『 誰かの描く幸せのために 』

  四

 濃い褐色の空間を、那美は子供たちの手を引きながら歩いていた。周囲の壁は、曇りガラスのように、ぼんやりと向こう側の世界を写し出している。何か、空か海のような青色が広がっていた。
 那美は今、自分が死後の世界を歩いていることを確信していた。そして、壁の向こうに広がる光景を、つい先程まで自分たちの住んでいた世界だと認識していた。
 つまり死後の世界とは、現実空間と別次元に存在する並行世界であり、自分が先程通ってきた門のようなところ、薫と十六夜、そして久遠の三人が、自分のために必死に開き続けているその場所が、別次元へのワープゲートなのだろう。
 あの門が何らかの理由で閉ざされれば、恐らく自分は帰れなくなってしまう。那美はわずかな焦りを覚えた。
 それでも慎重に、ゆっくりと歩いていると、後ろから子供の一人が聞いてきた。
「ねえ、おねーちゃん。これからどこに行くの?」
 那美は足を止めずに首だけで振り返り、優しい声音で問い返した。
「お母さんは、なんて言ってたの?」
「おかーさんは、ただおねーちゃんに大人しくついていくようにって。いい子だから」
 その子がそう答えると、別の子が大きな声で言った。
「ぼくは、『てんごく』っていうところにおねーちゃんが連れていってくれるって聞いたよ? そこがぼくの新しいおうちなんだって」
「あたしもそう聞いたけど、なんでおとーさんたちは一緒に来れなかったの?」
 那美はもう一度顔を前に向けると、静かに答えた。
「おとーさんもおかーさんも、色々と準備があって一緒に来られなかったの。でも、ちゃんと後からみんなのところに行くから。だからみんなは、いい子にお留守番してるのよ?」
「えーっ?」
 不満そうな声と、大人しく言うことを聞いてくれる声。那美の焦りが色濃くなった。
 やがて六人は、開けた場所にやってきた。景色自体に大差は見られなかったが、少し向こうに一本の川が流れていた。これが俗に言うところの「三途の川」なのだろうか。那美は思わず、六文持っていない自分はどうしたらいいのだろうと考えて、小さく笑った。
 川は浅くて幅も狭く、中央部には頑丈そうな橋がかかっていた。
 善人は橋を渡り、罪の軽い者は浅瀬を、罪深き者は深瀬を渡る。それゆえこの川は「三途の川」という名が付けられているのだと、昔聞いたことがある。つまり、生前の業によって川の見え方が違うのだ。
「ね、みんな。この先にある橋、ちゃんと見える?」
 那美が尋ねると、子供たちは皆一様に「見える」と頷いた。那美は安心した。
 橋の向こう側は那美には何も見えなかったが、子供たちには何か光のようなものが見えているらしかった。そこが天国に違いない。そしてそれは、まだ生きている那美には見ることができないのだ。
 橋の前に立って、那美はそっと子供たちを振り返った。
「さぁ、みんな。ここから先は、みんなだけで行くのよ」
「えっ?」
 子供たちが不安そうに顔をゆがめ、すぐに那美に食ってかかった。
「どうして? おねーちゃんも一緒に来てよ」
「そうだよ! おかーさんが、てんごくまではおねーちゃんが連れてってくれるって」
 那美は一瞬渋面になったが、子供たちを怖がらせてはいけないと、すぐに表情を和らげた。
「お姉ちゃんは、この橋を渡っちゃいけないの。みんな、いい子だから言うことを聞いて。みんなで力を合わせてあの光まで行くの。そしたら、いつか必ずお父さんもお母さんも、みんなのこと、迎えに来るから」
 優しく那美が言って聞かせたが、しかし子供たちは那美の服をギュッとつかんで、不満の声を上げた。
「おとーさんが来るまで、おねーちゃんも一緒にいてよ!」
「そ、それはできないのよ」
「なんで? なんでできないの?」
 子供たちの質問責めに遭い、那美は困り果てた。結局、あの場で説得するか、ここで説得するかの差だったのだろうか。
 いや、違う。
 那美は決意した。
 この橋も渡り、彼らを天国まで送り届けてから帰るのだと。この先何が待ちかまえていようが、それこそが自分の選んだ「方法」なのだから。
「わかった。じゃあ、お姉ちゃんも橋は渡るね。それから、みんなを天国まで送ってから、お父さんとお母さんを呼びに戻る。それでいい?」
 子供たちは、今度は満足そうに頷いた。
 那美は三途の川にかかる橋を、子供たちの手を引きながら渡った。途端に何かが、自分の身体を、「生」を蝕む。すさまじい力だった。
「あぐぅ……」
 那美が悲鳴を上げると、子供たちが心配そうな顔をした。
「どうしたの? おねーちゃん」
「苦しいの?」
 那美は額に汗を滲ませながら、首をブンブン振った。そして、代わりに尋ねる。
「ひ、光までは……あと、どれくらいなの?」
 一体自分の身体はいつまでもつのだろう。那美は戦慄を覚えた。
 一応、生ある者が定めた死後の世界の知識は持っていたが、親より先に死んだ彼らが石を積まなくても済んだ辺り、自分の知識など役に立たないに等しい。
 今は、第二法廷までは二七日かかるとか、そんなことよりも、彼らに見えている光までの距離が知りたかった。
 けれど、那美のその言葉に、子供たちは怯えるような顔をした。
「おねーちゃん、あの光、見えないの?」
 那美ははっとなった。もしここで本当のことを言ってしまえば、彼らはもはや自分には従ってくれないだろう。天国を見えていない者が、その場所に案内できるはずがない。
 どれくらいの距離があるかはわからないけれど、これはもう覚悟を決めて行くしかないようだ。
「ううん、ごめんね。お姉ちゃん、ちょっと目が悪いから……」
 適当にそう言い繕って、那美は再び歩き始めた。
 気が遠くなるほど長い時間だった。立ち止まったマラソンランナーが、もう再び走り出すことができなくなるように、ここで気を緩めてしまえば、たちどころに自分も亡者の仲間入りするだろうことを、那美は肌で感じていた。
 肉を溶かされるような、骨を削られるような、自分を構成する何かが奪われていく苦痛と戦い続けながら、那美はやがて、子供たちが「光」と呼んでいた場所に辿り着いた。
「わー、綺麗……」
「すごいね、おねーちゃん!」
 那美の目の前には闇が広がっているだけだったが、子供たちは、確かに嬉しそうにはしゃいでいる。那美は力なく微笑んだ。
「じゃあ、お姉ちゃん、みんなのお父さんとお母さんを呼んでくるからね。みんな、ここでいい子にしてるのよ」
「はーい!」
 那美は、子供たちの元気な返事に安堵の息を洩らすと、彼らに背を向けて、来た道を引き返し始めた。後は、無事に帰るだけだ。
 小学校の頃に聞いた、「遠足は家に帰るまでが遠足なんだ」という先生の言葉を思い出しながら、那美は再び気合いを入れ直して歩き始めた。
 一歩ごとに体中から汗が噴き出してくる。背後からは凄まじい重圧がかかり、今にも誰かが現れて、自分の身体を闇の中に引きずり込むのではないかという恐怖が心を縛り付けていた。
(わたし……帰らないと……)
 誰も助けに来てくれる者のない孤独。那美は、今まで自分が鎮魂してきた霊たちの気持ちを、その身を持って理解した。
(薫ちゃん……十六夜……久遠……)
「あぅっ!」
 ようやく前方に三途の川が見えたとき、那美は地面の小さなへこみに足をひっかけて転んだ。疲れのために、もはやバランスを支える力が残ってないのだ。
(た、立たないと……)
 グッと地面に手をついたが、まるで誰かが背中に乗っているかのように、身体が自由にならなかった。
「立って……みんなの、ところに……帰るんだから……」
 薫、十六夜、久遠、北斗、和真、美由希、愛、知佳、真雪、美緒、恭也、レン、晶、なのは……。みんなの顔が浮かんでは、那美に力を与えて消えた。
「わたしは……帰るんだから!」
 手に力を込め、ようやく立ち上がった那美の前に、二人の男女が立ちはだかった。那美は目を見開いた。
「お父さん! お母さん!」
「那美……」
 そこに立っていたのは、昔霊障で亡くした両親だった。
 父親が震えている那美に穏やかな瞳を向けて、あの日の声のまま、嬉しそうに笑った。
「那美。大きくなったな……」
「那美!」
 母親が那美の身体を抱きしめる。優しい温もりが、那美の心を包み込んだ。
「ずるい……ずるいよ……」
 那美はぽろぽろと涙をこぼした。身体は疲れのためにまったく動かない。
「お母さん……」
 遥か昔の、わずかな記憶にある母親との思い出が、鮮やかに蘇ってきた。ぎゅっと母の身体を胸元に引き寄せると、父がそんな娘と妻を抱きしめた。
「頑張ったな、那美。だけど、もういいんだぞ……」
 急速に力が奪われていくのがわかった。長時間サウナにいたときに覚えるような眩暈と、同じように長い時間寒い場所にいるときに感じるような眠気が襲いかかる。
 脱力感と、そこから生じる無気力。このまま、眠ってしまいたい。
 那美は目を閉じた。
 生まれて初めて感じる安らぎ。その安らぎに逆らおうとする「生」が、那美にはひどく邪魔に思えた。
(もう、このまま……)
 睡魔が、那美の身体を捕らえた。
 そんな、急速に遠退いていく意識の中で、ふと、とある光景が脳裏をかすめた。
 薫と十六夜と久遠が、必死に門を開き続けている姿。そしてその門から飛び出してくる霊を、押し戻すように剣を振るう姉。
 それは、蝋燭の最後の光のように、「生」が消える直前に見せた輝きだった。
「かおる……ちゃん……」
 那美は腕に力を込めて、母親の身体を押し離した。母が驚いた顔で、那美の顔を見つめた。
「那美? どうしたの?」
 父親も心配そうな顔をしている。那美はそんな二人の顔を交互に見て、肩で息をしながら言葉を紡いだ。
「わ、わたし、まだ生きてるから。だから、まだ、ここに来ちゃ、いけないの」
「いいえ」
 母親は首を振り、先程那美が子供たちを送り届けた方を指差した。
「あそこに光が見えるでしょ?」
 彼女の指し示す先に、先程までは見えなかった光がぼんやりと浮かび上がっていた。逆に、三途の川の向こう側がひどく稀薄になっている。
「那美、あなたはもう死んでしまったの。悲しいのはわかるけど、いつまでも未練を持ってちゃダメ。これからは、わたしたちと一緒に、ここで静かに過ごしましょう」
 那美は、大きく頭を振った。
「わたし、帰ります」
 強い意志。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
 走り出した那美の手を、素早く父親がつかんだ。
「那美。お前はわたしたちを置いていくのか?」
「は、放して」
「那美はわたしたちのことが嫌いなの?」
「放してっ!」
「那美!」
「もうやめて!」
 那美は目を閉じて叫んだ。
「ひどいよ! わたし、まだ生きてるから、待ってる人がいるから、だから帰らなくちゃいけないの! もう、やめてよ。わたしのことが好きなら、わかってよ!」
「那美!」
 それでも彼らは、橋の前に立ち両手を広げて、那美を通そうとはしなかった。
 那美は泣きながら、震えながら、手にした雪月を抜き放った。切っ先が「生」の光を帯びて白く煌めいた。
「どいて! そこをどいてくれないなら、わたしは……わたしは、お父さんも……お母さんも……斬る!」
「那美、もう一度考え直すんだ」
「そうよ、那美」
「もう、やめてっ!」
 那美は大声を上げて、地面を蹴った。


 ……いつか、必ず再びここに来るから、それまではどうか、お父さんもお母さんも、安らかに眠っていてください。
 ……そして北斗と二人で、またこの橋を渡ってきたとき、そのときは、今日のように、また優しく抱きしめてください。


 門から溢れ出してくる霊の力が、夜が更けるごとに強くなってきた。
「神気発勝、神咲一灯流……」
 薫が門を開き続ける力とは別の力で、十六夜を振るう。
「真威楓陣刃っ!」
 そして十六夜も、もはや動かすのすら億劫になってきた身体で霊たちを押し返す。
「追の太刀……疾!」
 光が迸る。けれどその光は、もはや今にも消え入りそうなほど弱々しいものだった。そしてついに、薫の放つ輝きが、闇の力に飲み込まれた。
「薫!」
 十六夜の力が逸れる。門の入り口がすぅっと縮まって、久遠が悲しそうに鳴き声を上げた。
 刹那。
「神咲一灯流、真威桜月刃っ!」
 白く輝く光が門の入り口から溢れ出し、そして、薫を包み込んでいた闇を切り裂いた。神咲那美が、愛刀雪月を手にして立っていた。
「那美っ!」
 歓喜の声。那美は、自分を抱きしめる姉に一度笑顔を見せると、力なく雪月を地面に落とした。
「薫ちゃん……」
「那美……」
 涙に荒れた頬と、腫れ上がった目蓋。薫は何も言わずに那美の身体を抱きしめた。
「よくやったぞ、那美……」
「わたし……正しかったよね……?」
 千切れるようにかすれた、弱々しい涙声で、那美が囁いた。
「間違ったこと、してないよね?」
 薫には、那美が何のことを言っているのかわからなかったけれど、ただ今は、力強く、妹を安心させるように頷いた。
「ああ。お前はよく頑張った。誰もお前を責めたりしない。そんなヤツがいたら、うちと十六夜が懲らしめてやるから、お前は胸を張っていいんだぞ」
「よかった……」
 那美はまなじりから涙をこぼすと、嬉しそうに微笑んだまま眠りに堕ちた。
 自分の胸の中で小さな寝息を立てる妹の姿を見つめながら、薫もまた涙を流した。
 それは、妹の無事に対する喜びの涙だった。
 十六夜が穏やかな微笑みを浮かべて剣に戻ると、久遠も嬉しそうに鳴いてから、狐の姿に戻った。
 ゆっくりと夜が更けて、静寂が町を包み込んだ。