『 虹色の未来 』



 やがて11時を回って、二人は床に就いた。冬弥はいつものように理奈を抱きしめ、軽く唇を重ねてみたが、やはりこの日の理奈はどこかおかしく、冬弥の身体に腕を回しながらも、心ここにあらずといった感じで、視線を宙に彷徨わせていた。
 冬弥は寂しさよりもむしろ、そんな理奈が心配になってきて、優しい声音で尋ねた。
「ねえ、理奈ちゃん。さっきからどうしたの?」
「うん……」
 理奈は小さく呟いて、冬弥の顔を見た。そして、一度不安げに視線を落とした後、意を決したように口を開く。
「あのね……冬弥君」
「うん」
「一つ、お願いしてもいいかしら」
「あ、うん……」
 答えながら、冬弥は少し緊張していた。
 理奈は優しい女の子だったが、やはり生活環境のせいか、それとも由綺があまりにも謙虚すぎただけか、意外と我が儘だった。だから、割と冬弥にものを頼むときにも、遠慮や躊躇はしない。
 その理奈が、これほど思い詰めた瞳をしている。一体何を言うつもりなのだろう。冬弥は緊張に身を強張らせた。
 そんな冬弥の緊張が理奈にも伝わったのか、理奈が声をいつもの調子に戻した。
「あっ、別に変なことじゃないわよ。心配しないで」
「えっ? あっ、うん。わかった」
 一度小さく深呼吸して、再び理奈が冬弥の目を見る。そして次に言った一言が、冬弥を、やはり激しく驚かせた。
「その、学園祭で、ステージをとって欲しいの」
「……えっ?」
 冬弥は目を見開いた。
「それって、つまり……歌うってこと?」
 理奈は、冬弥の胸の中で小さく頷く。そして不安げに声を震わせた。
「まだ、とれるかしら」
「そ、それは大丈夫だと思うけど、でも、何でまた?」
「うん……。ごめんなさい。冬弥君は、嫌だった?」
「い、いや、嫌じゃないけど、ちょっと驚いちゃって。ステージって言ったって、本当に大したものじゃないよ。もし理奈ちゃんに何か期待させてたらごめんね。理奈ちゃんから見たら、きっと面白くないと思うよ」
 緒方理奈のかつて歌ってきたステージと比べれば、学園祭のステージなど子供のお遊びに過ぎない。冬弥は自分の説明が、何か理奈にとてつもない誤解を招いてしまったのではないかと狼狽した。
 しかし、それも杞憂に終わった。理奈は首を左右に振って、小さな声で言った。
「うん。小さくても何でもいいの。マイクがあって、聞いてくれる人さえがいれば。ただ、どうしてもしてみたいことがあって……。歌ってみたい歌があって……」
「歌ってみたい……歌?」
「うん……。緒方理奈の……私の、ファーストソング」
「ファースト……ソング……」
 冬弥が信じられないというふうに呟いた。
 理奈のファーストソングが出たのは、もうかなり昔の話で、作詞も作曲も兄である緒方英二がしている。デビューソングにして、いきなりミリオンセラーを達成したものすごい曲であるのは間違いないが、それにしてもわざわざ引退してから学園祭で歌うような歌ではない。
 そう思って冬弥が聞くと、理奈はわずかに笑みを零して、首を振った。
「違うわよ、冬弥君。私のファーストソング。私の……今ここにいる、緒方理奈の……」
「理奈ちゃんの……」
 冬弥はしばらく考えてから、ようやく理奈の言わんとすることを理解した。
 そう。理奈の言っているのは、引退してから書いた曲のことだ。もちろん冬弥にはそんなことは初耳なのだが、そうに違いない。
「曲、書いてたの?」
「うん……って言っても、1年半で1曲だけよ……。でも、きっと私にとって一番大切な曲。色んな人のために歌いたいの。もちろん、冬弥君のためにも、私のためにも、そして……」
 そこで理奈は口を噤んだ。だが、冬弥には先がわかった。
 きっと、由綺のためにも……。
「わかった」
 冬弥は強く頷いた。
「本当?」
 ぱっと顔をほころばせる理奈。
「ああ」
 冬弥はそんな理奈の髪を撫でながら、にっこりと笑って見せた。
「ステージ、早速明日にでも大学に行って、とってくるよ。いつがいい?」
「うん……。初日はやめておこっ。冬弥君と一緒に、澤倉さんの劇が見たいから。だから二日目。もしできるのなら、一番最後の時間」
「はは〜ん。目立ちたがり屋の理奈ちゃんは、フィナーレを飾りたいんだね?」
 冬弥が意地悪く尋ねると、理奈はそれをあっさりと返した。
「ううん。ただ、私の後に歌う人が可哀想だから」
 相変わらずものすごい自信。でも、実力に裏付けられた、絶対の自信だ。
 いつの間にか理奈の顔が、現役時代のそれに戻っていた。いや、現役時代よりも歌に対して輝いた瞳をしている。
「わかった。じゃあ、できるだけ最後の時間をとれるよう努力するよ」
 冬弥が言った。
「名前は、『緒方理奈』でいいの?」
 冬弥が聞くと、理奈は少し考えてから、
「ううん。『成田雅夫』にでもしておいて」
 と、笑顔で答えた。ちなみに『成田雅夫』とは、『なりたがお』と読み、単に『おがたりな』を逆さまから並べただけだ。理奈が現役時代、バレンタインデーのプレゼントに冬弥にチョコレートを贈ったときに使った名前である。
「成田さんね。でも、それだとお客さん、来ないんじゃ……」
 冬弥は心配しながらそう言った。実際、学園祭のステージなど、そのバンドの仲間内が集まるくらいで、あとはよほど上手くない限り、わざわざ足を止めてそれを見る者などない。
 だから、まったく無名の『成田雅夫』のステージなど、誰も見に来ないのではないかと冬弥は思った。
 ところが理奈は、
「大丈夫。それでいいの。それでお客さんが来なかったら、それが私の実力なのよ」
 と、にっこり笑ってそう言った。
「…………」
 少しだけ、理奈の『したいこと』がわかった気がした。
 でも、理奈なら大丈夫だ。
 冬弥は思った。
 よほど上手くない限り、お客は来ない。だから、理奈なら大丈夫だ。
「わかった。理奈ちゃんのしたいこと、まだ聞かないよ。当日を楽しみにしてる。大学の方は任せて。理奈ちゃんの負担にならないように、全面的にバックアップするから」
「うん」
 そして、理奈は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、冬弥君。もう一つだけ、我が儘」
「何?」
「明日からしばらく、家を空けさせて。当日の準備がしたいから」
「えっ? 家を空ける?」
 冬弥が怪訝な顔をして聞き返すと、理奈が上品に笑って見せた。
「大丈夫よ、冬弥君。ちょっと引退してから長いから、発声練習と、後はバンドメンバーを集めなきゃ」
「ああ、うん。ごめん。わかった。その代わり……」
 冬弥が言うよりも先に、理奈の唇が冬弥の言葉を遮った。
「ん……」
 二人の吐息が重なる。
 ゆっくりと理奈が唇を離して、顔を耳まで赤らめて笑った。
「しばらく寂しくなるから……今夜はその……ねっ」
「あはは」
 冬弥も照れたように微笑む。
 そして二人は、もう一度唇を重ね合った。