『 二人、友情をかざして 』



  壱

 [ 五月十六日(水) 八束神社 夕方 ]

 なのはが久遠と戯れているのを、晶が面白そうに見ては、時々声をかけていた。初めはなのはにしか懐かなかった久遠も、最近では晶を初め、高町ファミリーの誰にでも自分の方から擦り寄ってくる。
 そんな、楽しそうに遊ぶ二人と一匹を、賽銭箱の前の段に座って、那美と美由希がぼーっと眺めていた。
「久遠がわたし以外の人に、あんなに懐いているなんて、今さらだけど、信じられません」
 手元にお茶でもあれば似合いそうな、ゆったりとした口調で那美がそう言いながら、持っている箒を軽く胸元に引き寄せた。
 先程まで神社の境内を掃除していたのだが、今はもうそれも終えて、美由希と二人で穏やかな春の夕暮れ時を堪能している。
「晶も、久遠と一緒にいるとなんだか女の子みたいだね」
 美由希が晶の方を見ながらそう言って、慌てて首を振った。
「ああ、もちろん晶は女の子なんだけど、そういう意味じゃなくて、その……」
「わかってますよ、美由希さん」
 慌てる美由希を見ながら、那美が可笑しそうに口元に手を当てた。
「わたしも初め、晶ちゃんのこと、男の子だとばかり思ってましたし……。最初からあんなふうに、女の子っぽく笑っていたら、きっと間違えなかったでしょうけど」
「まったくです」
「でも……」
 頷く美由希に、那美がいらずらっぽく、けれども決して嫌味にならない程度に微笑んだ。
「それを振っている美由希さん、時々本当に女の子なんだろうかって思っちゃいますよ?」
 それ、というのは、美由希の横に置いてある木刀のことだった。那美が境内の掃除をしている間に、美由希も少し体を動かしていたのだ。
 もっとも、美由希の「少し」は、常人のそれを遥かに凌駕している。素人目に見てもその道の達人がようやくできそうな動きを、どう見ても普通の高校生にしか見えない少女が難なくこなしているのだから、那美の発言はもっともだった。
 美由希が木刀に目を落とすのを見て、那美が付け加えた。
「でも、そんなことを言うと、レンちゃんもなかなかすごいですよね」
 美由希と同じく達人レベルの技を使ってみせる晶。その晶を、いともあっさりと負かすレンの姿もまた、那美は何度か目にしていた。レンは、動きに派手さはないが、素手での接近戦においては比類なき強さを発揮する。
 美由希が楽しそうに笑った。
「兄は兄でおかしいし、うちは武芸一家ですから」
 笑いながら、美由希は嬉しさをかみしめていた。
 過去、自分の剣術を知って、軽蔑したり恐れなかった者がなかった。ましてや、こんなふうにそのことで笑うことのできる相手などは、まったく皆無だった。
 それ故に、ずっと自分を押し隠し、友達の一人も作らずに孤独に生きてきた生活の中に、ようやくこうしてありのままの自分で接することのできる友達が出来たのだ。美由希にはそれが涙の出るくらい嬉しいことであり、実際に泣いてしまった夜もあった。
 けれどもそれは那美の方も同じであり、自分に対して本当に嬉しそうに笑ってくれる友達に向かって、やはり最高の笑顔で応えた。
「いいですねー。そういうのも、好きですよ」
 平和な時間が、二人の間を緩やかに流れていった。


 静かに日暮れが訪れて、美由希は一度暗くなった空を見上げてからゆっくりと立ち上がった。
「晶、なのは。そろそろ帰ろうか」
 美由希の声に、二人はまだまだ元気な表情で頷いた。狐の方はもうくたくたになっているらしい。なのはの手から放れるや否や、ぐったりと地面に寝そべった。
「それじゃ、那美さん、今日はありがとうございました」
 美由希がぺこりと頭を下げると、慌てて那美も、
「あ、いえ。こちらこそ」
 勢い良く頭を下げて、ゴツッと頭をぶつけ合う。
「痛ったー!」
「うぅ……」
 二人で頭を押さえて涙目で悶絶している姿を、晶となのはが不思議そうに見つめていた。
 それから、石段を楽しそうに下りていく三人を見送ってから、那美は久遠を抱き上げた。
「お疲れ、久遠」
「くぅぅん……」
 細い腕の中で、久遠は一度那美の顔を見上げてから、すぐに地面に顔を落とした。どうやら本格的に休ませてほしいらしい。
 那美はそんな久遠の心境を察して、そっと久遠を足元に降ろした。
「さてと……。美由希さんも帰っちゃったし、わたしももう帰ろうかな」
 うんと一度のびをして、振り返ったそこに、白い細長い包みが置いてあるのに気が付いた。美由希が忘れていったものらしい。
「ああ! 美由希さん、忘れてる!」
 那美は慌ててそれに駆け寄ると、両手で包みを抱え上げた。重さからすると、先程の木刀のようである。
 那美はそれを持ったまま、うーんと考え込んだ。
 すぐに届けに行くべきか、明日学校で渡せばいいか。あるいは、今夜の鍛錬で取りに来るだろうか、それとも、今度遊びに来たときでも大丈夫なのか。
「困ったなぁ……」
 悩むように目を閉じたその時、
「くぅん!」
 背後で叫ぶような久遠の声がして、那美は背中に衝撃を受けた。
「きゃっ!」
 思わず包みを投げ捨て、つんのめるように地面に倒れ込む。先程まで彼女の喉のあった場所を、何かが風を切る音を立てながら通り過ぎ、トスッと、神社の柱に突き刺さった。細い、手の平大のナイフだった。
「久遠?」
 まだ状況を把握できてない那美が、身体を反転させ、地面に尻餅をついた格好で、咎めるように久遠を見た。背中に受けた感触からして、自分を突き飛ばしたのが久遠であることはわかったけれど、その理由がわからない。
 那美が唇を尖らせながら見たそこに、人の姿を取った久遠が険しい目つきで立っていた。そしてその視線の先に、一人の男。那美の身体が硬直した。
「なるほど。殺気に気付くとはただの狐じゃないと思ったら、化け物だったというわけか」
 男が、手にしたナイフを指でクルクル回しながら言った。那美は素早く立ち上がって、男を睨み付けた。
「あ、あなたは何ですか! そんなもの投げて、当たったら危ないじゃないですか!」
 毅然として言い放ってから、すぐに場違いなことを言ったことに気が付いたが、しかし男はまったく動じずに、楽しそうに笑っただけだった。
「ほう。危ないか……?」
 男が一歩前に踏み出した。空気が震えるような、圧倒的な威圧感。
 那美が怯えるように一歩下がり、それを見た久遠が前に踏み出すや否や、爪を立てて男に襲いかかった。
 しかし男は、そんな久遠にまったく恐れる素振りを見せずに、平然と、
「危ないってのは、例えばこういうことか?」
 ちらりと那美の方を見てから、素早く両手を動かした。
 男の手を離れたナイフが、久遠の足すれすれを通り過ぎるや否や、そこから急に動きを変えて、クルッと久遠の足に巻き付いた。どうやらナイフの端に、細い糸が結ってあるらしい。
 それが証拠に、先程投げつけて柱に刺さっていたナイフもまた同じように、まるでそれ自身に意思があるかのように柱から離れると、やはり久遠のもとへ一直線に走り、彼女の首に巻き付いた。
「くぅっ!」
「久遠!」
 那美が悲鳴を上げる。久遠は首や足から血を迸らせながら、男に届く直前で地面に崩れ落ちた。
 男は自分の足元でもがいている久遠を踏み付けると、糸を強く引き寄せた。
「……っ!」
 久遠が声にならない叫びを洩らして、じたばたと暴れる。しかし、もがけばもがくほど食い込んでいく糸に、やがて久遠は大人しくなった。地面に、こぼれたペンキのように、赤い血が広がる。
「久遠っ!」
 震えながら叫ぶ那美。男はそんな那美の悲鳴を楽しげに聞きながら、腕からまた別のナイフを取り出した。そしてその刃先を久遠の首に当てる。
「や、やめて!」
 那美が泣きながら、久遠の方に駆け出した。


「……あ」
 美由希が忘れ物に気が付いたのは、石段をようやく下まで降りたときのことだった。
「どうしたの? 美由希ちゃん」
 急に足を止めた美由希に、晶が不思議そうに尋ねる。美由希はペロッと舌を出した。
「ごめん。木刀忘れて来ちゃった」
「ああ、ごめん。俺も気付かなかった」
 済まなそうに謝る晶に慌てて手を振って、美由希が言った。
「べ、別に晶が謝ることじゃないよ。わたしのいつものドジなんだから」
「今から取りに行くの?」
 もう辺りもだいぶ暗くなっていて、心配そうになのはが尋ねた。美由希はそんななのはの頭を軽くなでると、
「すぐに戻るから、晶と二人で先に帰っててね」
 言うが早いか、石段をかけ登り始める。
「すぐに戻ってきてねー」
 なのはの大きな声に軽く手を振ると、美由希は石段を二段飛ばしで登っていった。辺りにあまり光はないが、この階段は登り慣れていたし、元々夜目が効くから不安はない。
 石段を駆け登りながら、自分の相変わらずのドジ加減にため息を吐く美由希が、ふとその頂上から漂ってくる殺気に気が付いたのは、ようやく社の屋根が見えてきた時のことだった。
(殺気? 那美さん!)
 美由希がさらにその速度を速めた。


「久遠から離れて!」
 無鉄砲に駆けてくるターゲットを、男はあきれるような顔で見つめていた。
 いくら依頼とは言え、裏の世界ではそれなりに名の知れた自分が、こんな武芸の「ぶ」の字も知らないどころか、平均的な女子高生よりも運動能力の低い娘を殺さなければならないことに対して、情けなくなったのだ。
 初めはせめてもの楽しみに、じわじわとなぶり殺しにしてやろうと思っていたが、なぜだかあまりにも哀れに思えて、せめてひと思いに殺してやろうと思い直した。
 ビュッ!
 久遠の首もとにあったナイフが、那美の喉目がけて銀色の線を描いた。
「あっ!」
 反射的に地面に転がり込む那美。首筋に焼けるような痛みが走ってから、生暖かいものが白衣を濡らしていくのがわかった。
「い、痛い……」
 左肩を押さえながら、那美はよろよろと立ち上がった。転んだ拍子に、地面に打ち付けてしまったのだ。
 ナイフが傷付けた首から流れる血が、白衣と襦袢の襟を真っ赤に染め上げていた。けれど、出血の割には傷は浅いらしく、痛みもほとんどない。
 あまりにも情けない娘の様子に、男は一瞬、荷物をまとめて故郷に帰りたくなるような絶望感に囚われたが、それでもこのくだらない仕事を完遂するべく、プロとして、先程投げつけたナイフの紐をクッと引き戻した。
 ナイフが彼女の背後から、心臓目がけてその進路を変えた。
 カシッ!
 そのナイフが、不意に金属音を立てて地面に落下した。ナイフの存在にまったく気付いてなかった那美が驚いて振り向くと、地面に転がったナイフの向こうに、風のように駆けてくる一つの人影があった。
「美由希さん!」
 歓喜の声。美由希はその声に脇目も振らず、那美の横を風を切って通り過ぎると、常備している七番の鋼糸を投げつけた。
「ちっ!」
 男はまったく予期しなかった凄腕の登場に、悔しそうに舌打ちしながらも、鋼糸を難なくかわしながらナイフの糸を引いた。
 那美の足元に転がっていたナイフが、再び命を持ったように襲いかかる。
 しかし美由希はそれを俊敏な動きで横にかわすと、
「ええいっ!」
 一気に男との間合いを詰めて、右肘を放った。
 男はそれを、身体を反らせてよける。美由希は反動を利用して、身体を一回転させると、左の踵を男の顔へと打ち込んだ。
「ガキがっ!」
 男はその足をガシッと受け止めると、そのまま美由希を持ち上げて投げ飛ばした。美由希は逆らわずに投げ飛ばされ、受け身を取りながら起き上がる。
「はぁぁぁぁ……」
 男と間合いを取ったまま、美由希は長く息を吐いた。けれど、その次の攻撃へは移れなかった。相手の力量が、少なくとも体術に関しては自分を上回っていることを悟ったのだ。
 刃物がなければ勝てる相手ではない。美由希は男を睨み付けたまま言い放った。
「何が目的で那美さんを狙った!」
 那美が人に恨みを買うような娘ではないことを、美由希はよく知っていた。
 対して自分は、身体に御神の血が流れる限り、いつ狙われてもおかしくない存在である。だから、那美が自分を狙う何者かに、最終目的を完遂するための手段として狙われたのだと考えた。
 ところが男はその質問には答えずに、両腕からナイフを取り出すと、同時にそれを投げつけた。一本は美由希の懐へ、一本は……。
「那美さん!」
 美由希は自分に飛んできたナイフを避けながら、久遠に絡まった糸を解いていた那美目がけて走るナイフに、鋼糸を投げつけた。
 ナイフがその進路を変えて、那美と久遠の間をすり抜けていく。
「ひっ……」
「くぅぅん!」
 ひるむ那美と、猛る久遠。美由希は鋼糸を放棄して、木刀へと駆けた。鋼糸を持っていると、素早い動きができないと判断したのだ。
 男はやはり那美を狙っている。もしも自分を狙っているのなら、この状況で那美を狙う必要などないからだ。
 自分が木刀を取りに行く一瞬の隙に、男が彼女を殺してしまうかも知れない。
 美由希は木刀の包みを片手で取ると、素早く那美の隣に立った。
 ようやく糸を解かれた久遠が、やはり彼女を庇うようにして、那美の前に立つ。足の怪我が思いの外ひどいようだが、戦えないほどではないらしい。
 この状態ならば、勝てる!
 美由希が踏み出そうとしたとき、男が言った。
「……お前は、御神の生き残りか?」
「えっ?」
 言葉に動揺した美由希の一瞬の油断。その隙に、男は美由希に勝てないと判断したのか、身を翻すと木々の間に消えていった。
「あっ!」
 美由希は慌てて追いかけようとしたが、すぐにそれを思い直した。那美への刺客は一人とは限らない。今は彼女の側にいた方がいいだろう。
 美由希は肩を押さえながら震えている那美をその場に座らせると、首の応急処置を始めた。久遠もまた、彼女の傍らで自分の怪我の具合を見ながら、時々心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ」
 美由希の言葉に、那美は興奮冷めやらぬ様子で、コクコクと何度も首を縦に振った。
 それはそうだろう。突然刺客に狙われて、平気な者などいない。
 ……自分もそうかはわからないが。
「那美さん、誰かに狙われるような覚えはありますか?」
 首の手当てを終え、今度は肩の様子を見ながら美由希が尋ねた。
「わたしが那美さんを守りますから、何も隠さずに教えてください」
 真っ直ぐ那美の目を見てそう言うと、那美はようやく落ち着いたように息を吐いて、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。
 しかしすぐに悲しそうに視線を落として首を振る。
「わかりません。わたし、そんな、命を狙われるようなこと……」
 言いかけて、再びたった今、自分が死んでいたかも知れないと言う恐怖が立ち戻ったのか、那美は怯えたように身体を震わせた。
 美由希はどうしたらいいのかわからず、困り果てて不安そうに那美の顔を見つめていた。
「くうぅん」
 狐に戻った久遠が、やはり不安げに声を上げ、那美の足元に顔を擦り寄せる。回復力が人より早いのか、もう出血は止まっているようだった。
 那美はしばらく自分の身体を抱きしめて震えていたが、やがて少し落ち着いたように深呼吸すると、
「ごめんなさい。取り乱してしまって……」
 美由希の目を見て頭を下げた。美由希は慌てて首を振る。
「いいえ、いいんですよ、那美さん。それより、もう怖がらないでください。那美さんは、わたしが守りますから」
 もう一度、繰り返した。
 こんな自分にできたせっかくの友人を、こんなところで失ってたまるかと思うと同時に、自分から大切な友達を奪おうとした先程の男に対して、燃え盛るような敵意を覚えた。
「那美さんは、わたしが守る……」
 呟くようにそう言うと、那美が嬉しそうに微笑んでから、目を閉じた。
 そしてしばらく自分の最近の生活を思い出して、はたと気が付いて目を開けた。
「あっ、そういえば……」
「何ですか?」
 美由希が真剣な瞳で先を促す。解決の糸口を、一言一句聞き漏らすまいという表情だ。
 那美は自分のために必至になってくれる美由希に感謝しながら、彼女と同じように真剣な表情で、ゆっくりと語り始めた。
「はい。関係ないかも知れませんが、実は、一昨日のことなんですけど……」


 [ 五月十四日(月) ユージット建設現場 夕方 ]

 学校が終わるや否や、携帯電話がその無機質な呼び出し音を立て、那美は制服のまま、出迎えのパトカーに乗った。
 そしてそのまま連れられた先は、大手ショッピングセンターのユージット、海鳴店の建設現場だった。
 ユージットというと、一週間ほど前に建設作業員が一人、転落死した記事が翌日の新聞に載っていたのを那美は記憶していたが、聞くと、その後も事故が相次いでいるらしい。
 しかもその後の事故はすべて、「本来ならば有り得ない事故」で、今日現在死亡者が六名、怪我人が一八名。工事も一旦中止になっているとか。
 そしてその、「本来ならば有り得ない事故」というのがどういうものかというと、目撃した作業員や、運良く一命を取り留めた者の話では、
「突然身体が動かなくなり、何者かに後ろから引っ張られるような感じがして足場から転落した」
 とか、
「固定されていた鉄骨が突然浮かび上がったかと思うと、頭の上に落ちてきた」
 とか。ひどいものでは、もっと直接的に、
「急に息が出来なくなって、まるでこの世の中から酸素がなくなったみたいな感じだった」
 とか……。
 そんな不自然な事故が相次いだために、ついに霊能力を持つ神咲家の末娘、神咲那美が呼ばれたのである。
 現場に着くや否や、那美はただならぬ気配を察知した。それは、あからさまな殺意。しかも霊的なものだった。
(これは……何?)
 現場に一歩踏み込んだ瞬間、半狂乱の魂たちが、自分の命に向かって食いかかってくるのがわかった。それは尋常ではない。
 那美は付き添いの警官たちに現場に近付かないよう指示し、自分は護符を付けると一人で彼らの中に入っていった。少なくとも、これがある限りは、よほど強い力を持った霊が相手ではない限り、こちらには一切手出しできない。
「ねぇ」
 那美は首を傾げながら問いかけた。
「あなたたちは、一体誰に対してそんなに怒ってるの? 何を恨んでるの?」
 できるだけ優しく声をかけたが、しかし彼らはただ那美の周りをグルグル回るだけで、隙あらば彼女のはらわたまで食らってやろうと、殺意を漲らせるだけだった。
(この霊はもう、斬るしかないのかしら……)
 那美は渋面になった。
 本当にもう救いのない霊ですら、斬るのにはためらいがある彼女には、今ここに漂っている霊たちを斬るのは、あまりにもつらい決断だった。
 なぜなら、彼らがなぜ死んで、何を恨んでいるのかもわからないままだからである。本当にもう救いがないのか。まだ死んでから一週間も経っていないような霊たちが、なぜここまで自分の問いかけに答えてくれないのか。
 那美にはわからなかった。過去にこんなことは一度としてなかった。
 今まで、どんな霊でも、自らに話しかける者を拒もうとはしなかった。彼らは普通、肉体が死に、意思だけが残ってしまったことに対する不安や恐れ、それから孤独や悲しみがある。だから、その苦しみに耐えきれず、狂ってしまった霊でもない限り、自分たちに話しかけてくれる存在を拒んだりはしない。
 だとすると、これは一体どういうことなのだろう。
 那美は自分にだけ見える、狂った彼らを見ながら考えた。
(最初の一人の霊が次の一人を……殺して、その二人がまた別の一人を……)
 次々と増えていく霊の数。日が経つにつれて、加速度的に増えていった事故。
 那美は事故のからくりは理解したが、その一番奥にあるものがどうしても理解できなかった。
 だからその日は、警官たちにそのことだけを伝えると、悩みを抱えたまま事故現場を後にした。
 背後で魂たちが、グルグルと彷徨い続けていた。