『 Guilty 』

 第4章 フェイト・テスタロッサ

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 穏やかな春の陽射しが降り注ぐ、黄色とオレンジの絨毯の上に、フェイトはプレシアと二人で座っている。バスケットの中にはフェイトが頑張って作ったサンドイッチが入っているが、お昼ご飯はまだ少し先。母親の喜んでくれる顔を思い浮かべると、それだけで頬が緩んでくる。
「ねえ、アリシア。お花を摘んだら、今日は森の方まで行ってみましょう。大丈夫よ、危険な動物なんていないもの。森にはそこにしか咲かないお花があるの。ちょうど今の季節だけ咲くのよ」
 この頃、母はフェイトを『アリシア』と呼んでいた。当時のフェイトはそのことに何一つ違和感を覚えていなかった。自分の名前はアリシアで、母親は「アリシア」という言葉を使って自分に呼びかけている。疑問など抱きようもなかった。
 事故の後、母は自分のことを「フェイト」と呼ぶようになった。いつもせわしなくゆとりがなくなり、優しさと笑顔が消え、フェイトの顔を見なくなり、やがて叩くようになった。「アリシア」と呼ばれることはなくなったが、「アリシア」が「フェイト」に変わっただけで、母親が自分を呼んでいるという事実に代わりはない。だから、フェイトも「まあ、いいのかな」と思った。識別子が何であるかはこの際重要ではなかった。
 ところが、後に出来たフェイトのたった一人の友達が言った。「名前を呼んで」と。
『わたし、高町なのは。なのはだよ!』
 フェイトは思う。もう少し、名前の持つ意味を、役割を、重要性を考えるべきだったと。そうしたらきっと母親に疑いを抱き、あるいはアリシアとは誰かを質問して、こんなにも深い傷を負うようなことにはならなかったかもしれない。それはそれで悲しいけれども。
 夢の中で、フェイトはプレシアと楽しそうに歩いている。母親の優しい眼差し。けれどそれはフェイトに向けられたものではない。確かに自分の記憶なのに、自分のものではない。自分なのに自分ではない。
「もうやめて!」
 フェイトは悲鳴のように叫んで飛び起きた。はぁはぁと肩で息をする。額に滲んだ冷たい汗が不快だった。
 一本の線で確かに繋がっている記憶。数々の思い出。目を閉じれば鮮明に、間違いなく自分のこととして思い出せる様々な出来事が、すべて自分の体験したものではない。こんなに気持ちの悪いことはない。こんな記憶なら、いっそ無い方がいい。
 自分は人間ではなく、今の姿のまま作られ、歴史はベッドで目が覚めたあの時から始まっている。冷たい母親がいて、育ててくれたリニスがいなくなり、戦いに駆り出され、失敗すると鞭で叩かれ、真実を知って打ち拉がれる。それだけでいい。紛れもなくそれこそが自分だけの自分だ。
 けれど、そんな日々の中、フェイトが心の拠り所にしていたのは、自分のものだと思っていたアリシアの記憶だった。母親の優しい眼差し。それだけを支えにして生きてきた。
 もしもそれがなかったら、きっと自分はあの日々に堪えられず、今の自分もいなかったと思う。冷たい母を恨み、手にした力で殺していたかもしれない。誰にも愛されず、友達の一人もなく、乱暴で危険な、世界にとって有害でしかない生命体として存在していたかもしれない。
 自分のものではない記憶を否定し、排除したい生理的な欲求と、確かにそれがなければ多少はましな今の自分はいなかったという後ろ向きな肯定。どっちに転んでもろくなものではない。所詮人間だかなんだかわからない生き物でしかない自分には、妥協レベルでしかない今の小さな幸せくらいしか与えられないのだ。
(ああ……)
 フェイトは大きく頭を振った。
 せっかく友達も出来て、リンディには養子にと言ってもらって、魔導士になれて、順風満帆な再スタートを切ったのに、こんなネガティブなことを考えてはいけない。過去はどうしたって変えられない。幸せな過去を持っていたって、今が不幸な人よりも、不遇の先に幸せがある方がいいに決まっている。
 それでも……。
「フェイト!」
 自分を呼ぶ声とともに、血相を変えてアルフが部屋に入ってきた。フェイトは何事かと思ったが、原因は先ほど上げた自分の悲鳴だった。
「フェイト、何かあったの?」
「なんでもないよ。少し悪い夢を見ただけ」
 そう言って、フェイトはすぐ近くで自分を見上げるアルフの髪をそっと撫でた。
「もう大丈夫。平気だよ?」
 フェイトは微かに微笑んだ。
 そんなフェイトの顔を見つめながら、アルフはただ悲しくて、泣きそうになるのをぐっと堪えた。
 昔から、フェイトはよくこんな顔で笑っていた。アルフは初めは、これがあまり感情を表に出さないフェイトの笑顔なのだと思っていたが、やがて疑問を持つようになり、今では確信に変わった。なのはと友達になり、フェイトの本当の笑顔を見た時、フェイトのこの笑顔はただ自分を安心させるための作り笑いでしかないとわかった。
 だから今もそうだ。本当は大丈夫ではない。全然平気ではない。泣きたいくらい悲しいことがあったに違いない。けれど、今自分がフェイトを悲しませてはいけないと、涙を我慢しているように、フェイトも自分の前では決して弱いところを見せない。
 甘えることも、相談することも、頼ることもできずに育ってきたフェイトは、すべて自分の中で完結させてしまう。けれど、自分一人で考え、無理に納得したような結論は、大抵の場合間違っている。ジュエルシード集めもそうだった。高町なのはという少女と出会わなければ、今頃フェイトは牢の中にいたか、プレシアと心中していたに違いない。
「そう。それならいいけど」
 アルフは笑顔で立ち上がり、フェイトに背を向けて窓の方に歩いた。涙が溢れたが、フェイトには見られていないだろう。カーテンを開けると強い陽射しが部屋の中に差し込んできた。アルフはフェイトに気付かれないように涙を拭った。
 フェイトを助けたい。フェイトの力になりたい。けれど、自分の言葉がフェイトの決定に左右することはない。それは経験上わかっている。自分の役割はフェイトを守り、フェイトが寂しい時に傍にいることであって、フェイトを教育したり、示唆を与えるものではない。それは使い魔の範疇を越えている。
 それでも、明るい展望を持とう。他に誰もいなかった昔と違い、今は時空管理局の仲間がいる。そして、フェイトに大きな影響を与えられる友達がいる。それが自分でないのは少し妬けるが、とにかく今は、間違っていると知りながらひたすら突き進んでいた昔よりも、ずっといい。
 窓の外には高層ビルの建ち並ぶ街が広がっている。第14管理外世界──
「さあ、フェイト。探索2日目もいい天気だよ」
 振り返ったアルフの目に、もう涙はなかった。
「うん。今日も頑張ろう」
 フェイトが、悲しいほど朗らかに頷いた。