『 虹色の未来 』



 1

 秋風が埃を捲いて吹いていた。
 ほとんど客のいない店内から、退屈そうに理奈が外に目を遣ると、自動ドアの向こう側の街路樹の緑が、大きく左右に揺れているのが見えた。
 今日は朝から風が強かったが、昼を過ぎた辺りから、いっそう強く、冷たさを帯びて吹いている。つい先程まで、日の光を跳ね返して白く輝いていた木々が、いつの間にか深い緑色に陰っていた。予報では、今夜は雨になるらしい。
 分離帯のある2車線道路を挟んだ向こう側には、小さな商店が並んでいたが、今は閑散としていた。アーケードでもないし、『商店街』というほどのものでもなかったが、スーパーもあり、夕方になるとそれなりに人だかりができる。
 視線を上げると、高さのまちまちな各商店の屋根越しに、空が見えた。つい数時間前までは雲一つない快晴だったが、昼飯時の店がバタバタしている間に、すっかり分厚い雲が青空を覆い隠してしまった。今のところまだ雨の気配はないが、早ければ夕方には降り出すかも知れない。
 カウンターから空を眺めながら、理奈がぼんやりとそんなことを考えていると、
「あっ、お客さんだ」
 不意にそんなバイト仲間の声がして、視線を空から道路に戻した。見ると、20歳くらいだろうか。実に平凡な若者が二人、店の外を歩いていた。
「また、理奈ちゃん目当てかな?」
 苦笑混じりに仲間がそう言って、今更ながら羨望の眼差しを理奈を向けた。理奈はにっこりと微笑んだ後、いたずらっぽく答えた。
「案外、ミキ目当てかも」
「まさか」
 理奈の言葉に仲間、美希子がそれでも照れたように笑った。
 まさか理奈たちにそんなことを話されているとは露とも知らず、二人は何やら話ながら店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 理奈と美希子が笑顔で会釈する。
 美希子も絶対的に見ればかなり可愛い方に分類される顔立ちをしていたが、隣の半ば反則的な美少女には遠く及ばない。二人は案の定理奈の前に立った。
「いらっしゃいませ。ご注文の方はお決まりでしょうか?」
 理奈が営業スマイルでそう言うと、二人の内の一人が、じっと理奈の顔を見つめたまま、
「え、Aセットを……2つ」
 と、少しどもりながら答えた。理奈は何事もないように、その若者の瞳を真っ直ぐ見つめ返して、
「お飲物の方は何にいたしましょうか?」
 と、笑顔で尋ねた。
 若者は逆に恥ずかしくなったのか、自ら視線を逸らして、
「あっ、両方ともコーラで……」
 呟くようにそう言った。
 その様子が可笑しかったのか、隣で美希子が理奈にだけ聞こえるように、くすりと笑った。
「ありがとうございます。お会計の方、税込みで1,113円になります。こちらでお召し上がりですか?」
「あっ、はい」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
 そう言って、理奈が奥にオーダーを告げた後、もう一人の若者が意を決したふうに、しかしやはり足を震わせながら理奈に言った。
「緒方……さん?」
「はい。何でしょう」
 さらりと理奈が答える。嫌がられると思っていたのか、若者はそんな理奈の反応に、嬉しそうに顔をほころばせた。そして、恐らく彼の人生において、最初で最後であろう一世一代のギャグをかます。
「あの、ここは『スマイル』ありますか?」
 理奈は若者の瞳をじっと見つめながら、内心少しだけ驚いていた。もう何度か足を運んでいる者から言われたことは何度もあったが、初対面の客に言われたのは初めてだった。
 理奈はやはりにっこりと笑って答えた。
「メニューにはございませんが、特別メニューに『緒方スマイル』というのがございます」
「あっ、じゃあそれ」
「はい。1,500円になります」
「えっ?」
 言葉を失う二人。美希子が笑いを堪えるのも辛そうに、腹を押さえて震えていたが、理奈は平然と言葉を続けた。
「今でしたら、握手も付けた『緒方セット』が人気です。3,800円になりますが、どうされますか?」
「えっ、あ、あの……」
 二人は思わぬ理奈の対応に大いにたじろいだ。理奈は一切笑顔を崩さずに、もっともそれが怖いのだが、奥から届いたAセットをカウンターに置いて、柔らかく微笑んだ。
「冗談です、お客様。こちらがAセットになります。ごゆっくりどうぞ」
「あっ、は、はい」
 そして二人がトレイを持って席の方に消えた後、とうとう美希子が堪え切れずに吹き出して、理奈もいたずらっぽく笑みを浮かべた。


 緒方理奈。兄、緒方英二のプロダクションからデビューして、それ以来長くトップアイドルとして脚光を浴び続けてきた彼女が、当時ADとしてスタジオに出入りしていたアルバイターの青年、藤井冬弥に恋をして、突然引退を表明してからすでに1年半の歳月が流れていた。
 引退当時はこれでもかというくらい騒がれていた彼女だったが、本人の予想通り、兄のプロダクションから第2、第3の『緒方理奈』が誕生するにつれて、次第に彼女自身は騒がれなくなり、今ではもうすっかり過去の人となっていた。
 現在では、理奈の引退以来、彼女の後輩である森川由綺がずっとトップの座に着いている。マスコミの関心も、もっぱら彼女に注がれていた。
 歌を捨て、芸能界から身を引いた理奈は、冬弥と二人で仲睦まじく、以前とは比べものにならないほどささやかな生活を送っていた。引退当初はまだマスコミに追いかけ回されていたので、冬弥に迷惑をかけてはいけないと、兄の用意してくれたアパートで一人暮らしをしていたが、世間の自分への関心が薄れてきた頃、冬弥に言われた「一緒に暮らさないか?」という一言に甘え、今は二人で慎ましく暮らしている。
 それが今から丁度半年前。すっかり桜が散って、汗ばむ陽気になってきた春のことだった。
 冬弥の部屋に引っ越してきてから少しして、理奈はアルバイトを探し始めた。若くしてすでに十分な蓄えを持っていた彼女に、冬弥は「別に無理しなくていいよ」と言ったのだが、理奈は頑としてそれを聞き入れなかった。
 一つには、理奈自身がアルバイトというものをしてみたかったということ。そしてもう一つには、今の自分の蓄えは、これから先生きて行くには全然足りないものであったということ。
 理奈はこの先自分が就職できないだろうことを悟っていた。人より早く『社会』に出た彼女だからこそ、その厳しさが人よりよくわかっていた。
 自分は頭はそれなりにいいと思っている。自惚れではなく、冷静に分析して、色々な分野で才能があると自負している。だが、それだけだ。一般常識や『才能がある』というだけでは企業には入れない。自分には専門的な知識と、何よりもまず学歴がない。
 だからこの先、二人の生活が苦しくなるのは目に見えていた。もしも子供ができようものなら、それこそ冬弥一人の給料ではとてもではないが暮らしていけない。
 冬弥はできるだけ強がって見せたが、理奈とて金勘定くらいはできる。だから、せめて自分の小遣いと、家賃、それにできることなら食費まではアルバイトで稼ぎたかった。大好きな冬弥のために、というよりもむしろ、二人で苦労を分かち合いたいという想いが強かった。
 そうしてアルバイトを探し始めた理奈だったが、その前途は多難だった。理奈がファーストフードの店で働きたいと言った時点で、ある程度は冬弥も、そして理奈本人も予想していたが、そんな二人の想像を遥かに上回るほど、どの店も理奈を置きたがらなかったのだ。
 それでも理奈はくじけずにアルバイトを探し回った。冬弥も手伝うと言ってくれたが、理奈は一人でしたいとその申し出を断り、履歴書を片手に店を転々とした。
 そして、ようやく見つけたバイト先が、閑静な住宅街にある、この小さなハンバーガーショップだった。
 面接の日、気さくな店長が珍しく真剣な瞳でじっと理奈の顔を見つめて、こう言った。
「初めの3ヶ月……いや、2ヶ月はとても辛いと思うが、大丈夫か?」
 理奈は、やはり少し無知だったのかもしれない。正直店長が何のことを言っているのかわからなかった。けれど、やる気だけは誰にも負けなかったので、元気に即答した。
「はい、大丈夫です。一生懸命頑張りますから、よろしくお願いします」
 こうして理奈は、フリーターとして、ようやく初めての職を得た。