『 誰かの描く幸せのために 』

  一

 携帯電話で呼び出されて、制服のまま現場に直行した那美だったが、その光景を見てしばらく立ちつくしてしまった。
 海鳴駅から二十五分ほど電車に揺られて辿り着いたのは、海鳴よりもずっと小さな町だった。そしてその町でも比較的交通量の多いと思われる二車線道路が十字に交わる交差点に、那美の背丈の二倍ほどの高さのコンクリートの囲いがあった。つまり、交差点は事実上その囲いのために封鎖された形になり、四方から通行止めになっていたのだ。
「こ、これは一体なんですか?」
 呆然とその壁を見上げたまま、那美が付き添いの刑事に尋ねた。壁には屋根がついておらず、地面と接する部分に、排水用と思われる穴が何ヶ所か空けられていた。そして北側の壁に、成人男性の胸の高さくらいの鉄製の扉がついていて、その合わせ目に、まるで何かを封じるように、白い護符が一枚貼り付けられていた。
 向井という若い刑事が、畏まった口調で答えた。
「はい。あの事故以来、ここでの事故が多発しまして、ちょうどひと月ほど前に通行止めになりました。その時はちょうど工事現場のような形で通行止めにしていたのですが、ご覧のとおりこの交差点は町の交通の要です。住民にしっかりとした説明もなく、特別何か工事をしているわけでもないのに、その形のまま通行止めにし続けるわけにはいきませんし、しかもここは夜でも歩行者の量が多いので、車の通行だけを止めても被害は食い止められませんでした。結果、このような措置をとるに至ったのです」
「はぁ……」
 那美はしばらく向井刑事の方を見ていたが、再び呆れたように「このような措置」に目を遣った。
 四方は横断歩道に囲まれ、今那美がこうしている間にも、駅やデパートへ向かう人がその横断歩道を歩いていく。それは、何事もない日常に迷い込んだ異次元の建物のように、あからさまに異様な雰囲気を漂わせていた。
 那美は「このような措置」で、住民が本当に納得したのかと疑問に思ったけれど、それは口にしなかった。自分がこうして呼ばれたということは、「このような措置」にも限界があり、やがては取り壊す意思があるということだ。つまりそれは、ここを通行止めへと追いやった無数の交通事故の、根本的な解決をすることである。
「わかりました。とにかく中に入ってみますから、向井さんは開けた扉から誰も入ってこないようにしていてください」
「はいっ!」
 ビシッと敬礼する若い刑事にペコリと頭を下げると、那美は護符を外して、刑事から受け取った鍵で扉を開けた。
 囲いの中には、通常の人間ならば感じ取れない何かが漂っていた。幽霊である。
 幼い子供の霊が五つほど、つまらなさそうにフワフワと漂っていたが、那美が囲いの中に入るや否や、嬉しそうに近付いてきた。
「おねーちゃん、遊んでよ!」
 子供の一人が、那美の腕をギュッとつかんだ。彼らが、多発した事故の根源だった。
 幽霊や妖怪による事故や事件を、専門家は「霊障」と呼んでいる。先程向井が那美に説明した中にあった「あの事故」というのが、今回の霊障を引き起こしているこの子供たちが死に至った事故だった。
 事前に向井に聞いた話では、今から三ヶ月ほど前、この交差点で、保育園の送迎バスとトラックが右直事故を起こしたらしい。そしてその事故の犠牲者が、彼らだった。
 事故のためにこうして幽霊となってしまった彼らは、自分たちが今いる状況すらわからずに、ただ自分たちに近付いてくる者を引き寄せては、また新たな事故を引き起こしていたのだ。
「ねえ、おねーちゃんってば!」
 群がってくる子供たちに向かって、那美が優しく話しかけた。
「ねえみんな。お姉ちゃんの言うこと、聞いて?」
 子供たちが一瞬きょとんとして彼女を見上げた。那美は再び彼らが騒ぎ始めない内に言葉をつないだ。
「みんなはね、もう死んでしまったの。だから、いつまでもこんなところにいちゃダメ。わかる?」
「わかんないよー」
 男の子の一人が即答した。そしてその声を皮切りにして、再び子供たちが那美の制服を引っ張った。
 それは、強い力だった。しかも、物理的な力ではないために、もしもこれが霊能力のない者だったら、ひとたまりもなく彼らに引きずり込まれていることだろう。自分とて、もしもこれが夜だったら、下見に来た今日ここで死界へと引き込まれ、帰らぬ人になっていたかも知れない。夜は霊の力が強くなる。実際、こうして囲いが出来る以前は、そのために被害に遭った通行人もいたという。
「みんな、お姉ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いて。ね?」
 那美は再び……いや、三度も四度も、辛抱強く彼らに語りかけたが、もはや彼らは、ただ久しぶりに自分たちの側に来てくれた人間と遊ぶこと以外、何も考えてはいなかった。つまりそれは、無邪気に、笑顔のまま、一人の少女を殺そうとしているのだった。
 那美は渋面になった。自分が死んでいるということを理解していない霊は、鎮魂に応じてくれることはない。ましてや、こんな「死」が何であるかということさえわかっていない子供には、説得しても意味がなかった。
 けれど、説得する以外に彼らの霊を鎮める方法といえば、それはすなわち、刀をもって斬る他に手はなかった。那美が最も苦手とする手段だった。
「…………」
 那美はひどく悲しげな顔をしてから、少し強引に彼らの手を振り払った。そして、彼らがびっくりして動きを止めている間に、扉から外に出て、再び封を施した。
「どうでしたか? 神咲さん。除霊、できましたか?」
 恐らく、霊障というものをあまり知らないのだろう。若い刑事が好奇心を剥き出しにして那美に尋ねた。
 那美は静かに首を振ると、ぽつりと一言こう言った。
「今日は、もう帰りましょう。鍵はわたしが預かります。また、説得しにきます」
「……そうですか」
 那美の活躍を期待していた向井は、がっかりしたように視線を落とした。
 那美は無言でその町を後にした。


「はぁ……」
 リビングで、耕介の作ってくれたレモンティーを飲みながら、那美は深いため息を吐いた。寮に戻ってきてから、ずっとそれの繰り返しである。愛を初め、みんな心配そうに見つめるも、そっとしておいた方がいいだろうという結論を出したのか、那美に話しかける者はなかった。まだ、その段階ではないとわかっているのだ。
 そんな寮生たちの心配りにもまったく気付けないほど、那美は深く考え込んでいた。昼間の一件である。
 三ヶ月の間、事件に関与した者たちが何もしていなかったというわけではない。その間に二人ほどの除霊師が鎮魂を試みたが、いずれも失敗に終わったらしい。そこで、現場から近い場所に住み、なおかつ強い力を持った神咲家の末娘の出番となったのである。
 しかし、那美には自分があの子供たちを斬れないことがよくわかっていた。たとえそれしか方法がなくても、自分にはできない。自分は説得して鎮魂するのが専門であって、剣を振るのが本職ではない。
 そう思ってはみたものの、結局それは逃げでしかない。大部分を占める霊の素人たちには、「斬らなければならない幽霊」も、「説得することのできる幽霊」も同じ「幽霊」でしかなく、「斬って除霊する」のも、「説得して鎮魂する」のも、訪れる結果は同じなのだ。
 そして那美は、それを生業とする退魔師である。可哀想だから斬れないなどという甘えは、一切許されない。
 それは我が儘だ。プロとして、与えられた仕事はこなさなければならない。「不可能」と「できない」は別物だ。今那美の言う後者は、「やらない」ということである。
 それはわかっている。わかっているが……。
「はぁ……」
 再び大きくため息を吐いて、那美はテーブルの上に突っ伏した。
 昼間自分たちに駆け寄ってきた幼子たちの笑顔。その笑顔を断つのは、人を「殺す」ことに相違ない。合法で、誰かに喜んでもらえる人殺し。
「人……殺し……」
 呟いたら、涙がこぼれた。
 そのとき、コトリとテーブルが音を立てて、那美はその体勢のまま顔を上げた。仁村真雪が、あからさまに日本酒の匂いを漂わせている湯飲みを置いて、那美の方を見つめていた。
「ほれ、呑め。神咲・妹」
「…………」
 那美はただでさえ酒が呑めないというのに、この今にもこぼれそうなほど湯飲みいっぱいに入っている日本酒をどうしたものかと思案したが、一度真雪の顔を見上げると、両手でしっかりと湯飲みを取った。
 真雪は穏やかな瞳をしていた。こんなときにまで、冗談を言う人ではない。
 那美は熱くもなくぬるくもないその酒を、一気に半分くらい飲み干して再びテーブルの上に置いた。日本酒特有の味と熱さと後味が、喉から鼻腔を焼いて、頭の中がクラッとなった。
 そのままテーブルに伏してフワフワしていると、真雪が那美の頭に手を置いて、優しく語りかけた。
「何があった?」
「…………」
「昔な、もう四年も五年も前の話だが、お前の姉がお前くらいの時に、やっぱりそうしてふさぎ込んでたことがあった」
「薫……ちゃんが?」
 那美が顔を上げる。真雪の顔がはっきり見えなかったのは、涙のせいかアルコールのせいか、それを考えるような余裕はなかった。それは間違いなくアルコールのせいだった。
「……辛いことがあったのか?」
 那美はその言葉に少し考えてから、小さく首を振った。
「これから……あるの……」
 そして、ぽつりぽつりと話し出す。
 真雪はそれを、那美の髪を撫でながら黙って聞いていたが、やがて彼女が話し終えると、そっとその手を離して湯飲みを取った。
「あいつもな……」
 一口、その酒を喉の奥に流し込んで、真雪は続けた。
「あいつも、昔同じことがあった。子供の……幽霊か? それを、斬らなくちゃいけない状況に立ったことがある」
「……薫ちゃんは……どうしたの?」
 静かに、真雪は言葉を吐いた。
「斬った」
「…………」
「あいつは泣きながら、一人ひとりの子供を殺して、そしてしばらくふさぎ込んでいた。そりゃもう、そのまま逝っちまうんじゃないかってほどな」
「……っ……」
 那美は鼻をすすって、目元から溢れてきた涙を袖で拭った。
 姉はどんな気持ちだったのだろう。どんな気分で斬ったのだろう。そして、子供たちを斬ってなお、この仕事を続けていられるのはどうしてだろう。
 那美は袖に顔を埋めた。
「なあ、那美」
 優しく、那美の腕に手を置いて、真雪は目を閉じた。
「自分にしかできないからって、それをしなくちゃいけないなんてことはねーんだぞ? どうしても斬れないなら、もうこんな仕事はやめちまえ。神咲家の娘だからって、普通に育っちゃいけねーなんてこと、あるわけないんだからな。でも……」
 そこで一旦言葉を区切って、真雪は少し強い語調で言った。
「もしも選ぶんだったら、後悔はするな。お前の姉みたいに、自分のしたことに、してることに胸を張って生きろ」
「真雪さん……」
「あたしに言えるのはそれだけ。んじゃ、おやすみ」
 そして、真雪はリビングからいなくなった。
 一人残された那美は、彼女の置いていった湯飲みを手にして、もう一度、斬ってこの仕事を続けるか、剣を捨てて道を変えるかを考えてから、グイッとそれを呑み干した。
「人殺し……」
 再び呟くと、急激に襲ってきた睡魔に任せて、そのまま意識を手放した。