『 Guilty 』

 エピローグ

 風が泣き叫ぶように吹いていた。天気は良いのだが、どこか寒々しい。きっと見る側の心のせいだと、アルフは目の前に広がる田畑と、それを覆う青い空を眺めながら思った。
 リンディが『滅びゆく街』と名付けた世界──第14管理外世界。
 3日前、時空管理局の会議により、再びこの世界を訪れることが決定した。以前話をした老婆の言うところの、『最高に幸せな思いを味わいながら死ねる薬』を、ロストロギアになり得る危険な物として排除することになったのである。
 そもそもこの薬は効果が定かではない。幸せな思いを味わえたかどうかは永遠にわからないし、単に『苦痛を味わわずに死ねる薬』に宗教的な要素をブレンドさせただけにも思える。ただ、他にも危険な技術や、それによって作られた機械があるのは事実であり、それらのすべてを破壊、もしくは管理することになった。
 とはいえ、管理外世界の人間に時空管理局のルールや命令に従う義務はない。そもそも外の世界の存在すら把握していないので、時空管理局を宇宙から来た侵略者と考え、抗争になるかもしれない。
 世界の秩序を守るためとは言え、手荒な真似はしたくないが、悪意を持った誰かがこの世界を訪れ、これらの技術を悪用する危険性がある以上、強硬な手段に出るのもやむを得ない。
 そんな覚悟を持って訪れたのだが、その心配はあまり好ましくない形で杞憂に終わった。生き残っていたすべての人間が、薬を飲んで死んでいたのだ。
 彼らがそうした本当の理由はもはや解明できないが、誰かが残していた日記や状況などから、時空管理局の前回の訪問が原因と考えられた。すなわち、外の世界からの侵略と略奪を懸念したのである。
 彼らにとって恐ろしいことは、死ぬことではなく、幸せに死ねないことだった。薬を奪われるわけにはいかないが、対抗する力もなければ気力もない彼らは、抗うよりも最高の死を選んだ。
 侵略と略奪はあながち外れではなかった。殺すつもりはなかったが、結果として彼らに死を与えてしまったことを、リンディは深く悔やんだが、彼らにとって死は喜びなのだから気にすることはないと、フェイトが慰めた。
 そして時空管理局の人間が『滅んでしまった街』を再調査している間に、フェイトとアルフは記憶を操作する装置を作った老人の家を訪れた。老人も例に違わず死を選んでいた。
 アルフは一人になりたいと言ったフェイトを家に残して外に出た。壁にもたれながらまだ緑豊かな田畑を眺めている。
 元々食べ物が自動的に生産できるこの世界において、農業など道楽に過ぎない。それでも誰かが汗水流してこの田畑を育てていたのは事実で、それがやがて荒廃していくことを想像して、アルフは悲しくなった。
(フェイトは大丈夫かな……)
 一人で家の中にいる主人に思いを馳せる。ジュエルシードはユーノが持っているはずだが、今フェイトが持っていないという保証はない。もし持っていたら、この家の中にある機械を動かすことができる。
 それを承知で、アルフはフェイトを一人にした。賭けだった。もしもフェイトが、一度受け止めたなのはの願いを反故にするようなことがあれば──フェイトの中で少しでも自分の存在が変わるようなことがあれば、その時は自分は獣に戻ろう。
 アルフは壁にもたれたまま、静かに主人が出てくるのを待っていた。
 辺りはしんと静まり返っている。人の気配のない街、薄暗く生活感の消えた部屋、無機質に並ぶ機械。
 フェイトは主を失った部屋に佇み、目の前のテーブルをじっと見つめていた。レース編みの白いクロスのかけられたテーブルの上には、1枚のメモと薄い本、そして数冊のノートが置かれていた。
 メモにはこう書かれていた。
『黄色い髪のお嬢さんへ──戻るか知れない貴女を待つことはできないが、もしこれを貴女が見ていたら、この機械は貴女に譲ろう。操作は決して難しくない。好きに使って欲しい』
 メモの下に置かれた薄い本は、記憶を書き換える装置の説明書だった。先ほどアルフが出て行ってから一通り読んでみたが、確かに操作は難しくなかった。消去と追記の2つのモードがあり、どちらかを選択する。後は特殊な帽子をかぶり、操作したい記憶を思い浮かべると、正面のディスプレイに具体的な映像が現れ、それを見ながら記憶を消したり書き込んだりできるそうだ。
 1つの映像を記憶とすること。それは経験に他ならない。実際に体を動かして経験したことが記憶となっていくように、思い浮かべたことがリアルな記憶として、違和感なく書き込まれていく。
 フェイトは一度ポケットに触れ、それから説明書と一緒に置かれているノートを開いた。
 それは老人のつけていた日記だった。三十年に渡る開発の記録と、その後の記憶の操作に関する日記。
『昨日の記憶は、亡き息子との整合性が取れないので再考を要する。いっそ息子の記憶を変えてしまってはどうか』
『ようやく妻との出会いが完成した。こんな経験をしたのは恐らくこの世界でも自分一人だろう』
『今いないという現実は変えようがない。変えられるのは過去だけだ。今に整合させるのが自然ではないか』
『財をなした記憶に違和感がある。自分が幸せを感じることは何か。記憶を作るとは、自分を見つめ直す作業だ』
『幸せとは到達点にではなく、その過程にあるのではないか。今がたまらなく面白い』
 ノートの日付は何年にも渡り、老人の記憶を作る上での苦悩や喜びが書き記されていた。彼の、本当の記憶。
 最後にあの老人がどんな境地に至ったのか、それはわからない。この日記を読み返しても違和感の生じない記憶にしたのだろうか。日記は中途半端な形で途切れており、もはやその答えは得られない。
 何故老人は説明書と一緒に、この日記をフェイトに見せたのか。
 フェイトは目を閉じて昔のことを思い出した。優しい母親の眼差しと、アリシアと呼ばれてにこにこ微笑んでいる自分。自分のものではない、移植された記憶。フェイトからすれば、作られた記憶。
 老人は自分の記憶を、作ったものだと言っていた。もちろん、最後に機械のことも何もかも忘れ、記憶を作ったことすら忘れてしまえばいいが、彼はそうしなかった。できなかったのかもしれない。いずれにせよ、整合性が破綻すれば記憶の捏造はすぐに知ることになる。
 人と関わればその可能性が増し、違和感も増える。結局今と同じだ。不自然な記憶が他人の経験か、自分が作った未経験かというだけで、真実ではないという点で大差はない。ならば、今のままの方がいい。
 それは妥協かも知れない。けれど、なのはが言った。だから二人は出会えたのだと。なのはと会えたことで、暗い過去は意味を持った。
 フェイトはバルディッシュを構えた。魔力を込め、魔法を作り出す。
 Photon Lancer──
 先端から光が迸り、機械を飲み込む。老人の三十年の成果は一瞬にして瓦礫と化した。
「任務完了」
 そっと呟いて、背中を向けた。
 フェイトは今、幸せだった。リンディやクロノ、ユーノがいて、地球でも新しい友達がたくさんできた。アリサやすずかは自分を歓迎してくれたし、最終日にはレンや晶とも仲直りできた。
 そして何よりも、なのはがいる。
 地球での最後の日、別れ際になのはが腕を掴んで、フェイトを人目のないところに連れ込んだ。そして頬を染め、拗ねたように上目遣いにフェイトを見て、こう切り出した。
「フェイトちゃん、一昨日の夜なんだけど……」
 そこで一旦言葉を区切る。そういえばその前の日にも、なのはは何か言いかけてやめたことを思い出した。何を言われるのかドキドキしているフェイトに、なのはが困ったように言った。
「フェイトちゃん、どさくさに紛れてわたしにキスしたよね?」
「あっ……」
 思わず言葉を失った。最初の日の夜、皆が自分に冷たかったという話をした後、フェイトはなのはにキスをした。なのはには気付かれなかったと思ったし、自分でも忘れていたが、なのはは意識していた。
「あ、あれは……」
「あれは?」
「その……」
 言葉に詰まり、せわしなく指先を絡める。弁明が思い付かずに、もはやこれまでと顔を上げると、最愛の親友は意地悪そうな、何かを期待するような眼差しでフェイトを見つめていた。怒られるのではないかと心配したが、どうやらその反対らしい。
「その、つい……」
「わたし、ファーストキスだったんだよ?」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいから、責任取ってね」
 いつもの笑顔でなのはが言った。そしてぽかんとするフェイトの腕を掴み、照れ隠しするように背中を向ける。
「さっ、戻ろっ!」
 フェイトは何も言えずに、引きずられるように元の場所に連れ戻され、そのままなのはの家族に見送られて地球を後にした。
 結局、なのはの言う責任の意味は今でもわかっていない。ただ一つだけ確かなのは、フェイトがなのはを想うより遥かに強く、なのははフェイトを愛していること。
 それがわかったことが、今度の一件の何よりの収穫だった。その想いだけで生きていける。
 外に出るとアルフが不安げな顔で駆け寄ってきた。
「フェイト! 大丈夫だよね? あたしのこと覚えてる? なのはのことも、ちゃんと覚えてるよね?」
 一番初めに記憶を書き換える話をしてから今日まで、一体この使い魔はどれだけもどかしい思いをしてきたのだろう。どれだけ不安な夜を過ごしてきたのだろう。自分はあまり良い主人ではない。それでも、こうして自分を心配してくれるアルフと、これからも生きていきたい。
「なのは? それは女の子の名前?」
 怪訝そうに首を傾げると、アルフが絶望的な表情をして一歩後ずさりした。
「冗談だよ、アルフ。ごめんね」
 小さく笑って謝った。
 泣き叫ぶように風が吹いている。遠くの空に目をやると、街の中心地区に建ち並ぶビルの一つから煙が立ち上っていた。時空管理局の誰かが、何か失態でもしでかしたのだろうか。
「私たちも仕事をしないと。まだ危険な機械を一つしか壊せてない」
 フェイトはそう言って、ふわりと空に浮かび上がった。呆然としていたアルフが、何やら合点いった顔をしてついてくる。
 一生懸命働いて、またなのはに会いに行こう。
 そう誓いながら、指先でそっと自分の唇をなぞった。
 改めて、今を幸せだと思った。

 ─ 完 ─