『 To Heart Fantasy 』 第1巻

 第2話 誇りの民の街ハイデル

  1

 4日も歩くと、次第に道の雪も溶けてき始めた。
 真っ直ぐ伸びる赤茶けた土の道の両側には、それを引き立たせるかのような鮮やかな緑の草原が広がっている。風が吹いてはそれがさやさやと涼しげな音を立てて、白く光る。
 日本だと丁度初冬並みの寒気が大地を覆っている。しかしオレたちは、おばさんからもらったよくわからない動物の毛皮のマントのおかげで、大した寒さを覚えずにすんだ。
 道はひたすら続く。
 5日目の昼頃、眼前に小高い山が見えてきた。緑の木々がうっそうと茂っている。道はその中を通って、なお伸びている。
 それを越えると、やがてハイデルが見えてくる。そう、おじさんは言っていた。
「あと少しだな……」
 オレは力なく呟いた。
 マルチは「はい」と、元気にオレの顔を見上げたが、あかりはもはや声を出すのも億劫なようで、小さく頷いただけだった。
 正直言って、オレたちは疲れていた。
 極寒の野宿、慣れない旅、満足でない食事と飲み物、異世界に対する不安と緊張。
 夜になればベッドがあって、寒ければスイッチ一つで温かくなり、蛇口をひねれば水の出てくる日本とは違う。
 オレたちは極限まで疲れていた。しかし、決してへこたれもしなかった。
 本当に音を上げても状況が変わらないとき、人間は自分の思っている以上の力が出る。
 オレはそれを実感した。
 ここでは「もう嫌だ」と言ってもしょうがないのだ。
 やがて道は緩やかな上り勾配になる。
 両側には木々が今にも押し寄せてきそうに道側に傾き、陽の光さえ遮っている。
 薄暗い。
「何だか不気味ですね」
 背後からマルチの震える声が聞こえた。どうやら怖がっているようだ。
「この世界の人たちは、これくらいのことは平気なんでしょうか? それともやっぱりわたしたちと同じ人間。闇は怖いのでしょうか?」
 マルチはさらに続ける。「っていっても、わたしは人間ではないですけどね。もう少し陽の光が射し込めば、明るくもなるし、このじめっとした空気も乾くんですけどね」
 喋ってないと不安なのだろう。それはオレも同感だ。
 だが、すまんマルチ。今のオレにはそんな元気はない!
 オレがそう心の中で謝ったとき、マルチの独り言に答える声があった。
「薄暗いのはね、お嬢さん。仕事をしやすくするためなんだよ」
 キザな若者調の声と台詞だった。
 どこぞのナンパ者かと声のした方、つまり森の中を見ると、そこからわらわらと5人ほどの男が現れた。
 全員まだ30歳前後で、手には大きな剣を持ち、ボロボロの服を着ている。顔や身体には無数の傷があって、「私たちは山賊です。よろしくな」と体中で訴えかけていた。
「…………」
 マルチは凍り付いたように動かない。手に持ったほうきを下に落とし、グーにした両手を口に当てると、そのままの状態で硬直している。
 あかりの方を見ると、やはり同じように立ちすくみ、恐怖に膝をがくがくと震わせていた。目には涙が浮かんでいる。
 そしてオレは……オレもまた恐怖に心臓がばくばくと鳴っていた。
「さてと、男には用はない。とりあえず消えてもらうとしよう」
 5人の内の1人が言った。
 彼らから漲る殺気が肌で感じられた。
 殺される……。
 オレは冷静にそう思った。
 生まれてから16年間、何度か喧嘩をした。その度に思い切り殴られては痛い思いをした。
 また図工の時間に、誤ってカッターで指を切ったこともある。かなり深く切れて指先から多くの血が流れ、その血を見てオレはひどく恐怖した覚えがある。その時あかりのヤツが、そんなオレを見て自分のことのようにビイビイと泣いていた。
 そういう経験はある。
 しかし、包丁で刺された経験や、彫刻刀で削られた経験はない。
 物語のようにはいかなかった。
 鈍色の刃を向けられて、オレは腰に佩いた剣を抜くことさえ出来なかった。
「おやおや兄さん、観念したのかい? 腰の剣は……高そうだねぇ。俺たちへの貢ぎ物かな?」
 5人が笑った。
 もはや気が気ではなかった。頭の中が真っ白になって、逃げることさえ思いつかなかった。
 男たちが近付いてくる。オレを、ゆっくりとなぶり殺す気だ。
 その時、
「浩之ちゃん……」
 そう、不安げな、怯え、悲しむあかりの小さな声が、妙にはっきりと、鮮明に、オレの鼓膜を震わせた。
 オレははっとなった。
 そうだ。オレの後ろにはあかりとマルチがいる。もしここでオレが殺されれば、二人はきっと……。
 そんなことをさせるわけにはいかない。
 オレは、自分の命が自分一人のものでないと気が付いたとき、急激に込み上げてくる熱い想いを胸いっぱいに滾らせた。
 もはや足は震えていなかった。
 オレはきっと彼らを見据え、剣を抜いた。刀身が魔力的な光を放つ。
 男たちが「おお」と感嘆の声を洩らした。
 それが、剣の素晴らしさに対するものか、それとも剣を抜いたオレに対する侮蔑かはわからない。考えもしなかった。
 オレは必死だった。二人の命の重みを、ずっしりと肩に感じながら、オレは剣を構えて走った。
 勝てるとは思わない。ど素人の、ほんの数日前まで剣なんて見たこともなかったオレには、幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼らに勝つことはおろか、一太刀として浴びせることは不可能だろう。
 しかし、それでもオレは戦わなくてはいけない。
 オレは思い切り剣を振り下ろした。
 グンッ!
 切っ先が空を切る。
 全然届いてすらいなかった。切っ先は眼前の男の1メートルほど手前の空間を切って、ざっくりと地面に埋まった。
 ところが、次にオレが聞いたのは、彼らのオレを嘲る声でもなく、オレが見たものは、オレに振り下ろされる剣でもなかった。
 聞こえてきたのは、凄まじい、もはや末期的な絶叫。
 驚いて顔を上げると、眼前の男が血塗れになって倒れていた。苦渋に満ちた顔には脂汗が浮かび、オレに呪いの言葉を繰り返しながら、やがて彼は動かなくなった。
 オレは何が起きたのか、しばらく理解できないでいた。それは男たちも同じようで、オレと同様、間抜けな表情で突っ立っている。
 とりあえず、オレは人を一人殺した。彼らは仲間を一人、オレに殺された。
 これだけは、揺るぎない事実だった。
 オレは人を殺した。
 殺した……。
 あかりのヤツは、両手で耳を押さえて、固く目を閉じてうずくまっている。
 オレはひどく動揺していた。と、
「ふ、藤田さん!」
 切羽詰まったマルチの呼び声に、オレは我に返った。
 男たちが4人、凄まじい怒りの形相を浮かべてオレの方に向かってくるのだ。
「お、おわぁ!」
 オレは無我夢中で思い切り剣を横に薙いだ。まるで子供の遊びのような剣だった。
 来ないでくれ。来ないでくれ。
 そう言った感じの、相手を払うような剣だった。
 ところがその時、オレは見た。
 クィン……。
 切っ先から、三流コンピュータゲームでいう“真空波”のような衝撃が、空間を斬り裂いて走ったのだ。
 真空波は一瞬にして、男たちを4人とも薙ぎ倒し、血で染めた。
 彼らは悔しがりながら、苦しげに、やはりオレを呪って、そして死んでいった。
 静寂が包み込んだ。
 辺り一面に立ちこめる、むせ返るような血の匂い。オレは吐き気を覚えた。
 振り返ると、マルチは目を閉じて俯いている。
 あかりは、オレなんかよりももっとひどく、うずくまり、しきりに吐き気を堪えながら、苦しそうに喘いでいる。右手で鼻と口を押さえ、左手は心臓に当てて、固く閉じた瞳からは、涙が零れていた。
 オレは人を殺した。
 オレは恐怖に堪えきれず、剣を鞘に納め、無理矢理あかりを背負うと、マルチの手を引いて走り出した。
 さっさとその場を離れてしまいたかった。
 オレは山を越えてしまうまで走り続けた。

  2

 翌日、曇天の中、オレたちはハイデルに辿り着いた。
 分厚い堅固な街壁。街門に立つ門兵からは、セイラスのそれからは考えられないほど厳しいチェックを受けた。
 中に入ると、真っ直ぐ走る太い道。その先には城が見える。
 街並みはきっちりと区画され、家々は整然として立ち並んでいた。
 そこら中に武具を身につけた者を見る。この街の兵士だろうか。
「とりあえず、宿をとりたいな」
 オレは後ろに続く二人に語りかけた。
 マルチはそんなオレの顔を見上げて、「そうですね」と元気よく言ったが、あかりは小さく頷いただけだった。
 あれから、あかりはほとんど言葉を喋っていない。初め、あまりのショックに失語症にでもなってしまったのではと疑ったほど。
 オレもマルチも心配はしたが、今はそっとしておくことにしていた。
 時が経てば、少しずつ元気になっていくだろう。
 かくいうオレも、あの事件はかなり堪えていた。
「さてと、宿はどこにあるんだ?」
 オレたちは歩き始めた。
 道の両側には様々な店の看板がかかっていた。通行人の量も多い。
 そこら中で、商店の威勢のいい声がする。
 セイラスよりは、まだ日本に近い街だった。オレは何となくホッとした。
 どれくらい歩いたか、やがて陽が西の空に沈み、辺りが薄暗くなってきた。
 オレたちは街に来たときと同様、ぶらぶらと歩いていた。
「宿は、どこにあるんでしょうね」
 マルチがオレの隣に並んで言った。
 そう、オレたちは未だに宿を見つけられずにいた。
 次第に暗くなっていく街。太陽はもはや街壁の向こう側に沈み、その姿を見ることさえ出来ない。
 人通りも少なくなって、その内訳も、仕事帰りの男たちに変わっている。
 そんな男たちの喧騒のする食いモン屋も、RPGのような酒場件宿屋といったふうでなく、ただ純粋な酒場風情で、オレたちでは入ることさえ叶わなかった。
 オレたちは疲れ果ててトボトボと歩いていた。
 すると、
「おや? 兄さんたち、どうしたんだい?」
 そう、子供の声で話しかけられて、オレは振り向いた。
 ガキが一人、笑顔で立っている。
 お世辞にも天使のような笑顔とは言えなかったが、声をかけてくれただけでもよしとしよう。
 はっきり言って、軽装に物々しい剣を持ったオレと、暗い顔でついてくるあかり、意味もなくほうきを持って歩いているマルチの3人は、この街でも異質な存在だった。これまで話しかけられないのは当然として、オレたちを奇異の目で見る街の人々に、オレたちからも話しかけることが出来なかったのだ。
「おお、丁度いい。実はオレたち宿を探してるんだ」
「宿?」
「ああ」
 ガキは一度値踏みするようにオレを見ると、それから、
「宿ならいいところを知ってるよ。ボクの知り合いがやってるんだ」
 と、そう言った。「ついてきなよ」
「あ、ああ」
 オレたちは差し伸べられた救いの手に、しがみつくようについていった。
「ここだよ」
 やがて、そのガキが立ち止まったところは、一件のごく普通の家の前だった。やや大きいが、宿には見えない。
「本当にここが宿なのか?」
「もちろん。格安のいい宿だよ。ただ剣とかその他の武器は店で預かることになってるんだ。何か問題でも起こるとコトだからね」
 そう言って、そのガキはオレの前に手を差し出した。「おじさんに渡しといてやるよ」
「ああ、ありがとう」
 オレは剣を抜くとガキに渡した。
 やっと休める。
 疲れが一気に押し寄せてきた。
 そしてオレたち三人はその宿に入ろうとして、ふと、さっきまでそこにいたガキがいないことに気が付いた。
「あれ? あいつ、どこ行った?」
 オレは二人に尋ねた。
 二人も、「あれ?」と首を傾げている。
 何か腑に落ちないところがあったが、とりあえずオレたちは宿に入ることにした。

「ごめんください」
 マルチが扉を開けながら大きな声でそう言うと、中から愛想悪げなおばさんが出てきた。「あの、宿をお借りしたいのですが」
「宿?」
 おばさんが怪訝そうに言った。「宿だったら宿屋に行ってくれ。うちは見知らぬ客を泊めるようなことはしないよ」
「えっ?」
 オレたちは互いに顔を見合わせた。
「ここ、宿じゃないんですか?」
 そう、マルチ。おばさんはしかめっ面をして、ぶっきらぼうに言った。
「そんなの表見りゃ、わかることだろ。じゃああんたたちこそ一体どうしてここを宿だと思ったんだい?」
「いや、ガキに宿に連れていけって言ったら、ここに連れてこられたんだ」
「ガキ?」
「ああ」
 おばさんは一度考える素振りをしてから、半ばおもしろそうに言った。「あんたたち、ひょっとしてだまされたんじゃないかね? なにか盗られたもんとかは?」
「…………」
 もはや、これ以上このおばさんにバカにされる必要はない。「いや、それはない。とりあえず失礼した」
 オレたちは慌てて家を出た。
 剣を取り戻すべく……。

 外はすでに真っ暗だった。夜のとばりが下り、人通りももはやない。
 ガキの姿はとうの昔になく、オレたちは途方に暮れて道に呆然と立ち尽くしていた。
「どうしましょう、藤田さん……」
 不安げなマルチの声。オレは胸に痛みを覚えた。
 オレのせいだ。オレが甘い話に乗ったから、マルチとあかりを苦しめてしまった。
「すまんな、マルチ、あかり……」
 オレはトボトボと歩き出した。後ろから、何も言わずに二つの足音がついてくる。
 オレのことを信用して……。
 オレがしっかりしないと。
 心からそう思った。
 歩き出してまだ間もない。ふと、背後からオレたちを呼ぶ声がして、オレは立ち止まった。
 二人は何だろうという顔でオレを見上げた。
「旦那、旦那……」
 女性の声でもう一度呼ばれて、二人もようやく気付いたように、声のする方を振り返った。
 真っ暗な道に、白い厚手の民族衣装を着込んだ少女が一人、そこに立っていた。顔はマフラーのようなものでよく見えない。
「お前は?」
 言ってから横暴な言い方だと思ったが、少女は気にしてないようだった。
「あたしは旅の詩人。旦那の探しているのはこの剣ですか?」
 特に何かを探している素振りはしていなかったのに、少女はそう言って一振りの剣をオレに差し出した。
 柄や鞘に飾りの入った、確かにオレがおばさんからもらった剣だった。
「あ、ああ。これ、どうしたんだ?」
「先程の子供と旦那たちのやり取りを見ていたんです。旦那に貸しを作ろうと思って取り返しておきました」
「貸し?」
 オレは怪訝そうに聞き返した。
「そう……」
 ふと、少女の声が変わった。どこかで聞いた声。
 答えはすぐにわかった。
 少女はばっとマフラーのようなものをとった。
「そう、貸しよ、ヒロ」
 そこに立っていたのは、間違いない。クラスメイトの長岡志保、その人だった。
「志保……」
「長岡さん……」
 オレたち三人の声が重なった。

  3

 志保はにやにやと笑みを浮かべて立っていた。特別驚いた様子はない。
 こいつもオレたちがここにいることを知っていたのか?
 オレは思った。
「ふっ、あんなのに簡単に引っかかるようでは、ヒロもまだまだお子様ね」
 至極いつもの調子で志保が言った。
「な、なにぃ!」
 オレはカチンときて思わず声を荒立てたが、安堵感は拭えなかった。「まあいいや。とりあえずサンキューな」
「おっ、珍しいねぇ〜」
 大袈裟に志保が驚いてみせる。
 人がせっかく素直に礼を言えばこいつは……。
「そんなことよりさぁ」
 突然志保が口調を変えて、あかりの方を見た。「あかり、さっきから元気ないわね。どうしたの?」
「ううん、別に何でもないよ」
「そう? ホントはバカな藤田君に振り回されて、とっても疲れちゃったとか」
「おいこら」
 聞き捨てならぬ台詞が出たので、オレは志保の言葉を遮った。「バカとはなんだ、長岡さん!」
「だって、バカじゃない。どうせここに来て、宿も取れずにふらふら歩いてたんでしょ? で、挙げ句の果てに、さっきの子に声かけられて、ついていったら剣を盗られた。さてどうしよう。違う?」
「うっ……」
 図星だ。
 オレが言いあぐんでいると、志保は「やっぱり」と言わんばかりの目でオレを見た後、持っていた袋から大きな布切れを取り出してオレに渡してきた。
「とりあえず、この布で剣をくるんで。そんな立派な剣、どこで手に入れたか知らないけど、狙われて当然の代物よ。早く」
「あ、ああ」
 オレはすっかり志保のペースにのせられて、言われるまま剣をその布でくるんだ。
「そう、それでいい」
「ところでよぉ、志保。お前……」
「慌てなさんな」
 うぐっ。あ、あくまでオレに発言させない気か。
 志保はオレを手で制した状態のまま、
「まず、場所を変えましょう。どうせ何にも食べてないんでしょ? どのみちここじゃあ、落ち着いて話せないし。あたしがこんな時間でもやってる安くて美味しい店を知ってるから、そこへ行くわ。ついてきて」
 ほぼ一声でそう言って、オレたちの返事も待たずにスタスタと歩き出した。
 もっとも、オレたちに選択の余地もなかったが……。
 オレたちは三人、並んで志保の後についていった。

 入った場所は、店内のやや薄暗い居酒屋ふうの店だった。この時間、カウンターに数人の客が座っているだけで、他はすべて空いている。
 オレたちは志保に従って椅子に座ると、出された水に口をつけた。
 志保は慣れた様子でぱぱっと料理を注文していく。オレたちはただそれを見ているだけだ。
 やがて、一区切りついてから志保が言った。
「とりあえず三人ともお疲れさま。ここの代金はあたしが持つから、遠慮せずにじゃんじゃん食べてね」
「ありがとうございます」
 食事を必要とするのかどうかは別として、マルチが感謝の言葉を述べる。オレとあかりも軽く頭を下げた。
「ところで」
 オレが切り出した。「お前は今、何してんだ?」
「あたし?」
 運ばれてきたワインに少し唇を浸からせてから、志保が言った。「あたしはこの世界をぶらぶらしてるだけよ」
 まったく志保らしい。
 あまりにも平然と言うので、あかりも何と言ってよいか困った様子だ。
「じゃあ志保は、その、来栖川先輩のこととかは知らないの?」
 言葉につまりながらあかりが言った。志保と出会ってから、多少元気になったようだ。
 志保は今度は、出された羊か何かの肉を食べながら、
「もちろん、知ってるわよ」
 さらっとそう言った。
「知ってる?」
 オレとあかりが声をそろえる。
「はい」
 答えたのはマルチだった。「芹香さん、この世界に来た人みんなのところを回っているそうです」
「ってことは、マルチはこの世界に今、誰が来てるか知ってるのか?」
「いえ」
 申し訳なさそうにマルチが首を横に振る。「わたしはそう教えていただいただけで、誰が来てるかまでは聞いてません」
「そうか」
 オレはそう呟いてから志保を見て言った。「お前は? いつここに来て、いつ先輩に会って、どんなことを聞いた?」
「ちょっとちょっと。いっぺんに三つも質問しないでよ」
「ああ、わりぃ」
「いいわ、一つずつ教えたげる」
 ここで志保はいつもの『得意げに話すモード』に入った。「まず私がいつここに来たのかってことだけど、ちょうど4ヶ月前かしら。パトロナート山地の最北部、ビンゼの南の方の森の中にあたしはいた」
「パトロナート山地って?」
 あかりが聞く。
「ビンゼの南から、中央大湿原とエクサル湖の真ん中をさらに南に伸びる山地で、一つ一つの山は富士山より高いわ。そうね……小規模なアルプス山脈を想像してくれればいいわ」
「ふ〜ん」
 あかりが相槌を打つ。
 志保は相変わらず巧みにオレたちを話に引き込ませるように、声の調子を時々変えて語る。
「森の中で気が付いたあたしは、とりあえず北に向かった。正確には、北にしか行けなかった。そして、ビンゼに入ったあたしは、そこで先輩と松原さんに会ったわ」
「あ、葵ちゃんに!?」
 オレは思わぬところで出てきた名前に仰天した。「葵ちゃんは今、そのビンゼってところにいるのか?」
「ええ。それからは特に何もないわ。先輩も松原さんも何やら色々と大変そうだったけど、あたしは特にすることもなかったし、手伝いたいとも思わなかったから、こうしてぶらぶらと諸国を漫遊してるの」
「そうか……」
 オレは食事を取る手を少し休めた。
 三人を見ると、もはや難しい話は終わったかのように楽しそうに話している。
 とりあえずあかりもマルチも、先程までの疲れはなくなったようだ。
 オレはひとまずホッとした。
「志保」
 それから静かにオレは呼びかけた。
 本当は彼女たちの話に水を差したくはなかったが、これだけはどうしても確認しておかないと、オレの心が収まらない。
「どうしたの?」
 志保がオレの方をやや不愉快げに見た。どうやら話が丁度いい盛り上がりを見せたところだったようだ。
 オレはタイミングを誤ったかなと思いながら尋ねた。
「先輩が今何をしてるのか、どうしてオレたちがここにいるのか、志保は知らないか?」
 オレが多少真剣に言ったからか、志保はいつものオレを小馬鹿にする調子でではなく、やや真摯な面持ちでしばらく考えた後、
「そういうことは、あたしなんかより学者様と話した方がいいわね」
 そう言った。
「学者様?」
 あかりが訝しげに問う。
 志保はあかりのそんな様子に満足げに頷くと、
「そう、学者様よ」
 もう一度そう言って、すくりと立ち上がった。「じゃあ、とりあえず彼女のところへ行くとしましょう。どのみち今夜はそこに泊まるつもりだったしね」
 オレたちは志保に導かれるまま店を出た。