『 虹色の未来 』
2
『エコーズ』は相も変わらず暇だった。それほど広い店ではないが、こうまで客がいないと、ひどく店内が広く見える。もっとも、時間的にももう閉店間近だった。こんな時間に満席の喫茶店などあるものなら、それはそれで不気味かも知れない。
今いる客は、テーブル席の一組だけ。澤倉美咲と彼女の友人らしき女性が一人、それに七瀬彰。いずれも冬弥の大学の友人であった。店長の許しが出たので、冬弥自身もバイトの身でありながら、一緒に席に座っている。
テーブルの上には、生憎メニューの品は何もなく、変わりに数枚のレポート用紙が広げられていた。
美咲によると、今度の学園祭で講演する舞台のシナリオらしい。初めてそれを聞いた冬弥が、驚いて言った。
「へえ。美咲さん、また舞台の台本を書いたんだ」
「えっ、う、うん……一応……」
照れたように美咲が笑う。
美咲は冬弥たちが1年の時に、演劇部の舞台の台本を書いた。それが思いの外人気が出て、それから毎年こうして台本を頼まれるようになったらしい。
去年は冬弥は学園祭に行ってないので知らなかったのだが、去年の学園祭でも美咲の作った舞台が大ヒットして、好評を得たそうだ。
「それで、今年はどんなのをするんですか?」
興味津々に冬弥が尋ねると、美咲がすっと紙を差し出した。
「これ……」
「何々。『メイドロボ:マルチ』?」
「ええ。でもまだ完成はしてないし、それ自体も仮題なんだけど……」
「へえ。どんな話なんですか?」
「うん。ほら、メイドロボは知ってるわよね? その、もしメイドロボに心があったらって……。すごくおっちょこちょいで、失敗ばかりするんだけど、すごく優しくて、温かくて、そんなロボット、マルチちゃん。失敗ばかりのマルチちゃんを見るに見かねた男の子が、色々とその子の手助けをする内に、少しずつその子のことを好きになっていくの」
「ふ〜ん。面白そうだね!」
「あ、ありがとう」
美咲が嬉しそうに笑った。
冬弥はそんな美咲を見ながら、ふと一昨年の学園祭を思い返して、懐かしそうに呟いた。
「そっか。もうすぐ学園祭だな……」
一昨年は、由綺と二人で美咲の舞台を見に行った。アイドル、森川由綺との最後の思い出。あれから彼女は彼女の道を行き、アイドルの頂点に立った。そして自分は自分の平凡な生活を送っている。ただ一つ、傍らに愛する緒方理奈がいる他は……。
「ねえ、冬弥」
ふと彰に呼びかけられて、冬弥は顔を上げた。
「なんだ?」
「うん。冬弥は今年はどうするの? 学園祭」
「そうだな……」
言いながら、理奈の顔を思い浮かべる。
アイドルとして拘束され続けてきた彼女のことだ。きっと大学の学園祭になど行ったことがないだろう。つれていってあげたら、喜ぶかも知れない。
理奈の嬉しそうな笑顔を想像して、思わず冬弥はにやにやと笑みを浮かべた。
いきなり笑い出した冬弥を見て、彰が呆れたように言った。
「その様子だと、一応来るには来るようだね」
「まあな」
美咲と彰は、幸せそうな冬弥に苦笑するしかなかった。
二人とも、冬弥が緒方理奈と付き合っていることは、すでに知っている。さすがに長い付き合いなので冬弥も隠し通せず、下手に隠すくらいなら、いっそ紹介した方が良いのではないかと、自ら二人に引き合わせたのだ。
二人はさすがに驚いて、同時に暗い顔を禁じ得なかった。もちろん、そのために冬弥と別れることになった由綺を思ってだ。
その由綺だが、初めは互いにぎくしゃくしたが、今ではすっかり冬弥と昔通りの友達付き合いをしている。一度別れた者とは、友達にすらなれないなんて、あまりにも辛すぎるから。
冬弥と由綺の仲がまた良くなるにつれて、美咲と彰も躊躇せずに由綺の話ができるようになり、同時に理奈のことも受け入れられるようになった。もっとも、理奈の方はまだ多少引きずっているようだったが。
「そいえば、今年は由綺、どうするの?」
昔を懐かしむ内に、ふと気になって冬弥が尋ねた。
いくら友達付き合いを続けているとはいえ、さすがに互いに電話はかけられない。由綺の方からはなおさらだ。今、冬弥の部屋には理奈がいる。そのことは由綺も承知していた。
しかも冬弥は、すでにADを辞めている。もはや由綺との接点は、美咲や彰よりも少ないと言って過言ではない。
「さあ。よかったら、今度大学で会った時に聞いてみようか?」
わずかに瞳を曇らせて美咲が言った。慌てて冬弥が答える。
「ああ、別にいいよ。ちょっと気になっただけ。そうだ。去年は?」
「去年は来たよ。何て言ったっけ? 同じプロダクションのアイドルの子と一緒に。どうしても美咲さんの舞台が見たかったからって」
彰がそう言って、美咲が少し照れたように俯いた。
「じゃあ、今年も来るかもな」
「うん」
美咲の劇。きっと今年も盛り上がるだろう。
理奈をつれて見に行こう。由綺とばったり、なんてことになると少し困るが、たぶん喜んでくれる。
それから、由綺とも会ってみたい。元気でいるだろうか。
冬弥はそうして学園祭のことに胸を弾ませた。
やがて閉店時間が訪れて、冬弥は美咲たちと別れて部屋に帰った。
帰り道で、少し雨に降られた。
「ただいま」
駆け込むように部屋に帰ると、すでに理奈はアルバイトから帰っており、そんな冬弥を笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさい、冬弥君。遅かったわね」
「ああ、うん。ちょっと大学のツレと話し込んでたから」
「そう。お風呂、沸いてるから」
「ありがとう」
手持ち鞄をすっと理奈に差し出すと、何だか照れ臭くなって冬弥は笑った。理奈もやはり、楽しそうに微笑みを零した。
それから冬弥は風呂に入った。丁度よい湯加減だ。風呂から上がると、部屋のテーブルの上で、鍋がぐつぐつと音を立てていた。
「今日はすき焼き?」
「ええ」
冬弥は理奈の向かいに座る。テーブルの上には、盛りだくさんの野菜と肉が狭っ苦しそうに置かれていた。
「豪勢だね」
冬弥が言うと、理奈が卵を割りながら、やはり楽しそうに答えた。
「あら? すき焼きは簡単なのよ。だって、買ってきた野菜を切ればいいだけだもの。こんなので喜んでくれるなら、明日から毎日すき焼きにしようかしら」
「ああ、それはちょっと、嫌だな」
「あはは」
何だか今日の理奈は機嫌がいいようだ。アルバイトで何かいいことでもあったのだろうか。
冬弥は思った。
例えば、客に格好いい男がいたとか……。それはいいことじゃないな。
冬弥が理奈の笑顔を眺めながらぼんやりとそんなことを考えていると、理奈が鍋の中に野菜を放り込みながら言った。
「ねえ、冬弥君」
「ん? 何?」
「あのね。今度、冬弥君の大学で、学園祭があるんですってね」
「えっ、ああ」
驚かせようと思って取っておいたネタを、いともあっさり本人に言われてしまって、冬弥は少しがっかりした。
それを見た理奈が首を傾げる。
「ん? どうしたの?」
「えっ? あっ、何でもないよ」
「そう。それでね、冬弥君。私、その、学園祭ってどんなものか知らないんだけど、良かったら教えてくれないかしら」
興味津々に尋ねられ、冬弥は少し得意げに頷いた。
「うん。俺も他の大学のは知らないけど、悠凪大だと……」
それから、悠凪大学の学園祭の様子を細かく説明する。
各部活の催し物、偉い教授の講演、露店、様々なアトラクション、そして劇。当日はどこからそんなに沸いてくるのか、すごい数の人になって、TV局も取材にやって来る。
そんな話を続ける内に、どんどん理奈の顔がほころんでいって、冬弥の話にも熱が入ってきた。
そして、冬弥が野外ステージの話をしたとき、ふと理奈が冬弥の言葉を遮った。
「ステージ? 誰か、歌うの?」
「うん。ステージっていっても2種類あって、一つが売り出し中のアイドルの子とかを呼んで歌ってもらうのと、もう一つが個人個人でバントとか組んでる奴らが申し込んで、一定の時間ステージを貸し切って、それぞれ思い思いに歌ったり踊ったりするの。理奈ちゃんは、昔そういうのなかったの?」
聞いてから冬弥は、そういえば一昨年、由綺がそういうのはすべて英二が断っていると言っていたのを思い出した。
案の定、理奈もそう答えた。
「たぶん来たとは思うんだけど、全部兄さんが断ってたんじゃないかしら。私は個人的にそういうの好きだけど、あの人、あんまり好きそうじゃないし」
「そうなんだ」
「うん……」
どこか上の空で理奈が頷く。
冬弥は鍋の中の肉をつつきながら、いよいよ本題を切り出した。
「それでさぁ、理奈ちゃん」
「うん」
「実は俺も今日、その話をしようと思ってたんだけど、うちの大学、毎年演劇部が劇をするんだ」
「うん」
「すごい人気なんだよ。毎年すごい人になってね。とても一介の大学生がするような舞台じゃないんだ」
「うん」
「俺も一昨年見に行ったんだけど、もう感動して感動して。で、実はその台本を書いたのが、何を隠そう、前に紹介した美咲さんっていう、俺の先輩。その人が今年もまた台本を書くんだって」
「うん」
「だから、その、今年は二人で行かない? きっと理奈ちゃんも気に入ると思うよ」
「うん」
「……理奈ちゃん?」
「うん」
「……あの、聞いてます?」
「うん」
「ホントに?」
「うん」
「じゃあ俺、何て言った?」
「澤倉さんが舞台をするから、一緒に見に行こって言ったんでしょ?」
「ああ、ちゃんと聞いてたんだ」
「うん」
「で、どう?」
「うん」
「行く?」
「うん」
「行かない?」
「行く」
「…………」
「どうしたの?」
ふと理奈が焦点を冬弥に合わせて、不思議そうに冬弥の顔を覗き込んだ。
冬弥は少し困った顔をして、それから怖々に尋ねた。
「あの、ひょっとして、面白くない?」
「ううん。面白いわよ」
「そ、そう……」
冬弥はあまりにも無感情な理奈の反応に寂しさを覚えたが、それでもやはり理奈はどこかぼうっとした眼差しで、何か他のことを考えているようだった。
結局食事が終わるまで、ずっと理奈は冬弥の話を上の空で聞いていた。