『 春の色 』


　青い空が高く澄み渡る午後だった。
　風のない、汗ばむような陽気が、海鳴の町を包み込んでいる。
　擦れ違う人の中にもちらほらと、半袖姿の若者や、半ズボンの子供たちの姿が見られた。
　数日前に降った名残の雪もその影を失い、町はすっかり春の色に染められている。後は桜の開花を待つばかりだ。
　忍は乾いた空気を胸いっぱいに吸い込んでから、ふと自分の隣を歩く少女に目を遣った。
　短く切りすぎたと言っていた髪を、小さく肩の上で揺らしながら、神咲那美が微笑みを浮かべて歩いている。
　どこまでも穏やかな表情。瞳には、彼方にそびえるほんのわずかに雪を残した青い山々を写していた。
　もう随分長いこと、こうして何を話すでもなく歩き続けている。元々散歩が目的だったし、那美もこの何事もない時間を楽しんでいるようだったから、無言というのも悪くなかったが、忍は少しだけ居心地の悪さを感じ始めていた。
　静かなのは慣れていたし、格別苦手でもなかったけれど、それは日頃話し相手がいないからである。せっかく相手がいるのなら、話をしたいと思った。
　そこで忍は、なんとなく、冗談のつもりで那美の足元を指差して笑いかけた。
「あ、那美。足元に春が落ちてるよ」
「えっ？」
　突然の呼びかけに、少し驚いた声をあげて、那美は足を止めた。それから首を傾けて、キョロキョロと足元を見回す。
　その仕草が何とも可愛らしくて、忍は微笑みを浮かべた。
　那美はそれに気付かず、春を見つけるのに必死になっている。今にも地面に這いつくばりそうな勢いだ。
　あんまりいじめては可哀想かと思って、忍が「冗談だよ」と声をかけるより早く、那美が嬉しそうに言った。
「あっ、ほんと！」
「えっ？」
　今度は忍が驚いて目を開いた。先程よりもいっそう柔らかな笑みを浮かべて、道端にかがんだ那美のすぐ側に、小さな青色の花が咲いていた。
　どこにでも咲いていて、普段なら目にも留めないような花だ。言われてみれば、なるほど、春にしか見ないような気もするが、忍はその花を知らなかった。
「星の瞳ですね。可愛い……」
　何やら綺麗な言葉を呟きながら、那美は白い指先で、その花をつついていた。
　その隣に腰を降ろして、忍は尋ねた。
「ホシノヒトミっていう花なの？　それ」
　一瞬きょとんとした顔で忍を見てから、那美が笑って答えた。
「違いますよ。星の瞳っていうのは、この花の俗称です」
「へー。ほんとは何て名前なの？」
　忍が再び尋ねると、那美は少し頬を赤らめてから、視線を逸らすように花の方に目を遣った。
「オオイヌノフグリです……」
「オオイヌノフグリ？　オオイヌは……大きな犬のこと？」
　不思議そうに首を傾げる。
　那美は困ったように顔をゆがめてから、先程よりいっそう顔を赤くして、
「そこから先は、家に帰ってから辞書でも引いてください」
　早口でそう言って腰を上げた。そして、同じように立ち上がった忍に、話を逸らすように問いかける。
「忍さん、知ってて言ったんじゃなかったんですか？」
「えっ？　あ、えっと……」
　忍は慌てたように口をもごもごさせた。今さら冗談だったとはとても言えない。
「ああ、その花、春によく見るから言ってみたけど、詳しいことは知らなかったんだ」
　苦しい言い訳だったが、那美はそれで納得したようだった。大きく頷いてから、尊敬するような眼差しで忍を見上げ、はきはきした明るい声で言った。
「春が落ちてるなんて、忍さん、なんだかすごくロマンチックですね」
「あ、いや……あ、あはは……」
　忍はどうにもならない乾いた笑いを浮かべて頭をかいた。
　とりあえず、結果オーライだろうか。
「すっかり春ですね……」
　目を細め、眩しく輝く空を見上げて、那美がうっとりとした表情をした。この美しい春の中に吸い込まれそうな、あるいはそこから生まれた精霊と見まごうばかりの麗しさである。
「春は好きです。一番、好きな季節です……」
「そうだね……」
　二人が出逢ったのも春だった。
　高町恭也との偶然の邂逅。そして、それまでの二年間が嘘のように一気に増えた友達。那美もその一人だった。
　同じ学校で、同じ時を過ごした仲間。夏は海で、秋は山で、そして冬はともに雪を眺めて、こうして再び春を迎えた。
「また、一緒に思い出を作りましょう。みんなで校庭でお弁当食べて、一緒に勉強して、遊んで……」
　一年前の様々な出来事を思い返しながら、那美が空に囁く。それを聞きながら、静かに、あくまで穏やかに忍が言った。
「っていうか、わたしもう、卒業したけどね」
「…………」
　わずかな間。そして、
「あー、そういえばそうでしたね！　ご、ごめんなさいっ！　わたし、なにかとても失礼なことを……」
　いつものボケボケぶりをいかんなく発揮して、那美があたふたと頭を下げた。先程までの雰囲気は、もはや山の彼方である。
　忍はそんな那美の、白く輝いて流れる髪を見つめながら、柔らかく微笑んだ。こういうのが那美らしくてよい。
「いいよ、別に。暇だったら、高町くん引っ張って、また遊びにいくね」
「あ、はいっ！」
　嬉しそうに那美が顔を上げて応える。華やかに色づき始めた景色を浸透させたような、深緑の美しい瞳が、眩しそうに忍の姿を写していた。
「また、思い出作ろうね」
　春は、出会いの季節だから。
　これから始まる新しい時間に挨拶するように、
「はいっ！」
　元気良く答えた那美の声が、穏やかに吹いた風にそよいだ。
　足元で星の瞳が、小さく笑うように揺れていた。
完