『 虹色の未来 』



 4

 冬弥は野外ステージの隅の方で、理奈の到着を待っていた。
 もうすでに3時半を過ぎている。理奈の出番は4時から5時までの1時間だ。
 演劇部の劇も含めて、すべての出し物が5時に終わる。今日はそれから後夜祭が華やかに行われる。
 そのせいだろうか。客足はまったく衰えていない。ただ、すでに始まっている演劇部の劇に客をとられて、心なしか人が少なく見えるのは、昨日の劇の感動が大きかったせいかもしれない。
 やがて、時計の長針が「8」の数字を回ったとき、
「冬弥君」
 背後から優しい声でそう名前を呼ばれて、冬弥は慌てて振り返った。
 当然声を聞いただけで誰であるかはわかっていたが、そこには理奈がいつもの笑顔で立っていた。その後ろには、まるで付き人のように背の高い男が二人、にこにこしながら立っていた。どちらも冬弥とは面識がない。
「お待たせ。そんなに慌てて振り向かなくても、逃げないから安心して」
 いたずらっぽく微笑む理奈を見て、冬弥は驚きを隠せなかった。
「り、理奈ちゃん……?」
 冬弥が驚くのも無理はない。
 理奈は、いつものように髪を後ろでまとめるのではなく、現役時代の髪型に戻していた。そして、今はコートをはおっているが、その下には間違いない。あの青と白を基調とした、綺麗なステージ衣装を着けていた。
「理奈ちゃん。その格好……」
「うん。兄さんに我が儘言って借りてきたの。っていうか、元々私のなんだけどね。私がデザインしたんだし」
 そう言って、理奈は誇らしげに衣装を見せた。
 周囲がざわめく。見ると、かなり多くの人間が、足を止めてこちらを見ていた。
 当たり前だ。
 緒方理奈。
 引退からすでに1年半経つとはいえ、元トップアイドルの彼女を知らぬ者はない。
 冬弥は不安げに辺りを見回していたが、理奈本人は全然気にしてないように上品に笑った。
「大丈夫よ、冬弥君」
「で、でも……」
 気が付くと、今ステージにいるバンドの演奏はすでに終わっていた。
 各バンドの持ち時間は1時間。それは準備も片付けも含めての時間なので、実際は各バンド40分くらいしか時間がない。
 確認の意を込めて冬弥が理奈にそう言うと、理奈はにっこりと笑って見せて、
「じゃあ、私は55、6分ね」
 と、冗談めかして言った。冬弥がすぐに驚いた顔をする。
「55分って……。あっ、それより理奈ちゃん、バンドメンバーは?」
 冬弥が思い出したようにそう尋ねて、不安げに背後の二人に目を遣った。
 どちらも人当たり良さそうな、爽やかな青年だ。もっとも青年と言っても、二人とももう30歳くらいだろうか。
「ああ、紹介するわ。平山さんと西木さん。平山さんがアコースティックギターで、西木さんがエレクトリックギター専門。って言っても、今日はどっちもしてもらうけど。二人とも、この世界じゃ有名な人よ」
 言われて二人が頭を下げる。
 見ると確かに二人とも、大きなギターケースを2つずつ持っていたが……。
「まさか……」
 冬弥は息を呑んだ。
「まさか理奈ちゃん。今日、ギター2本で歌うの……?」
 しかし、そんな冬弥の心配などお構いなしに、理奈は平然と笑って言った。
「そうよ。渋いでしょ」
「し、渋いって、そんな。だって理奈ちゃんの曲って……」
「ふふ〜ん。心配するなよ、青年」
 まだ言葉を続けようとした冬弥の肩を、西木と呼ばれた男がポンポンと叩いた。そして、不敵な笑みを浮かべる。
「真のプロのギターを聞けば、きっと君は後で俺たちに謝ることになるぜ」
「そうそう。理奈ちゃんを独り占めする勇気があって、こんなちっぽけなステージで、理奈ちゃんを信じれないなんてことはないよな?」
 今度は平山と呼ばれた男が笑いながらそう言って、そして二人はステージの方へ歩き始めた。
 冬弥は呆然と突っ立ったまま、しかし込み上げてくる想いを抑え切れずにいた。
「そうだよね……」
 強く拳を握り、強く頷く。
「そうだ。これはプロの世界なんだから、大丈夫に決まってる……」
「そういうこと」
 楽しそうに理奈が笑って、素早く一度冬弥に口付けをした。それから驚く冬弥の唇に指を当てて、真面目な顔をする。
「でも、一つだけ間違い。これから歌うのは、プロの私じゃない。演奏はプロだけど、私はプロじゃないから。それは間違えないでね。どんな衣装を着ていようが、何が起きようが、今日の私は一介のアルバイター。これが……今日の私からのメッセージ」
「……うん」
 そして理奈も、ステージの方へ歩き出した。
「じゃあ、私、頑張るから」
 それだけ言い残して……。
 冬弥は理奈に背を向けたまま、それでも強く強く頷いた。


 そして……。


 理奈は再びステージに立った。風は冷たいが、堪えられないほどでもない。
 グラウンドの遥か向こうに、大学の校舎が見えた。空は青い。
 観客より一段高い位置からグラウンドを見下ろすと、すでに200人以上の人が集まっていた。先程のバンドの客がそのまま残り、そして、すでに口コミで彼女の到来はどんどん学園祭中に広まっているのだろう。
 きっと、これからもっともっと増えていく。
「この広いグラウンドがお客さんでいっぱいになったら、気持ちいいでしょうね」
 昨日の自分の言葉を思い出して、理奈は胸の高鳴りを覚えた。
 いつもの『緒方理奈』のコンサートとは違う。毎回超満員のライブやコンサートとは違って、今日は0からのスタートだ。
 だが、いつもとは比べものにならないほど、ずっと身近に客の存在を感じる。
 何が起きるのだろう。
 客の緊張と自分の緊張が重なる。
 やがて、ギターのチューニングが終わって、平山、西木の二人からOKのサインが出た。理奈はそれを確認してから、客席に向かって深く、深くお辞儀した。
 勝手にステージを降りてから早1年半。それなのにまだこうして集まってくれるファンのために。
 感動を伝えよう。
 理奈がマイクを持った右手を上げる。
「ワン、トゥー、スリー」
 二人が、同時にギターをかき鳴らした。


 晴れた空に、どこまでも澄んだギターの音が響く。


「理奈ちゃん……」
 由綺は呆然と呟いた。
 正直半信半疑で来てみたら、はるかの言うとおり理奈がやってきて、そしてステージに立った。
 席の最前列。由綺は一人。みんなは美咲の劇を見に行っている。
 由綺は瞬きするのも忘れて、ステージに見入っていた。
 それは『緒方理奈』が立つには、あまりにも小さなステージだった。スポットライトもない。楽器だって、ギターが2本。キーボードもドラムもベースもトランペット、サックス、ピアノ、何一つない。マイクは良いものを使っているようだが、肝心なスピーカーがまた、学祭委員が借りてきた安物だ。もちろん、決して悪いものではないけれど。
 そして何より、客がいない。由綺はちらりと後ろを振り返った。
 ざっと数えて300人くらいだろうか。
 でも、300人だ。誰も今日の理奈の到来を知らない状態で、実際に理奈が来てからまだ30分、ステージに立ってからはまだほんの5分ほどしか経っていない。それなのに理奈は、あっと言う間に300人の客を集めた。
 いや、それは過去の名声のなすことだ。自分にだってできる。
 由綺はそう強く念じた。


 理奈は1曲目を終え、続けて2曲目に入った。


 『SUMMER DAYS』に引き続き、『LOVIN’ SMILE』、テンポの良い曲が続き、早くも観客は総立ちになった。
 もはや誰も緒方理奈がそこに立っている不自然さなど気にしていない。いや、緒方理奈がステージの上にいることの、どこに不自然さが存在するのだろう。
 やはり理奈はステージが似合う。
 冬弥はそんなことを思いながら、ふと自分と同じく最前列にいる客の中に、どう見ても一人だけ弾けていない小柄な少年がいるのに気が付いた。
 よく見ると、初めは男の子だと思っていたが、しかしすぐにそれが由綺であることに気が付いた。
 冬弥は今前に出るのは危険だとは思いながらも、どうしても気になったので、なるべく大人しく由綺の許に移動した。
 由綺もすぐに冬弥のことに気が付いたようで、驚いたような、悲しそうな、嬉しそうな、しかしどこか後ろめたそうな、怯えたような、取りようによってはどうにでも取れる複雑な顔をして彼を迎えた。
「冬弥君……」
 由綺が呟く。そして、
「ねえ、どうして理奈ちゃんがここにいるの?」
 わずかに怒気のこもった声でそう尋問した。
「ど、どうしてって言われても……」
 久しぶりに再会して、まさかいきなり怒られるとは思っておらず、冬弥はひどく狼狽した。由綺にしては珍しい剣幕だ。
「その、理奈ちゃんがどうしてもステージに立ちたいからって……」
「理奈ちゃんが……?」
 驚いたように繰り返して、由綺は理奈の方を見た。
 理奈は相変わらず目を輝かせて歌っている。皮肉なほど楽しそうだ。
「理奈ちゃん……すごく楽しそう」
「そうだね」
 冬弥が相づちを打つ。しかし、
「そんなに楽しいのなら、どうしてステージを降りたんだろ……」
 次に由綺はそう呟いて、冬弥は驚いて由綺を見た。
 由綺はものすごく真剣な瞳で、しかしあからさまに怒りのこもった瞳で理奈を見つめていた。
「由綺……」
 冬弥が困ったように問う。
「何?」
「どうして、怒ってるの?」
「えっ?」
 冬弥に言われて、由綺は驚いて顔を上げた。自分でも気付いていなかったのだ。
「私……怒ってる? 理奈ちゃんに……」
 違う。
 由綺は思った。
 怒ってはいない。
 怒りとはもっと違うもの……。
「何だろう……」
 由綺の呟きは、客の大歓声に紛れて消えた。


 グラウンド内が、にわかに活気付いてきた。


 3曲連続で歌って、理奈はぺこりと頭を下げた。一斉に拍手が起こる。
「どうもこんにちは、『なりたがお』です。逆さまから読むと偶然『おがたりな』になるから、今日は逆立ちして出てこようかと思ったんですが、できないからやめました。皆さん、お席のある方はどうぞお座りになってください」
 言いながら、理奈はグラウンドを一瞥する。
 500人くらいだろうか。もう、さながら小規模なライブになってきた。
「さて、突然出てきたのにすごい人の数に、本人が一番驚いてます。みんなありがとう。まだ覚えていてくれてるんですね、私のこと」
 理奈が冗談めかしてそう言うと、客席から理奈の名前が無数に飛んだ。
「あ、ありがとう。話したいこともいっぱいあって、歌いたい歌もいっぱいあるけど、今日はたったの1時間しかみんなと一緒にいられません。だからもう、どんどん歌います。緒方理奈アンコール、スペシャルメニュー。『DREAMER』『一人の部屋』『SUNNY ISLAND』『ハッピータイム』『愛してるから』の5曲をメドレーで聴いてもらいます」
 湧き起こる歓声。
 言い終えた後、理奈はちらりと由綺の方を見た。彼女がいることは、ステージに上がったときから知っている。
 由綺と目が合った。由綺は冬弥と一緒にいたが、別に問題ではない。
 理奈はマイクを取った。


 曲が始まる。


 見事なアレンジだった。本来数々の楽器で演奏される曲を、たった二人のギタリストが、鮮やかに音を紡ぎ出している。
 そして、理奈の歌唱力。まったく衰えていない。
「理奈ちゃん、すごい……」
 由綺はいつの間にか完全に理奈の歌に聴き入っていた。けれど、やはり何か心に引っかかりを覚えた。
 苛立ちに近いものだ。何かはよくわからない。
 ただ、すごく理奈が輝いて見える。こんな醜い心で見ているのに、それでも理奈が綺麗に見える。
 現役時代、理奈はあれほどまで輝いて歌っていただろうか。
 ギターのアレンジは確かにすごい。理奈の歌唱力も相変わらずだ。けれど、何か違う。もっと根本的な何か。歌に対する理奈の何かが、現役時代とはまったく違う。
 ……自分は?
 歌が趣味か仕事かの差なんて、大したことじゃない。自分は今でも歌が好きだ。大好きだから歌い続けていて、大好きだから……大好きだから冬弥を捨ててまでもこの世界を選んだ。
 後悔はしていない。
 だから、そんなことは関係ない。
 ただ、悔しかった。現役をずっと離れていた理奈。それなのに、すごく上手だ。歌も、トークも、間の取り方から踊り、仕草、すべてに置いて自分を上回っている。
 そして何より、この大声援。悔しいけど、やっぱり勝てない。
 その結論に辿り着いたとき、由綺は自分が苛ついている理由に気が付いた。
「嫉妬……してる? 私……理奈ちゃんに……」
 そうだ。どこまでもすごい理奈。決して勝てないこの存在に、自分は嫉妬している。
 そして、でもそれだけじゃない。やっぱり冬弥を選んでアイドルをやめて、そこまではいい。それなのに、何故かまたこうしてステージに立っている理奈に、多少の苛立ちを覚えているのもまた事実だった。
「でも……」
 呟きながら、由綺は理奈を見上げた。
 理奈は相変わらず楽しそうに歌っている。汗の一滴まで輝いている。
「でも……まだ違う……」