『 二人、友情をかざして 』



  序

 [ 五月八日(火) 高町家 朝 ]

 午前七時、高町家の食卓は、談笑と味噌汁の匂いの中にあった。
 すでに朝の稽古に一汗流した後の美由希は、空腹を堪えきれず、ものすごいスピードで箸を往復させていた。
「はむはむ」
 晶の作った食事がどんどんテーブルから消えていき、次々と皿が積み上げられていく。まだ幼さの残る少女が一心不乱に食べ続ける光景は、ある種の狂気さえ感じられたが、しかし高町家の住人には、それはもはや、毎朝のごく当たり前の光景であり、誰一人として動揺する者はなかった。
 むしろ、美由希が穏やかに食事をしている方が、逆に身体の具合を心配してしまうほどだ。
 そんなわけで、周りの会話には一切参加していない美由希だったが、ふと、イカの煮物に箸を伸ばしたそのとき、その作り主の一言が耳に飛び込んできて顔を上げた。
「そいえば、今度この町に、ユージットがオープンするらしいですよ」
 ユージットというのは、全国にいくつも立ち並ぶ超大型ショッピングセンターのことである。建物内には衣類雑貨はもちろん、食料品から生活用品、小物、子供用品、果ては電気機器からカー用品に至るまで、一通りの店が入っており、ユージット一店舗あれば生活できるくらい、何でも揃うようになっている。
「あ、いいね。けっこう遠くまで行かないと、可愛い服とか買えなかったし」
 嬉しそうにそう言ったのはフィアッセだった。なのはもふろふき大根を頬張りながら、満面の笑みで頷いている。
「ユージットって、映画館もあるんだよね? 楽しみだなー」
 ショッピングセンターとしてだけではなく、アミューズメント性も兼ね備えたユージットの到来に、皆が思いを馳せる中、美由希は箸を休めて別のことを考えていた。
「でも、ユージットができると、ツーエム、潰れちゃうかもね……」
 ツーエムというのは、現在海鳴に存在する中規模のショッピングセンターのことである。正式名称はミリオンマイルスといい、ツーエムというのはその愛称だ。
 品揃えは決して豊富とは言えなかったが、それなりに妥協すればほとんどすべてのものを手に入れることができたが、やはりユージットと比較すると格段に落ちた。店舗もこの海鳴に一店舗存在するだけである。
 ユージットが強力な競合他社としてこの海鳴に進出してこれば、ツーエムから客が流れるのは必至だった。それはつまり、ツーエムが潰れることを意味する。
「うーん。でも、それはしょうがないよ。弱い者はたおされる。勝負の世界って、そんなもんだし」
 晶の一言に、恭也もレンも頷いていた。桃子やフィアッセなどは、やはり「潰れる」という言葉のイメージに、やや悲しげな瞳をしていたけれど、それでも致し方なさを隠せないでいる。
 美由希自身も晶の意見には同感であった。少なくとも、彼女よりは弱肉強食の世界にその身をおいているつもりでいる。
 それに、やはり便利さを考えると、ユージットの進出は、美由希にとっても喜ぶべきことだったのだが、ただ一つだけ気になることがあった。
「ツーエムにある小物屋さん、好きだったんだけどな……」
 ツーエムの中に入っている、一件の小さな小物屋。その店は、何故か中指大の剣の置物やら、手裏剣の携帯ストラップやら、わけのわからないものがたくさん置いてあって、美由希はいたく気に入っていたのだ。そして、そんな意味不明な店は、ツーエムの他に見たことがない。
 美由希はツーエム自体はともかく、その店がなくなってしまうのが嫌だった。
「美由希は変なものが好きだからねー」
「えっ? ち、ちが……」
 桃子の痛烈な一言に、反論する間もなく食卓が笑いに包まれた。
 言葉のやり場を失って、美由希は頬を膨らませたまま、イカの輪っかを口の中に放り込んだ。
 朝の高町家は、いつも通り賑やかだった。


 [ 五月八日(火) ユージット建設現場 夕方 ]

 鳴海の駅から少し離れた、海にほど近いところにある広大な敷地。そこに、巨大な建物が、ようやくその外観を少しずつ形成し始めていた。
 オープン日はまだ先のことだったが、建物自体が完成するのは、もうそんなに先の話ではないだろう。
 曇天の下、作業員たちは各自の持ち場で黙々と作業していた。彼もまた、その一人だった。
 彼はビルの四階くらいの高さで、足二つ分ほどの幅の足場に乗って、建物の外壁となる部分にへばりつくようにして作業していた。
 彼は建設業に入社し、現場で働くようになってから十余年になるベテランの作業員だった。だからその彼が、足場を踏み外すなどとは誰も思わなかったし、ましてや安全ベルトを締め忘れるなど、有り得ないことだった。
 しかしその日、彼はその足場から身を投げ出した。
 その時彼は、自分の足に何かが巻き付くような感触があったのだが、彼の口からそのことが他の者に伝わることはなかった。
(なんだ?)
 彼はまず、ふわりと宙に浮かび上がったことに対して疑問に思い、それから冷静に足場から落ちたことを知った。
 そして落下しながら彼は、次にベルトが自分の身体を受け止めてくれる衝撃に堪えるように、目を閉じて身体に力を入れていた。
 ところが、どれだけ落下してもベルトによる衝撃はなく、彼は訝しがって目を開いた。そして、自分の身体から離れ、風に揺れながら足場にぶら下がっているベルトが、彼の見た最後のものになった。
(なぜっ!)
 一瞬、ヘルメットを貫通して、頭から首にかけてものすごい衝撃を受けたと同時に、彼の命は失われた。
(なぜ……俺が死んだ?)
 自分の死体と、集まってくる仲間たちを、彼はじっと見つめていた。それから彼は、自分が死んだにも関わらず、意思だけがそこに取り残されていることに気が付いた。
 そして近付いてくるサイレンの音や、現実世界にあるその他の色々なものを見つめながら、自分のことや、家族のことを考えた。
 理不尽な死。届かない叫び。孤独。死してなお、意思のみ取り残された自分の行く末。
 そんな様々なことが、彼の意識の奥に停滞し、それは次第に妬みや憎しみへと変わっていった。
(なぜ俺だけが……。なぜ俺が選ばれた……)
 彼の怒りが、作業現場一帯を取り巻いた。


 [ 五月八日(火) ミリオンマイルス会議室 夜 ]

 ツーエムの事務所は、店舗とは別に存在する。三階建ての小さなビルで、店舗からは想像もつかないような規模だった。
 日も暮れ、海鳴の町が静まり返る頃、そんな事務所の二階の、やはり小さな会議室に、四人の男がいた。
 スーツ姿の男が二人と、黒ずくめの男が一人、そして、まだ若い、二十歳ほどの普段着の男が一人。
 スーツの男たちは二人とも深く椅子に腰掛けていたが、他の二人は入り口近くに立っていた。
 黒ずくめの男が、低い声で言った。
「言われたとおり、一人始末したが……」
 一人というのは、夕方ユージットの建設現場で『事故死』した男のことだった。
 彼が誰かに殺されたことを知っているのは、ここにいる男たちと、そして死んだ彼の他には誰もいない。
 スーツの男が深く頷いてから、もう一人の若い男に言った。
「それで……。後はお前に任せておけば大丈夫なんだな?」
 若い男はにやにやと笑って答えた。
「ああ。後はこっちでやってやるぜ」
「そうか……」
 スーツの二人が安堵の息を洩らすと、先程の黒ずくめがもうここには用はないと言わんばかりに踵を返した。
「じゃあな。仕事が済めば、もうあんたたちに用はない。金はまた後日取りに来るから、指定日までに用意しておけよ」
 そうして男がさっさと部屋から消え去ろうとしたとき、若い男が思い出したように言った。
「ああ、そうそう。忘れていた」
「ん?」
 スーツの二人が何事かと目を開き、黒ずくめが足を止める。
 若い男はやはりいやらしい笑みを絶やすことなく、物騒なことをさらりと言ってのけた。
「俺が仕事するに当たって、邪魔になりそうなヤツが一人いるんだ。できれば、おたくさんたちの方で、そいつも始末しておいてもらえると嬉しいんだけど」
 スーツの男が渋面になった。
「そんな話は聞いていないが……」
 それに、黒ずくめも同調する。
「なんだ? 結局お前は、一人では何もできないような男なのか?」
 方法は違えど、同じ殺し屋としてのプライドが彼にその言葉を吐かせたのだろう。けれど、そんな黒ずくめの皮肉をものともせず、若い男は笑いながら言った。
「いや、俺の力はそいつを上回っているが、如何せん、傀儡どもがそいつの持つ力と剣に勝てないから、俺にもどうにもならんよ」
「なるほど」
 スーツの一人が、彼の話に理を認めて頷いた。それから黒ずくめに目を遣って、厳かに言い放った。
「では、この際、一人でも二人でも同じだ。金は惜しまん。その代わり、何としてもユージットの海鳴進出だけは、お前たちで阻止してくれ」
 黒ずくめが笑った。
 何に対する笑いかは誰にもわからなかったが、恐らく、ツーエム幹部のやり方に対する侮蔑と、そういう者を相手にしか仕事をできない自分への自虐から出た笑いだろう。
 黒ずくめが背を向けたまま、若い男に尋ねた。
「それで? そいつの名は?」
「西町の八束神社で巫女をしている、神咲那美という女だよ」
 若い男の言葉に、やはり黒ずくめが侮蔑をはらんだ声で笑った。
「容易いな」
 そして、部屋から言葉が消えた。