『 To Heart Fantasy 』 第3巻

 間話 攻める者 守る者

 ティーアハイム。
 かつて、ここフルースベルク半島最大の商業都市として知られたこの街は、今はひっそりと静まり返り、民人たちは息を潜めて、今また一つの新たな歴史を刻もうとしている時の流れを静観している。
 今からおよそ一年前に突如として勃発した戦争。今はまだそれと特定する固有名詞は存在しないが、人々はこの戦争を、驚愕と憎しみを込めて“デックヴォルトの乱心戦”と呼んでいる。
 この戦争によるティーアハイムの被害は計り知れない。
 死者の数は数千人にのぼり、町を統治していた七人のメルテはすべて戦死、焼け崩れた家屋は千数百戸に達し、一時はこのまま廃墟として放棄されるかのように思われた。
 ところがそれを、善王ハルデスクX世がわずか半年で、小規模ながら元通りに近い街に復興させる。
 ハルデスク王率いる一団がティーアハイムを落とすと、デックヴォルトの民がこぞってティーアハイムに流入、ハルデスクの指揮の元で懸命に街を復興した。
 生き延びたティーアハイムの民たちも、初めこそハルデスクを恨んだものの、人々の先頭に立ち、自分たちの街を復興しようと働く彼の姿に心を打たれて、やがては彼に協力するようになる。
 彼らとて、デックヴォルトの悲惨な状況を知らぬわけではなかった。そのことが、彼らの人として持ち合わせている心、同情心をくすぐったのだ。
 もちろん中には、いや、大半のティーアハイムの民が、その戦争で家や肉親を亡くし、ハルデスクとともにデックヴォルトの愚行を恨んだ。
 そういう者たちは、戦争終結と同時にビンゼやハイデル、ヴェルクに流れ、そこで第二の人生を始めた。静かに暮らす者、その街の軍隊に参加する者。人々の行き着いた先こそ違えど、心は同じだった。
 許すまじ、デックヴォルト。
 ティーアハイムから落ちのびた人々は、そうして今でも故郷を見つめ、侵略者たちの動きを睨み続けている。

 今、王城と呼ぶにはあまりにも貧弱な、小さな小屋のような王の屋敷の中に、国王ハルデスクと、その重臣たちが集まっていた。
 ちゃぶ台のような円卓につき、四人の重臣が王の言葉を静かに待っている。
 王はしばらくその四人の顔を眺めてから、やがて厳かに言葉を発した。
「皆のおかげでようやく街も落ち着きを取り戻し、人々の暮らしも安定してきたように思われる」
「はい」
 低い声で返事をしたのは、ファラカス・アイセルク。口元に無精髭を生やした中年の男で、王が最も信頼を置いている古参の軍師。その外見からは想像もつかぬ奇才の持ち主で、今回の街の復興計画も、そのほとんどすべてを彼が一人で作り上げている。
「初めはティーアハイムの民の中に不穏な動きが見られましたが、今ではそのようなこともすっかりなくなり、彼らも我らと一体となってこの街で穏やかに暮らしております」
 満足そうにファラカスが言うと、王は大きく頷いた。
「そこで、今日は以前から話していたビンゼの件だが……」
 王がそう言うと、四人の顔に緊張の色が走った。
「いよいよですか?」
 呟くようにそう言ったのは、ジェイバン・ムシューシャ。三十代半ばの将軍で、戦のときは常に軍の先頭に立ち、恐れることなく敵に斬りかかる。彼が剣を一振りすれば、たちどころに十の首が胴から離れようという伝説を生きながらにして持つ男で、半島最強の男として人々に知られている。
 そんなジェイバンの問いに頷いてから王が言った。
「そうだ。ようやく後方の愁いを断つことに成功したと、昨日彼が言ってきてな、これでもはや何も恐れることはなくなった」
「しかしながら、王」
 そう言って、ハルデスクに意見したのはウェレイク・ポアソン。まだ二十三と若いながら、抜群の兵の采配力を持ち、人柄もよく、最も民に慕われている将軍である。
「はっきりと申し上げて、私にはビンゼを攻めるのは無益に思えてなりません。王は以前、民がもっと平和に暮らせる土地を求めてとおっしゃいましたが、私には今のままで十分な気がします。もしどうしてもそのような土地を欲するのでしたら、グリューンの街を拡大した方がいいように思われます」
「それは無理だ、ウェレイク」
 と、ファラカス。「フラギールとグリューンは、元々痩せた土地。ましてあの時の干魃以来、民の暮らしは苦しくなる一方。かといって、ティーアハイムもまた、先の戦争で我々の予想を遥かに越える被害が出て、デックヴォルトの民をすべて収容するのは不可能。もはや、ビンゼを攻める他、我々に残された手はない」
「それは私もわかっています」
 興奮し、椅子から立ち上がってウェレイクが言う。「ですが今、ハイデルとヴェルクがこの街を虎視眈々と狙っています。我々がビンゼを攻めている間に襲われては一溜まりもありません。ビンゼとて一つの国。この街のときと同じだけの被害が出るのは必至かと」
「それは大丈夫だ」
 と、王。「ここは、彼がなんとかしてくれる。“あれ”さえも止める彼が自ら『大丈夫だ』と言っているのだ。何も気に病むことはない」
「……王は、少し彼を信じすぎてはいませんか?」
 王の言葉にウェレイクが不安げに瞳を揺らすと、王は、
「確かにそうかもしれん」
 と、深く頷いた。「だがワシらの誰一人として彼の素性を知る者はないが、少なくとも彼は今、我々に尽力してくれている。信じても問題はなかろう」
「……コツェア殿は? コツェア殿はどうお考えですか?」
 形勢不利と見て、ウェレイクがもう一人の重臣、天文士コツェアを見て言った。
 コツェアは深く目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げると、
「ワシはあやつは信じておらぬが、王は信じておる。王に助言はするが、すでにお決めになられた事項を反対はせぬ」
「コツェア殿……」
「もうよい、ウェレイク」
 がっくりと項垂れたウェレイクに、ハルデスクが穏和な笑みを向けた。「そなたの国を思う気持ちはよくわかった。だが、ここはワシを信じて協力してくれ」
「……わかりました」
 少し間を置いてからそう答えたウェレイクの顔には、わずかに不安の色がうかがえたが、彼はそれ以上何も言わなかった。

 一人自分の家に帰ってきたウェレイクに、ぱたぱたと駆けて近寄っていく少女がいた。ブロンドの髪を白いリボンでまとめて、底抜けに明るい笑みを浮かべている。
 肩には長弓がぶら下げられ、背中には矢筒がかけられていた。
「あれ? ウェレイク、元気ないネ。どうしたの?」
「ああ、レミィか……」
 地方訛の強いレミィの言葉を聞いて、ウェレイクが少し明るさを取り戻した。
 レミィはそのままウェレイクの許に駆け寄ると、彼を見上げた。
「オーサマに何か言われたの?」
「いや」
 心配そうに自分を見上げるレミィに、ウェレイクは苦笑した。そして少しだけ深刻そうに語る。
「あのな、レミィ。実は今度、ビンゼを攻めることになった」
「Oh! とうとうネ!」
 妙に嬉しそうにレミィ。「やっと、ハンティングできるヨ」
「おいおい」
 ウェレイクが苦笑する。「それでな、レミィ。お前はどうして王はビンゼに攻めるんだと思う?」
「ん〜。きっと、戦争がenjoymentなんだヨ。簡単なことネ」
「違うな。王はそんな方ではなかった」
「そうなの? だったら、どうして?」
「今度のビンゼ戦、恐らく王の本当の意向ではない。ビンゼ戦を本当に望んでいるのは……」
「……ノルオ?」
 顔に疑問符を浮かべながらレミィ。ウェレイクは大きく頷いた。
「恐らくは……。だが、彼の目的が何か、まったくわからない。もしかしたら、本当にデックヴォルトのために働いているのかも知れない」
 それからウェレイクはレミィに背を向け、空を見上げた。
 雲一つない青空を。
 ウェレイクはもう一度レミィの方を見て言った。
「だが、用心するにこしたことはない。レミィ、お前も勇敢なるデックヴォルトの一兵士として、真の正義を見誤らないようにな」
 レミィはそれを受けて、しばらく複雑そうに考え込んでいたが、やがていつものように元気に顔を上げて、
「わかったヨ」
 と、笑顔で言った。

  *  *  *

 夕暮れに真っ赤な空が、ビンゼの街を朱に染めていた。
 そんな中、葵は一人、城壁の上に立ち、遥か彼方のティーアハイムの空を見つめていた。
「アオイ隊長……アオイ隊長!」
 ふと下から自分を呼ぶ声がして、葵は城壁から下を見下ろした。
 見るとそこには、紅の鎧をつけた一人の若い青年兵士が自分を見上げて手を振っていた。
 葵は何だろうという顔をして、よいっと城壁から飛び降りた。
 そして地面に激突する少し手前で、「浮け浮け浮け」と、心の中で念じる。
 ふわりと葵は地面に降り立った。
 それからゆっくりと青年の顔を見て問う。
「何ですか?」
 それは一部隊の部隊長に相応しい態度と声だった。
「はい。メイリア王女とカーゼック将軍がお呼びです。なんでも、デックヴォルトのことで話があるとか……」
「そうですか。わかりました」
 葵はにこりと微笑んだ。「ご苦労様でした」
 そう言うと、葵は城の方へ歩いていった。
 青年に背を向けてからの葵の顔は、先程までの凛々しいものではなく、年相応の可愛らしい顔に、わずかな不安の色をよぎらせていた。
(はぁ……。来栖川先輩、藤田先輩はいつになったら来てくれるんですか?)
 葵は心の中で深くため息をついた。
(私、一人で寂しいです。早く来て下さい、藤田先輩)
 葵は一度がっくりと肩を落とすと、再び顔を上げた。
 城の中に入ってからの葵の顔は、隊長らしい凛々しいものに戻っていた。