『 誰かの描く幸せのために 』

  三

 開かれた扉の向こうに向井刑事が立っていて、先程の母親が心配そうに中を見つめていた。恐らく、那美の泣き声が聞こえたのだろう。
 向井が扉を閉めるのを確認してから、薫がそっと那美の前に屈んで、穏やかに微笑みかけた。
「ちょうど署から連絡があったのとほとんど同時に、真雪さんから電話をもらってな」
 十六夜が人の形を取るのにつられるように、久遠も狐から人の姿に化けた。そして大きな瞳で、心配そうに那美の顔を覗き込む。
 未だに状況を把握できずに、ただぼんやりと悲しげに瞳を揺らしている那美の肩を、薫が優しく叩いた。
「よく頑張った。あとはうちに任せておけ」
 その言葉に、那美はようやく事態を理解した。
 自分に子供を斬ることができないと判断した警察側が、神咲の実家に連絡を入れて、わざわざ鹿児島から薫を呼び出したのだ。
 一瞬、自分がお払い箱になったのだという悲しみが胸の中で湧き起こってから、すぐに別の想いが那美の心を支配した。
(わたしがしなくちゃいけない!)
 いつまでも逃げてばかりいてはいけない。
 辛いこと、汚いこと、悲しいこと。それを、いつも姉にばかり押し付けて、自分は柵の向こう側からただ眺めているばかりなんて、仮にも退魔師として刀を振るう神咲の姓を持った自分が許さない。
「待って、薫ちゃん!」
 力強く呼びかけて、那美は立ち上がった。瞳にはもう迷いの色はなく、ただひたむきに薫を見つめていた。
「どうした? 那美」
 再び怯えたように固まっている子供たちを睨み付けながら、薫が背中越しに聞いた。那美はそんな薫の式服をギュッとつかんで、はっきりとこう告げた。
「ここは、わたしがやります」
「無理だ」
 薫が即答した。そして間髪入れずに言葉をつなげる。
「仮に出来たとしても、うちが来たからにはもう、お前がそんなことをする必要はない」
 言い放った薫の腕を、那美はグッと自分の胸元へ引き寄せた。
 武器を持った腕を取られ、仕方なさそうに薫が那美を振り返る。聞き分けのない子供に、少しイライラした母親のような目をしていた。
 そんな薫の目をじっと見つめて、那美がはっきりと告げた。
「違うの。斬るんじゃなくて、わたし、別の方法を考えたの」
「別の方法?」
 訝しげに尋ねた薫に、那美は自信たっぷりに頷いた。
「うん。わたしが、この子たちをあの世に送り届ける」
「な、なんだと?」
「那美!」
 薫と十六夜が驚いて目を見開いたが、那美は自分の決断に絶対の自信を持って、にっこりと微笑んだだけだった。


 夜、通行人がもうほとんどいなくなった現場に、五組の夫婦が集まっていた。死んだ子供たちの家族である。那美が向井に、「子供たちが、わたしの先導に素直に従ってくれるように、ご家族の方に手伝って欲しいのです」とお願いし、集めてもらったのだ。
 彼らの中には、もう吹っ切れた者も、まだ悲しみを背負っている者もあったが、いざこうして子供の死んだ現場に立ったとき、その面持ちは皆一様に沈んでいた。
 扉の前に立ち、そんな彼らを眺めながら手順を確認していた那美に、薫がそっと呼びかけた。
「本当にやるのか? 那美」
 もう、何度も同じことを繰り返し聞いている。
 妹が、一度言い出したら聞かないことは薫もよく知っていたが、それでもあまりにも危険をはらんだ今回の計画に、どうしても言わずにはいられなかった。
 薫としては、那美が土壇場で怖くなって逃げ出してもらっても構わなかったし、それこそ今ここで、那美の制止を振り切って、自分が子供たちを斬ってもよかった。そうしてでも、那美には考えを改めて欲しかったが、しかし那美は瞳を輝かせながら、力強く頷いただけだった。
 それから一度、口の中で「よし」と呟いて、五組の夫婦に向かって話し始めた。
「ええと、今回不慮の事故で亡くなった皆さんの息子さん、娘さんの魂を、無事に天国へ送り届けるよう依頼されました、退魔師の神咲那美です」
「む、娘は、まだその中にいるんですか!」
 母親の一人が、声を荒立てた。他の者たちが、それに同調するように、那美の方を見る。
 那美はこういうとき、穏やかな顔をするべきか、悲しそうにするべきか、判別しかねたので、ただ無表情に頷いて見せた。
「皆さんのお子さんは、この中で、天国への生き方がわからずに困っています。そこでこれから、わたしが彼らを天国へ案内しようと思います」
 大人たちの息を飲む音が聞こえた。目の前の少女が、「天国へ案内する」ということがどういうことか、わからなかったのだろう。もしくは、彼女が自分たちの子供のために、自殺するのだと誤解したか。
 一人がたまらずに叫んだ。
「そ、その役はわたしたちにはできないの?」
 那美は静かに首を振った。
「霊能力を持ったわたしたち退魔師にしかできません。今回、皆さんに集まっていただいたのは、子供たちがわたしの先導に素直に従ってくれるよう、皆さんからお子さんたちに言っていただくためです」
 那美は、初めて微笑んで見せた。
 それが彼女の考えた、「斬ってこの仕事を続ける」のでも、「剣を捨てて道を変える」のでもない、「他の方法」だった。ついさっき、心を引きずり込まれそうになったときに、漠然と「死」のイメージが浮かび上がった。そのとき、姉と十六夜と久遠の力を借り、子供たちの「生」を「死」へと引きずり込む力を利用すれば、あの世への道を開くことも、そこから戻ってくることも可能なのではないかと思ったのだ。
 それに対して薫は、生身の身体で死の世界に行くことは可能かも知れないとしたあとで、その後向こうからこっちに戻ってこられる保証がないと、妹の計画に反対した。
 しかし那美は、何の根拠もなかったけれど、ただ「大丈夫」だと笑って見せた。
 それが、神咲家の娘でありながら、神咲の血の流れていない娘だからできるのか、それとも単に神咲那美という少女の発想力のなせる技か、よくもまあこうも、まったく前例のない鎮魂の手段を思い付くものだと、薫も十六夜も感心し、同時に呆れ返った。 
「事実上、これが皆さんがお子さんとお話できる最後の機会となります。けれど、どうかくれぐれも、彼らがすでに亡くなっているということは忘れないようにしてください。彼らにとって、今一番幸せなのは、天国へ行くことなのです」
 少しだけ厳しい語調でそう言ってから、那美はそっと扉を押し開けた。
 途端に溢れ出す霊気。夜は、妖怪や幽霊の力が強くなる。それは那美にとって、危険であると同時に好機でもあった。
「それでは皆さん。これからわたしたちで、皆さんとお子さんたちの心を繋ぎます。最後のお別れが済み、彼らをわたしに従うよう説得できたら言ってください」
 わたしたち、というのは、那美と薫のことだった。久遠と十六夜は、今はまだ本来の姿をしている。彼女たちの出番は、ここにいる家族全員が、子供との別れを終え、説得に成功した後である。
 向井刑事に外で見張りをしてもらい、那美と薫は、子供たちの心を両親と繋ぐことに専念した。そんなことができるのも、彼女たちが霊能力者として高い力を持っているだけでなく、彼らの間に「親子」という強い繋がりがあるからだった。
 子供たちと再会した親子は、ある者は歓喜に打ち震え、ある者は悲しみのあまり涙した。二人はそんな彼らの様子を見つめながら、彼らが子供たち話しながらも、決してそのまま心を霊界に持っていかれないよう万全の注意を払った。
 そして、どれくらいそうしていたか、やがて五組の親子がそろって那美に向き直り、謝辞を述べた。那美は神妙に頷いてから、心の繋がりを断った。
 それから彼らには外に出てもらい、十六夜と久遠が人の姿を取る。
「準備はいいですか? 那美」
 十六夜の言葉に、那美は深く頷いた。そして子供たちの方を向くと、彼らは大人しく彼女を見つめていた。どうやら、親たちはちゃんと役割を果たしてくれたらしい。
「みんな。ちゃんとお姉ちゃんの言うこと、聞いてね」
 那美がにっこりと微笑みかけると、子供たちは元気に頷いた。
「うん」
「じゃあみんな、わたしと手を繋いで円になって」
 子供たちが言われたまま、互いに手を取り合って円を作った。
「それから、目を閉じて、わたしについてきてね……」
 那美が目を閉じる前に、そっと薫に目配せを送った。薫は静かに頷くと、彼らを取り囲むようにして、十六夜と久遠で三角形を作った。ぼんやりと彼らの手が光り出した。
 すぅっと子供たちの姿が消える。同時に、先程彼らに取り込まれそうになったときのように、那美の姿も薄らいで、やがて、消えた。
 後には何も残らなかった。
(必ず、戻って来いよ、那美……)
 薫は深く目を閉じ、持てる限りの集中力で、死後の世界をイメージしながら、ずっと祈り続けていた。