『 To Heart Fantasy 』 第4巻

 第9話 脅威再び

  1

 もはや、翌朝まで待つ時間はないと、オレたち四人は城を出た。
 琴音ちゃんはこれから起こるであろう戦闘に大いに尽力してくれそうだったが、あまりにも肉体的ダメージが大きかったために、とりあえず眠ったまま将軍の許に置いてきた。
 あの子のことだから、本人の希望通りにしたらついてくるに違いない。それはまずい。
 街はすでに夜のとばりが降り、ひっそりと静まり返っていた。オレは剣に巻いていた布を取り、それを腰に帯びた。
 アイネおばさんからもらった魔法の剣。オレはこの剣で人を殺した。
 本音を言えばもう二度とこれを振りたくはなかったが、相手は人間ではないと自分に何度も言い聞かせて、オレは再びこれを抜く決意を固めた。
 生暖かい風が、鼻につく異臭を運んで吹いていた。
 まるで街全体が腐りかけているようで、オレは吐き気を覚えた。
 オレの後ろをヴェルクから一緒の三人がついてくる。
 まずは委員長。さすがに志保よりも集中力があるらしく、何も言わずに魔法の光を灯して歩いている。日頃はそんなに話す仲でもないが、今は誰よりも頼りになる仲間だった。
 そして綾香。日本にいたときは、一言か二言しか話したことのない仲だったが、ここに来て随分仲良くなった。戦闘における実力のほどは今更言うまでもなく、正直な話、オレは自分以上に彼女に期待していた。
 最後は……もちろん言うまでもなく……。
 ちらりと横目であかりを見ると、あかりは無表情で歩いていた。まったく思考が読めない。
 オレはどうしてもあかりには城に残って欲しかったが、言っても返ってくる言葉がわかっていたので、敢えて城でも何も言わなかった。
 とにかく、あかりは守ろう。
 オレたちは黙々と歩いた。

 それから幾分も経たない内に、目の前で数人の人だかりが見えた。
 初めは陰になっていてよく見えなかったが、近寄ってみると、人の姿をはっきりと認識することができた。
 15、6歳の女の子が一人、数人の酔っぱらいに絡まれていた。
「おい、何してんだ?」
 オレたちが駆け寄ると、酔っぱらいどもは濁った目でオレの方を見た。
 女の子は、意外にも特に怖がった様子もなく、無表情で立っていた。
「何してるんだと聞いてるんだ」
 もう一度オレが言うと、酔っぱらいどもはふらふらとオレを取り囲んで、
「うるせぇ」
 と、呂律の回らぬ声で怒鳴りつけてきた。「よく見りゃ、てめぇ、可愛い娘つれてんなぁ。オレたちが可愛がってやるよ」
「そうだそうだ。どうせもうオレたちもこの国も長くねぇ。お前たちも男も知らずに死にたくないだろぅ?」
 口々にそう言って、酔っぱらいどもは下品な笑い声を上げた。
 隣で綾香がやる気満々に拳を打ち合わせていたが、オレはこんなところで無駄な体力を使いたくなかったので剣を抜いた。
 途端にパァッと光が零れる。
 男たちの顔に驚きと恐怖の色が走った。
「そんなに死にたいなら殺してやる。何も待たなくてもいいんだぜ」
 できるだけ冷ややかにオレは言った。
 酔っぱらいどもは一度互いに顔を見合わすと、我先にと逃げていった。
「情けない奴らね」
 残念そうに綾香が言う。オレは思わず苦笑した。
 それからオレは、女の子の方を見た。
「大丈夫だったか?」
 女の子はオレの剣を見つめて立っていた。
 よくわからなかったが、どうやら身体は無事そうだった。
「こんなところにこんな時間に、女の子が一人でいたら危ないぜ」
 と、オレは言おうとしたが、それよりも早く女の子が口を開いた。
「その剣、ひょっとしてアイネのもの?」
 思っていたより低い声だった。それにまるでどこぞの国の我が儘なお姫さまのような生意気な口調にオレは驚かされたが、それよりも内容の方がずっと意外だった。
「あ、ああ……」
 どうしてこの娘がそんなことを知っているのか、不思議でならなかった。
 左隣では委員長が、オレと同じように驚いた顔で立っていた。けれども委員長は、女の子の発言に対してではなく、この剣がアイネのものであるということに驚いているようだった。
「なあ、どうしてそんなことを……」
 という台詞も、最後まで言うことができなかった。
 ズブリという音とともに、筋肉の引きちぎれる音が自分の腹からして、オレは腹を見下ろした。
 女の子の白い腕がオレの腹に、肘の辺りまで埋まっていた。
「な、何だ?」
 呆けたように呟いて、オレは凄まじい痛みに襲われた。
 全身から汗が噴き出す。
 目の前でゆっくりとその腕が引き抜かれた。
「そうか……やはりアイネの剣か……」
 女の子の腕は、オレの血と体液で真っ赤にぎらついていた。
 腕が抜かれると、オレの腹から真っ赤な鮮血が吹き出した。
 女の子はその腕をぺろりと舐めて、口もとを血に染めた。
 オレはがくりと膝を折り、そのまま地面に倒れた。
「ひ、浩之ちゃん!!」
 あかりの悲鳴が、はっきりと聞こえた。
「浩之!!」
「藤田君!!」
 綾香と委員長の声。
 オレは強く剣を握った。

  2

「浩之ちゃん……浩之ちゃん!!」
 あかりが目に涙をいっぱい浮かべて、大きな声でオレの名前を何度も何度も叫ぶように呼びながら、オレの身体をしがみつくように抱きしめた。
 綾香もオレの名を呼び、手を強く握って嗚咽している。
 委員長はそんなオレたちをかばうようにして立ち、女の子……“それ”と対峙していた。
「あんたが……ヌイゼンジーアかいな」
 “それ”はにやりと笑った。
「そうだが……。それよりも、その剣を見る限り、アイネとウィルシャは健在のようだな」
 ウィルシャ?
 ウィルシャって、確か古代魔法の名の……。
「まさか。一体あれから何年経ってると思ってんねん。ウィルシャ王はとうの昔にお亡くなりや」
「なら、その剣は一体どこで手に入れたんだ? この私を傷つけ、死の際にまで追いやったその剣を!」
 何?
 ってことは、アイネおばさんはひょっとして、勇者ディクラックの仲間なのか?
「浩之ちゃん! 浩之ちゃん!!」
 あかりが泣いている。
「そんなこと、うちが聞きたいくらいや」
 委員長が言った。「うちかて、なんで藤田君がアイネの剣を持ってるのか、不思議なんや」
「ふん」
 “それ”は鼻で笑った。嫌みな奴だ。
「まあいい。とにかく剣の主は死んだ。そして、お前たちも、な!」
 突然、“それ”の手から数本の矢が放たれた。
 しかし、委員長もそれに素早く反応して、すでに魔法を放っていた。
「火!」
 ぼうっと矢が燃えて落ちる。
「そ、それはウィルシャの魔法!」
「そや。驚いたやろ?」
 委員長は得意げにそう言ったが、よく見ると足がわずかに震えていた。
 それとは対照的に、“それ”は悠然と笑っている。
「まあいい。力の差は歴然としている」
 ゴウッっと空気が泣いて、おもむろに委員長の身体が吹き飛んだ。
「きゃっ!」
 そのまま地面に叩きつけられる委員長。
 笑いながらゆっくりとオレたちの方に近付いてくる“それ”の前に、綾香が立ちはだかった。
「死ね」
 “それ”が片手を上げる。
 それより速く、綾香は動いていた。
 素早く“それ”の懐に潜り込むと、“それ”の腹に強力な拳打をお見舞いする。
 まともに入った!
 けれども“それ”は、ゆっくりと綾香の腕を取って、
「効かないなぁ」
 と、その腕をねじった。
「あうっ」
 そこに魔法が飛ぶ。
 委員長だ。
 火の魔法は“それ”を直撃した。
 けれども“それ”はまるで動じない。そのまま綾香の腕を一回転、さらに一回転とねじり……。
 ゴキッと、綾香の肩が鈍い音を立てた。
「あうっ!」
 綾香の顔に苦痛の色が走る。
 それでも“それ”は手を緩めない。
「なめるんやないで!」
 ふらりと立ち上がって、委員長が神経を研ぎ澄ます。
 途端に、ふっと綾香の姿が消えて、見ると綾香は委員長の足元に倒れていた。
「異な事を」
 “それ”は笑い、ゆっくりと、オレとあかりの方に近付いてきた。
「い、いや……」
 あかりは完全に怯え、しかしそれでも逃げようとせず、ぎゅっとオレの身体を抱きしめた。「こ、来ないで……」
 消え入りそうな声。
 あかりの震えが身体から直接オレの中に伝わってきた。
「お前は楽しませてくれないのか」
 残念そうに“それ”は言ってあかりの前に立ち、不敵な笑みを浮かべてあかりを見下ろした。
 あかりはぼろぼろと涙を零しながら、まったく動けずにただ震えている。
「か、神岸はん! 逃げろ!!」
 委員長の叫び声。
 あかりは動けない。
「弱いというのは不憫だな」
 “それ”はゆっくりと右腕を上げた。
 あかりは固く目を閉じて、オレを放さない。
「死ね」
 ビュンと“それ”の腕が風を切って……。
「い、いやぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
 オレの目の前で真っ赤な鮮血がしぶき上がった。

  3

 オレは泣き叫ぶあかりを突き飛ばし、“それ”の右腕を斬り飛ばして素早く立ち上がった。
「うくっ!」
 “それ”は左手で右肩を押さえて二、三歩よろけた。
「ひ、浩之ちゃん?」
「浩之?」
 事情を知らない二人がぽかんと間抜け面でオレを見上げていた。
 オレは間髪入れずに“それ”に斬りかかった。
 ここで余裕をかませるほどオレは強くもないし、劇的な情景も求めない。
 オレの二撃目が、それの胸元を斬り裂いた。
 服が破れ、はだけた“それ”の身体は人間の女の子と何ら変わりなく、オレは妙な罪悪感に捕らわれた。
 それでも気を取り直して三撃目を放つ。
 “それ”はまだ体勢を立て直せず、何とか後ろに躱したようだったが、剣の魔力による真空波は躱せなかった。
 両脚の太股がざっくりとえぐれて、“それ”は「うっ!」と苦しげな声を洩らした。
 それが妙に普通の女の子っぽくて、オレは地面に仰向けに倒れた“それ”の前で剣を振り上げたまま、一瞬ためらった。
「ご、ごめんなさい……もう、許して下さい……」
 “それ”は目を涙で潤ませて、半身を起こした。
 全身血だらけで、右腕を失い、悲しそうな顔で泣いている“それ”を見て、オレはどうしても剣を振り下ろせなかった。
「いかん、藤田君! 殺るんや!」
 しかし、すでに遅かった。半身を起こした時点で、“それ”の攻撃準備は整っていたのだ。
「死ね!」
 それの魔法が、オレの身体を吹き飛ばし、オレはごろごろと地面を転がった。
「おっと」
 そのオレの身体を委員長が受け止める。
 その時、オレは自分が剣を持っていないことに気が付いて愕然となった。
 顔を上げると、“それ”がオレの剣を手にしてオレたち四人を見下ろしていた。
「どんな魔法を使ったのかは知らないが、これならどうだ?」
 冷ややかにそう言うと、“それ”はその剣を無茶苦茶に薙いだ。
 同時に無数の真空波がオレたちを襲う。
「う、うわぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
「きゃあぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
 オレの身体中を激痛が走った。
 真空波は止まない。
 オレは地面に俯せに倒れたまま、重たい頭を上げた。
 目の前で綾香が倒れていた。
 左足の太股がざっくりとえぐられていて、そこから血がどくどくと溢れ出ていた。意識はあるようで、時々苦しそうな声を洩らしている。
 足元では眼鏡の割れる音がして、「うっ!」と委員長の呻く声がした。
 そしてオレの右の方ではあかりの奴がなす術なく、頬や背中や肩から血を流して倒れていた。
「ひ、浩之ちゃん……」
 あかりはオレと目が合うと、苦しそうにオレの名を呼んだ。
 そんなあかりの背中に“それ”の一撃が入り、あかりは大きく一度身体を弓なりに反らすと、そのままぐったりと地面に横たわった。
「あ、あかりっ!!」
 オレは無我夢中で起き上がり、“それ”につかみかかった。
 “それ”はぜぇぜぇと肩で息をして立っていた。
 先程の右腕への一撃が、さすがに堪えているようだった。
 オレは“それ”の左腕をつかみ、剣の柄を握った。
「わ、渡すか!」
 “それ”がオレの手を振りほどこうとする。
 けれども右腕がないのでなかなかうまくいかないようだ。
 オレは剣を強く引っ張った。
「えっ?」
 その時剣は、予想以上に呆気なくオレの手に渡り、オレは勢い余ってふらついた。
 そんなオレの足を“それ”が巧妙に払う。
 オレは地面に倒れた。そしてオレの腹を“それ”が踏みつけて……。
「うぐぁぁぁっ!」
 初めの一撃を受けた部分を、“それ”の足が貫いた。
「ふふふ……はーははははっ!」
 “それ”は哄笑して、ズブリと足を抜いた。
「ぐふっ」
 オレは血を吐き、剣を落としてのたうち回った。
「終わったな。アイネの剣の所持者よ」
 “それ”は蔑んだ目でオレを見下ろし、足元の剣を拾った。
 そしてそれをゆっくりと振り上げる。
 終わった……。
 オレが絶望したその時、
「何言ってんの?」
 と、聞き覚えのある声がした。「全然終わってないわよ、ヌイゼンジーアちゃん。これからが勝負じゃない」
 夜闇に立つ少女、それは確かにビンゼに旅立った志保だった。

  4

「まだ、雑魚が一匹残っていたか」
 “それ”は余裕な笑みを浮かべて志保の方を振り返った。
 それに負けるとも劣らぬ顔で、志保が嘲りの言葉を洩らす。
「かつての魔王も、そんな身体じゃ、この志保ちゃんを倒すのは不可能ね」
「ほざけ!」
 “それ”は大きく剣を振った。同時に志保の方へ走り出す。
 けれど、明らかにそのスピードが遅くなっていた。
 志保は一撃目の真空波を軽く躱すと、もう一度元の位置に戻った。
 そこに“それ”が斬りかかる。
 と。
 雷のように電気の筋がバチバチと“それ”の身体を走り、“それ”は敢えなく弾き返された。
「うぐっ!」
 剣がカランと音を立てて地面を跳ね、“それ”はがくりと膝を折った。
 身体中から黒い煙が立ち上っている。
 志保の足元を見ると、六つの小さな石が等間隔に並んで円を描いていて、それを頂点に魔法陣が描かれていた。
「これがジェリス系魔術。もっとも、あなたは知らないでしょうけどね」
 志保はにやにやと笑いながら、その場で腕を振り上げた。「死になさい!」
 これが一番イメージしやすいのか、大きな炎が“それ”を襲う。
 “それ”にはもはやそれを避けるだけの体力が残っていなかった。
「あぐっ」
 まともに炎を食らって、“それ”は前のめりに地面に倒れた。
 そこをさらに数発の魔法が炸裂し、“それ”は動きを止めた。
「や、やったか……?」
 呆然とオレが呟く。
「いや、まさか……」
 と、委員長。
「どうやら、終わったみたいね」
 これは殊勲賞、無傷の志保。
「や……」
「やったぁぁっ!!」
 オレたちの声が重なった。
 オレたちは最後の力を振り絞って立ち上がり、互いに駆け寄った。
 オレがあかりの許へ。委員長と綾香がオレの許へ。
 そして志保がオレの許へ。
 その志保の身体が突然ぐらついて、そのまま前のめりに地面に倒れた。
「えっ?」
 少しずつ、志保の身体から流れる血が地面を染めていく。
 背中に、オレの斬り落とした“それ”の右腕が突き刺さっていた。
「奥の手は、最後までとっておくものだよ」
 苦しそうにそう言って、“それ”は立ち上がった。
「そ、そんな……」
 意識を取り戻したあかりと四人で恐怖に項垂れるオレたち。
 こういう展開は好きじゃない。まして、負ける方へと。
 “それ”は右腕をつなぎ合わせると、凍り付くような冷めた怒りの表情でオレたちの方に近付いてきた。
 ここでやられるわけにはいかない。
 例の箱のせいかどうかは知らないが、オレの身体には、立ち上がるだけの力が戻っていた。
 オレは立ち上がり、毅然と“それ”を睨め付けた。
「お前も、奥の手でもあるのか?」
 “それ”は冷ややかに笑った。
「まあな」
 オレはそう答えた。
「ほざけ」
 “それ”はオレを嘲笑して、再び剣を拾った。
 それがやはり“それ”の余裕であり、油断であった。
 “それ”はオレが奥の手を持っていないことを信じていた。その可能性すらも考えていなかった。
 だから、背後に忍び寄った影に気が付くことはなかった。
 剣を拾い上げ、再びオレたちの方を向き直った“それ”の胸から、月明かりを浴びて輝く剣の切っ先が伸びているのを、オレたちは見た。
「ここまでくるとほとんど数の暴力ですが、初めから戦っていたら到底勝てたとは思えません」
 まだ幼さの残る声でそう言ったのは、恐らく志保と一緒に来ていたのであろう、この世界に来てから初めて見る松原葵ちゃん、その人に間違いなかった。

  5

 ズブリと葵ちゃんが剣を抜くと、“それ”はぐらりと身体をふらつかせて、凄まじい形相で葵ちゃんの方を振り返った。
 胸からは真っ赤な鮮血がどくどくと溢れ出ている。
 葵ちゃんはそんな“それ”の首もとを狙って剣を振り下ろした。
 ガキッ。
 鈍い音を立てて、“それ”の持つアイネの剣が葵ちゃんの一撃を受け止める。
 その時に走った剣の魔力で、葵ちゃんの額が切れて、一筋の赤い線が走った。
 葵ちゃんは素早く剣を切り返し、今度は胸を突きにいく。
「鬱陶しい!!」
 “それ”は思い切りその剣をはたきにいった。
 剣と剣がぶつかる直前で、スッと葵ちゃんの剣が引かれた。
「フェイント!?」
 オレの予想は的中し、葵ちゃんはすぐに引いた剣を繰り出そうとしたが、そうすることはできなかった。
 今の“それ”の一撃で走った真空波が、葵ちゃんの身体を斬り裂いたのだ。
「うっ!」
 服が破れ、葵ちゃんの右胸から血が迸る。
 それでも葵ちゃんは渾身の力を込めて剣を振り上げた。
「くっ!」
 ガキン、という音とともに、“それ”の剣が宙を舞った。
 その剣はずさりとオレの足元に突き刺さる。
 オレはその剣を取り、強く握った。
 その間にも、葵ちゃんと“それ”の攻防は続いていた。
 “それ”の魔法が葵ちゃんの剣を落とすが、元々体術の方が得意な葵ちゃんはまるで動じず、“それ”の胸と腹に一撃ずつ加えた。
 “それ”は口から血を吐きながら、それでも必死に地面を踏み締め、葵ちゃんの腕をつかむ。
 いけない! 綾香の時と同じだ。
 オレはすぐに走り出そうとしたが、身体が思うように動かなかった。
 けれど葵ちゃんはオレの心配を余所に、“それ”にローキックをたたき込むと、空いている左手で、“それ”の顔面を殴りつけた。
 “それ”は思わず葵ちゃんの腕を放し、地面に倒れそうになる。
「今だ! お願いします、藤田さん!」
 そう叫び、葵ちゃんは“それ”の身体を思い切り蹴り飛ばした。
 そしてこっちに吹っ飛んでくる“それ”の身体目がけてオレは剣を突き立てる。
「わ、私は魔族の王だ。舐めるな!!」
 “それ”は絶叫し、オレの直前でぐっと踏みとどまった。
「ええいっ!」
 そこに、さらに葵ちゃんの一撃。
 しかしそれさえも“それ”は堪え、逆に葵ちゃんの首をつかんだ。
「いい加減にしろ!!」
 “それ”は掌に力を込め、葵ちゃんは苦しそうに両手で“それ”の腕をつかんだ。
「ま、松原はんを放せぃ!」
 そこに委員長の一撃が加わって、不意打ちに“それ”の身体がぐらつく。
 この時を逃す葵ちゃんではない。
 すぐに手を振りほどき……。
 逃げようとせず、葵ちゃんは“それ”の身体を両腕で封じた。
「今です、藤田さん! 早く!!」
「おおっ!」
 動けない“それ”に向かってオレは走り、貫かない程度にその剣を“それ”の身体に埋めた。
「ぐふっ」
 “それ”の吐いた血がオレの顔にかかった。
 “それ”は苦しげな顔をして、その後でオレの方を見てにやりと笑った。
「お、お前たちも道連れだ」
 “それ”の右腕が、再びオレの腹を貫いた。
 さらに“それ”はオレの身体を抱きかかえ込み、ぐっと自分の胸元へ引き寄せる。
「な、何ぃ……」
 オレはこの時、異常なまでの“それ”の精神力に感服した。
 オレの剣が“それ”の身体に鍔もとまで埋まり、そのまま葵ちゃんの腹部を貫いた。

  6

 オレたちは三人、力なく地面に倒れた。
「はぁ……はぁ……」
 オレと“それ”の荒い息遣いがする。
 葵ちゃんは自分の腹を抑えて苦しそうに喘いでいる。
 人間には致命的なダメージだった。放っておいたら、恐らく命はないだろう。
 周りの人間たちも、志保を初め皆、致命的なダメージを受けて倒れている。
 今この場で動ける可能性のあるのは、元々人間ではない“それ”と、シュロスの箱のおかげで命を失ったオレの二人だけだった。
 すなわち、ここで立ち上がった方が、この戦いを制す。
 しかし“それ”もオレも、もはやまったく力が残っていなかった。
 いくら命がないとはいえ、もう限界だった。もう少しすればまた先程のように力が戻ってくるかもしれないが、今は無理だ。
「私は……私はこの世界を取る……」
 足元で“それ”の声がした。「あんな世界に……もう嫌だ……」
 何を言ってるんだ?
 オレにはわからなかった。
 しかし、“それ”はゆっくりと半身を起こした。
 オレは……立てなかった。
 オレはそこで、オレと“それ”の執念の違いを知った。
 オレと“それ”では、この戦いに賭けるものがあまりにも違うのだ。
 “それ”はとうとう立ち上がった。
「私は……勝たないと……いけないんだから……」
 “それ”の瞳から涙が零れた。「私は勝って……それで、お父さんの夢を……」
 えっ?
 オレは驚いて、“それ”の顔を見た。
 “それ”はまるで人間の女の子のように泣きながら、肩で息をしていた。
「お父さんの夢……私が受け継ぐんだって……みんなと、約束したんだから……」
 “それ”は両手を身体の前に掲げた。

 ……yyyyy golonnnn hcetfoooo etuuuu titsnnnn iayoooo gannnn……

 力が、少しずつ“それ”の手に集まっていくのがわかった。
「私は……みんなと、幸せに……暮らすんだ……」
 “それ”は再び歌うように何かを言った。

 ……yyyyy golonnnn hcetfoooo etuuuu titsnnnn iayoooo gannnn……

 もやもやと“それ”の腕に黒い煙のような気体がまとわりついて、その手の前に闇を凝縮したような黒い球体が現れた。
 それはまだ小さかったが、少しずつ少しずつ大きくなって、空に浮かび上がった。
「終わった……」
 オレは呟いた。
 この一撃ですべてが終わる。
 オレたちの冒険も、この世界の長い歴史も。
 ティーアハイムの戦い。そんな、人間同士で争っているときではなかった。
「ここまでか……」
 オレは剣を取り落とした。
 その時、
「あきらめないで……」
 オレの耳元で声がした。
 なんだ?
「あきらめないで……」
 それはもう一度オレにそう言った。
 まったく、勝手なことを言ってくれる。
「もう駄目だ……」
「あきらめないで! ヒロ!!」
「えっ?」
 その声は、志保のものだった。
 なんとか首だけで志保を見ると、志保は苦しそうな顔でオレを睨み付けていた。
「いいから立つのよ、ヒロ。癪だけどもうあんたしかいないの」
「藤田さん……」
 葵ちゃんの声。とても悲しそうだった。
「藤田君……」
「浩之……」
 みんながオレを呼ぶ。
「浩之ちゃん……」
 あかりの声。
 ごめんな、あかり。守ってやれなかった……。
「浩之ちゃん……助けてあげて……」
 あかりが言った。
 助けてあげて、と。
 誰を?
「お願い、浩之ちゃん。あの子、とっても苦しそう」
 あの子? “それ”のことか?
「あの子を、解放してあげて……」
 オレは顔を上げた。
 “それ”が泣きながら呪文を唱えている。
 闇の球はもはや遥か空高くで、月を隠して黒く渦巻いている。
 大きい。
「もう……早く……みんなと……」
 “それ”はあかりの言うとおり、とても苦しそうだった。
 オレは胸が痛んだ。
 本当にこれでいいのか?
 これで良かったのか?
 オレたちは正しいことをしていたのか?
 “それ”が悪なのか?
 人間が悪なのか?
 “それ”は一体何を苦しんでるんだ?
 オレたちはやられればいいのか?
 それとも、“それ”を倒せばいいのか?
「浩之ちゃん!!」
 あかりの叫び声。
「違う!」
 オレは剣を支えにして半身をあげた。

 ……yyyyy golonnnn hcetfoooo etuuuu titsnnnn iayoooo gannnn……

 “それ”の呪文の詠唱を聴きながら、オレは必死に身体を起こそうとした。
「違うんだ……」
 そして、オレは立ち上がった。
 オレは気が付いたのだ。本当に正しいことを。
 正しいのは“それ”じゃない。
 もちろん、“それ”を助けろと言うあかりでもない。
 世界を救うために立ち上がったオレでもない。
 オレは剣を掲げた。
「もしも人がオレのこの行動を悪と呼ぶなら、オレは喜んで悪になってやろうじゃねぇか」
 オレは剣を掲げたまま駆け出した。
 何も迷うことはなかったのだ。
 例え世間がオレの行動を非難しようと、“それ”が死んで悲しむ者があろうと、仲間を守るために立ち上がったオレの行動が一番正しい。少なくともそれは、オレにとっては一番正しい行動なのだ。
「死ね、ヌイゼンジーア!」
 人の数だけ正義がある。
 オレはオレの正義を貫く。
「邪魔をしないで!」
 “それ”が魔法を一旦中断して、両手をオレの方に向ける。「お願いだから、私を自由にして!」
 “それ”は命をかけてオレに極大の魔法を放った。
 しかしそれは、決してオレに当たることはなかった。
「うおぉぉおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
 “それ”の魔法は途中でかき消え、オレは剣を、思い切り“それ”の肩目がけて振り下ろした。
「ど、どうして……」
 それが魔法が消えたことに対して言った言葉か、それとも自分が負けたことに対して言った言葉か、もはや今となっては知る術がなかった。
 オレの剣が、“それ”の身体を真っ二つに斬り裂いた。
「やっぱり……そうしたか……」
 オレは血塗れの“それ”の死体の上に倒れ込んだ。
「藤田さん!」
 そう、オレを呼ぶ心配そうな声を聞きながら、オレは意識を失った。