『 To Heart Fantasy 』 第1巻

 プロローグ

『ツァイト ツァイト ヴェルテ プレイテ……
 遥か遠きに生まれし者よ
 我が喚び声に応えて集え
 光を闇に 闇を光に
 あらゆるものを無へと帰し
 無より生まれて 時を越え……』

 その薄暗い部屋に、厳かに、朗々とした七人の男の声が、静かに、力強く響いている。外の喧騒もここには届かない。
 悲鳴、剣戟、怒号……何も届かない。
 床に描かれた直径5ヤードほどの魔法陣は、六芒星を基調とした複雑な模様を描き、淡いオレンジの光を放っている。六つの角にはそれぞれ1ヤードほどの円が描かれていて、小さな銀の燭台の上に蝋燭が立てられ、炎が風もないのにゆらゆらと揺らめいている。
 六人の男がそれぞれその円の中に入って、目を閉じて呪文を詠唱している。額にはうっすらと汗が滲み、眉根にはしわが寄り、厳しい表情には事の深刻さが呈している。

『ツァイト ツァイト ホルク ミヒルテ……
 救い給え 大いなる者よ
 我らを明るき未来に導き給え
 眼前の脅威を祓い
 後方の愁いを断ちて
 勝利を 我らに希望の光を……』

 魔法陣の中央に立つ彼らの中で最も年老いた男が、凝力石と呼ばれる石の埋め込まれた木製の杖を振り上げた。石は淡い緑の光を放っている。
 突然、どこからともなく一陣の風が吹いた。風は強く蝋燭の炎を揺らし、消し去った。
 その途端、魔法陣の光が急速に失われ、やがて部屋は闇に包まれる。
 うっすらと輝く凝力石の光が、蝋燭から立ち上る白い煙を照らし出した。
 七人の顔には疲労の色が濃く窺える。しかしどの顔にも、役目を終え、やり遂げ、満足した穏和な笑みがあった。
 その時、不意に入り口の扉が勢いよく開かれて、外の強い光とともに、数人の男が雪崩れ込んでいた。全員手に鉄剣を持ち、厚い硬質の皮の鎧を着た兵士である。
「ここまでです、メルテ殿」
 その内の一人が、粛々とした口調で言った。メルテとは名前ではなく、彼ら七人の役職である。
 男は剣を強く握ると、ゆっくりと、疲れ切り床に座り込んだ男たちに近付いていった。
 他の兵士たちは、まるで入り口を塞ぐかのようにしてそこに立ったまま動かない。
 男とともに、死がゆっくりと訪れる。しかし、七人の顔に恐怖はなかった。
「デックヴォルトの王に伝えよ」
 きっと男を見据えて、中央の老人がその歳からは考えられぬほど若い、威厳ある声で言った。「お前の為さんとしていることは、デックヴォルトに平和をもたらしたりはしない。後にあるのは滅び、ただそれだけだと……」
「しかと聞き遂げた……」
 男の剣が振り下ろされた。
 魔法陣の上に、ねっとりと血が広がった。

  *  *  *

 奇しくも、世界も次元も異なった青い惑星で、数百年後のその日その時その瞬間、彼らの言葉を唱える者があった。
 ひっそりと静まり返る夜の校舎。そのクラブハウスの一室から、微かな灯りが廊下に洩れている。
 中にいるのは長い黒髪の少女。物語に出てくる悪い魔術師のはおるような漆黒のマントをつけ、手には赤茶けた革表紙の本を持っている。
“ジェリスの魔術書”
 明らかに日本語ではない文字でそう書かれたそれを、しかし彼女は読むことが出来た。

『ツァイト ツァイト デルテ ヴェイアス……
 冥府の果てに眠りし者よ
 目覚め そして羽撃きなさい
 忌まわしきものはもはや解かれた
 そなたを呪いし者は死に
 再び自由と 命の熱を……』

 少女の名は来栖川芹香。この高校に通うオカルトマニアのお嬢様。
 床には白いチョークで描かれた魔法陣。この手のものは大抵、その形状のみが効果を左右し、描く材質は関与しない。
 丁寧に並べられた蝋燭は、不思議と火がついていない。唯一、魔法陣の中央に置かれた一本だけが、明るい光を煌々と放っている。

『ツァイト ツァイト クレク プレイテ……
 来たれ 我が許へ
 そなたのその雄々しき姿をここに現せ……』

 “それ”の力が部屋を満たした。
 空気が膨張して、窓ガラスがきしきしと悲鳴を上げている。
 棚と机はカタカタと震え、物は倒れて床に落ちた。
 芹香は目を閉じたまま、落ち着いて詠唱を続けている。これが一時のことで、直に収まることを知っていたから。
 やがて、部屋の一角に闇を凝固したような球が出現して、バチバチと電気を帯びた。黒い表面に、時折白い電撃の筋が入る。
 それはゆっくりと浮かび上がって天井に達した。
 芹香は目を開いた。そして……。
 そして、球が天井を貫いてなお浮上するのを見た。
「…………」
 少しだけ、芹香の眉根にしわが寄った。瞳は不安の色に曇っている。
 揺れは収まらない。
 球は天井に穴を開け、屋上を貫通し、空高くに達すると、ようやく浮上するのをやめた。部屋にあったときと、見た目の大きさが変わっていない。つまり、今は飛行機ほどの大きさがあるのではないだろうか。
 揺れは部屋から学校へ、そしてついには街全体に伝わった。
 芹香は揺れに堪えきれず、床にがくりと膝をついた。
 それでも必死に顔を上げると、窓の外で、月を背景に黒い球が暗雲を取り巻いて怪しげに光っているのが見えた。
「…………」
 術は失敗した。原因は不明。ただ一つわかること。それは、自分でもこの先どうなるかわからないということ。
 黒い球は薄く広く伸び、さながら何かのゲートのように空一面に広がった。

 ……救い給え、大いなる者よ……

 不意に、芹香の頭の中で何者かの声がした。そして、自分の身体が霧のように薄れていくのを見た。
 芹香の心を恐怖が満たした。
 動揺する心。様々な思考が交差して、まとまらない。
 そんな中ただ一つだけ、しっかとした形をとった想いがあった。
「…………」
 助けて、浩之さん……。
 ふっと、芹香の身体がかき消えた。

  *  *  *

 突然の寒さにオレは目を覚ました。
「な、何だここは!!?」
 目を開けるといきなりオレの目の中に雪が入り込んできて、オレは思わず目を閉じた。
 ごうごうと吹雪いている。
 オレは素足で雪の上に立っていた。早速指先が痛くなり、次の瞬間には、もう感覚が麻痺して何も感じなくなった。
 オレはとりあえず状況を確認した。
 確か昨日はあかりの奴が遊びに来て、7時頃帰っていった。
 オレは11時にベッドに入って……。
 素足にパジャマ、そう、この格好でだ。
 そして今、ここは部屋ではない。
 吹雪の山の中。
「ど、どうなってやがるんだよ!!」
 情けないが、オレは叫ぶことしかできなかった。
 身体は雪が付着して、もう動かない。
 オレはゆっくりと倒れた。
 死……。
 妙にその一文字が現実味を帯びた。
 後のことは覚えていない……。

「第1部……完」
 意味不明なことを呟きながら、オレは目を覚ました。
 温かい布団の中に、オレはいる。
 そうか、あれは夢だったんだ。オレは生きている。
「ああ、気がついたんかい」
 そう言って部屋の中に入ってきたおばさんに、オレは笑顔で言った。
「ああ。おはようございます」
 部屋の真ん中には囲炉裏があって、火が焚いてある。
 片隅には薪が積まれ、壁には弓がかかっていた。
 どう見ても、オレの部屋じゃない……。
「呑気なもんだねぇ」
 少し感心した口調でおばさんが言った。「わたしが偶然見つけなかったら、あんた山ん中で死んでたところだよ」
「……えっ?」
「えっ? じゃないよ。それよりもあんた、どうしてあんなところにいたんだい?」
「どうして……って言われても、オレが聞きたいくらいだよ」
 オレはマジで言った。「とりあえず助けてくれてサンキュな。オレは藤田浩之。おばさんは?」
「フジタ・ヒロユキ? 変な名前だね」
 おばさんが不可解そうな顔をした。「わたしはアイネ。どうやらあんた、本当に何も知らなさそうだね」
「ああ」
 オレがぶっきらぼうに答えると、おばさんはやれやれと腰に手を当てて話し始めた。
「ここは雪と氷の街セイラスより遥か北、人も寄りつかぬ不毛の雪山。もちろん地名なんてのはありゃしない。セイラスまでは、犬ぞりを走らせて約3日かかる。ところでお前さん、ラーオイという娘を知ってるかね?」
 突然そう言われて、オレは驚きながらも首を横に振った。
 知るわけがない。
「そうかね……」
 おばさんは懐かしそうに顔をゆがめた。「今から1年くらい前になるかな、丁度お前さんのように突然やってきた女の子がおってな。青い髪の元気な娘だった。マツバ・ラーオイといったかな、その娘……」
「葵ちゃん!?」
 オレは再び驚いた。「ごめんおばさん。オレ、その娘のこと知ってる」
「ほお、やはりそうかね」
「ああ。それで、よければその娘のことを聞かせてくれないか」
 オレは必死だった。
 葵ちゃんもこの世界にいる。
 嬉しいことであり、また一体オレの身に何が起きたのかを知る、唯一の手がかりでもあった。
「大したことはわたしも知らんよ」
 おばさんが言った。「お前さんみたいに、いや、お前さんよりはだいぶ立派に、自分の足でここまでやってきて、それからセイラスに行きたいと言うんで、送ってやった」
「そうか……」
 とりあえず、オレもセイラスに行くしかないようだ。
 何が起きたかはわからないが、ただ再び何かが起きるのを待っているほどオレは気長でもないし、突然の運命に諦めるほど宗教家でもない。悲観的にはなりたくない。
「おばさん、オレも……」
 オレが言いかけたとき、不意に入り口の戸が開いた。
「す、すいません……」
 そこに立っていたのは、真紅の髪を黄色いリボンでとめた少女。
 髪の色は違うが見間違うはずがない。間違いなく、うちの制服を着たあかりだった。
「あっ、ひ、浩之ちゃん!」
 そう言うと、あかりはおばさんには目もくれず、オレのところにまっしぐらに駆け寄ると、そのままオレに抱きついてきた。「うう……浩之ちゃん、浩之ちゃ〜ん……」
「お前さんの知り合いかね?」
 にやにやとおばさん。
「あ、ああ」
 オレはとりあえずあかりを落ち着かせた。
「わ、私、浩之ちゃんの家に行こうとして、そ、それで……」
「わかったから少し落ち着け。もう大丈夫だから」
「う、うん……」
 あかりはようやく落ち着いたようで、オレから離れると、にっこりとオレの顔を見上げた。
 安心。
 その二文字が顔中に書かれていて、オレは嬉しい反面、不安だった。
 何故って、オレが安心ではないのだから、あかりを安心させられるはずがない……。
「とりあえず二人とも、これでも食べなさい」
 オレたちの感動の再会を横目に、おばさんだけが一人冷静に、いい匂いのする温かい鍋を出してくれた。
 オレたちはとりあえず腹ごしらえをすることにした。

 セイラスへの出発は翌朝まで見送られた。
 オレたちは、毛布が一枚しかないというので二人でそれにくるまって、朝を迎えた。一応注釈をつけるが、隣でおばさんが寝ていたので、その夜は何もなかった。
 翌朝は昨日の吹雪が嘘のように晴れ渡り、雪が陽光に照らされてキラキラと輝いていた。
「綺麗……」
 うっとりとした瞳であかりが呟く。
 地球温暖化に伴い雪の量は減ってきたが、それでも雪は降る。しかし、このような大自然の雪は、日本にいては一生見ることが出来なかっただろう。
 ちなみに今オレたちは、おばさんからもらった服を着ている。オレのパジャマの方がよほど高級に見えるようなボロだったが、この世界ではこちらの方がいいということだった。
「ヒロユキ、だったかな?」
 セイラスの手前で、おばさんがオレを呼び止めた。
「何だ?」
「お前にこれをやろう」
 そう言っておばさんがオレに渡したものは、一振りの剣だった。
 ド素人目に見ても、高級品といった感じの代物だ。しかもあまり重くない。
 鞘から剣を抜いてみると、刀身がわずかに光っていた。いかにもという感じだ。
「何もなしでは心許ない。なに、返してくれとはいわんよ。お前さんは必ずこの世界を変える。その褒美の前払いだと思え」
「……あ、ああ」
 オレは剣を鞘に納め、腰に佩いた。「ありがとさん。オレはおばさんの思ってるほど大した男じゃないが、まあやれるだけやってみるよ……なんて、この世界がどうなってるかも知らないがな」
「ふふ、わたしは元々お前さんを大した男だなんて思ってないよ」
 オレは思わずずっこけそうになった。
 おばさんはにんまりとして言った。
「ただお前さんは運がいい。あの雪山で一命を取りとめた時点で、お前さんにはやらなくてはならないことと、やり遂げられること、そしてやり遂げられずに終わることが決まったんだよ」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんさ」
 おばさんは笑った。どこか悲しげな笑みだった。「さあ、行ってこい。その目で世界を見てこい。そして自ら運命を見つけだし、やり遂げよ。命を粗末にしてはいけない。しかし、時には命を投げ打ってでも為すべきこともあるだろう。それを見極めよ。逃げることを躊躇ってはいけない。逃げることもまた一つの勇気だということを忘れるな。そして、自分の本当に大切なものを忘れるな。それは何もこの世界でなくてもいい」
 おばさんは今までとは打って変わった真摯な眼差しでオレたち二人を見据えた。
 オレたちはその威勢に気圧され、黙って聞いている。
 おばさんはそんなオレたちを見て、声を和らげた。
「大切なものはその娘だっていいんだよ。他人のために自分が犠牲になることはない。たとえ多くの人に恨まれようとな。わたしの亭主のようにだけはなってほしくない……」
 オレたちは一度顔を見合わせたが、何も言わなかった。
 ただ力強く頷き合って、おばさんに別れを告げた。
「じゃあ行ってくる!」
「行ってきます」
 オレたちは犬ぞりを離れて、歩き出した。
「がんばるんだよ」
 背後から、そうおばさんの激励が聞こえてきた。
 オレたちは二人、雪の上に、確実にその足跡を刻んでいった。