まえがき
この小説は、先に公開した『イリヤの空、UFOの夏』の二次創作小説『梅雨明けの空』の、余白の二年間を伊里野サイドから描いたものです。
元々蛇足小説だった上に、さらに蛇足を重ね、蛇がムカデになってしまったような小説ですが、まあ私の自己満足ということで一つお許しください。
もし『梅雨明けの空』をお読みでない方は、是非先にお読みください。
この小説の大体の構想は『梅雨明けの空』を執筆した時からあったのですが、やはり後から書いたということもあり、この小説の後に続けて『梅雨明けの空』を読むと違和感があります。上手く繋がっていません。
が、その辺りは目をつむっていただき、あくまで本編は『梅雨明けの空』で、この小説は落書き程度に考えていただければ幸いです。
さて、『イリヤの空、UFOの夏』ですが、インターネットで検索すると、「あれはグッドエンドである」という意見が散見します。「最後に伊里野が幸せだったから」という理由です。
あの日々が伊里野にとってそこまで幸せだったかにはいささか疑問がありますが、幸せだったとすれば、この意見には半分は同意できます。ただしそれは、あくまで半分──伊里野の立場から見た場合だけです。
『フランダースの犬』という作品は、ネロは最後に満たされて死に、幸せだった。あの作品の悲しみは、むしろ残されたアロアの方にあるというようなことを、世界名作雑文集で書いた覚えがあります。
『イリヤの空、UFOの夏』もそれと同じに感じます。
主人公の浅羽に感情移入して感じる悲しみは、残された浅羽の悲しみ。そして、もしも伊里野が浅羽の立場になって考えた場合、果たして一人だけ満足して死ぬのかという疑問。
幸いにも『イリヤの空、UFOの夏』本編には、伊里野が死んだとは書かれていません。
明らかに生きてはいないだろうという声に敢えて耳を塞ぎ、伊里野にも浅羽にも、二人でもっとたくさんの楽しい時間を過ごして欲しいという願いを形にしたのが、この小説と前作『梅雨明けの空』です。
最後に伊里野は、その光景を見て、ただ「綺麗だ」と思った。言葉にならない想いが込み上げてきて、涙が溢れた。感動に全身が打ち震え、一瞬気を失いそうになった。
──もう、いい。
不安とか恐怖とか嫉妬とか、痛みとか苦しみとか悲しみとか、あるいは愉悦とか快楽とか憧憬とか、そんな心や体の表層をすべて取り払った奥にある、伊里野の魂が感じた。
──もういい、死のう。最後にこれが見られた。
練習ではもちろん、実戦でも到達したことのない高高度。理論上耐え得るとは聞いていたが、実際にここまで上昇するまでは、途中で機体がもたずに破裂するのではないかと思っていた。あるいは、中にいる自分は無事では済まないだろうと覚悟していた。
だが、ブラックマンタは理論通りに動作した。急上昇にも低温にも低気圧にも耐え、光を失って世界が闇に包まれてなお、機体は伊里野の思い通りに動かすことができた。
伊里野自身も無事だった。体が弾けるか血が煮えたぎるか、戦う前に死ぬ可能性が半分だと自嘲していたが、少々の動悸や眩暈の他、関節などに痛みを感じただけで、ほぼいつも通りだった。もちろん、幼い頃から無数の薬を接種し、肉体の成分まで変えて備えてきたおかげもあるだろう。
それでも、死ぬことに変わりはない。これから戦う相手を殲滅する自信はあったが、それは自らの犠牲と引き換えの自信だった。例え生命があったとしても、無傷では済むまい。機体がわずかでも損傷したら、もはや地上に戻ることは絶望的だった。それくらい、ブラックマンタは緻密な計算によってぎりぎりに設計されている。
それに、万が一無傷で切り抜け地上に帰れたとしても、もはや伊里野の体は人間が生存できる限界を超えていた。激しい頭痛、眩暈、寒気、発熱、幻覚症状、全身の不随、発疹、思考の低下、一時的な失明、嘔吐、喀血、意識不明、呼吸困難、記憶障害、など、など──それらが高頻度で断続的に発症している。そして今、そんな薬の副作用による症状は一切なく、あらゆる神経が研ぎ澄まされていた。
死ぬんだ。
一線を越えて、もはや何も感じなくなっているのだと、感覚で理解出来た。最期の日が今日になるように、すべてが計算されていたのではないかとさえ思う。
死ぬのは怖くなかった。最後に浅羽の気持ちがわかり、伊里野の心は満たされた。彼のために死ぬことに、何の抵抗もなかった。むしろ誇らしかった。
ただ、それと残念な気持ちがないのは別だった。せっかく浅羽と知り合えて、もっと浅羽と一緒に遊びたかった、浅羽と一緒に踊りたかった、浅羽と一緒に歌いたかった、浅羽と一緒に歩きたかった、浅羽と一緒に話したかった、浅羽に話したいことがたくさんあった、聞いて欲しい過去が、共有したい思い出が、知って欲しい自分の話が山のようにあった。
もっと一緒にいたかった。
もう振り返るまいと思っていたが、名残惜しげに機首を傾けた。最後にちらりと、自分の生まれ育った大地に目をやって──伊里野は、見た。
「あぁ……」
眼下に、伊里野の守るべき、どこまでも澄んだ、蒼い惑星──
* * *
果てしなく広大で、陸はおろか、鳥も船影もない海の真ん中に、伊里野は落ちた。実際は大きな飛沫が上がったが、あまりにも海が広大すぎて、金魚が跳ねたくらいにしか見えなかった。
揺らめく海面の向こう側に、眩しい太陽が見えた。目に突き刺さる光に手を伸ばそうとして、できなかった。元々泳ぎは苦手だったが、そうではない。体が動かない。
焦って思わず叫んだ。口からごぼっと吐き出された気泡が、海面へ上っていく。大きく息を吸い込むと、肺が空気で満たされた。水中で呼吸ができることを特に不思議に思うことなく、伊里野はどんどん海底へ沈んでいった。
少しずつ太陽の光が失われ、魚の影も見えなくなった。どこまで沈むのか不安になったが、きっと誰かが引き上げてくれると思った。陸にいた頃、何度も失明を経験したが、その度に誰かが手を引いてくれた。だから今回もきっと大丈夫。手を引いてくれるなら、浅羽がいい。伊里野の心にはそんなことを考えるゆとりさえあった。
だが、異変は突然訪れた。
息を吸い込んだ瞬間、水が肺の中に入ってきた。同時に、先ほどまでまるで感じなかった水温が容赦なく伊里野を襲い、痛いほどの冷たさに身が凍えた。
伊里野はもがいた。手足は未だに動かない。叫んだが声にならない。息ができない。苦しい。何も見えない。手は、いつまで経っても差し伸べられない。
(誰か、誰か助けて! 誰か誰か誰か誰か……)
泣き叫んだ。気持ちが悪くて何度も吐いた。いや、実際には何も出ていなかったかもしれない。苦しくて何も考えられなくなった。
死ぬ。この暗い海底で、誰にも発見されることなく死ぬ。MIAの三文字が頭をよぎったとき、昔の仲間の顔が浮かんだ。
どこかでかすかな電子音が聞こえた。聴力検査のヘッドホンから聞こえてくる音のように、近くて遠い不思議な音。
同時に体が楽になった。水温がなくなり、息が吸えるようになった。
(助かった……)
やがて、呼吸も落ち着いてきた。しかし、恐怖はなくならなかった。いつまたあの異変が訪れるだろう。あるいは、巨大な魚が自分を飲み込むかもしれない。そうでなくても、このまま沈み続けたら、誰にも引き上げてもらえないかもしれない。
闇の中で体は動かない。伊里野は気が狂いそうになった。けれど、声は出なかった。
次に異変が訪れ、水が伊里野の体内を蹂躙した時、伊里野は苦しみに喘ぎながら絶叫した。
(誰か殺して! お願い、誰か殺して!)
しかし、救いの手も、あるいは伊里野を屠る刃も現れなかった。
伊里野は苦しみながら沈み続けた。
* * *
「これは、驚くべき、想定外の事態だ」
男が言った。
「これは、喜ぶべき、想定外の出来事よ」
女が言った。
「伊里野加奈は、見事侵略者どもを殲滅し、さらに生きて戻ってきた」
「神様が、最後に幸せな結末を用意してくれたんでしょ。もっとも、この子にとってどっちが幸せかはわからないけどね」
「我々は──キミも、誰一人、伊里野加奈が生きて帰ってくるとは思っていなかった。だから、何も準備していなかった」
「準備? 十分してあるわ。ここの医療設備なら、伊里野加奈を助けられる」
「我々がしていた準備は、名誉の死に捧げる特進と、永代供養の立派な墓だけだ」
「必要なくなったわ。もっとも、後者はずっと先に使ってもいいと思うけど」
「元々、ブラックマンタのパイロットは闇から闇に葬られる運命にある。若くして戦死、もしくは病死する前提で作ってきた」
「若くして戦死、もしくは病死する前提で育ててきたわ。けど、そんなものは所詮は前提に過ぎない」
「前提というのは、覆されると面倒が伴う。例えば、パイロットとともに消し去られるはずだった機密とか」
「この子は何も言わないし、言ったとしても誰も信じない。それくらい、非現実の世界をこの子は生きてきた。それに、機密を知っている人は他にもたくさんいる」
「言葉の重みが違う。それに、その手首の球体。非現実を現実にする可能性を、十分持っているとは思わないかね」
「思わないわ。とにかく、伊里野加奈は、意識が戻るまで今のまま治療を続ける。意識が戻ったら意思を確認し、本人の望むように処置する」
「それにどれだけの金をかける気だ? 吐いた血で窒息死しないよう、二十四時間体制で監視して、体の異変を押さえるために他に使い道のない薬を作って投与して、何が残る」
「この子が残るわ。誰もがそれを望んでる。この子はこの星を、私たちを守ったのよ? 国家予算で一生生活を保障するに十分すぎるくらい値する」
「公表できない人間に、そんな価値は見出せないな。その功績は評価し、行動には感謝している。だがそれだけだ。冷静に考えよう。介護は大変だろう? そのマスクを外し、すべてを美談で終わらせようじゃないか」
「冗談。私はこの仕事を誇りに思っている」
「それは残念だ。話は決裂だな」
男が踵を返す。その後頭部に、女が銃口を当てた。
「なんのつもりだ? 最後には脅しか?」
「脅し? まさか。本気よ」
「本気という名の脅しだろう。打てるはずがない。打ったらキミはどうなるかわかっているのかね? キミがいなくなれば、必然的に伊里野加奈も消えることになるが」
「二つ誤解。一つ、私がいなくても伊里野加奈は他の誰かが守る。一つ、あなたを打っても、私は罪に問われない」
「ほう。その根拠は?」
「あなたが思うより、伊里野加奈を好きな人は多いってこと。それだけ。じゃあ、さようなら。バンッ」
薄く笑いながら女がトリガーを引き、凄まじい炸裂音が響き渡った。男の体が崩れ落ち、その頭部から血が溢れて床を紅に染めていく。
「伊里野加奈は、私たちが守る」
女が銃を下ろしてベッドに顔を向けた。
白いシーツに包まれて、酸素マスクをつけた伊里野が、青ざめた顔で眠り続けている。
* * *
もうどれくらいの時間戦ったのか、よくわからない。とても長い時間に感じたが、実際には三十分も経っていないだろう。
伊里野は無傷だった。機体の損傷も一切なかった。極限まで研ぎ澄まされた神経に映る敵機はまるで静止しており、敵弾は幼子のキャッチボールのように遅く感じた。
どう戦うかなど考えていなかった。もはやこの戦いは、反射と経験以外の何も役に立たなかった。伊里野が考えていたのはただ一つ。どう死ぬか、それだけだった。
中途半端な勝ちを収めて、宇宙空間を彷徨う真似だけはしたくなかったし、病気で苦しみながら死ぬのも嫌だった。かと言って、相打ちを狙って万が一にも敵機を残すわけにもいかない。全滅させた後、銃で自殺しようか。そんなことすら考え始めた時、伊里野の脳裏に一人の女性の顔がよぎった。
それは数年前、伊里野が他のパイロットたちとともに戦場掃除に連れて行かれた時のことだった。そこは陸上戦の戦地で、敵味方合わせて夥しい数の死体が横たわり、凄まじい腐敗臭が漂っていた。戦争から数週間過ぎていたので生きている者はなかったが、恐らく戦後すぐにはここにさらに呻き声が加わっていたのだろう。
伊里野は込み上げてきた吐き気を堪え切れずに、胃の内容物をぶちまけながら、初めて「殺す」ということをリアルに実感した。空戦しか経験していなかった伊里野にとって、殺すとはすなわち、照準を合わせてボタンを押すか、爆弾をばら撒くことであって、憎悪にさらされ、肉を斬り、叫び声を聞きながら返り血を浴びるようなものではなかったのだ。
もちろん、だからと言って、敵の兵士を殺すことに躊躇いが生じたわけではない。彼らは自分たちの平和をかき乱す「悪」であり、屠殺対象の家畜以下の存在だった。そう摺り込まれてきた。
上官は、一体何のために自分をここに連れてきたのだろう。感覚を麻痺させるためだろうか。これを見て、逆にもう戦うのが嫌だと思う可能性は考えなかったのか。
そんなことを考えながらふらふら歩いていると、ふと前方にじっと佇む一人の女性の姿が目に入った。顔立ちで敵国の女性だとわかったが、あまりにも切ない顔で立っていたので伊里野は声をかけてみたくなった。
女性は若い男の死体をじっと見つめていたが、やがて近付いてくる伊里野に気が付いて顔を上げた。伊里野より五つほど年上だろうか。学校に通っていればまだ小学生の伊里野から見れば随分お姉さんだったが、実際にはまだ高校生くらいだろう。
「その人は、恋人?」
伊里野の声に、女性は固い顔で「ええ」と頷いた。伊里野が敵国の、しかも兵士だとわかったのだ。とはいえ、小さな女の子である。すぐに表情を和らげた。
「あなたは、もう戦ってるの? この戦いに参加したの?」
「ううん。わたしは参加してないし、わたしの敵はあなたたちじゃない」
女性は不思議そうに首を傾げたが、突っ込んで聞いてはこなかった。代わりに目を伏せて深くため息を吐き、静かに一言こう言った。
「この人はこれで満足だったのかもしれない。でも、残された私はどうしたらいいの?」
──そんな思い出。
その時伊里野は、何も答えなかった。答える必要を感じなかったし、どうでもいいことだと思った。伊里野には家族も恋人も友達もいなかった。いつかは果てる仲間が数人いただけだった。だから、何も思わなかった。
だが今は──
ぞくりと悪寒が走り、次の瞬間、視界が真っ赤に染まった。口腔から噴き出した鮮血が正面のパネルを濡らし、世界がぐらりと揺らめいた。体中が熱くなり、手足が痺れ、膝が崩れそうになるのをどうにか堪えて顔を上げた。
まだ戦いは終わっていない。
伊里野の目から血を含んだ赤い涙が零れ落ちた。
浅羽は、どう思っているのだろう。
一方的に現れ、一緒に日夜を過ごし、ようやく想いが通じ合った瞬間、一人で満足してこうして空に上がってきた自分を、浅羽はどう思っているだろう。
考えたことがなかった。自分のことしか考えていなかった。自分だけが満足していた。あの美しい惑星を、浅羽の生命を守るためなら死んでもいいと、一人で英雄気取りになっていた。
自分は、浅羽直之という少年を、自分の動機付けのためだけに利用した。
嫌われたくない。悲しませたくない。一生自分のことで悩むようなことにはなって欲しくないが、忘れて欲しくもない。
──生きて帰ろう。
そう思った刹那、敵弾が主翼をかすめた。機体損傷のランプが灯ると同時に、無機質なアナウンスがコックピットに響き渡る。
気持ちが悪くてむせ返った。鼻と口からぼたぼたと零れ落ちる血を見て、伊里野は絶叫した。
それから先のことは、覚えていない。
* * *
伊里野加奈が運び込まれてきてから、すでに三ヶ月が経過していた。容態は一進一退を繰り返し、依然として予断を許さない。意識はまるで戻る気配を見せず、医療チームのメンバーの顔に、少しずつ疲れと諦めの色が出始めていた。
「先輩は、奇跡を信じますか?」
女が言った。
「あまり」
別の女が伊里野の顔を見ながら、つまらなそうに答える。
「私は、信じます。こうして伊里野加奈が生きて戻ってきただけでも、十分奇跡だと思います」
「そうかしら。これは加奈ちゃんの実力よ。生きて戻ろうとした強い意志よ。奇跡なんて言葉で集約したら、加奈ちゃんが可哀想じゃない?」
「それはそうかもしれません。では先輩は、伊里野加奈の意識は戻ると思いますか?」
「……加奈ちゃんが、生きることを望んでいるなら……」
「望んでいるから、戻ってきたのでは?」
「初めはね。でも、発作が出た時の苦しそうな顔を見てたら、ひょっとしたら加奈ちゃんは、もう楽になりたいのかもって思った。あたしたちは、加奈ちゃんを助けようなんていう偽善で、加奈ちゃんを苦しめているのかもしれない」
「それは私たちの主観でしかありません。私は、意識が戻るまでは何年だって治療を続けて、この子の口から意思を聞きたいんです。例えその第一声が『殺して』だったとしても」
「そうね」
「だから……だから、先輩、浅羽直之をここに呼びましょう。奇跡を呼び起こせるとしたら──いいえ、加奈ちゃんに生きたいという強い希望を与えられるとしたら、それはもう、浅羽直之しかいないと思うんです」
「…………」
「浅羽直之をここに連れて来る手配をしていいですか?」
「ダメ。あたしは、賛成できない」
「どうして!」
「加奈ちゃんならきっと、こんな姿を浅羽くんに見られたくないはずよ。こんな体中から管が出て、点滴をいくつもぶら下げて、青ざめた顔で酸素マスクをした、スプラッタなところ、絶対にね」
「会いたいはずです」
「元気な姿でね。こんなところを見られたら、気味悪がられて、嫌われるかもしれない。嫌われるくらいなら、綺麗な思い出だけを残して死んだ方がいい。加奈ちゃんならきっとそう考える」
「それは先輩の考えでしかありません」
「あなたのも、あなたの考えでしかないわ。そして、あたしはあなたよりずっと加奈ちゃんを知っている」
「浅羽直之は、伊里野加奈を熟知してるんでしょう? これを見て嫌いになるくらいなら、もっと早く離れていると思います」
「あたしもそう思う。でも、加奈ちゃんはそうは思わない」
「納得できません」
「いいわ。ここのチームのトップはあくまでもあなた。あたしはふらっと立ち寄っただけ。あなたの決定に反対はしない。ただ、最後に一つだけ忠告させて。あなたは、あなたのために頑張ってるの? それとも、加奈ちゃんのために頑張ってるの?」
「……私は、伊里野加奈に感謝しています。誰もが感謝しています。彼女の望むようにしてあげたいんです」
「そう。あたしの話はこれでおしまい。それじゃあ、またいつか」
「先輩!」
「なに?」
「最後だなんて言わないでください。またここに来て、私たちに力を貸してください。意識が戻ったら、伊里野加奈に会ってあげてください。喜ぶと思います」
「そうね。喜ぶかもね。でも、あたしはもう加奈ちゃんとは会わない。きっと榎本も、二度と加奈ちゃんの前には現れない。だから、さようなら」
「私は伊里野加奈の望むようにします!」
「十年くらいしたら考える」
そう言って、女は笑いながら病室を出て行った。
白いシーツに包まれて、酸素マスクをつけた伊里野が、青ざめた顔で眠り続けている。
* * *
春──
水前寺のいなくなった部室はどこまでも広く、閑散として、無機質な、面白みのない空間に思えた。部室の椅子に座ったまま校舎から出て行く後輩たちを眺めていると、晶穂がやってきて同じように窓から外を見た。
「いい天気ね」
「そうだね」
ぼんやりと、浅羽は頷いた。
園原電波新聞部は完全に目的を見失っていた。いや、昨年の冬、水前寺が柄にもなく受験勉強などを始めた頃から、活動はほとんど休止状態になっていた。
どうしてあれほど不思議で面白い言動をし続けてきた水前寺が、鳴りを潜めて勉強を始めたのか。浅羽はそれを、「大人になったのだ」と解釈したが、案外本気でCIAを目指そうと決意したのかもしれない。一度だけ聞いたが、「受験生が勉強をするのは当たり前」と言われ、それっきり聞くのをやめた。
「あたしはね、園原電波新聞部はただの園原新聞部に改称して、ささやかだけど役に立つ情報を伝えることを目的として、一からやり直そうと思うんだけど、どう?」
晶穂の提案に、浅羽は「そうだね」と頷いた。
いつまでも思い出を懐かしんでいてはいけない。前に進まなくてはいけない。水前寺は卒業して、もうこの町にいない。新しく何かを始めなくてはいけない。それなら、晶穂の提案に乗るのも悪くない。
やる気のなさそうな返事だったが、晶穂は浅羽の内心を理解していた。満足げに頷いて指を立てた。
「じゃあ決まり。部長は浅羽、副部長はあたし」
「部員、募集する? 早くしないと、他の部に取られちゃうよ?」
窓から外を見たまま浅羽。その質問に、晶穂は答えなかった。答えたくなかった。他の部員など必要ない。本当は、新聞だって作らなくていい。
「浅羽、こっちを向いて」
思わずそんな言葉が口をついて出て、浅羽が驚いた顔で振り返った。他に誰もいない部室で、二人は見つめ合った。
「もう一つ、この春から新しいスタートを切るために、あたしは浅羽に、言いたいことがあるの」
浅羽が怪訝な表情をした。まったく少しも、晶穂が何を言おうとしているのかわかっていない、そんな顔。
ショックはなかった。期待なんてしていない。答えはわかっている。それでも、言いたい。
「あたし、浅羽が好き。あたしを彼女にして」
窓の外で自衛軍の戦闘機が轟音を立てて飛んで行った。それでも浅羽が視線を逸らさなかっただけで、晶穂は満足だった。
「ごめん」
浅羽の返事に晶穂は首を横に振った。仕方なさそうにため息をつき、お姉さんぶって笑った。
「いい。今のは宣戦布告。告白って、一回しかしちゃいけないものじゃないでしょ?」
「そ、それは、そうだけど」
「ねえ、伊里野の話はいつしてくれるの?」
その時浅羽の顔に浮かんだ表情が、晶穂には理解できなかった。浅羽自身にもよくわからなかった。ただ、晶穂のその質問は、告白以上に浅羽を動揺させた。
浅羽は晶穂から視線を逸らせ、再び窓の外に顔を向けた。
伊里野加奈。
心から好きになったはずなのに、だんだん顔も声も思い出せなくなっていく、ほんの短い期間だけをともに過ごした少女。
「伊里野なんて女の子、本当にいたのかな……」
浅羽の呟きに、晶穂が怒気を孕んだ声を上げた。
「いたわよ。ほら、写真だって!」
そう言いながら、晶穂が鉄人屋でもらった写真を叩きつける。それで浅羽は、半年ぶりに伊里野を見た。
込み上げてきた涙を、晶穂に気付かれないように拭ってから、そっと立ち上がった。
「伊里野は軍人だった。空軍のパイロットだった。だから授業中にも頻繁に呼び出されていた。そして、任務でアメリカに帰ってしまった。極秘任務に関わることになって、連絡もできなくなった」
「嘘よ」
「途方もない話だろ? 信じられないだろ? でも、本当だよ」
「ううん、嘘。それが本当なら、浅羽はあの時に話せたはず。半分は合ってると思う。でも、半分は嘘。例えばそうね、例えば……」
何か考え始めて、突然晶穂は目を見開いた。そして全身を小刻みに震わせながら、呆然と呟いた。
「まさか……まさか、伊里野、戦いで、死……」
「違うよ」
浅羽は短くそう答えて、カバンを取った。
晶穂を置いて部室を出る。校舎の中はまだ学生でごった返していた。それをかき分けながら外に出ると、穏やかな春の風が、校門に咲き誇る桜の花びらを揺らしていた。
伊里野の本当の話は、もうしてもいい。信じてもらえなくても構わない。そう思っていた。
しかし、時が経つにつれて、だんだん浅羽自身が信じられなくなっていた。伊里野と過ごした日々も、伊里野自身のことも、伊里野を好きになった自分の気持ちも。
「ねえ、伊里野。ぼくはまだ伊里野が好きだよ。大好きだよ」
どこまでも澄み渡る空を見上げて、浅羽は言った。まるで自分を納得させるようにそう言った。
柔らかな日差しに、涙が煌いた。
──その日に、伊里野は意識を取り戻した。
* * *
初めに伊里野を支配したのは、混乱だった。目を開けたが光は見えず、体はまるで動かない。夢の続きかと思った。
ところが、目が覚めたと同時に体が活性化し、リアルな寒気と吐き気が襲ってきた。冷たい汗が体中から噴き出した。
「だ、誰か……」
反射的に声を出したら、確かにそれは空気を振動させ、鼓膜を震わせた。どうやら生きているらしいことがわかり、次にブラックマンタで空に上がったことを思い出した。
ドアの開く音と同時に、女性の声が飛び込んできた。
「伊里野!」
体の異常を知らせるアラームが鳴って、駆けつけてきたのだ。
イントネーションが英語だったので、伊里野も英語で言った。
「誰? ここはどこ?」
「安心して、慌てないで、落ち着いて。ここは米軍の医療施設で、私はメアリー。あなたの特別治療チームのリーダーよ」
「わたしは、生きてるの? 敵は? マンタは? 戦いは……」
「落ち着いて。大丈夫。敵はもういない。あなたは自力で地球に戻ってきて、不時着したところを助けられたの。マンタは損傷がひどくてもう使い物にならないって聞いたわ。でも、もう役目は終わったの」
そこまで聞いて、伊里野は呼吸を整えた。気分は相変わらず最悪だったが、言われた通り落ち着こうと思った。
「体はどう? ゆっくりでいいから、自覚症状を聞かせて」
穏やかな声でそう言われ、伊里野は目が見えないこと、体が動かないこと、右足のつま先だけは辛うじて感覚があること、寒気と吐き気がすることを話した。
「良くないわね。でも、あの状態で生きていて、こうして意識が戻っただけでも奇跡だわ」
「今は、えっと……いつ?」
「もう春よ。あなたは半年の間、眠りっぱなしだったの」
数日かけて、伊里野はようやく現状を理解できた。
北との戦争は終わったこと、ロズウェル計画も成功に終わり、チームは解散したこと、榎本と椎名は別の部隊に配属されたこと、伊里野は第10空軍の所属になったが、それは便宜的なものでしかなく、マンタが壊れたこともあり、当分の間は治療に専念するよう命が下りていること。
伊里野自身のことについて言えば、今いるのはネバダではなく、アメリカ領土の別の場所にある医療施設であること、特別医療チームが結成され、十人前後の人間が伊里野一人の治療に携わっていること、ただしこれは、伊里野の意識が戻ったことで縮小されるらしいこと。半年の間眠り続け、薬の副作用のせいもあって、体が相当衰弱していること、けれど命に別状はないこと。
それらについて伊里野自身が感じたことと言えば、戦争が終わり、マンタも壊れた今、自分にはもう何の存在価値もないということ。ロズウェル計画に加わった他の人たちには技術も知識も常識も家族も目的もあるが、自分には何もない。空軍の知識はあるし戦闘機は飛ばせるが、それは「伊里野にしかできないこと」ではない。幼い上、体に爆弾を抱えた伊里野を使う意味はまったくない。
「ねえ、伊里野。希望はある? どうしたい? 私たちは、あなたの望むようにする。そうしていいって言われてる。例えば、あなたの会いたい人を連れて来たりもできるわ」
ある日、メアリーがそう言った。もしも最後の一言がなければ、伊里野は「死にたい」と言っただろう。何故生きて戻ってきてしまったのか。自分から生きて帰りたいと願った理由をその時まで失念していた。
それを、最後の一言で思い出した。
「浅羽に会いたい」
もう一度会うことが出来ることを思い出した。会う必要を思い出した。
その瞬間、ただそれだけが伊里野の生きる目的になった。
「連れて来ようか? その子も、伊里野に会えるなら嫌がりはしないでしょ?」
「ううん、今はダメ」
きっぱりと断る。手足は動かないし、見ることも出来ないが、自分の体がどういう状況かは聞いて知っていた。
「治って、元気になってから。だから、まず元気になりたい」
小さく、メアリーは笑った。
なるほど、先輩の言った通りだった。
「死ぬより辛い日々になるかもしれないわ。だから、生きる目的を見失わないでね」
メアリーは伊里野の額にキスをして病室を出て行った。
* * *
リハビリ──と言っても、伊里野は指一本動かすこともできなかったが、初日にメアリーが伊里野の体について説明をした。それは専門用語が多くて伊里野にもわからないことばかりだったが、要約するとこういうことだった。
伊里野の体は薬のせいで様々な化学反応を起こし、もはや通常の人間とは違う性質になってしまっている。だから、薬がなくては生命を維持できない。これを治す、つまり普通の人間と同じ状態にするために、一度すべての肉を捨てて新しい肉をつけ、すべての血を抜いて新しい血を入れる。
もちろんそれは比喩だったが、それくらい一から作り直す必要があるらしい。薬を接種するのを極力止め、栄養は食物から取り入れるようにする。ただし伊里野は中毒者のようなものだから、激しい拒絶反応と禁断症状に悩まされる。苦痛を伴う。
それでも、悪いようにはしないから、耐えろ。
つまり、そういうことだった。
くぐもった、獣のような叫び声が部屋に充満していた。
ベッドの上に裸にされた伊里野が括り付けられている。全身を革のベルトで固定されていた。両手両足だけでなく、額や肩、腰、手の指に至るまで、わずかも動かすことができないようになっている。
伊里野は未だにほとんど体を動かすことができなかったが、その体が断続的に痙攣していた。時々大きく跳ねてベッドが軋む。ベルトで縛られた部分は擦れて血が流れていた。
体中から噴き出す汗は毒素を含んで、ほのかに茶色を帯びている。眼球が飛び出しそうなほど大きく見開かれた目からも、濁った涙が溢れ、シーツに染みを作っていた。
口には顎が痛くなるほど多くの布が詰め込まれ、何か叫び続けているが何を言っているのかわからない。
そんな伊里野をそわそわしながら見ていた白衣の男が、隣で腕を組んで立っている若い女性に言った。
「そろそろ、限界じゃないですか? これ以上やったら、体より精神がもたなくないですか?」
「まだよ」
じっと伊里野を見つめたまま、メアリーが短く答える。
「本当ですか? いえ、メアリーさんを信じてないわけじゃないんです。ただ、その、ショック死とかしちゃったら、元も子もないと思って」
「大丈夫よ」
メアリーは伊里野から目を離さない。時々計器を見て数値を確認する。痛みを止める注射は用意してあるが、ぎりぎりまで打つ気はなかった。
結局、伊里野が気を失うまで数十分、メアリーは腕を組んだまま動くことはなかった。
初め伊里野は、メアリーの話はすべて嘘で、自分は敵に捕まっているのではないかと思った。体が動かないのも目が見えないのも薬を打たれたせいで、彼らは自分を何かの実験台にしているのだと、本気でそう考えた。
ベッドに固定された後、「毒を排出する薬」を打たれた。途端に全身が熱くなり、火の海に放り込まれたような激痛が全身を襲った。呻きと叫びと喘ぎの中に、「やめて」と「助けて」を何度も混ぜたが、止めてはくれなかった。
これは何かの拷問だ。伊里野の知っている機密を喋らせようとしているに違いない。さもなければ、彼らの歪んだ愉悦を満たすために嬲られているに違いない。
もがき、あがいた。何も知らないと叫んだ。浅羽の名前を連呼した。榎本にも助けを乞うた。ついには死なせてくれと願った。
どれも叶えてもらえなかった。
だんだん意識が遠くなり、やがて気を失った。
再び目を開けた時、全身がひどくだるかった。熱で頭がぼーっとした。しかし、薄く開いた目蓋の向こうに光が見え、漠然とだが天井の色が判別できた。指先がかすかに動いた。
「気分はどう? 何か体に変化は?」
頭上からメアリーの声。
「殺されるかと思った。今は、光が見える」
「そう」
メアリーは安堵の息を吐いた。それから少し間を置いて、いつもの穏やかな声で言った。
「様子を見てプランは変更するけど、今の時点では、ふた月の間、週に一度、さっきの荒療治をしようと思うの。どう?」
すぐには答えられなかった。本当に死ぬかと思った。もう痛い思いはしたくない。
しかし、
「もっとゆっくり、痛くない治療をしてもいいわ。このチームは伊里野が治るまで、何年でも続けられるし、お金も無尽蔵。でも、本当に何年もかかるわ。少なくとも、浅羽くんが大人になるくらいは」
メアリーのその言葉に、伊里野は力なく頷いた。
「……やる」
苦しみながら生きるか、それとも死ぬか、道は二つしかなかった。
* * *
ある秋の日、浅羽の夢を見た。浅羽は自分と同じアメリカ空軍に所属していて、伊里野は彼の操縦する戦闘機に乗って、二人で大空を飛び回っていた。後部座席に乗っていた伊里野には、浅羽のことは背中しか見えなかった。
目が覚めた時、伊里野は浅羽が軍隊にいるのが滑稽で、少し笑った。だが、そんな自分の見ている風景に浅羽がいるのもいいと思った。逆に、自分が浅羽の日常にいた光景を思い出そうとして、伊里野は表情を固くした。
一年前の数ヶ月の間、確かに二人で過ごしたはずの日々はだんだん不明瞭になり、細部はほとんど思い出せなかった。クラスメイトの名前すら曖昧になっていた。
怖くなった。
夢の中で背中しか見えなかった浅羽の顔を思い出そうとしたが、出来なかった。きっと会えばわかる。そう思う反面、すれ違っても互いに気付かないのではないかという不安をどうしても消すことが出来なかった。
その日に、伊里野は無茶を承知で、メアリーに浅羽の写真が欲しいとせがんだ。写真は一週間ほどで届けられ、伊里野はひとしきり泣いた後、写真を棚の上に飾った。
伊里野は順調に回復していた。
頭痛や眩暈はほとんどなくなり、視力は完全に元に戻った。もう薬による失明の危険はないという。
鼻血も出なくなり、臓器からの出血もなくなった。薬はあまり打たなくなり、栄養は食べ物から摂取するようになった。伊里野は初めて、肉や魚や野菜を美味しいと感じ、多少肉付きが良くなって医療チームの女性陣にからかわれた。
体も左腕以外はほとんど動くようになり、かつてのように関節が痛んだり、肌が変色するようなこともなくなった。骨も丈夫になり、長時間の運動にも耐えられるようになった。
治療は相変わらず苦痛を伴ったが、「荒療治」を思えば楽なものばかりだったし、何より日に日に健康になっていくことがたまらなく嬉しかった。
春になると、昔の知り合いが見舞いに来るようになった。実のところ、伊里野はロズウェル計画に携わっていた人間を誰一人として快く思っていなかったのだが、今改めて笑顔で再会すると、確かにこの人たちも仲間で、一緒に戦っていたのだと思った。
ふと榎本や椎名とも会ってみたくなった。結局それは叶わなかったが、伊里野はそんなことを少しでも考えた自分に驚かずにはいられなかった。
日々はそうして何事もなく過ぎていった。
伊里野が子犬作戦のことを耳にしたのは、晩春の夕方のことだった。昔の仲間と話をする中で、伊里野が学校に行かされた理由を尋ねたのが発端だった。
仲間は今ならもう打ち明けても構わないと判断し、詳細を話した。伊里野が疑問に思い続けているのは可哀想だという善意からだった。
実際、伊里野はその話を聞いても冷静だった。それも仕方がないと理性的に思った。戦争へのモチベーションが低下していたのは事実だし、地球を守ることにも興味がなかった。何度も死のうと考えたし、全員死んでしまえと思ったことも、一度や二度ではなかった。
だから、戦いの動機付けをするために、伊里野に守るべき対象を与えるというのは、なるほど悪くない作戦である。学校に行かされた理由がわかり、伊里野はむしろすっきりした。学校に行かされたのも、浅羽と出会ったのも、そして浅羽に元気付けられて死ぬ覚悟で空に上がったのも、すべてロズウェル計画最終フェーズの一環だった。
棚の上に飾ってある浅羽の写真を見た。伊里野が知っているより少しだけ成長した、中学三年生の浅羽。作戦も終わり、今頃は伊里野のいない日常を楽しく過ごしていることだろう。
「ぜんぶ作戦でした」
伊里野はそう呟いてベッドの上に寝転がった。パズルのピースがすべてはまった気がした。考えてみれば、あんな時間にあんな場所で浅羽と出会ったのは不自然だった。必死の思いで脱出したすべては先読みされていた上、利用されていた。冷静になればわかったはずだ。普通の中学生の男の子が、自分のことなど好きになるはずがない。吐血してのた打ち回る女の子に、あんなにも親切にするはずがない。
それでも、構わない。恋愛ごっこも学校ごっこも楽しかった。いい思い出になった。
小さく笑った後、伊里野は弾かれるように身を起こした。言いようもない虚無感に捕らわれ、全身から冷たい汗が噴き出した。
「浅羽……」
伊里野は靴も履かずに走り出した。
* * *
約二年ぶりの園原基地は閑散としていた。米軍が撤退し、規模が縮小された話は聞いていたが、実際に目の当たりにすると一抹の寂しさを覚えた。
戦闘機から下りると、昔の知り合いたちが笑顔で出迎えてくれた。伊里野は改めて自分は愛されていたのだと感じたが、胸の中の虚無感は膨らむ一方だった。
その正体は、今ならわかる。
伊里野は浅羽が好きだった。浅羽一人のために死のうと思い、浅羽一人のために生きて戻ってきた。浅羽と会うためにリハビリをし、写真をねだった。
浅羽がいないと、何も残らない。体が健康になっていくのは嬉しかったし、昔の仲間たちと笑い合う日々は楽しかった。それに誤魔化されていた。
伊里野には居場所がない。空軍所属などあってないようなもので、健康になったからと言って誰も伊里野に軍に入って欲しいなどとは思っていない。伊里野はもう戦わなくていい。働かなくていい。地球を守った伊里野は、よほどの贅沢をしない限りその一生が保障されている。
しかし、戦う他に、伊里野の人生には何もなかった。技術も知識もない。常識など小学生以下で、浅羽と一緒に中学校にいた頃は、時折自分の幼稚さに唇を噛んでいた。
生きる目的も、生き甲斐も、家族もない。医療チームだってもうすぐ解散してしまう。一人世間に放り出されて、伊里野は生きていく自信も勇気も希望もなかった。
ただ、浅羽だけがいた。
浅羽が何とかしてくれると、根拠もなく勝手にそう思い込んでいた。それが、子犬作戦の話を聞いて失われた瞬間、伊里野はいてもたってもいられなくなり、メアリーに浅羽に会いたいとせがんだ。
この我が儘も、やはり叶えられた。浅羽を連れて来てもいいと言われたが、もちろん断った。送るとも言われたが、それも断った。当たり前のように受けてきた善意に対して、急にとてつもなく申し訳ない気持ちになったのだ。
伊里野は案内された部屋に荷物を放り込むと、すぐに外へ出た。
一刻も早く浅羽に会いたい。
一分一秒でも早く──
伊里野が浅羽を見つけたとき、浅羽は友人三人とともに、学校からの帰路にあった。曇天の下、傘を振りながら、今日の授業はどうだったとか、クラスの○○は可愛いが性格が悪いとか、××先生は実はいいヤツだとか、くだらない話で盛り上がっていた。
コンビニに寄って見たこともない怪しげなジュースを買い、ジャンケンに負けたヤツがそれを飲む。浅羽は勝ったが、少し飲んでみたかったと思った。しかし、飲んだヤツが微妙な顔をしたので、やはり勝って良かったと思い直した。
それからカラオケに行こうという話になったが、満室だったのでやめた。代わりに同じ建物のゲームセンターで格闘ゲームに興じ、店を後にする。
友人と別れた後は、CDショップに寄ってから家に帰った。
そんな浅羽を、伊里野は気付かれることなく尾行し、とうとう話しかけることなくその背中を見送った。
夜、伊里野は薄暗い部屋の中で、一人で膝を抱えて泣いていた。
子犬作戦のことは頭の中では納得しつつも、心のどこかで浅羽の想いは本物だったと信じていた。しかし、浅羽は同じ場所にはいなかった。真新しい高校の制服を着て、伊里野の知らない友人たちと楽しそうにしていた。浅羽はもう少しも伊里野を必要としていない。今さら会えば迷惑になるだけだ。
翌日、伊里野はアメリカに帰ると言って戦闘機に向かった。もちろん、それは嘘だった。伊里野は死ぬつもりだった。アメリカに帰ったところで、もはや居場所はない。誰も自分を必要としていない。
そんな悲壮な決意が顔に出ていたのか、基地の人たちが伊里野を止め、考え直すよう説得した。とにかく、話しかけてみてはどうかと。
「話しかけたら、きっと迷惑になる。浅羽を困らせたくない」
伊里野はそう言って静かに浅羽の前から消えようとしたが、あまりにも強く引き止められたので考え直すことにした。
もう少しだけ、後少しだけ、自分の希望にすがってみようと。
* * *
日本は長い梅雨の最中にあり、じめじめとした日が続いていた。
伊里野は毎朝浅羽に話しかける決意を固めては、彼に会うために学校に行き、夜に一人で部屋に戻って涙する日々を送っていた。
浅羽と同じ学校で晶穂の姿も見つけた。晶穂は伊里野の知らない男の子と手を繋いで楽しそうに歩いていた。
帰り道でたこ焼きを買って食べ、ゲームセンターでぬいぐるみを取り、プリクラを撮り、また明日と言って帰って行く。
浅羽はというと、カラオケに行ったり、ボウリングをしたり、ビリヤードをしたり、ゲームをしたり、コンビニで買い食いをしたり、ファミレスで勉強をしたりしていた。晶穂や中学時代の仲間とはもう、話していないようだった。
その日の夜も、伊里野はベッドで突っ伏して枕を濡らしていた。
浅羽と恋人同士になれたらいいと思っていたが、晶穂を見て、果たして自分に浅羽の彼女が務まるのかと絶望的な気持ちになった。
ゲームセンターなど行ったこともないし、カラオケにも行ったことがない。日本の歌など一曲も知らないし、テレビも見ない、芸能界など自分から最も遠い世界のことだし、お笑いは意味がわからない。日常会話だって、共通の話題は思い出話しかなく、趣味だって何もない。
オシャレもできないし、話題のスポットも知らない、遊園地は空から見下ろしたことしかなく、テーマパークはそもそもテーマがわからない。普通の女の子が好きそうなものにはまるで興味がなく、みんなが楽しそうにしていることを楽しそうと思わない。感性からして違いすぎる。
「やっぱり、無理。もう無理。ぜったいに無理。ぜったい、ぜったいに無理」
わーっと泣いた。泣き続けた。
ひとしきり泣いてから、伊里野はゆらりと起き上がってベッドの端に腰掛け、ぼんやりと自分の手首を見下ろした。マンタが壊れ、もはや使い道のなくなったESP用デバイス。しかし、これはもう肉体と一体化し、取り外すことはできないらしい。
あからさまに普通の女の子と一線を画した存在。これがあるから、自分は浅羽と一緒にいられないのではないか。
伊里野はナイフを取り、その先端で軽く球体の表面を突いた。キンといい音がする。少し強く叩いてみたが、球体は傷一つ付かずに、不思議な銀色に輝いていた。
伊里野は感情の一切こもらない無表情で、機械的にナイフで叩き続けた。
明け方近く、意識を失うように眠りにつくまで、ずっと叩き続けていた。
最期の日──
明け方は雨が降っていたが、昼前には止んで空は綺麗に晴れ上がっていた。伊里野は吹っ切れた表情で一度のびをし、戦闘機に向かった。
笑顔で「気分転換」と言ったら、誰も止めなかった。
慣れた手順でエンジンを始動させる。思えばこの戦闘機も、伊里野が滞在している最中、ずっとここにある。暗黙の了解で、伊里野は戦闘機を一機与えられていたのだ。
そんな不相応な厚遇も今日でおしまい。戦闘機を一機壊してしまうのは忍びないが、地球を救ったのだし、それくらいは許してもらおう。
空で死にたい。どこまでも高く高く飛んで、そのまま空に溶け込もう。
園原の空に、伊里野の戦闘機が舞い上がる。
「さよなら、浅羽」
少しだけ悲しげに瞳を揺らして、伊里野は呟いた。
しばらく空を楽しむように旋回する。誰にも監視されることなく、自由に飛べる空。眼下には果てしなく広がる大地。伊里野は目に見える地球上の一つ一つを胸に刻み込もうとして──
それに、気が付いた。
二年前のあの日、ふとそこに美しい惑星を見たように、園原基地を見下ろせる山の中腹に、伸び放題に伸びた草で随分消えかかってはいたが、間違いなく、浅羽の描いたメッセージ。
巨大な「よかったマーク」を。
一瞬、息をするのも忘れた。二年前の楽しかった日々が一気に鮮やかに蘇る。
学園祭のこと、ボウリングをしたこと、一緒に逃げたこと、最後に守ろうとしてくれたこと、そして「好きだ」という言葉。
伊里野の荒涼とした胸に、希望の花が咲いた。
浅羽と会おう。
あの日々のすべては作戦だったのかもしれない。だが、眼下のこのメッセージは、間違いなくそれに依存しない浅羽の想いだ。
もう一度、後一度だけ、浅羽と過ごした日々を信じてみよう。自分の気持ちに素直になろう。
機首を返し、基地に戻ると、伊里野は準備もそこそこに駆け出した。
青い空がどこまで広がっている。雨に濡れた町はキラキラと輝いている。
伊里野は走った。
勇気を出して、もう一度、声をかけよう。
ありったけの勇気を出して──
─ 完 ─
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