カンッ……カラカラカラ……。
しっかり握っていた手の中からするりと缶が抜け落ちて、そのまま地面の上を転がっていく音を、乃絵美はひどく遠くから聞いていた。
不意に背筋を凍らせた寒気。痙攣したように震え出す膝と指先。もう寒風の舞う秋口だというのに、額から滝のように流れ落ちてくる汗。
そして、眩暈に近い脱力感が全身を駆け抜けていったとき、乃絵美は抗うすべなくアスファルトの上に倒れていた。
「うっ!」
厚手の服を着ていたのは良かったけれど、まったく無防備に地面にぶち当たった痛みは尋常ではない。けれど、それが辛うじて意識をとどめたのもまた事実だった。
周りには誰もいない。昼間とはいえ、今日は平日だったのでそれも仕方なかった。
実際、乃絵美自身、今日が昨日の体育祭の振り替え休日でなければ、この時間にこんなところにはいられなかった。
薄く開いた目の前に、先程落とした缶があったが、手を伸ばすことは叶わなかった。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を整えるように規則正しく息を吐くが、胸の動悸は収まらず、時々心臓に痛みが走った。
(く、苦しい……)
最近出ていなかったから油断していた。
乃絵美は元々身体の強い方ではなかった。それで昔は体調には常に気を配っていたのだが、ここ1年ほどは普通の女の子と同じくらい元気になって、周りも、そして自分さえもそのことを忘れていた。
恐らく、昨日の体育祭の疲れが残っていたところに、今日のデートがダメ押しと言わんばかりに乃絵美の身体を蝕んだのだろう。
大好きな兄とのデート。
それがあんまり嬉しかったから、朝から少しはしゃぎすぎた。それは乃絵美の弱い体では、到底耐えられない疲労をもたらしたのだ。
(ど、どうしよう……)
兄は今トイレに行っている。
乃絵美は待っているよう言われていたが、ちょうど喉が渇いたからジュースでも買おうと思ってその場を離れた。
そして、自販機でジュースを買った帰り道で、突然蓄積していた疲労が乃絵美の身体を襲ったのだ。
(このまま倒れていれば、きっとお兄ちゃんが探しに来てくれる……)
待っているよう言われていたから、怒られるかも知れない。けれど、兄は自分のことを心配して、探しに来てくれるに決まっている。そして介抱してくれる。
(でも……)
乃絵美は固く目を閉じて、心の中で頭を振った。
(でも、こんなとこ見られたら、せっかくのデートがここで終わっちゃう。今日はまだ長いのに……)
正午を少し回ったところだった。まだ昼ご飯すら食べていない。
ついさっき、「デパートの地下に美味しいスパゲッティ屋があるから、つれてってやる」と笑っていた兄の顔を思い浮かべて、乃絵美は震える手でグッとこぶしを握った。
「ん……っと」
何とか半身を起こしてみる。それから大きく深呼吸すること2回。
大丈夫。痛みはない。
乃絵美はジュースの缶を取り、パンパンとスカートを払うと、服の袖で額の汗を拭った。
「さっ、お兄ちゃんが待ってる。戻らなくちゃ」
急いで戻ろうとした足下が、ぐらりと揺れた。
乃絵美はそれを必死に持ちこたえて、何事もなかったかのように元いた場所に戻った。
お手拭きで手を拭きながら、乃絵美は店内をキョロキョロと見回していた。
兄のつれていってくれたスパゲッティ屋は一風変わっていて、白塗りの壁と黒い柱はどこかアンティークな感じを漂わせており、壁には女性の肖像画がかけられ、至る所に古めかしい時計が飾られていた。
また、店内は暗めで、テーブルごとにキャンドルランプが設けられ、蝋燭の火が小さく二人を照らしている。
明治時代の建物を思わせる雰囲気だ。それが証拠に、先程オーダーを取りに来たウェイトレスは、白と紫の羽根模様をあしらった羽織袴をつけていた。
乃絵美はそういった店内のすべてを、物珍しげにぽえ〜っと眺めていたが、実際の意識はそこにはなかった。
先程からテーブルの向かい側に座って、じっと自分のことを見つめている兄。その兄と、真っ正面から視線を合わせる度胸がなかった。
「ちょ、ちょっと変わった感じがするけど、いい雰囲気のお店だね」
にっこり笑ってそう言ってみると、正樹はやはりじっと乃絵美の横顔を見つめたまま、「そうだな」と小さく口にした。
乃絵美は視線を彷徨わせたまま、
「でも、雰囲気だけならロムレットも負けてないよね。味は……わかんないけど」
えへっと笑う。そしてちらりと兄の方を見ると、彼はやはり真剣な眼差しで乃絵美の顔を見つめていた。
(やっぱりお兄ちゃん、気が付いてるのかな……)
乃絵美は内心で暗い顔をした。
明らかに身体が悲鳴を上げているのを、先程からずっと感じ続けている。このままでは、いつか気付かれてしまうだろう。
会話が途切れた瞬間、ついに兄がそれを口をした。
「乃絵美。お前、顔が赤いぞ」
「えっ?」
言われて、慌てて両手で頬を押さえた。自分でもびっくりするくらい火照っている。今までの経験からすると、38度くらいはある感じだ。
「具合、悪いんじゃないのか?」
立て続けにそう言われてギクッとした。
けれど、せっかく兄とのデートに漕ぎ着けたのだ。正樹は今菜織と付き合っているから、きっと妹とデートしているという感覚はないだろうが、それでも乃絵美には大切な時間だった。
絶対に終わらせたくない。
「きっと、お兄ちゃんと一緒にいるからだよ……」
わざと恥ずかしそうに視線を斜めに傾けて、嬉しそうに笑って見せた。
顔が赤いのを逆手に取ってやろう。
「こんな素敵なお店に、お兄ちゃんと来れたから……。ありがとう」
「い、いや……」
今度は正樹が照れる番だった。
ポリポリと頬を掻きながら、ようやく自分から視線を逸らしてくれた兄の顔を見て、乃絵美はほっと息を吐いた。
それからしばらく沈黙が続いたけれど、それは乃絵美にとって不快なものではなかった。
「お待たせしました。“ほうれん草ベーコンスパゲッティ”になります」
「あっ、はい」
やがて、袴姿のウェイトレスがやってきて、二人の前にスパゲッティを並べて置いた。兄の方は“ズワイガニのチャウダースパゲッティ”という長い名前のスパゲッティだ。クリームソースが美味しそうである。
「じゃあ、いだだきます」
乃絵美は微笑みながらフォークを取った。
一口……二口……三口……。
「美味しいね、このスパゲッティ!」
澄んだ笑顔で兄にそう胸の内の感激を伝えられたのは、六口目までだった。
「だろ? 一度来ると病み付きになるんだよ、ここ。制服も可愛いし」
「そ、そうだね……」
思わずどもったのは、兄の発言に対する返答に困ったからではなかった。
(なに……?)
七回目にフォークを口に運んだとき、乃絵美は体内の異変を敏感に察知した。
スパゲッティが喉を通らない。
「ああ、もちろん、乃絵美が着るうちの制服の方が可愛いけどな。でも、これはこれで、こうグッと来るものがあるんだよ!」
テーブルの向こうで、兄が何かを力説しているようだったが、それは乃絵美の耳には入ってなかった。
たぶん、疲れと熱から来るものだろうが、胃がまったく食べ物を受け付けないのだ。これ以上食べると、もどしてしまうかもしれない。
ちらっと顔を上げると、兄はまだ得意げに話をしていた。頭の大きなリボンがどうのこうのと言っている。
乃絵美は苦笑しながら、無理矢理七口目を飲み込んだ。
(うっ……)
一瞬顔をしかめたのを、正樹は見逃さなかった。
喜んでいいものか悲しむべきかはわからなかったが、鋭い観察力をしている。
「どうしたんだ? 乃絵美」
「な、何でもないよ」
「そうは見えなかったぞ。苦しいのか?」
「ううん。あんまり美味しいから、涙が出ちゃって」
「嘘臭いなぁ」
「嘘臭いのは妹の特権だよ」
なんだかよくわからないことを口走りつつも、乃絵美は限界を感じていた。これ以上無理に口にしたら、兄の前でもどすという大惨事を引き起こしかねない。
こうなったら、なんとしても気付かれないよう、上手にこれを兄に食べてもらわなければ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
返事をした正樹は、まだ乃絵美のことを疑っている様子だった。気付かれる可能性大である。
「あの、私もうお腹いっぱいだから、あと食べてくれないかなぁ」
「……お腹いっぱいって、お前朝飯食ってから先、何も食べてないじゃないか」
「そ、そんなことないよ。実はこっそり食べてたんだよ」
「何を? いつ? どこで?」
どんどん兄の目が冷たくなっていく。
怒っているのではなく、心配しているのだが、今の乃絵美には有り難迷惑だった。
「ん〜。さっき少しだけ。元々小食だから、あんまり食べられないんだよ」
「…………」
「……ダメ?」
結局、泣きそうな顔をして、上目遣いにそう尋ねるしかなかった。理由などいらない、相手に有無を言わせない強力な攻撃だ。乃絵美自身はよく理解できないが、とにかく昔から兄はこの攻撃に弱い。
案の定兄は、
「わかったよ……」
まだ納得してないようだったが、渋々と言った感じで妹の皿を取った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
乃絵美は内心で大きく安堵の息を洩らしながら、嬉しそうに微笑んだ。
店を出て、そのままデパートを出ると、冷たい風が吹き抜けていった。
ここは海の近くで、風も強い。ほのかに潮の香りがした。
乃絵美は一度身体を震わせると、両腕でしっかりと自分の身体を抱きしめた。
「少し寒いね」
「そうだな」
これからの予定は特に決まってなかったが、とりあえず適当に公園をブラブラしようということになっていた。
しかし、この寒さでは少しつらいかも知れない。
乃絵美がそんなことを思いながら、デパートの入り口で立ち尽くしていると、不意に兄が自分の手を取ろうとしているのに気が付いた。
「あっ……」
思わず手を引っ込める乃絵美。正樹が驚いたように顔を上げた。
「……あ、あの、ごめんね……」
慌てて乃絵美は頭を下げた。しかし、引っ込めた手は元には戻さず、俯いたまま胸の前でこぶしを握った。
「いや、俺の方こそ悪かった。兄妹、だもんな……」
ズキッと胸に痛みが走ったのは、先程公園で感じたものとは違って、精神的なものだった。
(違うの、お兄ちゃん……)
心の中でそう叫んだ。
本当は手を繋ぎたかった。寒いから腕を組んで、ぴったり寄り添い合って歩きたかった。
けれど、今そんなことをしてしまったら、熱があることがばれてしまう。それだけは嫌だ。まだデートを終わらせたくない。
「行こ、お兄ちゃん」
兄の言葉を否定も肯定もせず、ただ元気に笑って見せて、乃絵美は歩き出した。
正樹は怪訝な顔をしたが、特に何も言わずに乃絵美の背中を追いかけた。
たぶん、乃絵美が兄の心境を微妙に図りかねたように、正樹もまた妹の気持ちがわからなかったのだろう。
息を切らしながら、人通りの多い歩道橋を駆け登る。デパートと公園は、大きな通りを挟んだ向かい側にあり、この歩道橋が二つを繋いでいた。
「おい、乃絵美。あんまり急ぐとこけるぞ」
後ろから兄の声がしたが、乃絵美は「大丈夫、大丈夫」と笑って答えた。
歩道橋の上から街並みを一望できたが、本来まだ学校のある時間なので、こうして開放的な気分でいるだけで何か悪いことをしているような思いがした。
もちろん、兄と一緒だから平気だったが。兄と一緒なら、どんな悪いことをしてもいい。たとえば、そう。
兄妹恋愛とか……。
不意にそれは襲ってきた。
登ってきたときと同じように階段を駆け下りようとした刹那、再び軽い眩暈がして身体が揺らいだ。
(あれ?)
霞む意識の中で、急速に時間の流れが遅くなるのを感じた。
そして、ひどく冷静に思った。
(これって、ひょっとして、すごくやばいんじゃないかな?)
目の前に階段があった。それがすごい急角度に見えて、遥か眼下にアスファルトの大地が広がっていた。
「あっ!」
周りからはっと息を飲む音が聞こえた。
すぐに頭の中が真っ白になって、まるで風船のように宙に浮かぶ感じが身体を支配した。
(私、こんなところで、死んじゃうの……?)
ごめんなさい、お兄ちゃん。
ごめんなさい、お父さん。
ごめんなさい、お兄ちゃん。
ごめんなさい、お母さん。
ごめんなさい、お兄ちゃん。
時間が元通りの速さで流れ出して、乃絵美は意識を失った。
幼い記憶が黒いスクリーン上に映し出された。
これはいつのことだろう。たしか、4年生の時だったと思う。
菜織たちと一緒に遊ぶ約束をしていた。
だけど、当日の朝、乃絵美は熱を出してしまって、遊ぶことが出来なかった。
「お兄ちゃん、菜織ちゃんたちと遊んできていいよ」
氷のうを額において、ごほごほと咳き込みながら乃絵美が言うと、傍らに座っていた兄が穏やかに微笑んでこう言った。
「今は乃絵美の側にいなくちゃだめな気がするんだ」
「なんで?」
幼い乃絵美が尋ねた。
兄はしばらく考える素振りを見せたが、結局自分の発言の根拠を見つけることができずに、曖昧に笑って答えた。
「なんとなく」
乃絵美は小さく「ありがとう」と呟いた。
黒いスクリーンが真っ白に染まった。
温かい場所にいた。
この世の中で最も落ち着ける場所。
兄の腕の中。
トク……トク……トク……。
兄の胸の鼓動を聞いていた。
「お兄ちゃん……」
小さく呟くと、優しく兄が髪の毛をなでてくれるのがわかった。
「気が付いたのか? 乃絵美」
「うん……」
しっかりと抱きしめられている。体勢はよくわからない。ベンチに座っているようだが、まだ意識が朦朧としていた。わかるのはただ、兄の大きな胸の中に自分が収まっているということ。
それだけで十分だった。
しばらく正樹は妹の髪の毛をなで続けていたが、何も言わなかった。
怒っているのだろうか。それともやはり心配してくれているのだろうか。
乃絵美にはよくわからなかった。
ただ、どうしても言わなくてはいけないような気がしたから、喋るのも億劫だったけれど、頑張って一言だけ胸の奥から吐き出した。
「ごめんなさい……」
弱々しくて、今にも消えてしまいそうな声だった。
それを聞いた兄が優しく微笑んで、乃絵美の顔を見下ろした。
「どうして謝るんだ?」
どうしてだろう……。
乃絵美は考えようと思ったが、それは叶わなかった。
凄まじい脱力感に、そんな気力はこれっぽっちも残っていなかった。それに、答える必要もない気がした。
「なんとなく……」
それだけ言って、乃絵美は目を閉じた。
まだ風が吹いているようである。時々足音が近づいてきては遠ざかっていった。
どうやら公園の中のベンチの一つにいるらしい。
(恥ずかしいなぁ……。人前で抱き合ってるんだな……)
だんだん喋るのだけではなく、考えるのさえ面倒になってきた。
しがみつくように兄の身体を抱きしめると、乃絵美はその胸に顔を埋めた。
トク、トク、トク……。
先程より少しだけ速く打っている兄の胸。その理由を、乃絵美は自分の都合のいいように解釈して、嬉しくて少しだけ顔をほころばせた。
「なぁ、乃絵美……」
子守歌のように兄の声が眠気を誘う。
乃絵美は何も答えなかったけれど、兄は自分の胸の中でぐったりしている妹の髪をなでながら続けた。
「俺、どうしてお前がこんなに無理をしたのかわからない。でも、たぶん誤解してると思うから言っておこうと思って」
「…………」
「昨日の夜、お前にデートに誘われて、俺は嬉しかった。今日もお前と一緒にいれて楽しかった。それはたぶん、お前が考えている以上に、な……」
「…………」
「だから、時間があればいつだって付き合ってやるし、いつだって一緒にいてやるぞ」
「…………」
「だから……」
そこで一旦言葉を止めて、正樹は乃絵美の髪から手を離した。その代わりに、そっと乃絵美の頭に顔を近付けて、耳元で囁いた。
「無理はするな。俺はお前が好きだから、お前が苦しんでいるのを見るとたまらないんだよ」
頬に柔らかい温もりを感じた。
いつの間に眠ってしまったのか、次に気が付いたとき、乃絵美は電車の中にいた。
座席に座って、隣の人の肩を枕にしていた。
慌てて頭をどけようと思って、隣の人が自分の兄だと気が付いた。
兄がそんな乃絵美を見てにっこり笑った。乃絵美も小さく微笑み返した。
まだ身体がだるかったから、兄の肩を枕にして、乃絵美は再び眠りに落ちた。
それから3日間、乃絵美は寝込むことになった。
そのせいで兄が母親に怒鳴られていて、乃絵美は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それにも関わらず、兄はずっと乃絵美の側にいた。学校以外の時間は、すべて寝込んでいる乃絵美のために費やした。
「お兄ちゃん……」
枕元でぼーっとマンガを読んでいる兄に、そっと呼びかける。兄がマンガを置いて乃絵美を見た。
「どうした?」
「お兄ちゃん、自分のことしててくれていいよ。もともと無理した私がいけないんだし」
乃絵美の言葉に、兄はやれやれとため息を吐いた。そしてそっと乃絵美の髪の毛に手を乗せる。
「そんなこと気にしなくてもいいんだ。俺はお前の側にいたいんだから」
「……なんで?」
無表情で尋ねた。内心のドキドキを抑えて、ひどく淡々と。
「す……」
自然に口をついて出た言葉を、ぐっと飲み込むようにして曖昧に微笑みながら、
「なんとなく、かな?」
冗談っぽく兄が口元をゆがめた。
乃絵美はくすっと笑った。それから、色々な想いを込めて、
「ありがとう……」
小さく、囁くようにそう言ってから目を閉じた。
「また熱が出るといけないから、もう寝ろよ」
「はい……」
大好きな兄の手のひらが、髪や頬をなでていた。
それがすごく嬉しくて、温かくて……。
乃絵美は兄の手をきゅっと握ると、そのまま眠りに落ちていった。
─── 完 ───