── リアルタイム乃絵美小説 ──

第14作 : そしてここから、いつまでも






 窓から射し込む光が、少し遅めの冬の朝の訪れを告げる。俺はパジャマのまま大きく一度のびをしてから、部屋の温もりに汗をかいている窓を開けた。

 途端に吹き付けるように入り込んでくる冷気に、澄み切った冬の匂いがした。俺はそれを大きく吸い込んで、ベランダ越しに町を見下ろす。

 背の低い町並み。葉を落とした街路樹の下を、コートの襟を立てて歩く人々の姿が見える。やや視線を遠くに向けると、ここから500mほどのところに、桜美工大のキャンパスが広がっている。そしてそのさらに先、青空をバックにして、首都高速が太く、西の地に美しい青を広げる桜美湾の方まで長く長く伸びていた。

「今日もいい朝だ」

 背中越しに、奥にいるはずの妹に向かってそう呟きながら、首を二、三度横に倒す。凝っていたのか、コキッと小さな音がした。

 桜美駅の方から、電車の車輪が線路の継ぎ目を蹴る音が聞こえてきた。

 どこまでも長閑な朝。さらにそのまま、俺がそんな朝の空気を堪能していると、

「お兄ちゃん」

 背後から、どこか元気のない乃絵美の声がした。朝が弱いわけでもないのに、一体どうしたのだろうと思って振り返ると、乃絵美は小さく目を伏せてから、申し訳なさそうにこう言った。

「あのね、お兄ちゃん……」

「おう」

「寒いから、窓閉めて」

「…………」

 そして、俺の朝のさわやかな一時は静かに幕を閉じた。



 見慣れない白い壁紙と、まだ梱包を解いていない幾つかの大きな段ボール。辛うじて置いてあるのは、少し大きめの一台のベッドと、部屋の隅でフル稼働しているガスストーブ。そして小さな洋服ダンスと、今、湯気の立つコーヒーカップの置かれたこの小さな丸テーブル、ただそれだけだった。

 生活感はないけれど、確実に人の温もりのある、小さな部屋。

 俺の下宿先。

「お兄ちゃん、パン焼けたよ」

 そう言いながら、乃絵美がトースターから食パンを取り出して、薄くバターを塗る。俺はしばらくそんな乃絵美をじっと見つめていたが、乃絵美がバターを塗り終えると、パンを受け取り、勢い良くかぶりついた。

 そんな俺を楽しそうに眺めながら、乃絵美が自分のパンにストロベリーのジャムを塗った。

 特別な会話はないけれど、和やかな朝食風景。俺はコーヒーカップを手に取り、それを一口すすった。

「ねえ、お兄ちゃん」

 俺がカップをテーブルに置くと、乃絵美がパンを頬張り、手で口を押さえながら言った。

 あんまり良い行儀とは言えないが、まあそこは寛大な心で許そう。

「何だ?」

 パンを取りながら聞き返すと、乃絵美がごくんと口の中のものを飲み込んでから、にっこりと笑った。

「今日、何の日か知ってる?」

「今日?」

 聞き返しながら、俺が壁に掛かったカレンダーを見ると、乃絵美は待ち切れなかったらしく、俺が答える前に言った。

「うん。2月14日」

「2月14日……」

 わざと考えるような素振りをしてから、俺は大きく手を打った。

「あ、ああそうだ」

「何?」

「そういえば今日、菜織たちが来るぞ」

「へっ?」

 思い切り肩すかしを食らったらしく、呆然とする乃絵美。この乃絵美が結構可愛い。いける。いい感じだ。

 しばらくバレンタインのことは口にしないことを固く心に誓いながら、俺は話を続けた。

「菜織とミャーコちゃんと冴子が、部屋を見に来るってさ。ベッドが一台しかないから、何言われることやら」

「うぅ〜」

 俺の言葉に乃絵美は奇妙な呻き声を上げてから、視線をベッドの方に移した。

 つられて俺もベッドを見る。

 整った白いシーツの上に、枕が二つ置いてある。もうこれだけでかなりヤバイ感じだ。

 枕が「僕たちはHです」と訴えかけている。ミャーコちゃんあたりなら、枕とさえ話ができそうだから危ない。もっとも、やましいことは何もしてないのだけれど。

 俺がそう思った刹那、乃絵美がそれを真っ向から否定するようなことを言った。

「一緒に寝てるだけで、十分やましいよね、やっぱり。どうしよっか?」

「…………」

 まるで俺の心を読んだ上で言っているような乃絵美の発言に、内心でふてくされる俺。とりあえず乃絵美にはばれなかったけれど。

「じゃあ、乃絵美は押し入れで寝てることにして、枕だけどかそう」

「私は、お兄ちゃんが床で寝てることにした方が自然だと思うんだけど」

「いっそ、枕をベッドの逆側に置くか。頭の方と足の方に一つずつ」

「一緒だよ」

「諦めるか」

「だから、お兄ちゃんが床」

「そうか……」

 何ともいい加減な会話をしながら、やがて俺達は食事を終えた。

 実際のところ、別に二人とも一緒に寝ているのがばれても構わないという思いがあったから、気が付くと、結局菜織たちが来るまで枕はずっとそのままだった。



「わぁ〜お! やるねぇ、二人とも」

 と、まず声を上げたのはミャーコちゃん。菜織はやれやれと言った感じで溜め息を吐き、冴子は顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。

 穏やかな正午。この家の向かいの道路の2本向こうが大通りで、そこから車のエンジン音がひっきりなしに聞こえてくる。町は活動している。

 俺は、座りもせずにそれぞれのリアクションを取っている3人を適当に座らせて、乃絵美に熱いお茶を煎れさせた。

「とりあえずいらっしゃい、みんな。ちょっと窮屈だろうけど、まあゆっくりしていけよ」

「あ、ああ」

 未だに赤くなって俯いている冴子が答えて、菜織が小さく微笑んだ。

「で、どう? 正樹。新しい暮らしは」

「そうだなぁ……」

 呟きながら外の方に目を遣ると、青い空の手前に無数の電線が目についた。ここは3階だから、町並みは見えないが、大学の校舎と、遠くにある赤と白の鉄塔が小さく見えた。

 視線を部屋に戻すと、ミャーコちゃんがゴミ箱の中を覗き込み、それを見た乃絵美が赤くなっていた。

 ミャーコちゃんは一体何を探していて、乃絵美は一体何を考えていることやら。

「悪くはないぞ」

 菜織の顔を見ながらそう答えて、乃絵美の煎れたお茶を一口すする。

「大変じゃない?」

「今のところはな。大変なのはむしろ俺じゃなくて……」

 そう言いながら乃絵美を見ると、乃絵美は元気に笑って見せた。

「私は大丈夫だよ」

「あっ、そうか」

 ポンと手を打ったのは冴子。だいぶ落ち着いてきたらしい。

「乃絵美はまだ、学校があるんだよな」

「うん。ちょっと遠いけど、でも大丈夫だよ」

 そう言って微笑む乃絵美。

「そっか……」

 冴子が感慨深げに頷いて、それからしばらく沈黙があった。

 気まずいわけではなく、恐らくみんな、過ぎ去った高校時代に想いを馳せているのだろう。

 色々なことがあった。特にこの1年……。

「だけど……」

 菜織がぽつりと呟いて、そこに視線が集中する。

「だけど、まさかあんたが乃絵美と一緒に下宿するとはね……」



 2月1日は朝から粉雪の舞う、寒い一日だった。

 俺はその日、誰にも見送られることなく桜美工大を訪れ、そこで入学試験を受けた。

 元々大した大学ではなく、油断しなければ落ちることはないだろうと言われていたが、絶対に落ちてはいけないという緊張感で、実力は出し切れなかった。

 落ちては行けない理由。それはつまり、乃絵美と一緒に下宿するため。二人で家を出るため。乃絵美が俺と一緒に家を出て、なおSt.エルシア学園に通うためには、どうしても俺はここ、桜美工大に受かる必要があったのだ。

 結果は、幸いにも合格。発表を見に来たその足で、俺は大学生協で下宿先を探し、すぐさまこの部屋を借りた。それがまだほんの3、4日前のこと。

 そして、時を置かずして、俺と乃絵美は家を出た。

 もちろん、両親からの反対はあった。というか、凄まじい勢いで怒鳴られたが、もはや俺と乃絵美の決心は揺るぎなく、俺が本当にすべてを犠牲にしてでも二人で生きていこうとしているのを知ってか、とうとう最後には親に家賃と学費を払わせることに成功した。もっとも、さすがに仕送りはなく、俺は乃絵美と二人分の食費と光熱費を稼ぐために、人一倍のアルバイトを余儀なくされたが。

 引っ越しは商店街の人の力を借りて、滞りなく終了した。そして俺と乃絵美は、ここから、この小さな部屋から、今までにない、新しい第一歩を踏み出したのだ。



 菜織たちが帰ってからしばらく、俺と乃絵美はベッドに座ったまま、何もせずに時を過ごした。

 祭りの後の静けさ。狭いはずの部屋が、ひどく広く感じられた。

 カーテンを閉め、電気を煌々と点けても、やはり寂しさは隠し切れずに、俺と乃絵美はその寂しさを埋め合うように、どちらからともなく抱き締め合った。

 柔らかな温もりが、二人の胸を包み込む。

 しばらくそうしていたら、少しだけ心が安らいだ。

「ご飯にしよっか、お兄ちゃん」

 やがて乃絵美がそっと俺の胸を押し返して、いつもの笑顔でそう言った。

「そう……だな」

 それに応えるように、俺もつられて笑顔を向ける。

「よしっ!」

 乃絵美が勢い良くベッドから立ち上がって、スタスタと流しの方に歩いていった。

 俺はしばらくそんな乃絵美の背中を眺めてから、おもむろに立ち上がって荷物の整理をし始める。

 声を出したからか、先程の寂しさはいつの間にかなくなっていた。

 無数の段ボールに入っているのは、基本的には服ばかりだった。元々一人で住むために作られているこの部屋は、二人で住むには狭すぎて、辛うじてあるものと言えば、まだ段ボールに入ったままの小さなテレビが1台、それくらいだった。

 俺は片っ端から服を取り出し、それを1つ1つたたんでは、押し入れに置かれたタンスの中に入れていった。

 奥から何かの焼ける音と、香ばしい香りが漂ってくる。

 手を休めて奥の方を覗いてみると、エプロン姿の乃絵美が、フライパンを片手に楽しそうに料理をしているのが見えた。

「乃絵美……」

 そんな乃絵美を見て、俺は思わず安堵の息を洩らした。

 正直な話、ここに来てからこれまで、不安しかなかった。

 もちろん、その不安は今もまだあったけれど、今日までの三日間で少しずつ、乃絵美とならやはりやっていける、どれだけ苦労しても、きっと大丈夫だと、そう思えるようになってきた。

 例えば買い物とか、洗濯とか、そういったことから、アルバイトのこと、それから、恐らくこれから出てくるであろう、二人の生活の時間帯の違いとか、問題はそれなりにあるけれど、でも、やはり二人でなら補い合える。

 本当に楽しそうに微笑んでくれる乃絵美を見て、俺は確かにそう思った。

「ん? お兄ちゃん?」

 じっと乃絵美の方を見つめていると、やがて乃絵美がそんな俺の視線に気が付いて振り返った。それから小さく首を傾げた後、あからさまに不愉快そうな顔をして唇を尖らせる。

「ど、どうしたんだ? 乃絵美」

 じっと見つめていたのがまずかったのだろうかと思ってそう聞くと、乃絵美はふてくされた顔をしたままこう言った。

「あの、お兄ちゃん。私の下着握り締めて、何してるの?」

「へっ?」

 言われて初めて気が付いた。

 ずっと考え事をしていたのがまずかったらしい。

 視線を落とすと、俺の手の平に、しわくちゃになった乃絵美のショーツが握られていた。

「あ、あははははは……」

 困ったように笑うと、乃絵美はわずかに頬を染めながら、ぷいっと横を向いてしまった。

「あはは……」

 俺はがくりと肩を落として、乃絵美のショーツをタンスに片付けた。



 時計の短針が音もなく8時を回った。

 食事を取り合えた後、俺が適当に買ってきた雑誌を読みながらくつろいでいると、

「お兄ちゃん」

 乃絵美がそう呼びかけながら、俺の前に座った。

 きちんとした正座で、思わず俺も雑誌を横に置き、姿勢を正す。

 何だか滑稽だったが、乃絵美は真面目そのものの顔をして、真っ直ぐ俺の目を見つめていた。

「どうしたんだ? 乃絵美」

 不思議がって尋ねると、乃絵美はそのまま視線を逸らさずに、少しだけ柔らかく微笑みながらこう言った。

「今日……その、2月14日だから……」

「あ、ああ……」

 言われて、思い出した。

 菜織たちが来ていたからすっかり忘れていたが、そういえば今日はバレンタインデー。朝、自分で乃絵美に意地悪したではないか。

 俺がそんなことを考えていると、乃絵美がやれやれと言った目で俺を見て、すっと包みを差し出した。

「今日、バレンタインだよ、お兄ちゃん」

「ああ、そういえばそうか!」

 なるべく嬉しそうに言ったけれど、ちょっと白々しかったかもしれない。

 それでも乃絵美は、にっこりと笑ってくれた。

「開けてみて」

「おう。言われるまでもないぞ」

 そう言いながら袋を開けると、中にはハート型の大きなチョコレートが入っていた。

 何の変哲もない、ただのチョコレートだったが、上に大きく、「お兄ちゃんへ」と書かれている。

 つまり、去年とまったく同じチョコレートということだ。

「食べてみて、お兄ちゃん」

「ああ。ありがとう」

 俺は言われるまま、それにかじりついた。

 少し硬めの歯ごたえ。それからじわっと口の中に広がってくる甘い味。

 たぶん、去年とまったく同じなのだろうが、ずっと美味しく感じられた。

 二口、三口と俺がチョコレートを頬張ると、乃絵美が感慨深げに呟いた。

「全部、ここから始まったんだよね……」

「…………」

 俺は何も言わずに、ただチョコレートを食べていた。そして、食べながら去年のことを思い出す。

 過去、誰にもチョコレートなど作ったことのなかった乃絵美が、生まれて初めて作ったチョコレート。それを乃絵美は、毒見などとくだらない言い訳をしながら俺にくれた。

 その時からすでに乃絵美は俺のことを好きでいてくれた。俺はまだ、乃絵美を妹としてしか見ていなかった。

「お兄ちゃん、あのね……」

 小さく乃絵美が切り出す。

「私、ずっとお兄ちゃんに嘘をついてたから、謝らないといけないの」

「??」

 俺はチョコレートを食べる手を休めて、乃絵美の顔を見る。

 乃絵美は申し訳なさそうに視線を床に傾けた。

「あの、去年のことなんだけど……」

「おう」

 乃絵美が何を言っても許してやるつもりだったから、割と気楽に答える。

 乃絵美はちらりと俺を見上げて、困ったような口調で言った。

「その、私が作ったチョコレート、本当は毒見なんかじゃなくて、お兄ちゃんにあげたかったんだよ……」

「…………」

 俺は、絶句した。

「乃絵美……」

「う、うん」

「今の、何かの冗談か?」

「えっ?」

 俺は、ひたすら疲れてしまった。



 俺があらかたチョコレートを食べ終えるまで、乃絵美はその場に座ったまま、じっと俺を見つめていた。

 俺はそんな乃絵美の顔を一度ちらりと見ると、残り少なくなったチョコレートを乃絵美の口の中に入れてやった。

 乃絵美は一瞬驚いた顔をしたけれど、やがてそれをぽりぽりと噛み、ごくりと飲み込んだ。

「美味しいか?」

 俺が聞くと、乃絵美は少しだけ顔を綻ばせて、

「うん」

 と、嬉しそうに頷いた。

「そうか……」

「ねえ、お兄ちゃん」

「ん? なんだ?」

 俺の言葉に、乃絵美は真っ直ぐ俺を見つめた。

「少しだけ、真面目なお話」

「ああ……」

「その前に……」

 と、言いながら、乃絵美は膝をついたまま俺に近付いて、そのまま無言で俺の胸に顔を埋めた。

「乃絵美……」

 そんな乃絵美を優しく抱き締めると、乃絵美は恥ずかしそうに小さく首を傾けた。

「あのね、お兄ちゃん」

「おう」

「うん……。やっぱりその、大したことじゃない気もするんだけど……でも、やっぱり大したことじゃないかも……」

 どうやら何か恥ずかしいことを言いたいらしい。

 俺は内心で微笑しながら、そっと乃絵美の髪を撫でてやった。

「遠慮せずに言えよ、乃絵美。大したことでも、大したことじゃなくても、俺は一向に構わんぞ」

「うん……」

 乃絵美は頷いてから、やっぱり恥ずかしそうに、けれどもはっきりとこう言った。

「あの、乃絵美のこと、これからもよろしくお願いします」

「…………」

 一瞬、拍子抜けしてしまってけれど、すぐに乃絵美がその言葉をどれだけの意味を込めて言ったかに気が付いて、鳥肌が立つ思いがした。

 たぶん、乃絵美なりにけじめをつけたかったのだと思う。だらだらと今まで通り過ごしていくんじゃなくて、ここから、この場所で、新しい生活を始めることに。

 乃絵美が俺にチョコレートをくれたあの日から、ちょうど1年後の今日この日に、もう一度二人で、新しく歩き始めるのだと。

 俺は乃絵美を強く抱き締め、そして頷いた。

「こちらこそ、よろしくな、乃絵美」

「お兄ちゃん!」

 嬉しそうに勢い良く顔を上げた乃絵美に、不意打ちを食らわせた。

「あっ……」

 乃絵美の唇から、甘いチョコレートの味がした。それはきっと、俺の唇からも。

「お兄ちゃん……」

 熱っぽく呟いた乃絵美の唇を離して、俺はもう一度乃絵美の身体を抱き締めた。

「乃絵美……。俺からも話があるんだ」

「うん……」

 乃絵美が頷く。

 俺は大きく息を吸って、乃絵美の耳元でささやいた。

「一緒に風呂に入ろう」

「!!」

 ……結構本気で殴られた。



 俺が先に風呂に入って、乃絵美が風呂に入っている間、俺は窓から空を眺めていた。駅の明るさに負けて、そんなにもたくさんは見えないが、それでも幾つか光の強い星々が、負けるものかと空から光を投げかけている。

 風呂場から、シャワーの音と一緒に、乃絵美の楽しげな鼻歌が聞こえてきた。昔からでは考えられないことだったが、最近は身体も強くなって、性格も見違えるほど明るくなった。

 俺は微笑みながら風呂場のドアに目を遣って、それからぐるりと一度、部屋の中を見回した。

 何もない部屋。その床一面に、家を飛び出して初めて知った苦労が、3cmほど積もっている。

 学びながら働くこと、家事をすること、生活すること、生きていくこと……。

 高校時代、如何に気楽に生きてきたか、如何に親のスネをかじってきたか、それを、痛いほど実感した。

 けれど、そんな苦労の中で、俺は、自分という存在もまた強く感じていた。

 初めて自分の足で歩いた感触。初めて負った責任。

 すべてが昨日までとは違う生活に、俺は生き甲斐さえ感じていた。

 いつまでも乃絵美と一緒にいたい。そして、守りたい。時には助けられながら、そうして二人で生きていきたい。

 言葉にすると安っぽいけど、何よりも大切な想い。

 ずっと、大事にしていきたい。

「どうしたの? 真面目な顔して」

 風呂場から出て、パジャマに着替えた乃絵美が、いたずらっぽくそう言いながら俺の隣に立った。

「いや……」

 俺は再び窓の外に顔を向ける。

 乃絵美が軽く俺の腕にもたれかかって、同じように遠くの空に目を遣った。

 俺たちの視線の遥か向こうで、飛行機の赤いランプが、夜空に浮かぶ白い雲の中に消えていった。

「不安はないよ」

 ぽつりと、乃絵美が呟いた。その声は、風呂上がりだからか少しかすれていたが、自信に満ちた力強さがあった。

 俺がちらりと横目に見ると、乃絵美は柔らかく微笑みながら、真っ直ぐ窓の外を見つめていた。

 そして、俺の視線に気が付いたのか、目だけで俺の方を見て、もう一度繰り返した。

「不安はないよ、お兄ちゃん」

 俺は何も答えずに、そっと乃絵美の身体を片腕で抱き寄せた。

 乃絵美は俺の肩に頭を乗せて、再び小さな星を瞳に映した。

「朝は起きるの大変だし、ご飯を作るのも大変だし、学校も遠くて、歩いていくのも大変だけど、でも頑張れそう……。まだお父さんやお母さんにも許してもらったわけじゃないから、それはちょっと心配だけど、でも、不安はないよ」

 ふわりと鼻腔をシャンプーの香りがかすめた。

 俺よりずっと背の低い乃絵美が、正面から上目遣いに俺を見上げて、やっぱり綺麗な瞳で微笑んだ。

「幸せの方が、うんと大きいから」

「そうだな……」

 柔らかく包み込んだ乃絵美の身体から、熱いくらいの体温が伝わってきた。もちろんそれは風呂上がりだからなのだが、俺はそれでもその温もりが愛おしかった。

「帰りたくないって言えば嘘になるけど、帰らなくてもいいっていうのは本心だ。どんなに苦労しても、親が……世間が俺たちを認めてくれない限り、俺はいつまでだってお前と二人で生きていく。たとえ世界を敵に回しても、俺はお前を離さない」

「うん……」

 小さく頷いたのが感触で伝わってきた。それから乃絵美は一度鼻をすすって、微笑みながら顔を上げた。目尻にわずかな涙が浮かんでいたが、それは嬉しさのためだと肌で感じた。

「乃絵美、好きだ……」

「私も、大好きだよ……」

 もう何度目かは覚えてないけれど、重ね合わせた唇は溶けそうなほど柔らかくて、そして、温かかった。口元にかかる鼻息はやっぱりくすぐったくて、新鮮で、少し前と変わったことと言えば、歯がぶつからなくなったことくらい。

 すごくドキドキしたから、唇を離した後、わずかにとろんとした乃絵美の瞳に、俺はそっとささやいた。

「乃絵美……」

「うん……」

「今夜、しよっか?」

「……えっ?」

 俺の予想外に、驚きに大きな声を上げる乃絵美。

 見開かれた瞳には、もはやムードのかけらも残っておらず、俺は何かとてつもない間違いをした気がしたけれど……すでに遅かった。

「えっと……」

 困ったように口元を引きつらせながら、俺の腕からするりと抜け出て、乃絵美はポリポリと頭をかいた。

「私、押し入れで寝るんだっけ?」

「おい、乃絵美」

「あっ! お兄ちゃんが床だっけ?」

「乃絵美ぃぃ」

 俺が情けない声をあげると、乃絵美はキッと俺を見据えてから、

「お兄ちゃんのエッチ!」

 赤くなりながらそう言った。恥ずかしさに、少し怒りがブレンドされているらしい。

「ごめん! 乃絵美」

 俺が両手を顔の前で合わせて謝ると、乃絵美はすぐに破顔して、首を振った。

「冗談だよ、お兄ちゃん。怒ってないってば」

「えっ? 冗談なの!? じゃあ……」

 と、言いかけて、やめた。

「な、なんてね……」

 ……怖かった。

「ふふふ。さっ、もう寝よっ。明日も早いよ」

 言うが早いか、乃絵美はてきぱきと寝る準備をして、ベッドに潜り込んだ。

 俺もすぐに支度して、電気を消してベッドに入る。

「今日も疲れちゃった」

 暗がりの中で乃絵美の声がして、ぎゅっと、腕が柔らかい感触に包み込まれた。

「そうだな」

 もう一方の手で髪を撫でてやると、乃絵美は嬉しそうに微笑んだ。

 ……と思う。暗くて見えないけど。

「でも、すごく楽しかったね」

「ああ」

 一瞬思考が飛んだから、答え方がぶっきらぼうになってしまった。

『楽しかったね』

 菜織と、ミャーコちゃんと、冴子と一緒に。

 俺の予想を、嬉しい意味で裏切って。

 いつの間に寝てしまったのか、耳元で乃絵美の寝息が聞こえてきた。

 疲れてたんだな……。

 優しく頭を撫でてやると、乃絵美が「んん……」と、気持ち良さそうに声を洩らした。

「楽しかった、か……」

 ふと呟く。

 いつか……いつだったろう。

 思考を巡らす。

 そうだ。去年の花火大会のとき、俺は思った。

 あの時から思っていた。今の生活を。乃絵美と二人で暮らすことを。

 そして、そのことで、みんなに軽蔑されることを……。

 だけど、蓋を開けてみたら、みんな俺たちのことを応援してくれた。

 もちろん、俺と乃絵美がすでに肉体関係まで持っていることを知らないからだろうが、引っ越しを手伝ってくれた商店街のおじさんたちも、みんな、誰も俺たちを軽蔑したりしていない。

『世間から後ろ指を差されながら、お前たち二人だけで生きていけると思っているのか!?』

 親父が拳と一緒に叩き付けた言葉。

 これから先、この言葉が俺たちの中でどれだけの重さを持ってのしかかってくるのか、それはわからない。

 それがわかるほど大人ではなかったし、わかったところで、それが乃絵美を諦めることよりも重いことだとは思えない。

 先のことはわからない。

 ただ……ただ一つだけ確かなことは、俺は乃絵美が好きで、乃絵美は俺が好きで、そして二人は今、幸せだということ。

 だから、この幸せを守っていきたい。

 色々あった一年だった。だけど、終わりじゃない。

 これからが……これからこそが始まりなんだ。

「乃絵美……」

 両腕で抱きしめると、あまりにも心地よいその温もりと柔らかさに、俺は途端に睡魔に襲われた。

「おやすみ……乃絵美……」



 ……そう。

 人を傷付けて、

 自分も傷付いて、

 色々なものを犠牲にしながら、

 ようやく心を重ね合わせた。

 でも、

 それはゴールじゃない。

 中継地点でもない。

 新しい二人のスタートライン。

 それを今日、

 乃絵美が引いた。

 そしてここから、

 いつまでも、

 俺たちの道は果てしなく続くから……。

 果てしなく……、

 どこまでも続いていくから。

 だから今は、

 そんなに気負わずに、

 気楽に、

 焦らず、

 歩いていこう。



 俺たち二人の道が、

 いつまでも、

 太く、

 明るく続きますように……。



 俺はそう願い続けながら、やがて深い眠りに落ちた。

 明日も元気に一日を過ごすために。

 新しい第一歩を、力強く踏み出すために……。

 乃絵美と二人で……。

 ずっと歩いていくために……。



 いつまでも。

 いつまでも……。

 ずっと歩いていくために……。



─── 完 ───  





 戻る