『 誰かの描く幸せのために 』 |
二 あれから一週間が経った。 那美はその間に二回現場に行ったが、状況は変化していなかった。囲いは依然としてそこに存在し、子供たちの霊もその中に閉じこめられる形で残っている。 那美は、ずっと違う方法を考えていた。「斬ってこの仕事を続ける」のでも、「剣を捨てて道を変える」のでもない、もっと他の何かを。 けれどもその方法は見つからなかった。いや、初めからないものねだりなのだろう。結局自分は、斬る勇気も捨てる勇気もない、ただのいくじなしなのだ。 まったく策のないまま、途方に暮れていた那美に、美由希が話しかけた。 「どうしたんですか? 那美さん」 穏やかな昼下がりだった。中庭に設置されたベンチに腰掛けていた那美の前に立って、美由希は心配そうな顔をしていた。 那美はまったく関係ない美由希にまで心配させてはいけないと、必死に笑顔を取り繕おうと思ったが、それは叶わなかった。ならばいっそと、強がるのはやめにして、自分の隣に腰掛けた美由希に、静かにこう尋ねた。 「美由希さんは……人を殺したこと、ありますか?」 「えっ?」 一瞬時が止まったかのように硬直して、美由希が那美を見つめた。けれども、那美があまりにも真摯な瞳だったため、すぐに彼女が本気で聞いていることを知った。 元々冗談を言う人ではないし、美由希の素性も知っている。つまり、美由希が人を殺した経験も、これから殺す可能性もあり得るということを、那美は知っている。 美由希は浮きかけていた腰を再びベンチに沈めると、そっと首を振った。 「まだ……ないです。でも、これからあるかも知れません」 「そうですか……」 那美はグラウンドの方へ顔を向けた。平和そうにはしゃいでいる女の子たち。憧れないわけでもないし、自分が彼女たちとまったく違うとも思っていない。けれど、恐らく今自分の抱いているような悩みは、彼女たちは一生持つことがないだろう。 それがつまり、「人と違う」ということなのだ。神咲の娘である宿命。 『神咲家の娘だからって、普通に育っちゃいけねーなんてこと、あるわけないんだからな』 真雪の言葉を、声を、思い出しながら、そっと美由希への質問を続けた。 「じゃあ、もしも……美由希さんが、子供を斬らなくちゃいけなくなったら、どうしますか? 無邪気で、何の罪もない、子供たちを……」 美由希はちらりと那美に目を遣ったが、彼女はじっとグラウンドを見つめたまま、視線を動かさなかった。美由希は彼女と同じようにグラウンドを見て、それからはっきりと答えた。 「斬ります。それが正義であり、それで救われる人がいるのなら」 迷いのない口調に、那美が驚いたように、それから少し羨ましそうに美由希を見た。そんな那美の目をまっすぐ見つめて、もう一度美由希は口を開いた。 「それが正義であるのなら、どんなに悲しくても、わたしは斬ります。それがわたしの……御神としての、使命ですから。わたしは、自分の剣に、血に、誇りを持っています」 「美由希さん……」 那美の目から涙がこぼれ落ちるのを、美由希はじっと見つめていた。 そして自分の胸に飛び込んで、ただ嗚咽を洩らす那美をそっと抱きしめたまま、空を見上げた。 周囲に好奇の視線が集まってくるのがわかったけれど、美由希は気にしなかった。 那美は、いつまでも泣き続けていた。 それから那美は、雪月を懐にしまい、久遠を伴って四度現場に立った。決心は……とりあえず自分なりにつけたつもりでいた。 子供たちを、斬る。これ以上甘えるわけにもいかないし、それに自分とて、この仕事に誇りを持っている。自分の力でしか救えない人がいるのなら、救ってあげたい。 それは那美の優しさであった。そして、優しいからこそ持つ悩みを抱えて、那美はそっと扉を押し開けた。 その時、 「神咲さん……でしたっけ?」 「えっ?」 不意に女性の声で名前を呼ばれて、那美は一旦扉を閉めてから振り返った。見るとそこに、一人の婦人が、悲痛な面持ちで立っていた。そして那美に向かって話し始める。 「刑事さんからお聞きしました。さまよい続けて成仏できないでいる息子を、天国に送り届けてくださる方だとか……」 「はぁ……」 どうやら、事故で子供を亡くした母親のようである。 あの事故からまだたったの三ヶ月。彼女の心労は、いかほどのものなのだろうか。 那美は彼女の心中を慮って、いたわりの言葉を捧げた。 「この度は、お気の毒さまでした」 「いえ……」 婦人は頭を深く下げた那美に首を振った。そして顔を上げた彼女の目をまっすぐ見つめてこう言った。 「いなくなってしまったものは、もう、仕方ありません。それよりわたしは、息子の心が、いつまでもここに残されていることの方が辛いんです。ですからどうか、神咲さん。息子をあの世に送ってやってください」 那美は、熱心に自分に頼み込む母親の姿を見つめながら、彼女が、「息子を天国に送る」方法を理解しているのだろうかと思って、悲しくなった。 もちろん、知っているはずがない。自分の息子が、まだ生前と同じ意思を持ち、あたかも生身の人間を斬る如く、刀を持って斬り裂かない限り、彼が成仏することがないなど、知っているわけがない。 それを知ってなお、彼女は今の台詞を言えるだろうか。息子が怯え苦しむ姿を、見たいと思うだろうか。 しかし、それでも、 「わかりました」 那美は丁寧に答えて、再び扉に向き直った。 斬らなくてはいけない。 たとえその過程が辛くても、そのことによって子供が天国へ行けるのであれば。 ……いや、刀で斬った魂が、なお天国へ辿り着けるという仮定すら、実は那美の願望でしかなかった。本当は、恐らく斬った瞬間に、彼は、消滅する。仮に天国という場所があったにしろ、彼がそこへ辿り着くことはないだろう。 那美は一度深く深呼吸すると、中に入って扉を閉めた。ここにいる五つの魂をすべて消し去り、そして、外で待つ母親に、「息子さんは無事に天国へ行きましたよ」と微笑むために。 「くぅん……」 心配そうに鳴いた久遠に「大丈夫」と笑ってから、那美は雪月を抜き放った。もしも彼らが逆上して襲いかかってきたときのためにと、久遠を連れてきたのだが、しかし彼らは、那美の刀を見るや否や、怯えたように五人固まって、震えながら彼女を見上げた。 「おねーちゃん……何をするの?」 「怖いよ……」 「やめて……」 三人の男の子が、女の子をかばうようにして立ち、両手を広げて震えていた。そしてその三人に守られている二人の女の子が、怖い怖いと泣きじゃくっている。 那美は決意が萎えそうになった。これならばいっそ、発狂して襲いかかってきてくれた方が楽だったが、それでも、やめるわけにはいかない。 「お姉ちゃんね、みんなを助けてあげるの」 嘘だ! 心がズキッと痛む。 子供たちも叫んだ。 「嘘だ!」 「おねーちゃんは、ぼくたちを殺そうとしてるんだ!」 「い、痛いのヤだよぉ」 「うわーん。おかーさんっ!」 那美は、今にも崩れ落ちそうな足を一歩前に踏み出して、力のこもらない右手で雪月を握り直した。涙で視界がぼやけて、頭がガンガンした。 一歩前に出るごとに、すでに逃げ場のない子供たちが、大声で泣き叫ぶ。 そしてようやく一番近い男の子まであと二歩というところに迫ったとき、とうとう三人の男の子たちも、女の子と一緒に泣き出した。 「イヤだっ! 怖い、怖いよぉぉっ!」 「わーん。パパァ、ママァァ!」 「助けてよ、おにーちゃん。おかーさん!」 那美はもう一歩踏み出して、自分の姉の強さを思った。足を前に進めるごとに、心が削ぎ取られていく。 そしてついに最後の一歩を踏み出して、那美はそっと少年の肩をつかんだ。 「ひっ……」 彼はすっかりすくみ上がり、暴れるどころかむしろ絶望的な眼差しで彼女を見上げた。 那美はできるだけ何も考えないように、雪月をその少年の首に当てた。あまりの眩暈と吐き気に、本当に雪月の切っ先が彼の首にあるのかさえわからない。 (あと……少し……) 今握っている刀に力を入れて、そのまま体重を乗せれば、後ろの壁のおかげで、簡単にこの少年を殺すことができるはず。 「おねーちゃん……」 もはや恐怖のために息もできずに、口をパクパクさせるだけの少年。 それが、神咲那美の限界だった。 「あ……あぁ……」 震える手から離れた刀が、カランと音を立てて地面に落ちた。そしてガクリと膝を折り、アスファルトに両手をついて那美は泣き出した。 「できない……わたしには、できないよ……」 声を上げて、那美は泣いた。その背後で、久遠がどうしたら良いのかわからずにオロオロしている。 「うわあぁぁぁぁっ、ああぁぁあああぁぁぁぁぁっ!」 情けなくて、不甲斐なくて、みんなの期待にも応えられず、結局何もできないで、こうして泣いているだけの自分が惨めで、那美は泣きながら、力なくアスファルトを拳で叩いた。 小さくうずくまって、子供のように泣き続ける那美。 どれくらいそうしていたのか、やがて子供の一人が、いつまでも泣きやまない彼女の前に屈んで、 「おねーちゃん、大丈夫?」 心配そうに那美の顔を覗き込んだ。 その声に顔を上げると、五人が五人とも、先程まで自分を殺そうとしていた人間を、悲しそうな目で見つめていた。もはやその顔にあるのは、恐怖や怯えではなく、自分よりもずっと年上の人間が泣き続けていることに対する不安や悲しみだけだった。 「おねーちゃん、もう泣かないで? あたしたちも、もう泣かないから」 「…………」 那美はその場に膝立ちになったまま、生気を失った目で呆然としていた。そしてぽつりと一言、こう洩らした。 「わたしには……斬れないよ……」 「一緒に遊ぼ? おねーちゃん!」 無邪気な笑顔。 「くぅん!」 那美が子供たちに引きずり込まれそうになっているのを敏感に察知して、久遠が鳴き声を上げた。しかしそんな久遠の声も、心を失ってしまった那美の耳には届かなかった。 那美の身体が薄らいだ。 あたかも、初めからそこに存在しなかったかのように消えてしまいそうになった彼女の肩を、誰かがギュッとつかんだ。 「ご苦労だった、那美」 はっと我に返り、振り返ったそこに、 「か、薫ちゃん!」 彼女の姉、神咲薫が、霊剣『十六夜』を手にして、毅然として立っていた。 |
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