『 虹色の未来 』



「お疲れさまでした」
 夕方、次のアルバイターにバトンを渡して、理奈と美希子は二人揃って店を出た。
「ううっ、寒いっ!」
 冷たい秋風が二人の間を吹き抜けて、美希子が身体を震わせる。
 随分日が短くなった。外はもうすっかり薄暗い。ふと顔を上げると、今にも雨の降り出しそうな分厚い黒い雲が、空一面を覆っていた。
 理奈が空から視線を戻すと、楽しそうに美希子が言った。
「ねえ、理奈ちゃん。今日のあの子たち、面白かったね」
 あの子たち、というのは、当然昼に来たあの二人組の若者のことだろう。
 それこそ毎日のようにアルバイトが入っている理奈には、それほど珍しいことではなかったので、あまり印象に残ってないが、ローテーションの関係で、滅多にああいう光景をお目にかかれない美希子には、さぞかし楽しかったのだろう。
 理奈も笑顔を零した。
「そうね。でも、まだこんな一介のアルバイターの顔をわざわざ見に来てくれる人がいるのは、やっぱり元アイドルとしては嬉しいわね」
 理奈がそんなことを言うと、美希子は大袈裟に驚いて見せ、
「そりゃ、そうよ!」
 と声を上げた。
「あの緒方理奈がアルバイトしてるのよ。私だって大ファンなんだから」
「ふふふ。どこの『大ファン』がこんな気楽にお話するのよ」
 楽しそうに理奈が笑うと、美希子も可笑しそうに舌を出した。
「それもそっか。あはは」
「うん。でも……本当に良かった……」
 不意に遠い目をして、ぽつりと理奈は呟いた。
 美希子はその呟きに気付かなかったようで、まだ笑っている。
 理奈はそんな美希子を見つめたまま、ふと半年前のことを思い返した。
 店長の言葉の意味がわからないまま、生まれて初めてアルバイトをしたその日、理奈は他のバイトたちから一切話しかけられらなかった。理奈から話しかけると、相手は自分を仰々しく「さん」付けにして答えた。
 彼らには、元トップアイドル緒方理奈を前にして、どのような態度で彼女と接して良いのかわからなかったのだ。
 そして、引退してから、変装というほどの変装でもないが、理奈は髪の毛を後ろでまとめているのだが、もちろんそんなもので客の目を誤魔化せるはずもなく、店には緒方理奈を一目見ようと客が殺到した。理奈はこれをほとんど一人で対応しなければならなかった。
 誰も何も教えてはくれなかった。それどころか、一人だけ人気のある理奈に、他の女の子たちは嫉妬するようになり、理奈はますます孤立していった。
 バイトを初めてからひと月くらいした辺りが、一番辛かった。理奈自身、現役時代には自覚していたのだが、自分のファンは思いの外多く、引退してからすでに1年以上経つというのに、人気はまったく衰えていなかった。この頃店は常に満席状態で、それでもやはり誰も理奈に手を貸してくれる者はなかった。曰く、「客が理奈を求めているのだから、自分たちにできることはない」
 ずっと我慢して、頑張っていた理奈だったが、ある日とうとう冬弥の胸にすがりついた。そして思い切り冬弥の胸の中で泣いた。
 さんざん泣いた後、理奈はきっと冬弥が自分を怒ってくれると信じていたが、冬弥はただ、「辛かったら辞めていいんだよ」と、優しくそう言っただけだった。
 理奈が泣いたのはその一度だけだった。
 そうだ。辛ければ辞めればいい。頑張れるだけ頑張って、どうしてもダメならまたここに来ればいい。勝とうが負けようが、泣いていようが怒っていようが、冬弥は緒方理奈のすべてを受け入れてくれる。
 翌日から理奈は、一緒にアルバイトをしている者たちに積極的に話しかけるようにした。わからないことはしつこいほど聞き返して、しかしそうすることによって、相手も嫌がりながらも教えてくれるようになった。
 熱意が通じたのか、それとも何かの心境の変化か、やがて彼らは理奈と普通に接するようになり、失敗したときにはちゃんと彼女に怒るようになった。
 一緒にカウンターに立つ女の子たちも、いつの間にか理奈に嫉妬していた自分を捨て、昔の、緒方理奈に憧れ、彼女のファンであった頃の自分に戻って、親しく話してくれるようになった。
 そして客もまた、その頃には少し落ち着きを見せ始めていた。緒方理奈があまりにも遠かった頃とは違い、カウンター越しにいつでも彼女を見られる今、彼らの中で緒方理奈の存在がずっと身近な、親しみやすいものになっていたのだ。
 理奈がアルバイトを初めてから、その状態を築き上げられるまでに要した月日が、およそ2ヶ月。その間の、荒れに荒れた店内と、ギスギスした人間関係を思い返して、初めて理奈は、バイトとして自分が雇ってもらえなかった理由を知ると同時に、それを承知で自分を雇ってくれた店長に深く感謝した。
 それからさらに4ヶ月。
 隣で楽しそうに笑っている美希子を見て、理奈はようやくこうして気軽にバイト仲間と帰ることができるようになった幸せを噛みしめていた。
「……ねえ、理奈ちゃん?」
「えっ?」
 いつからそうしていたのか、ふと気が付くと、美希子が訝しげに自分を見上げていた。どうやら思い出に耽りすぎたらしい。理奈はぎこちなく微笑んだ。
「あっ、ごめんなさい。何だった?」
「うん。あのね、学園祭の話」
「学園祭?」
 不思議そうに理奈が聞き返す。
「そう。ほら、理奈ちゃん、前に悠凪大学に友達がいるって言ってたじゃない」
「ああ、うん」
 友達とは、もちろん冬弥のことだ。さすがにいくら現役を離れたとはいえ、まさかそれが自分の彼氏で、しかも同棲しているなんて、たとえ相手が親友でも言えない。
「いるけど……学園祭?」
 初耳だ。
「そう。毎年11月の終わりにあるんだけど、理奈ちゃん、行くのかなって思って」
「へぇ……」
 理奈はそう相づちを打ちながら、そういえば一昨年のその頃、由綺が休みが取れたから学園祭に行くと言っていたのを思い出した。
 ひどく懐かしい。
 ちなみに去年はその頃、冬弥と一緒に遠い南国を旅していた。だから、理奈が学園祭のことなど知る由もない。
「ねえ、理奈ちゃん。もし予定がなかったら、喜子たち誘って、みんなで行かない?」
 『喜子たち』とは同じバイト仲間のことで、理奈とも仲が良い。理奈はしばらく考えてから、
「ごめんね。もし行くとしたら、先約が入るから」
 そう謝った。先約とはつまり冬弥のことで、それを察したのか美希子が、
「先約って……お・と・こ?」
 と、意地悪く理奈を肘でつついた。
 理奈は笑顔をまったく崩すことなく、「さあ」ととぼけて見せた。
「もう。理奈ちゃん、絶対に顔に出ないから面白くな〜い」
「あはは。便利でしょ? そういうのは慣れてるの」
 その言葉を、もしも冬弥が聞いていたらどう反応したかわからないが、少なくとも美希子は羨ましそうにしただけだった。
「ああ、そうそう。話は変わるけど、前に……」
 それから理奈は、美希子とおしゃべりしながらバス停まで歩き、そこで美希子と別れた。
「じゃあ、また今度ね」
「うん。さようなら」
 理奈は手を振って美希子を送った。そして一人になると同時に、
「学園祭、か……」
 と、遠い目をしてぽつりと呟いた。
 やがてバスが来て、理奈は冬弥の部屋に帰った。
 丁度理奈がアパートに着いたとき、静かに雨が降り始めた。