『 梅雨明けの空 』  〜From "イリヤの空、UFOの夏"



「浅羽」

 恐る恐るといったふうに、かすれるような少女の声で呼びかけられたのは、ちょうど高校からの帰り道、長い坂道を下りる前に、少しだけ足を止めて眼前に広がる景色に意識を向けた時だった。
 坂道の先、眼下に広がる町は、今朝までの雨が嘘のように晴れ上がった空から突き刺す、強烈な光に照らされて輝いている。どこまでも綺麗で、どこまでも平凡な、浅羽の好きな景色だった。
 中学を並程度の成績で卒業した浅羽は、そのまま成績相応の公立高校に進学した。坂の上にそびえるこの高校に通うのは至極面倒で、それは入学前から想定していたことだったが、それでも「近い」というのが決め手になってここを選んだ。
 通学は実際に大変だった。毎朝学校に着くと、すでに一時間目の体育の授業を終えた後のような気分になる。それでも、この坂の上から眺める景色はなんて素晴らしいのだろう。空と同じ高さにいる感覚。空を飛んでいるような錯覚。
 突き抜ける蒼穹に心を泳がせていると、時々昔のことを思い出す。二年前の夏の、不思議な日々。
 そして、ため息をつく。
 少しずつ薄れていく記憶。薄らいでいく感情。人を殺そうとさえ思った憤りも、もう二度と立ち直ることはないとさえ思えた慟哭も、何もかもが遠い夢のようで、残った感情といえば、あれは本当に夢だったのではないかとさえ思う自分に対する悲しみくらいだった。
 残酷なまでに平凡に過ぎた二年。
 水前寺は卒業と同時にこの町を出て行った。都会の進学校に通っている。町を出たのは、家族との折り合いが悪かったせいかもしれないし、元々頭が良かったから、真面目に勉学に励もうとしたのかもしれない。浅羽は興味がなかったので聞かなかった。水前寺も自ら語ることはなかった。
 ただ、彼の奇行は卒業する頃には随分落ち着いていたし、今でも時々連絡し合うが、その内容はいたって平凡で、浅羽が卒業してからはついに園原電波新聞部の話題すら出なくなってしまった。
 それが大人になるということなんだ。幽霊戦闘機など追いかけなくても、この世界は楽しいことに満ち溢れている。きっと、彼はそれに気がついたのだ。
 晶穂とは同じ高校に通っているが、ほとんど話すことはなくなっていた。中三の春に一度目の告白をされたが、浅羽は断った。まだ他の女の子を好きになれるほど傷は回復していなかった。
 同じ年の夏の終わりに、二度目の告白をされた。浅羽は再び断った。傷は随分癒えていたが、どうしても晶穂を恋愛対象として見ることはできなかった。
 その日をもって、元々二人だけになっていた園原電波新聞部は解散した。その後晶穂は違う男を好きになり、今ではその男と付き合っている。高校ではクラスを違え、たまに会った時に挨拶をするくらいの仲になってしまった。
 その他の、あの日一緒にボウリングをした仲間たちは、ほとんどが同じ高校に通っていたが、それぞれが別々の人間関係を形成して、一緒に何かをすることはなくなった。
 今浅羽がつるんでいる仲間は、全員が高校で初めて知り合った連中だった。必然的に、話題は今年の春以降の出来事に始終した。もはや日常に決して出てくることがなくなってしまった名前。

 伊里野加奈。

 そんな名前の少女は、本当に存在したのだろうか。
 恐ろしいほどに平穏で平凡な毎日。けれど、世の中の、四捨五入すれば百パーセントの人間が、そんな日々を過ごしている。その中にわずかな変化を求め、わずかな優劣を競い、わずかなことで一喜一憂し、わずかな金額の大小にこだわり、よく笑い、たまに泣いて、生きている。
 幸いにも、自分で切った首筋と、伊里野に切られた右手の傷跡は、医師に一生消えることはないと言われた。すべてが日常の中に埋没し、思い出すことなく、思い出そうとしてもできずに消えていく中で、たった一つだけ残った証拠。
 忘れるな、浅羽。お前が覚えていることこそが、伊里野が生きていたたった一つの証なんだ。
 共有した日々も、そして本人すら覚えていない伊里野との日々、一緒に見た海も、一緒に飛び乗った貨車も、伊里野だけが見ていたエリカのことも、浅羽が忘れた瞬間、無かったことになる。
 覚えていろ、覚え続けていろ、そして時々でいいから思い出せ。
 そんな、自らに課した責務が、テスト勉強に勤しむ日々に、友達とのカラオケに、自宅で眺めるくだらないテレビ番組に、かき消されていく。伊里野が消えていく。

 ──ぼくは、また伊里野を守れなかった。

 ごく何気なく振り返った。それはちょうど、飛行機の音がして空を見上げるように、赤信号を見て止まるように、とても自然な、無意識の動作。
 夏休み前の午前授業。まだ太陽は空の一番高いところにあって、じりじりとアスファルトを焦がしている。それを避けるように、民家の壁沿いを、浅羽と同じ制服を着た生徒たちが歩いている。
 あまりの眩しさに思わず目を細めた。ゆっくりと目を開けると、自分と同い年くらいの少女が一人、暑苦しそうな長い髪を熱風になびかせながら、弱々しい声と同じくらい怯えた様子で浅羽を見上げていた。
 無地のTシャツに、迷彩柄のパンツ。手首には今時そのファッションはないだろうと思うような分厚いリストバンド。肩からかけた小さなポシェットは、何が入っているのかパンパンに膨らんでいる。
 五秒ほど無表情で少女の顔を見つめた後、小さく首を傾げると、少女は今にも泣き出しそうなほど悲しげに眉をゆがめ、消え入りそうな声でこう言った。
「あの、い、伊里野、加奈、です。あ、浅羽……覚えてない?」
 それは確かに伊里野だった。短い白い髪ではない、憔悴した様子もない、初めて出会った日の伊里野。その時よりはもちろん大人びた雰囲気だったし、表情豊かだが、それで見間違えるようなことは断じてない。ただ、
「なんで……?」
 呆然と、浅羽は呟いた。少女は意味を取り違えたのか、取り繕うように首と両手を振った。
「ち、違うの! 浅羽に会いたくて、だから、ご、ごめんなさい。迷惑だったらごめんなさい!」
 なんでここに? 今さら何をしに来たの?
 伊里野がそう解釈したことに、浅羽はすぐに気がついた。我に返った。非現実が現実に戻ってきた。
「違う、そんなこと言ってない! だって、伊里野は死んだんじゃ……なんで生きてるんだろうって……」
 伊里野の目からとうとう涙が零れ落ちた。一歩後ずさった。
「い、生きてちゃ、いけなかった? やっぱり生きてちゃ……」
「そんなこと言ってない! ち、違うんだ! 嬉しいんだよ? でも、信じられなくて、驚いて……ああ! ちょっと、ちょっと落ち着かせて!」
 浅羽は混乱して手をブンブンと振った。
 きっと、伊里野はこんな再会シーンになるとは思っていなかったはずだ。伊里野の性格だから、ちょっといたずらっぽくて、ドラマのように甘ったるい、そんな再会を望んでいたはずだ。
 それをぶち壊した。だけど、そんなことはどうでもよかった。たぶん、伊里野にとっても大したことではなかった。だから、浅羽の言った「嬉しい」という言葉に顔を綻ばせて、ようやく笑った。
「わたしが死んだなんて、誰に聞いたの? そんなこと」
 突然のフラッシュバック。最後に伊里野と会った日の光景。戦争が終わったとばかり思っていた浅羽に、今と同じようなことを言った人がいた。
 しばらく考えたが、顔も名前も出て来なかった。だいぶ後になって、ようやく「榎本」という名前を思い出した。
「わたし、今までだって、何回も戦いに出て、生きて帰ってきたよ? たった一人、最後まで生き残った、一番優秀なマンタのパイロットなんだよ?」
 得意げにそう言った。大切な仲間が死んだ悲しみも、自分だけが生き残った罪悪感も、死にたくなるような辛い過去の日々も、すべて振り切って、今生きてこうして浅羽と再会できた喜びだけを噛みしめながら、伊里野は笑った。
 ああ、そうだ。必ず死ぬなんて誰が言ったんだ。ただ、伊里野も含めて、全員が悲観していただけだ。可能性が限りなく0に近かっただけだ。
「わたし、今までずっと病院……」
 何か説明し始めた伊里野を、浅羽は思い切り抱きしめた。ちょうど、飛行機の音がして空を見上げるように、赤信号を見て止まるように、とても自然に、当たり前のように抱きしめた。
「会いたかった、伊里野」
 周囲から生徒たちのざわめきが聞こえた。どうでもよかった。
 しばらく驚きに身を強張らせていた伊里野も、やがて力を抜いて目を閉じて、そっと浅羽の背中を引き寄せた。
「わたしも……」

 どこまでも高くて広い空。
 悲しくなるほどの青。
 伊里野が守った空。

 伊里野の空。

 少し早めの花火に興じた後、二人で並んで防波堤に腰かけた。何もかもを飲み込みそうな、黒々とした海が、その姿に似つかわしくない安らぐ波の音を立てている。遥か彼方を船の明かりが横切り、そのラインから上に満天の星空が広がっていた。
「わたし、不安だったの」
 不意の呟きに、浅羽は咄嗟に意地悪なことを思った。伊里野が不安ではない時などあっただろうか。
 もちろんそんなことは言わなかったし、顔にも出さなかった。
「本当に浅羽なんて人、いたのかなって。わたしにとって学校での生活はすごく不思議な、馴染みのない生活で、全部夢みたいな、印象が強いくせに簡単に忘れちゃいそうな、そんな毎日だった。浅羽みたいな人、軍にはいなかったし、その……誰かを好きになったことも、なかったから……。全部全部、薬とか熱が見せた幻覚だったんじゃないかって……」
 今度は、少しだけ笑った。可笑しくて、安心した。
「ぼくもだよ。伊里野は、ぼくには不思議すぎた」
 浅羽の日常は伊里野にとって不思議な世界で、伊里野の日常は浅羽にとって未知の世界だった。同じだった。忘れていたが、思い出した。さっきまで、ただの花火に子供のようにはしゃぐ伊里野を見て、この少女にとってこの世界は、何もかもが新鮮なのだと。
 だけど、二人一緒にいるならば、片方がどちらかに合わせなくてはならない。それは、伊里野に合わせてもらおう。四捨五入すれば百パーセントの人にとっての日常に。平凡だけど楽しい毎日に。
「後から聞いた話なんだけど、戦いの後、わたし、半年も寝てたんだって。空からは自力で戻ったらしいんだけど、記憶がなくて、気がついたらもう春だった」
 浅羽にとって、残酷なまでに平凡に過ぎた二年。時間は誰にでも平等に流れ、伊里野も二つ年を取った。
「ただ寝てたんじゃなくて、何度も血を吐いたり、何か叫んだりして、その度に薬を打たれて、またその副作用で体を悪くして……。みんなもうダメだって思ってたって。でも、意識が戻ったの、春に。意識だけ。何も見えなかったし、体も動かなかった。動いたのは口と右足のつま先だけ。今もまだちょっと、左手の小指とか感覚がなくて……」
 そう言って伊里野は拳を握った。確かに、小指と薬指が上手く曲がってなかったけど、悲しくはなかった。伊里野が生きて、隣に座っている。それだけで十分だった。
「それからずっとリハビリ。体を動くようにして、薬を抜いて。大変だったけど、でももう大丈夫。薬だって持ってないし、鼻血だってずっと出てないし。だから浅羽も安心して。ね?」
 少しだけ怯えた表情。
 安らぎのない毎日だったのだろう。ずっと恐怖と戦いながら生きてきたのだろう。だけど、こっちの日常では、信号さえ守れば比較的安全なんだ。怯えなくていい。ずっとそばにいる。ずっと好きでいる。
「大丈夫だよ」
 伊里野は安堵の微笑みを浮かべた。少しだけ浅羽の肩に体重をかけて、目を閉じた。
「浅羽のこと忘れそうだった。浅羽に会うためにリハビリしてたのに、浅羽のことを好きな気持ちまで夢だった気がしてきて、でもそのことにそんなにも不安を感じなくなってる自分に気がついた時、わたしは気が狂いそうになった。気がついたらここに来ていて、浅羽を見つけて──思った」
「何を?」
「浅羽もわたしを忘れちゃったかもしれない。もうわたしのこと、なんとも思ってないかもしれない。それは、嫌われるより怖い。そう思ったら、話しかけれなかった」
「話しかけてくれたじゃないか」
 呆れるようにそう言うと、伊里野は情けない顔をした。
「ひと月してから……。毎日、見てた」
「バカ」
 ストーカーみたいだな、と思った。
 目を閉じて、二年前にとうとうできなかったキスをした。伊里野の唇はとろけるほど柔らかくて、そしてひんやりしていた。
 顔を真っ赤にしながら、伊里野が少し怒ったふうに言った。
「バカじゃないもん。だって浅羽、わたしの知らない人たちと楽しそうで、晶穂も見つけたけどわたしの知らない人と一緒で、もうここにはわたしの居場所はない──もうどこにもわたしの居場所はないって。マンタも壊れて、戦争も終わって、軍にも居場所がなくて、でもなんにも知らないからどうしていいのかわからなくて。やっぱりあの時死ねばよかったって……」
「バカ!」
 今度は本気で怒って言った。
「バカだもん!」
 どっちだよ。
「バカだから──全然わからなくて、だから、もう死のうと思って……せっかくだから最後に話しかけてみたの」
「せっかくだからってなんだよ」
 浅羽は疲れたため息をついた。
「もうそんなこと我慢するなよ? なんでもぼくに言うんだ。質問には答えてあげる、できることはしてあげる、できないことは教えてあげる、学校に来るなら友達に紹介してあげる、家がないならぼくの部屋を半分あげる、ずっとそばにいてあげる。だから……だから、伊里野もずっとそばにいて。もうどこにも行かないで」
 恥ずかしいほど真っ直ぐそう言うと、伊里野は驚いた顔のまま固まっていた。それからすぐに鼻をすすって、瞳に涙を浮かべ、
「ありがとう」
 震える声でそう言った後、浅羽の肩に顔をうずめて泣き出した。わんわん大きな声で泣き出した。
 浅羽はそんな伊里野の泣き声を聞きながら、少しだけ周囲に視線がないか気にしながら、彼方を行く船をじっと見つめた。
 今年の梅雨は長かった。暗くじめじめした日が続き、このまま永遠に夏は来ないのではないかとさえ思った。
 けれど、伊里野と再会したあの日の快晴をもって、梅雨は明けた。二年前も、永遠に続くと思った夏はいつの間にか秋に変わっていた。季節は巡る。
 浅羽と伊里野の、二度目の夏が始まる。
 そっと手を握った。
 伊里野が嬉しそうに笑った。


 ─ 完 ─





 あとがき

 先に謝っておきます。
 この小説は、『イリヤの空、UFOの夏』を読了後すぐに書いた小説です。よって、細部で色々と本編との矛盾があるかもしれません。
 一番怖いのは、実はどこかに「最後の戦いを終わらせるには伊里野は死ななければならない」と書いてあったかもしれないということ。もし書いてあったら、たぶん「そうあって欲しくない」という心のフィルターが、私にその部分を読み飛ばさせたのでしょう。
 最後の戦いに勝つことができるのは伊里野だけで、伊里野が負けたら人類は滅ぶ。ただそれだけのことしか記憶しておらず、「勝って帰ってくる可能性もあるのではないか?」と思って書いたのがこの小説です。

 自分でも蛇足に感じます。『イリヤの空、UFOの夏』は完璧なまでに完結しており、二次創作の余地はありません。それは後日談にしてもそうです。もちろん、浅羽と晶穂の後日談なら書けますが、浅羽と伊里野の物語は本編で始まり、本編で完結しています。
 ただ、自分にはAmazonのレビューにあるほど読後感が良くありませんでした。
 伊里野は不安と恐怖と苦痛だけの日々を生き、短い人生の最後の最後で浅羽に出会えたが、それほど充実した毎日を送れずに死んでしまう。
 浅羽は生き続け、いつか伊里野とのことは遠い思い出となり、思い出す回数も減り、思い出せることも減り、やがて進学、就職、結婚というありふれた日常に埋没していく。
 人は二回死ぬと聞いたことがあります。一度目は肉体の死。そして二度目は、自分を覚えている人が誰もいなくなること。
 伊里野のことを覚えている人は多いと思います。けれど、伊里野が一番覚えていてほしい日々は、浅羽の胸の中にしかなく、浅羽にはもはやそれを共有できる人が誰一人いません。そういう記憶は確実に薄れていきます。
 それが無性に悲しかった。もしも二人の一部始終を、榎本などのもう二度と浅羽と会うことがなさそうな人間ではなく、浅羽に近い人が見ていたなら──浅羽が身近な誰かと思い出を懐かしむことができたなら、たぶんこの小説は書きませんでした。

 繰り返しますが、『イリヤの空、UFOの夏』は完璧なまでに完結しており、こんな後日談は不要だと思います。
 ただ、物語には不要でも私には必要でした。
 『イリヤの空、UFOの夏』を読んで、私と同じことを感じた人に、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

P.S.
 中学校で仲の良かったメンバーは、意図的に離れ離れにしました。
 中には、再び伊里野があのメンバーとボウリングをするのを見たかったという人もいると思います。実際、私もそうです。
 ただ、周りを見回してください。中学校時代に仲の良かった人は、今何人いますか?
 私は0です。高校時代を合わせても0です。自分は極端にしても、進級や就職とともに、友達は減っていき、また新しい人間関係が形成されます。
 そんなリアルを描きたかった。細部をリアルにすることで、伊里野が生きて戻ってきたということも、単に作者の願望ではなく、本編から続く現実として伝わればいいなと思いました。
 どうでしたでしょうか。

おまけ
 →『梅雨明けの空 序』