『 虹色の未来 』



 楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るものだ。
 メドレーを歌い終え、途中短いトークを挟み、ファーストソングである『心の隣であなたを見つめて』と、ラストソングとなった『SOUND OF DESTINY』を歌い終えると、残り時間はあと12分ほどになっていた。
 グラウンドには、理奈でさえ冗談で言った「埋め尽くすような」数の人が集まり、彼女に声援を送っている。
 理奈は汗を拭って一度頭を下げると、明るく観客に笑いかけた。
「どうもありがとう! とっても嬉しいです」
 また湧き起こる歓声。だが、すぐに静かになる。みんなが理奈の次の言葉を待っている。
 理奈は客が静まったのを見計らって、静かに語り始めた。
「今日はみんな、私の我が儘に付き合ってくれて本当にありがとう。私ね今日、本当はステージに立つのがすごく怖かったの。誰も来てくれなかったらどうしよう。ううん。そんなのはまだいい。それよりも、みんなに怒られたらどうしようって……。それは決して、私を応援してくれてたみんなを疑ってるわけじゃないの。ただ、私は、そんなみんなを裏切ったから。勝手に引退して……」
 どこまでも静かな空間。遥か遠くから学園祭の喧騒が聞こえてくる。
 理奈は再び口を開いた。
「私、色んなことを思ったの。引退だって、週刊誌はどれを読んでも男男男。何だか私、自分がすごくスケベな女になった気分だったわ。ごめんね、みんな。あの記事、決して否定はしないけど、でも、私が辞めたのは、そんな単純なことじゃないの」
 そしてもう一度息を吐く。思い切って男性問題が事実であったことを告げたが、思いの外反応はなかった。今は嬉しい。
「本当に色んなことを考えた。とってもとっても色んなこと。もう一生分、考え尽くしたわ。アイドルって何だろう。ファンって何だろう。歌って何だろう。そして、私が引退したもう一つの理由……。それを、すべて歌にしました。ちょっと長いけれど、最後まで聞いて下さると嬉しいです」
 そう言って、理奈は一度空を仰ぎ見た。冬の空は、もうすっかり薄暗くなっていたが、グラウンド内は照明のおかげで、辛うじてまだ客の顔を確認できる明るさを保っていた。
「それではお贈りします。『虹色の未来』」


 大きな拍手が湧き起こると、すぐにまた静かになった。喧騒とは無縁の空間。
 ギターがバラード調の、ゆっくりとした静かな曲を奏で始める。


『ふと目が覚めた寒い夜 わずかに開いたカーテンの向こう
 窓越しに広がる夜空に一つの青い星が輝いていた』


 理奈の歌声はどこまでも綺麗で澄んでいた。
 まるで今の理奈の心が、そのまま曲になったような。
 由綺はもう冬弥のことも忘れて聞き入っている。
 一語一語聞き逃すまいと、真剣に。


 やがて、曲は1番のサビを迎え、ギターの音が大きく鳴り響く。


『大観衆のステージの上で 私は光の粉を身体に浴びて
 妖精のように輝いていた
 スポットライトに照らされた 私の下には影がない
 今にも自分がいなくなりそうな
 そんな不安を笑顔の仮面で覆い隠して
 私は歌い続けている』


「理奈ちゃん……」
 冬弥が呟いた。
 冬弥がADのバイトをしていたときに、由綺や理奈を見て思ったこと。
 彼女たちの本当の心は、それは本当の笑顔でさえも、ブラウン管からは伝わってこない。


『やがて曲が終わって 拍手の渦が私を呑み込む
 でも客席は闇の中
 見えない姿 聞こえない声
 私は何に向かって歌っているの?
 誰に対して笑っているの?』


 理奈の悲しみが声となって、観客の胸に響き渡る。
 理奈はそれでも、穏やかに歌い続けている。


『わずかに開いたカーテンの向こう
 いつの間にか 青い星は雲に隠れて
 外には雪がちらついていた』


 1番が終わって、周りにはわずかに涙する者もあった。
 理奈の瞳も輝いて見えたが、その輝きは、決して悲しみによるものではなかった。


 そしてまた、ギターが初めの音を紡ぎ出す。


『ふと立ち止まって振り返った時 今まで歩いてきた道が
 意外と細くて霞んで見えるのに気が付いた
 もう一度目を開いて前を向くと
 鮮やかに彩られていた私の未来がなくなっていた』


「理奈ちゃん……」
 由綺は呆然と呟いた。
 今の言葉が本当なら、それはあまりにも悲しすぎるから。
 いや、これはすべて『本当』を歌った歌だ。
 だから、悲しいんだ。


 理奈は歌を刻む。
 わずかに由綺の方を見た目がひどく優しかった。
 それはその後に続く歌詞によるものだと、由綺と冬弥は気が付いた。


『そんな怯えるだけの私の背中から 一人の少女が
 しっかりとした足取りで 私をぬかして歩いていった』


「えっ?」
 由綺の呟きは、サビに入って高鳴るギターの音にかき消える。


『大観衆のステージの上で 彼女は光の衣に包まれて
 天使のように微笑んでいた
 スポットライトに照らし出された 彼女の前には明るい未来
 立ち止まった弱い私に
 気付かず 振り返らない強さを持って
 彼女は歌い続けている』


 誰しもが、それが森川由綺のことを歌っていると気が付いた。
 けれどそれは、由綺に対する妬みでも羨望でもない。
 そう、それは寂しさ……。


『でもその時私は思った
 彼女は誰? 私は誰?
 彼女は私とどこが違うの?
 真実の自分を偽り続けて』


 それが……答え?
 理奈が今ここで歌っている……。
「そうなの? 理奈ちゃん」


『輝き続けた眩しい青空
 いつの間にか 私の未来は霧にぼやけて
 涙が溢れて止まらなかった』


 まるで由綺の今、この瞬間を歌ったような歌詞。
 気が付くと、由綺は泣いていた。


 間奏で理奈はちらりとそんな由綺を見て、また真っ直ぐ前を向いた。


『ギターの弦が切れてしまって もう私のために音は鳴らない
 壊れたマイクは押し入れの奥 私の言葉を伝えない』


 アイドルを辞めた理奈。
 アイドルを辞めて、もう1年半の歳月が流れた。


『でも……それでも』


『誰の胸にも虹色の夢 クリアブルーの空の下
 風は心を吹き抜ける
 太陽の下の私の影は くっきりとした私の形
 輝く舞台も 綺麗な服も
 みんな道の途中に置き去りにして
 そうして私は歌い続ける』


 理奈の歌は、心に響く。
 アイドルなんかじゃなくても。
 こんな小さなステージでも。
 誰の胸にも。


『誰の夢にも虹色の未来 小さく儚く
 それでも眩しく輝き続ける
 私は何も持たないけれど みんなのために歌いたい
 私のままの笑顔と声で このメロディーを贈りたい』


 自分のままの心で。
 自分のままの温度で。
 自分のままの笑顔で。
 自分のままの声で。
 それは、決してブラウン管からでは伝わらない。


 それが……答え。


『誰の夢にも虹色の未来 小さく儚く
 それでも眩しく輝き続ける
 私は何も持たないけれど みんなのために歌いたい
 私のままの私の心で この気持ちを伝えたい
 溢れる想いを歌に乗せて この気持ちを伝えたい』


 理奈とファンの心が一つになったとき、そこに初めて歌が生まれた。
 歌は胸に響き、心を震わせる。


『誰の胸にも虹色の夢
 誰の夢にも虹色の未来』


 誰の胸にも虹色の夢。
 誰の夢にも虹色の未来。


 澄んだギターの響きに乗せて、理奈がそのフレーズを何度も何度も繰り返す。


「誰の胸にも虹色の夢
 誰の夢にも虹色の未来」


 初めに声を合わせたのは冬弥だった。
 それから、客が、初めて理奈と一緒に歌う。


『誰の胸にも虹色の夢
 誰の夢にも虹色の未来』


 声が、グラウンドを呑み込んだ。
 千数百の心が一つになって。


 理奈の瞳から涙が溢れた。


『誰の胸にも虹色の夢
 誰の夢にも虹色の未来』


 やがて、まだ客の声とギターの鳴り響く中、理奈が大きく頭を下げた。
 一斉に湧き起こる拍手。
 それは、昨日の劇よりも激しく、空高く。


 理奈はボロボロ泣きながら、何度も何度も頭を下げて、そして歌う。


『誰の胸にも虹色の夢
 誰の夢にも虹色の未来』


 時間はとうに過ぎていた。
 後夜祭もすでに始まっていたが、文句を言う者は誰もなかった。
 野外ステージの担当委員もまた涙して、理奈の心と調和する。


 やがて静かに曲が終わって、もう一度大きな拍手の波が押し寄せた。
 ステージが拍手に震える。
 そして、
「アンコール……」
 初めに、どこかでそんな声がして、それが少しずつ大きく、強く、理奈を呑み込んだ。
「アンコール!」
「アンコール!」
「アンコール!」
「アンコール!」
 理奈はステージの上で、かつて味わったことのない感動に身を震わせていた。
 もうどうして良いのかわからない。
 大学中を揺るがすような、アンコールの渦。
 でも……。
 理奈がステージの上で困り果てていると、誰かがステージに上がった。学園祭の委員の者だ。
 彼は理奈の許へ行くと、そっと彼女にこう告げた。
 ステージの使用を許可する、と。
 元々実行委員がすべて仕切っている学園祭である。多少のことは目を瞑られる。
 理奈は彼にペコリと一度頭を下げた後、再びグラウンドの方に身体を向けて、
「えっと、今、学園祭の係の方から、歌ってもいいと言われたので、皆さんのお気持ちに甘えまして、もう少しだけ歌わせてもらいます」
 と、まるでアイドルになり立ての素人の子のように、たどたどしくそう告げた。
 一斉に観客が湧いた。
 理奈のアンコールソング。
 理奈へのアンコール。
 それは一体、理奈にとって、どういう意味を持つものだったのだろう。
 理奈は照れながら深く頭を下げて、もう一度マイクを取った。


 すべての出し物が終わると同時に、客がこのグラウンドへと流れ、文字通り人がグラウンドを埋め尽くした。
 理奈のアンコール曲は十数曲に上り、結局ライブは7時くらいまで続けられたが、学祭実行委員長を含めて、やはり誰からも文句の声は上がらなかった。
 すさまじい熱気と拍手と歓声の中、やがてライブは終わり、理奈は何度も何度も頭を下げてステージを降りた。
「またどこかで歌ってくれ」
「俺たちはいつまでも理奈ちゃんのファンだから」
 理奈はそんな歓声に背を向けて、しばらく肩を震わせていたが、その内堪え切れなくなって、ボロボロ零れる涙を隠そうともせずに、大きく観客に手を振った。
 緒方理奈へのアンコール。
 理奈は、最高の喜びを胸にステージを後にした。
 すっかり暗くなった空には無数の星が瞬いて、夜風が冷たくグラウンドを吹き抜けていった。
 それでもしばらく、グラウンドにいる彼らの熱気は冷めなかった。
 いつまでも……いつまでも……。
 そうして今年の学園祭は、予想外の熱気と興奮の中、幕を閉じた。