『 二人、友情をかざして 』



  参

 パンッ!
 乾いた音が、星の夜空に響き渡った。
(美由希さん!)
 赤い靄の隙間から、那美は驚愕のあまりに目を見開いた。
 先程まで聞こえていた自分の肋骨の軋む音や、肉を引き裂かれるような痛みが失われ、自分の持ち合わせるすべての感覚が、美由希の姿を見つめる視覚に使われたようだった。
 ドクンと一度、大きく心臓が打ったのは、決して痛みのせいではなかった。
(美由希さんが……撃たれた……?)
 この海鳴に引っ越してきてから、初めてできた親友だった。
 どこか暗い陰を帯びながら、それでもいつも明るく笑っている女の子だった。
 自分に似たところがあって、例えばそれは、何かと戦っているところだったり、あるいは、ドジなところだったり。
 そんな、親近感を覚える人だった。
 何よりも大切で、誰よりも大好きだった。
 その美由希が、目の前で銃に撃たれた。
(わたしのせいで?)
 気温が一気に下がったような気がして、身体が震えた。自分の中で、急速に生気が失われていくのがわかった。
 もう、このまま、この魂たちに食い殺されてしまえばいい。
 那美は、あきらめて目を閉じた。
 けれどそのとき、すでに那美を苦しめるものは存在しなかった。
(なに?)
 那美は急速に身体を蝕み始めていた睡魔を払い除けると、うっすらと目を開けた。
 先程まで真っ赤に燃え滾っていた魂たちが、次々と白い、元の霊魂の姿に戻っていく。そしてその遥か先に、自分の一番好きな親友が、手にした刀を呪い師の腹に埋めて、両脚でしっかりと立っていた。
「美由希さんっ!」
 那美は雪月を手にして半身を起こした。


 気が付くと美由希は、呪い師の腹を斬り裂いて立っていた。
「はぁ……はぁ……」
 自分でも何が起きたのかよくわからない。
 ただ、必死だった。
 男が銃を構え、その引き金を引いた瞬間、美由希は自分の持てる限りの力で、その弾をよけようと試みた。
 それは彼女の、これまでの訓練と、御神の血の為した、無意識の仕業だった。
 ずしりと周囲が重くなり、風がやんだ。那美の悲鳴も聞こえなくなった。
 ただ引きつった男の笑みが眼前にあり、景色は色を失った。
(ああ、わたしは死んだんだ……)
 美由希は一瞬そう思ったが、目の前に鉛玉がゆっくりと自分の心臓目がけて飛んでくるのを見て、考えを変えた。
 いや、生死よりもまず、その玉を「よけられる」と感じたのだ。
 そして彼女はその玉をよけて、まったく無防備な男の腹部に、自らの小太刀をめり込ませた。
 後からそれが、兄が得意とする御神流奥義の歩法、『神速』であると知った。
 時が再び動き始めた。
「ごふっ!」
 大量の血を吐き出して、男は崩れ落ちた。
「あぁ……」
 あからさまに狼狽えるスーツの男たち。彼らは一体何者で、何のためにここにいるのだろうと、美由希は考えた。
 けれど、すぐにその思考を投げ捨てた。恐らく彼らが、この者たちの依頼主で、怖いもの見たさか、それに近いくだらない理由でここにやってきたのだろう。考えるだけ無駄である。
 美由希は小太刀を引き抜いた。
「ぐっ!」
 喉の奥に血が詰まっているらしく、苦しそうにもがいてから、再びがぼっと吐血して、男はぜぇぜぇと荒い息をした。
 そしてもはや視力を失った目を中空に彷徨わせ、独り言を呟き始めた。
「この俺が……まさかな……」
 口の端で、血が泡になっていた。美由希が一瞬たりとも気を抜かずに彼を冷酷な瞳で見下ろしていたが、彼はそんな彼女のことなどまったく気にも留めなかった。
「まだ、二十三だぜ、俺……おいおい。マジかよ……」
 そして一人で、「ひひひ」と笑ってから、再び彼はむせ返った。
 喉が千切れるほど咳き込んで、ようやくそれが収まったとき、彼はすでに死の淵にいた。
「あー……俺、死ぬんだな」
 そして、
「どうせだから……ここにいる、全員……道連れだ……」
 彼は、息絶えた。
 同時に、彼の身体から、幽魂が離脱するのが見えた。はっきりと、それは白い光を迸らせながら、人よりも一回り大きな塊になった。
「ひえっ!」
 美由希が一度鋭く小太刀を薙いだが、逆にそこから電流が流れ、思わず太刀を落としてしまった。
「熱っ!」
「美由希さん!」
 那美の声がして、美由希は素早く後退した。初めにナイフでえぐられた太股がズキッと鈍い痛みを発したが、走れないほどではない。
 左腕をだらりと下げながら、それでもしっかりと右手に抜き身の雪月を握り締め、那美は悠然と立っていた。
 すでに気力が痛みを凌駕しているらしい。血の流れる那美の細い腕や、ボロボロになった緋袴を見て美由希は思った。
「美由希さん、後はわたしに任せて。美由希さんは、わたしを援護してください!」
「は、はい」
 美由希は那美の威勢に気圧されるように頷いてから、足元に転がっている男の死体からナイフを奪い取った。長さは違うが、柄の太さが使い慣れている小太刀とほとんど同じで、手にしっくりくる感じがある。
 白い靄が再び赤く染まり、呪い師の魂の周りに集まっていくのを見つめながら、美由希が那美に尋ねた。
「そ、それで、わたしはどうすればいいですか?」
 援護しろと言われても、実体のないものを斬る術を、美由希は持っていない。そんな自分に「援護して」と言うくらいだから、きっと那美は何か秘策を持っているのだろうと思ったが、
「美由希さん!」
「はい!」
「適当に援護してください」
 那美は背中越しにそう言うと、雪月を握ったまま呪い師の魂目がけて、一直線に走り出した。
 美由希は思わずコケそうになったが、なんとか踏みとどまって那美の背中を見た。
 お世辞にも誉められるような踏み込みではなかったし、隙だらけだった。うっすらと白い光をまとった雪月は、なるほど残兵をたおすのには効果がありそうだったが、それでも、当たらなければ意味がない。
「いやぁぁっ!」
 那美が渾身の力を込めて振り下ろしたそれを、巨大な白い靄はあっさりとかわした。その那美の周りを、赤い魂たちがグルグルと回り出す。
 那美は彼らには一切手を出そうとせずに、ただ呪い師の魂を睨み付けて言った。
「この人たちに力を借りないと、あなたは何もできないの? 正々堂々勝負しなさい!」
 その一言に、美由希は那美が、あくまで作業員の魂を刀で斬る気がないことを悟った。
「ダメだよ、那美さん!」
 美由希は走り出した。
 赤い魂の一つが、背中から那美に襲いかかる。
「きゃっ!」
 勢い良く吹っ飛んだ那美の鳩尾に、別の魂が突き刺さった。
「うっ……」
 那美の身体がくの字に折れ曲がり、口からねっとりとした赤い液体が流れ落ちた。
「那美さん!」
 美由希はナイフを振りながら霊魂を追い払おうとしたが、彼らはそのナイフをすり抜けて、逆に彼女に襲いかかってきた。
 美由希はそれをよけるのに精一杯で、まったく那美に近付けない。その間にも那美は、まるで集団リンチを受けるように、魂たちに攻撃されては、手も足も出ないまま地面を転がっていた。
「那美さんっ!」
 美由希は涙目で叫んだ。
「那美さん、斬ってください! その魂も斬ってください! そうしないと……そうしないと、那美さんが殺られてしまいます!」
 美由希の肩に、魂の一つが後ろから体当たりしてきて、美由希は地面に倒れた。
 そのまま受け身を取って起き上がろうとしたが、刹那、呪い師の霊が背中に乗ってきて、それは叶わなかった。
「きゃっ!」
 すさまじい重圧が背中からかかり、自分の身体が地面にめり込んでいくのがわかった。
「美由希……さん……」
 那美は雪月で一度魂を振り払うと、よろめく足で大地を踏みしめた。膝が笑っていたが、それでもなんとか起き上がり、呪い師の霊に斬りかかる。
 そんな那美を見て、呪い師が哄笑した。
『無駄だ』
 那美にしか聞こえない、霊の声。魂の一つが、那美の薄い胸に横から突撃をかけた。
「くっ!」
 那美は急ブレーキをかけて止まり、身体を後ろに反らせてそれをかわすと、その反動を利用して、呪い師の霊に向かって雪月を投げつけた。
『なにっ!』
 まさか武器を手放すとは思っていなかった呪い師は、その刀の輝きに身を削られながら、美由希から飛び退いた。
 美由希は干涸らびていた肺に、思い切り空気を吸い入れると、地面に転がっている雪月を拾い上げて、那美のもとへ走った。
 そしてそれを振り回しながら、再び的になっていた那美の隣に立つ。武器を手放してしまった那美は、そのわずかな間にまた一段と傷を増やしていた。
「那美さんっ!」
 まるで赤い手袋でもしているかのように、血に染まった那美の右手に雪月を握らせると、那美はそんな美由希を見つめながら、力強く頷いた。
「大丈夫……大丈夫です、美由希さん」
 美由希にはとても大丈夫には見えなかったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。仮に大丈夫でなかったとしても、それこそ両腕をもぎ取られようが、戦ってもらわなければならない。
 そうしなければ、二人とも死ぬ。
「美由希さん」
 七体の魂を牽制しながら、那美が言った。
「次の一撃で決めます。もう、わたしにはそれくらいの力しか、残ってないから……」
「はい」
 神妙に頷く。頷きながら、ちょうど足元に落ちていた一本の小太刀を手に取った。初めに持っていた内のもう一本は、少し離れたところに突き刺さっている。
 ちらりと横目でその様子を見ながら、那美は血でぬめる右手に、動かすだけでも激痛の走る左手を添えた。
「うっ!」
「那美さん!」
「だ、大丈夫……です」
 那美は顔をしかめながら、足場を確かめるように一歩前に踏み出した。
「少しの間だけ、この魂たちを引きつけてください。お願いします」
 方法はわからなかったけれど、やるしかなかった。
「じゃあ、那美さん。わたしがあの呪い師に向かって突撃をかけます。那美さんはわたしの背中から、わたしが作った道を通って、あの呪い師に攻撃してください」
「でも、それじゃ、わたしは美由希さんの背中を斬り付けることになります!」
 那美が不安そうに顔を歪めたのを見て、美由希はなるべく明るく笑って見せた。
「大丈夫です。ちゃんと、よけますから」
 那美は、彼女を信じて頷くしかなかった。
「じゃあ、行きます!」
 美由希の足が地面を蹴った。そして自分の前に立ちふさがる魂を、小太刀の連撃で牽制しながら突き進む。時々横から攻撃を受けたが、美由希の足が止まることはなかった。
 その後ろを、那美がよろめきながらついていく。そしてついに美由希が呪い師の魂に辿り着いた瞬間、那美は雪月を振り上げた。
「神気発勝、神咲一灯流……」
 刃が青白く輝き出し、光が迸った。周囲を明るく照らし出すその輝きを背中に受けて、美由希は魂の直前で横に飛んだ。
 否、飛んだつもりだった。
「えっ……?」
 何かに足をつかまれる感触。急に身動きがとれなくなって、美由希はもがいた。見ると自分の両足に、呪い師の魂がツタのように絡みついていた。
 そんな美由希の後ろから、絶対に彼女がよけてくれると信じている那美が、
「真威……桜月刃!」
 思い切り斬り付けた。
「那美さんっ!」
「えっ?」
 ようやく事態に気が付いた那美は、無理矢理身体をひねってその刃をそらせた。少しだけ美由希の身体の一部を斬り裂く感触があってから、身体の全体重を無理な体勢で支えた右足首が悲鳴を上げた。
「……っ!」
 那美は無言で歯を食いしばった。しかめっ面で見下ろしたそこに、かなり嫌な角度で曲がっている自分の足首があった。
 それでも那美は、倒れることなくそこに踏みとどまった。そんな那美に、呪い師の魂が容赦のない一撃を繰り出す。
「あっ!」
 まったく身動きのとれない状態でそれを見つめながら、美由希は絶望に打ちひしがれた。
 今の那美では、彼女の傷付いた足では、それをかわすことはできない。
 呪い師の放つ、鋭く尖った白い剣が、那美の頭上から襲いかかった。
 けれどもそれは、考えようによっては那美の好機でもあった。
 呪い師の魂は今、美由希を捕らえ、攻撃までしようとしている状態で、完全に隙だらけだったのだ。そして那美は、そんな呪い師の攻撃射程圏内にいる。つまり、那美もまた、その場所から直接彼を攻撃することが可能だった。
 美由希よりわずかに遅れて、那美もそれに気が付いた。だから彼女は、この先二度と歩くことができなくなる覚悟で、右足首に再び全体重を乗せて身体をひねった。
 気が遠くなるほどの激痛が、右足から全身に走る。
 那美は、しかし、それに耐え抜いた。
「神気発勝、神咲一灯流……」
 刃が、黄金色の光をまとう。
 呪い師が一瞬ひるんだ。
 そんな彼の渾身の力を込めて放った一撃が、彼女の額を叩き割る前に、
「真威、楓陣刃!」
 那美の刃が深々と魂に突き刺さり、それを、貫いた。
『う、うがあぁぁぁぁぁっ!』
 魂の絶叫。そして、その淀んだ靄が消えるのと同時に、那美の身体が崩れ落ちた。
「那美さん!」
 美由希が慌ててキャッチすると、那美は雪月を取り落とし、震える右手で、そっと親指を突き立てた。
「やりました……美由希さん……」
 美由希は、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、その手を取った。
「はい! すごいです、那美さん」
 那美は、穏やかに微笑んだ。
 それから美由希は、那美の身体を地面に横たわらせると、小太刀を握り締めてスーツの男たちを睨み付けた。
 彼らはもはや万策尽きたように、ある者は膝をつき、ある者は絶望的な表情をして二人の方を眺めていた。
 もう一戦闘あるのではないかと予想していた美由希は、そんな彼らの姿に拍子抜けしてしまった。
「さぁ、もうあなたたちは、大人しく警察に行きなさい」
 美由希が言い放つと同時に、ふわふわと辺りを漂っていた白い魂が七つ、ゆっくりとスーツの男たちへと飛んでいった。
「?」
 美由希はしばらくそれを訝しげに眺めていたが、やがて、その魂がスーツの男に食らいつき、男が上げた絶叫を聞いて慌てふためいた。
「那美さん!」
 魂たちは、あからさまにスーツの男たちを殺そうとしていた。もはや自分たちを縛る者はいなくなったというのにだ。
 すぐにやめさせようという勢いで振り返った美由希に、しかし那美は静かに首を振って、悲しそうに視線を落とした。
「あの霊たちは……彼らを恨んでいるのです……。自分の、意思で……」
「……どういう意味……ですか?」
「ここで働いていた人たちは、みんな殺されたんです。あの人たちが殺したんです。だから、みんなあの人たちを恨んでる……」
 そこで一旦言葉を区切って、少し言い淀むような素振りをしてから、那美は涙を零した。
「だから、あの人たちを殺すことが、あの霊たちが穏やかに成仏できる、たった一つの方法なんです……」
「那美さん……」
 美由希は小太刀を地面に置くと、震える那美の身体をそっと抱きしめた。
 柔らかな温もりに包まれて、那美は声を上げて泣き出した。張り詰めていた緊張が解けたせいもあるだろう。
 血や戦いとはまったく無縁の生活を送っていた少女が、突如叩き込まれた世界は、あまりにも酷なものだった。
「那美さん。もう……大丈夫ですから……」
 美由希は那美の髪を優しくなでながら、彼女の頭を胸の中に抱き入れた。
 背後で男たちの悲鳴が上がっている。それをなるべく那美に聞かせないようにしながら、いつまでも、いつまでも、美由希は那美の髪をなで続けていた。