終 [ 五月二十日(日) 高町家 朝 ] 朝ご飯を食べ終えたあと、美由希はぼけーっとテレビを眺めていた。戦いの傷はもうだいぶ癒えていたが、頬に大きな絆創膏が貼ってあった。 それは、戦いの最中についたものではなく、家に帰ってから兄にぶん殴られたときにできたものだった。実はこれが一番重傷なのではないかと美由希は思っていたが、声に出すと怖いから、その言葉は山の中に穴を掘って埋めてきた。 テレビのニュースがユージット海鳴支店の報を伝えていた。それによると、ユージットの幹部たちは、非科学的な事故の多発に加え、木曜日の朝に六つの男の死体が発見されたことも重なって、海鳴進出を見合わせることを決定したという。 美由希と一緒にニュースを見ていた晶は残念そうに頭を抱え、フィアッセは「怖いね……」と、眉をひそめていた。 一方、ユージットの建設現場で社長が不審な死を遂げたミリオンマイルスは、幹部が総入れ替えしただけで、店舗は今日も平常通り営業している。もちろん、美由希がご贔屓にしている小物屋も健在であり、美由希は昨日、そこで「小判クッキー」なる謎の食べ物を購入してきた。 この際、なぜ小物屋にクッキーが置いてあるかは、考えてはいけない。 その小判クッキーの最後の一枚を口の中に放り込んだ後、美由希はゆっくりとソファーから起き上がった。 窓から覗かせる青空には雲が一つくらいしかなく、家で何もせずに過ごすにはあまりにももったいない日曜日だった。 「足ももうすっかり治ったし、走り込みにでも行こうかな」 そうして美由希は、笑顔で玄関をくぐり抜け、快晴の下に飛び出した。 [ 五月二十日(日) 八束神社 昼 ] 「あ、美由希さーん!」 石段を登り終えた美由希を出迎えたのは、予想外の親友の声だった。 足を止めると、那美が久遠と一緒に日向ぼっこをしていた。背景に「平和」の二文字が見えた気がした。 「那美さん、もう動いても平気なんですか?」 美由希は心配そうに尋ねた。 事件後、すぐに入院することになった那美が、土曜日に退院するという話は、事件の翌日、見舞いに行ったときに聞いていたが、そのときはまだ左腕も右足も固定されていて、動くことすら叶わない状態だった。 現に今も、左肘と右足首に包帯が巻かれていたし、隣には松葉杖が一本置かれていた。巫女装束は、新しいものをおろしたのか、汚れや綻び一つない、綺麗なものだった。 那美はいたずらっぽく笑うと、こちらはすでに完治している久遠を撫でながら言った。 「本当は家でじっとしてろって言われたんですけどね……。でも、フィリスさんの治療のおかげで、もうだいぶ良くなったから」 なるほど、フィリスが手当てに当たったのなら、見た目よりもう快方に向かっているのかも知れない。美由希は納得して彼女の横に座った。 「そういう美由希さんこそ、その絆創膏……なんだか痛々しいです」 大きな絆創膏と、その下のあからさまに腫れ上がった頬を見て、那美が不安げに眉を揺らした。 たかがこれしきの怪我に怯える少女が、つい先日、刀で斬り殺し合うような現場に立たされたのだと思うと、美由希は彼女が不憫に思えてしょうがなかった。 けれど、それももう済んだ話だ。 「ああ、これですか? 実はこれ、兄に殴られたんです」 「た、高町先輩に?」 びっくりしたように那美が声を上げた。 「そんな、美由希さん、殴られるようなことしたんですか? 例えば、先輩のおやつを取ったとか……」 どうやら本気で言っているらしかったので、美由希は「そんなことでは殴られませんよ」と真面目に返してから、那美から視線を逸らせるように久遠に目を遣った。 「兄が、どうして何も言わなかったんだって。今回のことを、相談すらせずにわたし一人で判断したことを怒ってるんです」 「でも、美由希さん、すごかったですよ? わたし、とっても感謝してます!」 那美が必死に弁護するのを聞きながら、美由希は静かに首を振った。 「でも、恭ちゃんがいたら、那美さんは怪我をせずに済んだかも知れないし、結果として二人で戦うことになってたとしても、相談くらいするべきだったかも知れない」 「美由希さん……」 恭也が何に対して怒ったのかを推し量って、那美は口を噤んだ。彼は、自分の妹よりもむしろ、彼女が守るべき人間を心配したのだ。 それはもちろん、妹がどうでもいいわけではない。相対的に見てどうであるかの話だったし、それに彼は、妹の実力を信頼していた。 並の相手では、美由希をうち負かすことはできない。ある意味で、美由希の頬の傷は、その信頼の証なのかも知れない。 楽しそうに久遠をなでている美由希の髪を眺めながら、那美がそっと口を開いた。 「でも、なんだか美由希さん、嬉しそうです」 「そう?」 美由希が顔を上げて那美を見る。それから照れたように笑った。 「そうですね。実は殴られたけど、恭ちゃん、わたしのことを誉めてくれたんです。滅多に誉めてくれない兄が……」 「そうなんですか?」 「はい。百の訓練より、一の実戦で得られることもあるってことですよ。なんだかこないだの戦いで色んなことをつかんで、そういうことを実戦から学び取ることができるっていう、そのことに対して誉められました」 やはり嬉しそうにそう言ってから、美由希は困ったような顔で付け加えた。 「でも、覚えたこと自体は誉められてないんですけどね。まだお前には早いって」 「ふふふ」 那美は可笑しそうに笑ってから、ふと思い出したように手を打った。 「あっ、そういえば、ここに来るときにシュークリーム買ってきたんです」 言いながら那美は、背後の日陰に置いてあった白い箱を取り、膝に乗せた。 美由希は、左手を怪我し、右腕で松葉杖をつきながら、どうやってこの箱をここまで持ってきたのだろうと疑問に思ったが、声には出さなかった。 那美はそんな美由希に見えるようにしながら、嬉しそうに蓋を開けた。シュークリームは好物らしい。 ドライアイスの発する白い靄が、ふわりと浮かび上がってから、甘い匂いが二人の鼻をついた。 「久遠と一緒に食べようと思ったんですが、ちょっと、その……買いすぎちゃって……」 乾いた笑いを浮かべる那美の持つ箱の中に、十を越える数のシュークリームが入っていた。呆れる美由希に、弁解するように那美が言う。 「えっと、これはその、いつもの癖なんです! ほら、わたし、いつも寮のみんなの分も買うから……」 嘘か本当かはともかく、美由希はそんな那美が可笑しくて、可愛く思えて、そして、大好きだった。 「じゃあ、遠慮なくいただきます」 「はい! 二人で食べましょう」 那美がそう言ってシュークリームを取ると、久遠が「くぅぅん」と物欲しげに鳴いた。 「ああ、三人で、ね」 「くぅん!」 美由希はシュークリームに顔を突っ込む久遠に小さく微笑みながら、額に手をかざして空を見上げた。 木々の間から差し込む光が、社の屋根を明るく照らし出している。 季節はもうすぐ夏になる。 その到来を感じさせる、汗ばむような陽気の中で、那美が楽しそうに笑っていた。 だから美由希も、シュークリームを口いっぱいに頬張りながら、最高の笑顔で応えた。 平和で何事もない、幸せな昼下がりだった。 |
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