『 Guilty 』

 第5章 高町家の人々

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 小さなベッドの上に二つ並んだ枕を見て、フェイトはほのかに頬を染めた。なのはが何がなんでも今日はフェイトと一緒に寝ると主張したため、アルフは一人別室で寝ることになり、ユーノもあっさり部屋を追い出された。ユーノはくれぐれも情にほだされることがないよう念を押したが、なのはは浮かれていたので聞いていなかった。
「えへへ。今日と明日はずっと一緒だからね」
 なのはが嬉しそうに笑った。もちろんフェイトも喜んでいた。元々夜もなのはと一緒にいたいと思っていたが、内気な性格もあって自分からは切り出すことができなかった。それをなのはから言ってくれたことで、こうして実現できたことはもちろん、なのはも自分と同じように思ってくれていたことが何より嬉しかった。
「宿題をやってたんだ。読書感想文。フェイトちゃんも本は読む?」
 そう言いながらなのはが見せたのは、中学年向きの小説だった。もちろんフェイトはその本を知らなかったが、表紙の絵や文字の大きさ、漢字の含有量で年齢相応の本だとわかった。なのははもっと大人びた本を読むと思っていたから、少し意外な気持ちがした。
「私は物語は全然。勉強の本しか読んだことがないから。魔法の……」
 つまらない子だと思われないか不安になり、声のトーンが落ちる。もちろんそんな心配は無用だった。
「じゃあ、今度貸してあげるよ。あっ、難しかったら映画とか、あとアニメも面白いよ。今は女の子が変身して悪い組織と戦うアニメが人気なんだ。なんかわたしたちみたいだね、変身して戦うって」
 なのははそのアニメの元になったマンガを見せながらにこにこしている。フェイトも自然と笑みが零れた。
 それから二人でしばらく魔法の話をしたり、フェイトが時空管理局の近況を話していると、階下から風呂が空いたというレンの声がした。フェイトは咄嗟になのはに先を譲ったが、なのはは事も無げに一緒に入ろうと言った。思わず紅潮したフェイトに、なのはが続けた。
「うちは人数が多いから、結構みんな一緒に入ったりするんだよ? まあ、晶ちゃんとレンちゃんは一緒に入らないけど」
「そ、そうなんだ……」
 フェイトはどう反応していいのかわからず、そう相槌を打って二度ほど頷いた。なのははパジャマを用意しながら、晶は熱い湯が好きだから、自分は晶の前に入り、兄が晶の後に入ることが多いなど、楽しそうに家族の話をしている。本当に誰かと入ることに慣れているらしく、照れた素振りは少しも見せない。フェイトは自分一人で嬉しいような恥ずかしいような気分でいるのを、不公平だと思った。
 着替えを持って階段を下り、なのはに続いて風呂に入る。薄い赤紫のタイルの敷かれた洗い場に、大きな湯船。縁にはカメのおもちゃが転がっていた。なのはのかと思ったら、レンのものらしい。
「薬局のおまけでもらったんだって。水陸両用で泳ぐんだってレンちゃんは言ってたけど……。フェイトちゃんはこういうの好き?」
 そう言ったなのはは、あまりそのおもちゃには興味がないようだった。フェイトは興味がないと言うと冷たく聞こえるが、なのはと違うことを言うのも憚られ、結局「わからない」と答えた。
「その、おもちゃとかで、遊んだことがないから……」
 なのはは少し驚いた顔でフェイトを見てから、ぜんまいを回してカメを湯船に浮かべた。パタパタと泳ぐカメを見て、フェイトは特になんとも思わなかったが、これにはしゃぐレンを想像してわずかに頬を緩めた。
 二人で湯船に浸かると、湯が溢れて流れた。なのはが物の体積を量る時に、溢れた湯の量を調べればわかるなどと言い出した。フェイトがどうやって溢れた水を量るのか聞いたら、なのはは「それもそうだね」と言って笑った。なのはは些細なことが楽しいらしい。フェイトは一つ一つはどこが面白いのかよくわからなかったが、なのはが楽しそうだから自分も嬉しくなった。
 十分温まってから、先になのはが洗い場で髪を洗い始めた。それを見ながら、フェイトはふと昔よくリニスに髪を洗ってもらったことを思い出した。もちろん今は自分で洗っているが、昔は一人で髪を洗うのが苦手だった。今でもそうだが、目を開けられないのだ。
 なんとなくなのはに髪を洗って欲しくなり、勇気を出して言ってみた。
「ねえ、なのは。後で、その、髪を……」
「えっ? 何?」
 なのはがシャンプーまみれのままフェイトを見る。フェイトは器用に目を開けられるなのはに感心しながら──いや、恐らく大半の人にはできるのだろうが──、もじもじしながら俯いた。
「その、髪を洗って欲しくて……」
「髪? うん、いいよ。でも、どうして?」
 なのはが不思議そうな顔をする。もちろん気持ち良さそうだからと答えてもよかったが、フェイトは根が真面目なので、自分で洗うのが苦手で、昔はリニスという母親の使い魔によく洗ってもらっていたことを話した。なのはが面白そうに笑った。
「フェイトちゃんも子供っぽいところがあるんだね。もっとお姉さんなのかと思ってた」
「な、なのはだって、子供っぽい本読んでたよ? もっと難しい本を読むのかと思ってた」
 言いながら、フェイトは余計なことを言ったと後悔した。なんだかむきになって言い返したようで、なのはの気分を悪くしてしまったのではないかと思ったが、そんなことはなかった。
「じゃあ、おんなじだね!」
 嬉しそうになのはが笑った。フェイトは、自分が思うより遥かになのはは自分のことを好きなのだと感じて、胸が熱くなった。
 それからなのはがフェイトの長い髪を洗った。フェイトはなのはの指が自分の髪や肌に触れるのが気持ち良くてぼーっとなった。ついでに背中も洗ってあげると言われ、ぼんやりしたまま「うん。手で洗って」とうわごとのように呟き、すぐに自分の言葉に真っ赤になった。
 さしものなのはも唖然としたが、ひょっとしたらタオルやスポンジで洗うと痛いのかなと解釈して、手で石鹸を泡立てて、そっとフェイトの背中に触れた。そのまま手の平で背中や腕を優しく洗う。
 フェイトは気持ち良さと恥ずかしさで体が震えそうになり、それを堪えるのに必死だった。とても見せられない顔になっている自覚があって、なのはに背中を向けていて良かったと思った。
 フェイトが何も喋らないから、なのはも黙ってフェイトの体を洗っていた。フェイトの肌は白いな、綺麗だなと思いながら洗っていると、ふとフェイトの背中にかすかに白い傷痕があることに気が付いた。長さは数センチで、幅はほとんどなく、恐らく成長とともに消えてしまうような傷だが、よく見るとそんな傷痕が腕にもあり、そっと覗き込むと太ももにも散見された。
 指先でなぞりながら、この傷は誰に付けられたものかと考えた。先ほど話に出たリニスはそういう人ではなさそうだし、アルフのはずもない。自分との戦闘でもこういう傷は負っていないだろうし、まさか時空管理局の人間がフェイトに体罰を加えたとも思えない。極端に希薄なフェイトの人間関係を考えると、答えは一つしかなかった。
 フェイトを作り、自分の目的のためだけに利用し、挙げ句は嫌いだったと言って突き放した母親。フェイトはずっと母親に虐待されていた。けれどフェイトは母親を心から愛し、信じていた。
 あの日、アースラで真実を知って崩れ落ちたフェイトの絶望を思い、なのははフェイトを守ってあげたい、守らなければならない気持ちになった。
「なのは?」
 傷痕を見つめながら黙っていると、フェイトが怪訝な顔をして振り返った。そんなフェイトを背中から抱きしめ、なのははそっと頬を寄せた。
「ねえ、フェイトちゃん。わたし、フェイトちゃんが大好きだから。あんまり何もできないけど、でもフェイトちゃんのためならなんでもするから。だから、何かあったらわたしに言ってね。辛いこととか、悲しいこととか、一人で抱え込まないでね」
 フェイトは困惑した。抱きしめられたのは嬉しかったが、それよりもいきなりなのはが悲しそうな声でそんなことを言い出したことに驚いた。
 フェイトは自分の体を見下ろし、すぐに鞭で打たれた傷痕に気が付いたのだと理解した。申し訳なくなった。
「大丈夫だよ、なのは。ありがとう。でも、本当にもう平気だから」
 余計なことでなのはを困らせてしまった。母親に使われていたことも、嫌われていたことも、鞭で打たれたことも、もはやフェイトにはどうでもいいことだった。
 それらは、なかった記憶になるのだから。
 なのはは鼻をすすり始めた。フェイトは体の向きを変えて、優しくなのはを抱きしめた。
「泣かないで。過去のことはもういいの」
 なのはは前向きだったから、それをいいふうに解釈した。フェイトは過去を乗り越え、自分との未来に明るい希望を抱いているのだと。それなら、自分は泣いていてはいけない。なのはは笑って頷いた。
「わかった。ごめんね、泣いたりして」
 それっきり、二人の間に暗い影は落ちなかった。二人で洗いっこしたりおしゃべりをして、風呂を出る頃にはすっかりいつもの二人に戻っていた。
 パジャマに着替えて歯を磨き、二人は早めに布団に潜り込んだ。電気を消すと視覚が失われ、触れ合う肌の温もりや、互いの柔らかな香りが感覚を刺激する。
「わたし、こうやって夜に布団に潜ってお友達とおしゃべりするの、すごく好きなの。おねーちゃんは修学旅行みたいって笑ってたけど、そうなのかなぁ」
 なのはが楽しそうに囁く。別に声を落とす必要はないのだが、それも修学旅行で見回りの先生を意識するような感覚だろうか。もっとも、二人とも修学旅行は未経験だったが。
「修学旅行とかはわかんないけど、私はこうして友達と一緒に寝たりとか、したことないから……。ちょっと、ドキドキする」
「あはは。フェイトちゃん、ずっとドキドキしてるね。さっきもお風呂で鼓動がすごく速くて、わたしまでドキドキしちゃったよ」
 なのはの言葉に、フェイトは心臓が止まるかと思った。必死に抑えていたがあっさり気付かれていた。恥ずかしくて死にたくなった。
「な、なのはの意地悪!」
 真っ赤になっていたのが見られなかっただけでも良かったかもしれない。なのはは「ごめんごめん」と笑いながら謝った。
 それから他愛もない話をして、やがてふっと沈黙が下りた。どちらからともなく抱き寄せ合う。近付いた顔にかかる鼻息がくすぐったかった。フェイトが明らかに先ほどまでとは違うトーンで言った。
「今日、なのはは気付いてなかったけど、最初みんな私に冷たかった」
「えっ?」
 驚いてなのはが顔を上げると、その拍子に鼻先が触れ合った。フェイトはそっとなのはの唇を塞ぎ、それから少しだけ顔を離して続けた。
「本当だよ。でも、ビデオを見て、みんな私のことを歓迎してくれてたのもわかった。だから……なのは、教えて。みんな、何を隠してたの? ユーノがここに来たのはどうして?」
 なのはの家に来て、最初に挨拶をしてからずっと疑問に思っていたこと。本心と今日の態度のギャップ。なのはを守るために必死な晶やレンの姿。そして不自然なまでに自分に話しかけてこなかったユーノ。
 なのはは言葉に詰まった。フェイトの言う通り、皆の態度には気付かなかったが、フェイトの勘違いだとはとても言えない。晶やレンがフェイトに冷たく当たる理由に、思い当たる節はある。ユーノがなのはに言った仮説を、もしも晶やレンに真実のように伝えたならば、二人がフェイトを警戒しても不思議ではない。
 ユーノの忠告が脳裏に蘇った。けれど、なのははフェイトに隠し事をしたくなかったから、全部話して、その上でリンディやクロノには黙っていてくれるよう頼もうと思った。
「今わたし、ジュエルシードを持ってるの」
「……え?」
 フェイトが思わず息を飲む。
「それでユーノ君は、フェイトちゃんがそれを取りに来たんだって思ってて。そんなことないよね?」
 なのはは恐る恐る尋ねたが、フェイトは突然の告白に衝撃を受けて何も答えられなかった。なのははぽつりぽつりと、ユーノが来る前後の事件について話した。自分が魔導士だと知られないようにしたためにレンの病気がひどくなってしまったこと、ユーノがジュエルシードを探しに来たこと、そしてそのジュエルシードの魔力によって今レンの健康が維持されていること。
「だからフェイトちゃん、このことはリンディさんやクロノ君には黙ってて欲しいの。あのジュエルシードはレンちゃんのために使いたいの」
 いつになく必死ななのはの声も、フェイトの耳にはほとんど届いていなかった。辛うじて「うん」と頷くと、なのはが安心したように大きく息を吐いて、強張っていた体から力を抜いた。
「よかった。ありがとう、フェイトちゃん」
 なのはの髪からいい匂いがした。けれど、声も匂いも、そして抱きしめていてなお、フェイトの五感のすべてからなのはの存在は失われていた。
(管理局の把握してないジュエルシードが……ある?)
 なのはが何か喋っていたが、フェイトはもはや聞いていなかった。やがてフェイトが寝てしまったと思ったのか、なのはは喋るのをやめ、小さな寝息を立て始めた。
 フェイトは眠れなかった。先ほどとは違う意味で胸がドキドキしていた。
 時空管理局の把握していないジュエルシードが、ある。
 何度もその事実を心の中で反芻していると、知らず知らずの内にフェイトの顔が緩んできた。きっとアルフが見たら、それがまたフェイトの妙な暴走の兆しだと気が付いただろう。しかし、幸か不幸か部屋は真っ暗で誰も見ていなかった。
 なのはは眠ったまま、フェイトの胸の中で小さな寝息を立てている。フェイトはそんななのはを抱きしめ、そっと額にキスをした。
「大好きだよ、なのは。だから……」
 耳元で囁いて、静かに目を閉じた。意識はすっかり覚醒し、とても眠れそうにない。けれど、それでもいいと思った。
 今夜はずっとこうしてなのはを感じていよう。
 フェイトはまるで母親が娘にするように、優しくなのはの髪を撫でた。
 こんな記憶にしよう。添い寝する母親の胸の中で、安らぎに包まれて眠る、そんな幸せな子供時代にしよう。
 暗闇の中で、フェイトは柔らかく微笑んだ。