あかりの奴がオレのベッドに寄りかかって眠っていた。
 戦いは……勝ったのだ、とりあえず。
 善悪は、いずれ歴史が出すだろう。オレには関係ない。
 オレはあかりの頭を軽く撫でてやった。
 あかりは「んん……」と声を洩らしたが、目は覚まさなかった。
 オレはあかりを起こさないよう、静かに起き上がると、部屋を出た。
 見たことのある廊下。
 ここはデックヴォルトの王宮のようだ。
 気の向くまま歩いていると、向こうから葵ちゃんと琴音ちゃんがやってきた。
 二人はオレに気が付くと、少しだけ歩く速度を上げた。
 琴音ちゃんはともかく、葵ちゃんも無事のようだ。
 オレはほっとした。
 そういえば、オレの怪我も治っている。
「気が付いたのですね。よかった」
 と、琴音ちゃん。
「ああ。ありがとう、助けに来てくれて」
 とりあえず、オレはそう礼を述べた。
 “それ”との戦いで、最後にオレが勝てたのは、あの瞬間、駆けつけてくれた琴音ちゃんが、“それ”の放った魔法を打ち消してくれたからだ。
 琴音ちゃんはオレの礼の意を汲み取って、「いえ……」と、少し頬を赤らめた。
「藤田先輩。もう怪我は大丈夫ですか?」
 上目遣いにオレの顔を覗き込んで葵ちゃん。
「ああ。この通り元気だ」
 オレは大きく頷いて見せた。「そういう葵ちゃんこそ、かなりひどい怪我を負っていたけど、大丈夫なのか?」
 葵ちゃんの身体を一度上から下まで見回してオレが聞くと、葵ちゃんは恥ずかしそうに身体の前で手を組んで、
「はい」
 と、小さく頷いた。「怪我は芹香さんがすべて治してくれました」
「先輩が? 先輩、怪我を治せるのか?」
 なら何故、オレたちがシュロスの夢見塔から帰ってきたとき寝ていたのだろうと不思議がってオレが聞くと、葵ちゃんは、
「詳しいことは、私にもわかりません」
 と、首を傾げた。「とりあえず来て下さい。皆さん集まってます。藤田さんの元気な顔を見たら、きっと皆さん喜びますよ」
 オレは、そう言って軽快に先を行く二人の後を、軽い足取りでついていった。

 二人に案内されてその部屋に入ると、葵ちゃんの言うように、先輩を初め、確かに皆が揃っていた。
 みんな無事のようだ。
「藤田先輩をつれてきました!」
 元気に葵ちゃんがそう言うと、皆が一斉にオレの方を見た。
「あら? もう気が付いたの? ヒロ」
 何やらつまらなさそうに言う志保を軽くあしらいながら、オレは適当なところに座って先輩を見た。
 先輩は少し疲れているようだったが、心なしか嬉しそうにオレの方を見ていた。
「なんとか倒したぜ。先輩」
 先輩はこくりと頷いた。
 そして、ありがとうと呟く。
「ところで先輩。怪我、先輩が治してくれたのか?」
 今度は首をふるふると振る先輩。
「違うのか?」
 こくり。
 先輩は立ち上がって、棚から例の箱を持ってくると、再び座った。
「その箱が治したのか?」
 こくり。
 どうやら先輩の話では、その箱には命を封じ込めた者の自然治癒力を上げる効果があるらしい。
 それはオレも戦いにおいて経験済みだから知っている。
 つまり先輩は、怪我の重い者から順に交代ごうたいにその箱に命を封じ込め、皆の怪我を治したのだ。
「じゃあ、今オレは命があるわけだな?」
 もう一度先輩は頷いた。
「ところで」
 と、不意に委員長が話を振ってきて、オレは彼女の方を見た。
 委員長は手に一本の剣を持って、オレの方を見ている。
 剣は、アイネおばさんのものだ。
「藤田君、この剣どうしたん?」
 見ると、先輩も興味深げにオレの方を見ていた。
「いや。それは、オレがこの世界に来てから……」
 オレはそう切り出してから、セイラスの雪山でのことを話した。
 委員長は始終真剣な眼差しで聞いていたが、オレが話し終えると、「そか……」とため息のような息をついてから、
「じゃあ藤田君に、アイネとウィルシャの話をしたるわ……」
 と、少しだけ得意げに語り出した。「勇者ディクラックの話は知っとるよな?」
「ああ。昔、“無の大穴”から現れた“それ”を封じ込めた奴だろ?」
「そや。そして、ハイデルの建国王でもある。で、アイネとウィルシャは、その勇者ディクラックの仲間やった」
 やはりそうか……。
 と、心の中で頷くオレ。
「二人は“それ”との戦いの後結婚して、ディクラックと一緒にハイデルを盛り立てた。そして、ハイデルがそれなりに国としてまとまりを見せてきた頃、二人は数人の仲間とともにルドスの地に渡った。そこで二人は街を興した。それが魔法の王国ヴェルクや」
「なるほどぉ」
「二人は仲睦まじく、やがてかの大天才ジェリスを子としてもうける。ところが、その頃から二人の仲が冷め始めた。いや、正確には、ウィルシャが何かのためにアイネを捨てなければならない事態に立たされたんや」
「何か?」
 オレが聞く。
 委員長は首を振った。
「残念ながらそれは語られとらん。けど、それ以後ヴェルクの歴史にアイネの名が一度も出てきてないのは確かや。二人の間に、確実にそこで何かが起こった。アイネがまだ生きていることにも関係してくるかもしれん」
「…………」
 オレはその先がとても気になった。今すぐにでも、あの雪山に戻って真相を聞いてみたい気がした。
 けれど、それはしてはいけないことだと思った。
 ふと葵ちゃんに目を遣ると、彼女もオレと同じような瞳で床を凝視していた。
 オレと同じく、アイネに会ったことのある少女。
 彼女もオレと同じことを考えているに違いない。
 ちらりと葵ちゃんがオレを見た。
 オレは黙って頷いた。
「わかった。もう難しい話はやめにしよう」
 もう一度みんなの顔を見回しながら、明るい声でオレが言う。
「そやな。戦いにも勝った。すべては丸く収まったんや」
「ああ。後は帰るだけだな。日本に。オレたちの町に」
「そや」
「ところで……どうやって帰るんだ?」
 一気に声の調子を落としてオレが聞くと、委員長はオレのノリで大袈裟にずっこけてくれた。
「あ、ああ。それなら大丈夫や。先輩とハイス王の魔術で日本に飛ぶ。ここにいるメンバーだけやなく、うちらの他にもこの世界に来とる可能性のある者、すべてを含めて」
「そんなことが出来るのか?」
 先輩の方を向いてオレが聞くと、先輩はいつもの無表情でこくりと頷いた。
 驚いているオレに綾香が言う。
「言ってみたら姉さんのオリジナル魔術。芹香系魔術って感じね。空間に干渉する魔術だから、する気になれば時すら止められるそうよ」
「す、すげぇな」
 先輩は恥ずかしそうに俯いた。「じゃあ、日本に帰ってもそういうこと、出来るわけだよな?」
「無理よ」
 きっぱりとそう言ってよこしたのは志保。
「ど、どうしてだ?」
 オレの質問に、得意げに志保が答える。
「日本にはない物質がここにはあるの。あたしたちはそれを魔法原子って呼んでるんだけど、それがないと魔法は使えない。あたしたちの魔法は日本では使えないわ」
「じゃ、じゃあ、ここには二度と来れねぇのか?」
 それに、先輩がふるふると首を振る。
「来れるのか?」
 こくり。
 それから先輩は一冊の魔術書を取り出した。
「それは……確か、“ジェリスの魔術書”?」
 こくり、と先輩が頷く。
 話では、その本があれば、ジェリス系魔術は使えるのだそうだ。
 つまり、オレたちが初めにヴェルクに渡ったように、日本の魔法陣とこの世界の魔法陣を繋ぐことにより、来ることが出来るということだ。
「そ、そうか……」
 オレは何となくほっとした。
 それは明らかに、別れを辛く思う心からきた反応だった。
 この世界で出会った優しい人たち。
 セイラスの親切なおじさんや、ハイデルで剣を教えてくれた少女、それにヴェルクの変なおっさん。
 例えここにいたとしても、もう会うことはなかっただろうが、それでも会わないのと会えないのでは大きく違う。
「良かった……」
 もう一度、オレは言った。
「さてと……」
 よっこらしょと腰を上げて、委員長がオレの方に近付いてきた。「浦島太郎やないけど、一体日本でどれくらい時間が経っとるか不安や。向こうを消えた時間が同じなのに、こっちに着いた時間がみんな違うから、下手すると今頃日本では凄いことになっとる可能性がある。準備が整い次第、ここを出るで」
「も、もう?」
「そや」
 オレはやはり名残惜しかったが、委員長の言うことももっともだったので、大きく頷いた。
「わかった。あかりを起こして、すぐに帰る支度をする」

 そして数時間後、すべての準備を整い終え、オレたちは揃って謁見の間にやってきた。
 いつかの椅子には、ヴェルクを出るときにちらりとだけ見たことのあるハイス王が座り、その傍らにフレイス将軍が立っていた。
「皆、ご苦労だった。そして、本当にありがとう」
 立ち上がり、ハイス王が労をねぎらう。
「いえ。私たちは自分たちの蒔いた種を片付けただけです。礼には及びません」
「いや、ビンゼでのアオイ君の活躍なども考えれば、それは謙遜だろう。素直に受け止めてくれ」
「わかりました」
 委員長が深く頭を下げる。
 こういう時、さすがは委員長。結構、様になっている。
「では、名残惜しいが早速始めるとしよう。セリカ君」
 呼ばれて先輩が杖を掲げる。
 ハイス王も同じように、凝力石の杖を掲げて、それに力を込める。
 その様子を、オレたちはただぼんやりと見つめていた。
 これから帰るんだ。
 そういう実感がなかなか湧かなかった。
 それはきっと、こういう方法で「帰る」ことがなかったからだろう。
 オレは目を閉じた。
 本当に色々なことがあった。
 けれど、いつかそれも思い出となり果てる。
 いや、思い出としてでも残っていてくれれば、まだいい方かもしれない。
 あまりにも現実離れした体験。
 すべてが夢で片付かないよう、オレはしっかりとこの世界を心に焼きつけた。

 願わくば、この思い出が、いつまでも輝き続けてられるよう……。

 そして、オレは目を開けた。

  *  *  *

 見慣れた天井が目に入ってきた。
 微睡みの中で声がする。
「浩之ちゃ〜〜〜ん。浩之ちゃんってばぁ。遅刻しちゃうよぉ〜〜!!」
 オレは時計に目を遣った。
 7:59。
 やばいっ!
 オレは慌てて起きあがった。
 オレはパジャマを着ていた。
「?」
 オレは制服に着替えて階段を駆け下りた。

「おはよう、浩之ちゃん」
 あかりのやつがいつもの笑顔で言ってくる。
「あ、ああ」
「もう、浩之ちゃん。ダメだよ、自分で起きなきゃ。待ってたのに全然来ないから、どうしたんだろうと思って来てみたら案の定寝てるし……」
「ああ、すまんすまん。それより早く行くぞ」
「うん!」
 あかりはいつもの笑顔で頷いた。

 公園まで小走りに来て、オレはふと足を止めた。
「どうしたの? 浩之ちゃん。また忘れ物?」
 「また」とは人聞きが悪い。
「なあ、あかり」
「うん。なぁに?」
 オレの心をまったく読んでいないようなあかりの笑顔。
 オレは不安に駆られた。
(やはりあれは、オレの夢だったのか……?)
 いや、そんなことはない。
 オレは何も言わずに振り返り、空を仰いだ。
 眩しい青空。そして、木々の間から見える電線と高い建物。
 ここは日本だ。
 けれど、青空自体はとても綺麗だ。
「あの子、元気かなぁ」
 背中から、そう言うあかりの小さな声がした。
 オレは驚いて振り返った。
「あの子?」
 にっこりとあかりが微笑む。
「もちろん、ネリーセのことだよ」
 そんなあかりの言葉に、オレは思わず目頭が熱くなった。
 そして、零れそうになる涙を堪えて、気付かれないように再び空を仰ぐ。
「そうだな」
 季節は春。
 あれから日本では一日も経っていないけど、オレたちは確実に、あの世界で数ヶ月間生きた。
 生き、そして出会い、別れ、様々な足跡を残して帰ってきた。
 忘れるものか。この広い空のある限り。
 この命のある限り。
「なあ、あかり」
 空を仰いだまま、オレが呼びかける。
「なぁに? 浩之ちゃん」
「今度また、あそこに行こう。ネリーセに、お前の作ったうまいもん、食わしてやろうぜ」
「うん。私、とびっきりおいしいもの作るよ」
「ああ」
 雲を突き抜け一機の飛行機が、空にその足跡を残して消えていった。
 オレたちはしばらくそうして空を眺めていた。
 そして、どちらからともなく呟く。
「そろそろ行くか?」
「うん」
 オレたちは再び歩き始めた。
 遠くの空から、授業開始のチャイムの音が聞こえてきた。