── リアルタイム乃絵美小説 ──

一通の手紙






 5月7日。天気、晴れ。

 午後3時半。ついこないだまで上着を羽織っていたのが信じられないような、ねっとりとした暑さがここ、桜美工大の中庭を包み込んでいた。

 視線の先にあるグラウンドでは、私服で野球をしている連中が、汗だくになって走り回っている。もうすぐクラス対抗ソフトボール大会なるものがあって、その練習をしているヤツらなのだが、この暑い中まったくよくやるなぁと思った。

 そして、すぐに苦笑する。

 2年前の俺なんか、真夏の日差しの中を走り回っていたじゃないか。

 一瞬、懐かしいクラスメイトの顔がよぎって、すぐに消えていった。

 抜けるような青空に、歓声が響いていた。

「しっかし暑いなぁ」

 誰にともなく呟いてから、服の袖で額の汗を拭う。汗を拭くのには便利だったが、この厚手の服のせいで何もしなくても汗が滴り落ちてくるのだから、利便性だけを見て手放しには喜べない。

 俺は袖にべっとりとついた汗を確認してから、その袖を二の腕までまくりあげた。

 そいつに名前を呼ばれたのはその時だった。

「おう、正樹。うだり中か?」

 わけのわからん言葉を使う男は、貴島好則という、いつも無精ひげを生やした背の高い男である。俺の大学に入ってからの友人で、入学式のとき、靴を踏んづけて俺を転ばしておきながら、優しく俺を引き上げ、爽やかな笑顔で、「お前ドジだな。こんな石ころで躓くなんて」と、俺の転んだ理由を、たまたまそこに転がっていた小さな石のせいにした豪快なヤツだ。

 まさかその後で、「まったくこの石ころが!」と、石を蹴る振りをして、そいつの足を蹴り飛ばし、痛がるそいつに向かって、「大丈夫か? でも、蹴った石が当たったくらいでそんなに痛がるなよ」と言ったのが、こんな友情に結びつくとは。

 いやはや。まったく世の中はわからない。

「うだり中と言えばうだり中だが、俺は暑さには……」

 そう言いながら振り返ると、いきなり顔面目がけて缶が飛んできて、俺は言葉を切って反射的にそれを受け止めた。

 見るとそれはコーラだった。もちろん、中身の入ったもので、ずっしりとした重量感がある。

「お、お前……今、お、俺に向かって、この缶を投げたのか……?」

 ぞっとしながら俺が聞くと、好則……ヨシと呼んでいるからそう呼ぼう。ヨシは平然と笑い、あまつさえこんなことを言ってきた。

「渡しただけだ。お前ならきっと取れると信じていた」

「お前、俺になんか恨みでもあるのか?」

「可愛い妹がいる以外には、特にない」

 くだらないことを言いながら、俺の横に座る。

 そう。こいつは俺と乃絵美のことを知っている数少ない友人の一人でもあった。もっとも、知っているといっても大したことを知っているわけではないが、何度かうちに遊びにきたこともあるから、乃絵美の手料理の味くらいは知っているだろう。

「乃絵美はやらんぞ」

 俺はそう言いながらコーラのプルトップを起こし……後悔した。

「ぶあっ!」

 凄まじい勢いで吹き出したコーラを避けるすべもなく、俺はまともに顔面にコーラを食らっていた。

 迂闊だった!

「おい! 正樹、お前もったいないだろう!」

 かなり笑いを堪えたように、無理矢理怒ったような慌てたような声を絞り出すヨシ。

 俺はあまりのことに、まだ中身のたっぷり入ったコーラの缶を、思わずヨシのズボンの上に落としてしまった。

「うおっ!」

「ぐあぁっ! すまんなヨシ。思わず……思わず手が滑った!」

「き、貴様は……」

 ヨシが慌ててコーラの缶を起こして、してやられたと思いながらも怒鳴らずにはいられないような、そんななんとも言い難い顔で言った。

「お前は貧乏でジュースも買えないだろうと思って、せっかく俺がくれてやった好意を、お前はこうやって叩き付けて返すわけだな!?」

「いや、だから悪かったって」

 詫びながらも、思わず苦笑が洩れる。

 それから俺たちは、二人で笑い合った。

 大学生にもなって、構内でコーラまみれになっているヤツらは相当珍しいらしく、かなりの数の人間が面白がって俺たちの方を見ていたが、それに気がついたのはもう少しあとのことだった。

 ひとしきり笑い終えてから、ヨシが聞いてきた。

「お前、今日はこれからどうするんだ? もう講義はないだろ?」

「そうだな……」

 俺はハンカチで顔を拭きながら、一度空を見上げた。

 もっとも、その行動に意味があったわけではなかったが。

「またバイトか?」

 俺が答えるより先にそう言ったヨシの声は、先程までのふざけた口調ではなくて、どこか同情のこもった、真面目なものだった。

『また』

 友人が、思わずそう言ってしまうほど、確かに俺はバイトをしていた。する必要があったから……。

「いや、今日は違う」

 俺はヨシの方を見ながら答えた。

 ヨシはどこか安堵の表情を浮かべて、先程より少し明るい声で言った。

「じゃあ、どっか遊びに行くか? 佐竹とか、あと伊村さんとか敬子ちゃんとか誘って。みんな食堂でだべってるぞ」

 ちなみに、敬子ちゃんというのが、ヨシの大本命の女の子である。ある日そっと俺に打ち明けてくれたのだが、本人曰く、「乃絵美ちゃんの次に好き」らしい。

 乃絵美はやらん。

 俺は少し考える素振りをしたが、生憎今日は他の用事があったから誘いには乗れなかった。実際は、その用事のためにバイトも休んだのだ。

「悪いな。せっかくの誘いで本当に悪いと思ってるけど、今日はダメだ。年に一度しかない5月7日だからな」

「そうか……。じゃあ、年に一度しかない5月8日になったら、またここで落ち合おう」

「わかった」

「じゃあ俺は食堂に戻るから。またな」

 その言葉に、俺はヨシが俺のためにわざわざみんなのところから抜けてきてくれたことを察した。

 しかし、そんなことは礼を言うことではない。いずれ、行動で返そう。

「またな」

 そう言って、俺たちは別れた。

 時計を見ると、ちょうど4時を回ったところだった。

 俺はまだ少し残っていたコーラを飲み干すと、鞄を取ってゆっくりと立ち上がった。



 桜美工大に入ってからひと月と少し、だいぶ学校にも慣れてきた。履修登録も済み、大学の講義の受け方、さぼり方もわかってきて、ようやく肩の力を抜いて構内を歩けるようになった。

 アルバイト自体は、ファミレスで働いているのだが、これは2月の段階から始めているから、すでに慣れきっている。たしかに日数も多く、大変ではあったが、精神面ではアルバイトは苦にはならなかった。

 ただ、このアルバイトのせいで、友人連中に付き合いの悪いヤツだと思われているのもまた事実だった。クラブやサークルにも入ることができず、友人もいるにはいたが、どっぷりと話せるヨシみたいな友は少なかった。

 けれど、俺にはどうしてもアルバイトをしなければならない理由があったから、これだけはどんなことがあっても放棄するわけにはいかなかった。本来ならば、学生は、アルバイトよりも学業が優先なのだろうが、俺にはそうではなかった。

 俺は、自分と、そして乃絵美の二人分の生活費を稼がなければならない。

 もちろん、初めからその覚悟はしていたし、今でも後悔はしていなかった。

 これが自分の選んだ道であり、生き甲斐だった。

 乃絵美と二人で生きる。どんな困難も乗り越えてみせる。

 そして、乃絵美のためならすべてを捨てても構わない。

 その心は、今でも変わることなく、そして、これからも決して変わらないことだった。



 ほのかに夏の匂いのする風が、ふわりと髪をなびかせた。

「どうしたものかなぁ」

 俺はそう呟きながら、家への帰り道を歩いていた。

 大学から家まではほんの500メートルほどで、元々歩き慣れている俺にはどうってことない距離だった。

 先程より幾分長くなった自分の影を見つめながら、俺はもう一度繰り返した。

「どうしたものかなぁ……」

 5月7日。

 ヨシには言わなかったが、今日は乃絵美の誕生日である。

 言わなかったのは、ヤツが来るといけないからで、決してやましい理由からではない。ただ、二人で祝いたかったのだ。

 ……やましいか?

 大学を出てから、ずっと誕生日プレゼントのことを考えていた。

 去年は菜織やミャーコちゃん、それに冴子と一緒に、盛大に誕生日パーティーを催した。

 けれど今年は……乃絵美に言われたのだ。

「何もいらないよ、お兄ちゃん。本当に気を遣わないで。一緒に過ごせたらそれでいいから」

 今朝、乃絵美が学校へ行く前に残していった言葉である。俺はその真意を測りかねていた。

 つまり、内心は欲しくて、あげれば喜んでくれるのか、それとも、本当にいらなくて、あげても乃絵美を困らせるだけだろうか、と……。

 普通の女の子なら前者だろう。それは乃絵美も例外ではなく、去年もリボンをあげたら喜んでいた。

 けれど、今年は去年とは状況が違う。はっきりいって、誕生日プレゼントなど買う金はどこにもなかった。

 それだけ切羽詰まった生活を送っていたが、それでも俺たちの心は満たされていた。二人でいられることに。毎日温もりを感じ合えることに。

 だから、

『一緒に過ごせたらそれでいいから』

 その言葉がすべてなような、そんな気持ちも確かにあった。

 結局、答えが出せないまま、俺は下宿先のアパートに着いてしまった。

 入り口手前の階段を上がり、ドアをくぐり抜けると、郵便受けを覗き込む。

 郵便やちらしは特になかった。代わりに、蛾か蝶かわからない生物が、俺の目の前をひらひらと飛んでいった。そんな季節だ。

 俺は階段で3階まで上ると、自分の部屋に入った。

「ただいま〜」

 言ってはみたが、自分で鍵を開けて入ったのだから、誰もいるわけがない。

 いたら怖い。

「お帰りなさい、お兄ちゃん。ご飯にする? 私にする? 私にする?」

 寂しいから、一人でそんなことを言っておどけてみる。

 乃絵美はまだ学校で、今帰宅途中だろうか。

 そんなことを考えながら、俺は鞄を下ろしてベッドの上に転がった。

 綺麗な白い天井が目についた。防音材を使っているらしく、所々に穴の空いた、特殊な形をしていたが、殊更興味を惹くほどのものではなかった。

 一度部屋の中を見回してから、俯せになって枕に顔を埋める。

 乃絵美の匂いと……コーラの匂いがした

「しまった!!」

 顔を洗っていない。

 見ると、乃絵美の枕が滲みになってしまっていた。

「ふぅ……。裏返しておこう」

 俺は何事もなかったかのように枕を裏返すと、顔を洗いに流しへ立った。

 その時だった。

 ピンポーン。

 玄関の呼びインとともに、

「ごめんくだーい」

 と、筒抜けに明るい声がした。どうやら若い男のようだ。

「ごめんはあげませんよ」

 思わずそう言いそうになったのをぐっと堪えて、俺は玄関に走った。錠はかけていなかったから、そのままドアを開ける。

「ちわ〜。宅配便です」

 宅配便だった。

 ちっ。姿を確認する前に言われたか。

 改めて見てみると、大きめの箱が一つ、どっかりと通路の上に置かれていた。

 何だろう?

 気になったが、目の前の配達員が物欲しげに俺を見つめていたから、今は感心を抱くのはやめておいた。

 まずは判子だ。

「ちょっと待っててくださいね」

 部屋に戻って判子を取ってくると、それで受け取りを押した。

「ありがとうございました」

 そう言って、その人は颯爽と帰っていった。

 俺はしばらくその後ろ姿を見送ってから、箱の方に視線を落とした。

「んで? なんだ?」

 俺は箱の蓋に書かれた差出人を見て……一瞬、硬直した。

「これは……」

 しばらくその場で佇んでから、慌ててそれを玄関に引き入れた。

 ドアがバタンと音を立てたとき、俺はすでにその箱を持って部屋に戻っていた。



 街の夜空を星が微弱な光で照らす頃、俺たちは夕食を食べ終えてまったりとしていた。

 いや、実際にまったりとしていたのは乃絵美だけで、俺は座布団に座って本を読んでいるパジャマ姿の乃絵美を見つめたまま、色々と思案していた。

 二人ともすでに風呂に入り終え、後は寝るまでの少しの時間を、ただ起きているだけという時間帯である。

 誕生日のことはまだ何も言っていない。せいぜい食事の時に、乃絵美が自分から、「誕生日おめでとう、私」なとど、冗談半分そう言い出したから、「おめでとう」と口を揃えたくらいである。

「ありがとう」

 そう乃絵美が返事をして、それっきりだった。

 結局、誕生日プレゼントも買わなかった。

 俺はすっと乃絵美の横に座ると、肩を抱き寄せた。

「お兄ちゃん?」

 訝しげに乃絵美が呟いて、本をテーブルの上に置く。

「どうしたの? お兄ちゃん」

「なんでもない。あったかいな、乃絵美……」

「……そうだね……」

 乃絵美が気持ちよさそうに目を閉じて、俺の肩にもたれかかる。

 そして軽く唇を重ねるのは、日常茶飯事だった。

 俺がゆっくりと目を開けると、乃絵美はまだとろんだ顔をしていた。

「なあ乃絵美、少し話してもいいか?」

 俺がそう尋ねると、乃絵美はクスッと笑ってから、柔らかく微笑んだ。

「話なんて、いくらでもしていいよ」

「そう……だな……」

 俺は真っ直ぐ乃絵美の目を見つめた。

 大きな瞳に俺の顔が映っていて、少しだけドキドキした。

「大変じゃないか? 今の生活は」

 乃絵美は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた笑顔に戻ると、小さく首を振った。

「大丈夫だよ」

「じゃあ、寂しくないか?」

 すぐに質問を変えて聞いてみる。

 今度は、少しだけ眉をひそめて答えた。

「ちょっとだけ寂しい」

 そう言ってから、乃絵美はわずかに溜め息を吐いたが、すぐに顔を上げてにっこりと笑った。

「でも、お兄ちゃんとこうしてるとすごく嬉しいし、一日の疲れも吹き飛んじゃうよ」

「そうか……」

 何気なく答えたつもりだったが、どこか重々しい口調になってしまった。

 それを乃絵美が敏感に察知する。

「どうしたの? お兄ちゃん。疲れてる?」

「いや……」

 疲れているわけではなかった。

 ただ、よくわからない。

 形容しがたい複雑な気持ちが渦巻いていた。

「そんな顔をするな、乃絵美」

 不安げに俺を見上げていた乃絵美の髪をなでてやり、俺はそっと乃絵美の額に唇を当てた。

「お前のことじゃない。俺はお前を愛することに疲れたりしない」

「……うん」

 小さく頷いた。

 暑いから開けっ放しになっている窓から、夜風がふわりとカーテンの裾を揺らした。

「お前に見せたいものがある」

 不意にそう言って、俺は乃絵美の身体を離すと、あれを……夕方届いた段ボールの箱を持ってきた。

「これは……?」

 訝しげにそれを見つめる乃絵美。先程の俺の言い方が悪かったからだろう。どこか敵意に満ちた瞳をしている。

 どうやら、これが俺を疲れさせた直接の原因だと勘違いしているようだ。

 まあ、あながち外れではないけれど……。

「開けてみろ、乃絵美」

「うん……」

 恐る恐る箱に近付き、乃絵美が蓋を開けた。

 途端に立ちこめる、清涼感のある香り。

「これは……?」

 一瞬驚いた顔をして、そのまま乃絵美は首を傾げた。

 俺はそんな乃絵美の髪を見つめたまま、

「見たとおりだ」

 呟くようにそう言った。

 箱の中身は、米とか、果物とか、そういった割と高めの食料品と、野菜ジュースが2ダースほど入っていた。

 乃絵美はしばらくわけがわからないといった顔でそれを眺めていたが、やがて見飽きたのか、俺の方に顔を向けた。

 俺はそれを確認すると、すっと、一通の手紙と封筒をテーブルの上に置いた。

「……それは?」

 俺は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと言葉を吐いた。

「母さんからだ」

「えっ……?」

 乃絵美が大きく息を呑むのがわかった。

 そう……。

 夕方、宅配便の配達員が届けてくれたのは、母親からのものだった。

 未だに驚きに目を見開いている乃絵美に、俺は淡々と言葉を続けた。

「その箱の中に、この手紙と封筒が入っていた。乃絵美、読んでみろ」

「……うん……」

 恐る恐る、乃絵美は手紙を手に取り、そして、開いた。

 俺はそんな乃絵美の様子をじっと、じっと見つめていた。

 乃絵美は無言でそれに目を通していたが、やがて、手紙を持つ手が小さく震えて、頬を、一筋の涙が伝った。

「お兄ちゃん……」

 顔を上げ、涙を浮かべて俺を見上げた乃絵美から、俺はそっと手紙を抜き取った。



『愛しい子供たちへ』



 手紙はその一行から始まっていた。



『元気でやっているか? 正樹は大学には慣れたか? 乃絵美はちゃんと学校に通えているか? 怪我してないか? 無理してないか? 疲れてないか? 母さんは、お前たちのことが心配でしょうがない。もちろん、声には出さないが、父さんも心配している。

 お前たちがどうして互いにそういう感情を持つようになったのか、それは母さんにはわからない。けれど、家を飛び出してでも何かを守りたいという、その気持ちならわかる。母さんにだって、青春時代ってもんがあったからね。

 父さんはまだ怒っている。母さんだって、お前たちを許したわけじゃない。でも、これだけは覚えておきなさい。

 疲れたらいつでも帰っておいで。無理だけは決してしないこと。それを約束できないのなら、母さんは首輪を付けてでもお前たちを連れて帰るよ。

 何事も人生経験だと思う。だから、正樹も乃絵美も、精一杯やってみなさい。母さんは、お前たちの勇気を応援したい。

 追伸

 乃絵美、誕生日おめでとう。手紙と一緒に封筒を入れておいたから、それでお兄ちゃんに、おいしいものでも食べさせてもらいなさい。』



「お兄ちゃん……」

 乃絵美が震える手で封筒を取った。

 俺はすでに確認した後だが、そこには10万円分の為替が入っている。それは、事実上の仕送りだった。

 そして、恐らく母親のポケットマネーだろう。

「あ、あぁ……」

 それを見た瞬間、乃絵美は泣き崩れた。俺も、すでに泣いた後だったけど、思わず目頭が熱くなって、乃絵美に見られないように、そっとパジャマの袖でそれを拭った。

 嗚咽する乃絵美を胸の中に抱き入れると、乃絵美は俺をしがみつくように抱きしめ、声を上げて泣いた。

 俺はしばらく、そんな乃絵美をただじっと抱きしめていた。

 何をするでもなく、ただ抱きしめていた。



 何も話す必要はなかった。

 俺がその手紙を読んで、泣きながら思ったことを、乃絵美も感じ取ったはずだ。

 だから、何も言う必要はなかった。

 乃絵美も何も言わなかった。



 まだ帰れないし、帰る気はない。

 まだ認めてもらったわけじゃない。

 認めてもらうまでは帰らない。

 それに、まだたったの3ヶ月だ。

 俺も乃絵美も平気だった。

 なのに……。

 なのに無性に悲しかった。



「母さんに手紙を書こう。な、乃絵美。俺たちは元気だよって、手紙を書こう」

「うん……」



 俺はもう一度乃絵美と唇を重ねた。

 今度は舌を絡め合わせて、少し長くそうしていた。

 そして、唇を離すと、乃絵美の瞳に優しく言った。

「誕生日、おめでとう」

 小さくカーテンが揺れた。



「そろそろ寝るか、乃絵美」

 時計の針が10時を回ったところで、俺が言った。

 さすがに大学生の寝る時間ではないと思ったが、今日はなんだか疲れてしまった。

 少し泣いたかもしれない。

 乃絵美は元気良く頷いた。

「うん」

 もういつもの笑顔だった。

 …………。

「乃絵美……」

「なに? お兄ちゃん」

 電気を消しに行こうとしていた乃絵美が、どうしたのだろうと振り返る。

 俺はそんな乃絵美をベッドの上からいらずらっぽく手招きした。

「お兄ちゃん?」

 乃絵美は不思議そうにしたけれど、それに素直に従って、すっぽりと後ろ向きに俺の胸に収まった。

「よしよし」

 なんとなく抱きしめる。すると、偶然胸に手が触れて、乃絵美がちょっと身をよじった。

「お兄ちゃん、ひょっとしてエッチなこと考えてる?」

「う〜ん。少しだけ」

 素直な俺。

「はぁ……」

 乃絵美は溜め息をついたけれど、今日はなにかまんざらでもない気がした。

 ならばあとはムードでなんとか……。

 俺は乃絵美の胸を優しく撫でながら、そっと乃絵美をベッドに寝かせた。

「あっ……ダメだよ、お兄ちゃん」

「いいからいいから」

「ダメだってば。明日は平日なんだから」

 そういう問題なのか?

 どちらにせよ、もうこうなってしまってはダメだった。

「乃絵美〜〜」

「あっ……」

 乃絵美の身体をすべすべと触る。

 乃絵美は困り果てたように、自分の枕を引っつかむと、それを抱きしめようとした。

 して……二人で息を呑んだ。

「…………」

「…………」

 かなり怖い目で、乃絵美が俺を睨む。口元が笑っていた。

「えっと、いや、その、これはだなぁ……」

 弁解の余地はなかった。

 夕方汚してしまって、何事もなかったことにした枕が、まるで俺への当てつけのように、シーツにまでその汚れを伝染させていたのだ。

「の、乃絵美〜〜、ほら、気持ちいいだろ……? あはは……」

 もう半ばヤケになって、乃絵美のお尻をなでなでと触っていると、乃絵美が静かにその場に正座して、にっこりと笑った。

「お兄ちゃん」

「は、はい……」

「洗濯するの、誰かなぁ」

「えっ? あっ、のえ……じゃなくて、お、俺がします。是非させてください!」

「はぁ……」

 乃絵美はやりきれない溜め息を吐いて、布団にもぐった。

「私、疲れちゃったよ。お兄ちゃん、電気消してきてね」

「はぁい……」

 俺は渋々立ち上がって、電気を消した。

 その夜はもう、乃絵美は口をきいてくれなかった。



 とにかくそうして、俺たち二人はうまくやっていた。

 時々喧嘩もして、擦れ違ったりもするけれど、そんなものは次の瞬間に、二人がより親密になるためのステップに過ぎなかった。

 乃絵美が言った。

『ちょっとだけ寂しい』

 それは事実だった。

 その寂しさは、二人でいることの寂しさだった。

 周りに認めてもらえない、たった二人だけの寂しさ。

 けれど、今日、知った。

 寂しいのは俺たちだけじゃないってことを。

 だから俺たちは頑張れる。

『戻る気はないし、それにもう、戻れる道もないよ』

 昔乃絵美がそう言った。

 けれど、きっと……。

 俺たちがこうしていられるのは、

 俺はそれを認めたくないけれど、

 きっと、

 本当にダメになったとき、

 帰ることのできる場所があるからなんじゃないだろうか……。



「ごめんなさい。それから、ありがとう」



 色々な想いを込めて、俺はそう呟いた。

 親子なんてものはそれでよくて、そして、そういうものなんだと思った。



 ゆっくりと時間は流れていった。



─── 完 ───  





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